巨木のようなおじいさん
「何をしているんです?」
静かな声が響き渡った。
二人がはっとして振り向くと、割れた窓に、黒い影が立っていた。黒髪は風になびき、月明かりに照らされた鳶色の瞳が、こちらを見つめている。
恐怖の最中、その光景は絵のように美しかった。
窓辺に立った少年は、冷静を装ったように言った。
「黒の王、良く見て下さい。あなたの殺そうとしているのは、あなたが何より愛している孫だ」
静かに落ちた言葉に、黒の王は我に返ったようにエレナを見た。その目から憎しみは消えている。
エレナは息をついて少年を見た。
愛しい彼は、またしても自分を助けてくれたのだ。
正気を失った王が、どんなに危険か知りながら。
「クリス」
低い声が部屋に響く。
「この子には近づくなと言ったはずだ。用がすんだらさっさと出て行け」
それでも、少年は動かなかった。彼は目を細め、エレナを見る。
心配してくれているのだ、とエレナは気づいた。
グランディールが狂っていることは、誰もが知っているようだ。
黒の王はエレナに殺意を向け、ラズールは止めることもなかった。その光景をクリスは見てしまった。
クリスは窓枠から飛び降りると、グランディールの前へ行き、跪いた。
「一言申し上げます。あなたは彼女を手放すべきだ。あなたの中では、既に道理が壊れてしまっています。このままではいずれ彼女を傷つけ……あなたも苦しむことになる」
グランディールは吐き捨てるように言った。
「何が言いたいのか分からんな。さっさと行け。お前の価値はその魔力だけだ。私は夜明けまでにこの世界を変える。朝までに『人』どもを殺して来い」
少年は顔をあげ、まっすぐにグランディールを見た。
「俺は人殺しには向いていません。他の奴を使ってください」
「なんだと!」
グランディールは恐ろしい形相で言った。
「お前を今日まで育ててきたのは誰だと思っている! 私がその魔力を見込んで面倒を見てやったんだぞ。それがなんだ! 殺しには向いていないだと!?」
エレナは唇を噛んだ。
グランディールは憎しみを瞳に宿らせ、少年を見据えた。
「大体お前は、仲間を一匹殺したというじゃないか! この、怪物め!」
少年に向かって、先程自分がしようとしたことを、罵った。そのまま手を銀色に光らせ、少年を見下ろした。
止める間もなかった。
放たれた光は