真の英雄
そうしてどのくらい経っただろう。
倒れた少女は、目を覚ます気配もなかった。
その背に刺さった矢は、ただ黄金に煌めいている。
月は西に沈み、東の空から太陽が昇ろうとしていた。
空は薄紫色になり、やがて夜明けを告げる光が遠くの山々を照らした。
明るくなった空にも気づかず、少年は座り込んだまま、エレナに呼びかけ続けていた。
人々は町の中心部を恐れ、近づこうともしなかった。
そのせいで、倒れている少女を助ける者もいない。
少年は朝日を背に受けながら、ひたすら少女に声をかけた。
答えもないまま、繰り返しその名を呼び続ける。
その時、突然声がした。
「その子から離れなさい」
凛とした響きが、淀んだ空気を裂く。
少年がはっとして顔をあげると、そこには美しい姫が立っていた。
長い金髪は朝日に薄く光り、静かに揺れている。
その後ろには、背の高い男が控えていた。
王女は少年を見据え、再び告げた。
「その子から離れて」
少年は王女を見つめ返した。
「あんたがこの矢を射った」
「そうよ」
王女の顔には泣きはらした跡があった。しかし、それを表には出さず、身じろぎもせずに言う。
「だけど、そうさせたのはあなた」
少年は息を呑んだ。
まぎれもなく、彼女の言う通りだった。
「さあ、離れてちょうだい。その子は私が連れて行くわ」
少年は思わず王女を見た。
「確かに俺が悪かった。だけど、エレナをどうするつもりだ!?」
後ろに控えていた男が言った。
「金の矢はどんな『魔』も殺す力がある。それは体内の魔力をすべて消すからだ。だけど、その子は半分、人の血も混ざっている」
少年はハッとして声をあげた。
「それじゃあエレナは助かるのか!!」
「理論的にはね」
男は言った。
「早く治療を受けさせれば、きっと命は助けられる」
少年は微笑んだ。
「良かった!! 俺も一緒に……!!」
「何を言っているの?」
シルヴィアが冷たい目でこちらを見た。
「矢を射ったのは私よ。でも元はと言えば、すべてあなたのせい。あなたが町で暴れなければ、こんなことにはならなかった」
彼女は青い瞳で少年を見下ろした。
「もう二度と、エレナに近づかないで」
少年は息を呑んだ。
王女の声は何かを決意し、冷たい響きを放っている。
「あなたは町をめちゃくちゃにして、大切なエレナを傷つけた。本当は殺すべきだけど、それはエレナの望みじゃないわ」
静かに息を吸うと、はっきり言い放った。
「あなたは殺さない。だけど生きていることを知ったら、エレナはまたあなたに近づこうとするでしょう。だから、殺したということにするわ。この国はもちろん、『人』の世界からも消えてちょうだい」
少年は喉を詰まらせ、王女を見る。
青い瞳は、無情に少年を見据えた。
「人目につかないところで一生暮らすのよ。あなたは死んだことになっているのだから、誰にも姿を見られてはならないわ。これは罰であり、最大の慈悲よ。早く出て行きなさい。明日になってもこの国にいるなら、殺すわ」
少年は目を伏せた。その先には、倒れた少女がいる。
「そうしたら、この子を幸せにしてくれますか」
シルヴィアの瞳が一瞬、揺らいだ。後ろにいた男も、わずかに身じろぎする。
けれど王女は、すべてを振り払うようにして、再び冷たい瞳で告げた。
「当たり前でしょう。さあ、早く出て行って」
少年は傷だらけの体で立ちあがった。
ぎこちなく微笑むと、深々と頭を下げた。
「ありがとう。優しい王女様」
そうして少しだけエレナを眺めると、踵を返し、昇り始めた朝日の中に去って行った。
*
エレナが目を覚ますと、うっすらと日差しが差し込んでいた。
長い夜がようやく明けたのだろう。温かな光をぼうっと見つめ、静かに体を起こすと、自分がベッドに寝ていることが分かった。それも上等な天蓋つきだ。
周りはレースで覆われているが、薄い生地のため、光が差し込んで見える。
エレナはおもむろに起き上がると、レースをめくり、外の様子を見た。
そこは広い部屋で、バルコニーから太陽の光が溢れていた。その傍には金髪の王女が立ち、静かに外を眺めている。
「姫様……?」
眩しい光に目を細めながら声をかけると、シルヴィアは振り返り、嬉しそうに微笑んだ。
「エレナ! 目を覚ましたのね!」
そう言うなり駆け寄り、エレナを抱きしめた。
「姫様……」
エレナはその温かさに微笑んだ。
自分が生きているという感覚が、少しずつ蘇って来る。
シルヴィアはエレナを離し、一心に顔を覗き込んだ。
「エレナ、あなたは二日間も眠っていたのよ。」
「二日!?」
驚くエレナに、シルヴィアが頷いた。
「お医者様は大丈夫だって言ったから、この部屋に運ばせたのだけど、起きる気配がないからとても心配したのよ」
シルヴィアは苦しそうに言った。
「倒れた時のことを覚えてる? あなたは私の射った矢に当たったのよ」
「……そういえば、そうだったかもしれません」
「痛かったでしょう。ごめんなさい。本当にごめんなさいね」
その目には心からの心配が浮かんでいる。
エレナは微笑んで青い瞳を見返した。
「大丈夫です。今は意識もはっきりしていますし、わたしはこうして無事ですから」
それでも悲しそうな王女に、エレナは笑いかける。
「心配しないで下さい。また姫様の傍にいられるというだけで、わたしはとても……」
そこまで言って、先程から外がざわついていることに気づいた。
「……姫様、外が騒がしくありませんか?」
シルヴィアは嬉しそうに微笑んだ。
「そうなの。昨日からずっとこうなのよ。こっちへ来て」
エレナの肩に手を置き、バルコニーへと連れて行く。
そこは太陽の光が差し込み、とても眩しかった。
白い光の中、外へ出ると、青い空の向こうに壊れた町が見えた。城の真下では、たくさんの人々がこちらを見上げている。
あまりに多くの人々に、エレナは呆気にとられた。
彼らはシルヴィアの姿を見つけると、一気に歓声をあげる。あまりの眩しさと騒がしさに、夢でも見ているのかと思った。
それでも、だんだんと喜びが湧き上がって来る。
皆がシルヴィアを祝福している。これは事実なのだ。
訳が分からなかったが、嬉しくてたまらなかった。
「シルヴィア姫!!」
「王女様!!」
男も女も、子どもから老人までが、シルヴィアを見て嬉しそうに声をあげる。
皆が笑顔を浮かべ、愛おしむように、王女を見上げる。
それは、長いこと夢見た光景だった。
そんな日は来ないと思ったこともあった。
けれど、彼女が皆に愛される日がとうとう訪れたのだ。
心の底に、やさしい国王の顔が浮かんだ。
彼は誰よりもこの日が来ることを望んでいた。
国王が願い、シルヴィアが夢見、エレナが望んだその瞬間が、今こうして目の前に広がっているのだった。
エレナは嬉しくて、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
太陽の光が輝き、二人を照らす。それはあまりにも幸せな時だった。
エレナはシルヴィアを振り返り、笑って言った。
「姫様、皆があなたを見ていますよ。いったい何がどうなって……」
そこまで言って、エレナは突然大切な存在を思い出した。
「……クリス」
胸が急に締め付けられて、エレナは急いで訪ねた。
「姫様、クリスは!? クリスはどこに!?」
急いで尋ねれば、シルヴィアは突然顔を曇らせた。
「……エレナ」
悲しげな声に、エレナは恐怖を覚えた。
喉がつかえて、声が出ない。
黙ったまま次の言葉を待つと、シルヴィアは苦しげに言葉を放った。
「彼は死んだわ」
エレナは息を呑んだ。
「……う、そ」
「嘘じゃないわ、私が殺したもの」
淀みのない声で、シルヴィアが言う。
「あなたが倒れたあと、私がもう一度矢を打ったの。一度目は失敗してしまったけれど、今度は彼の心臓を貫いたわ」
エレナは数歩下がり、力が抜けたように、バルコニーに寄り掛かった。
「どうして、そんなこと……っ」
人々の歓声は続いている。
彼らは何も気づかず、美しい王女を祝していた。
シルヴィアは静かにエレナを見た。
「エレナ、よく聞いて。彼は狂ってしまっていたし、町を破壊していたの。あのまま生かしていたら、国中を……ひいては世界中を破壊してしまったわ」
エレナはそこまで聞いて、彼女が勘違いをしていることに気付いた。
これはすべて仕組まれたことだ。
伝説の裏側を、シルヴィアは知らない。
クリスは、自ら悪者のふりをしていた。
エレナが気づくことが出来たのは、銀の光が「人」を傷つけないことを知ったからだった。彼は悪役のふりをしても、むやみに人間を傷つけたくなかったのだ。
あの少年は、町を破壊しながら王女が現れるのを待っていた。金の矢に倒れることで、シルヴィアを英雄に仕立て上げようとしたのだ。
それはきっと、エレナのために違いなかった。
それに気づいて、彼のところに駆け寄ろうとしたのに。
あろうことか自分が矢に当たってしまった。
自分が守れない間に、彼は別の矢に貫かれたのだ。
そうしてエレナは生き延び、彼は死んだ。
「彼は、死んだ……」
エレナは小さく呟いた。
その声も、歓声に掻き消される。
人々は今、こうしてシルヴィアの傍に集まっている。彼らはきっと、伝説の場面だけを見ていたのだ。
金の弓を引く、美しきアシオンの子孫を。
彼女が勇気を振り絞り、その矢を放つところを。
そう。結局すべては、クリスの思い通りになってしまったのだ。
この結末が彼の願いだと、人々は誰も知らない。
開きかけた唇を、エレナは強く噛みしめた。
彼は最後まで、悪役として死んでいったのだ。
金の英雄を生まれさせ、シルヴィアを――――エレナを、幸せにするために。
彼の真意を喋ってしまえば、その死さえ無駄になってしまう。
それだけは許されない。
絶対に、絶対に喋ってはいけない。
エレナは固く口を結び、誰にも喋らないと決心した。
クリスの作った世界は、確かに誰もが幸福なのだ。
彼が覚悟してその死を迎えたなら、自分も何とか受け入れようと思った。
この世界に不満を持つことなど、あの少年は望んでいないのだから。
「……分かりました」
エレナは静かに言った。
「確かにクリスは町を破壊しようしていました」
まだ府に落ちないその言葉を、ため息と共に吐き出した。
「彼は……殺されるしかなかったんですね」
シルヴィアはエレナの言葉を聞いて、静かにこちらを見つめた。
「そうよ。……あなたが分かってくれて、良かった」
そう言って悲しそうに微笑んだ。
「彼はあなたを傷つけてばかりだったから」
歓声は未だに続いていた。
人々はシルヴィアを見上げ、尊敬するようなまなざしを向ける。子ども達が大きな瞳を輝かせ、金の英雄を一心に見つめた。
彼女が微笑み返すと、一層歓声は強くなる。
「姫君!!」
「我々の英雄に幸あれ!」
「金の王女!! 万歳!!」
繰り返された伝説は、真実をすべて覆い隠した。
シルヴィアが微笑むたびに、人々が笑顔を返す。
それは確かに、エレナの求めていた幸せな世界だった。
自分達が願っていた、現実だった。
温かさに包まれた、眩しい光景。
エレナはどうしようもない思いで、その景色を一心に眺めた。
心の中で、少年に何度もありがとうを言いながら。




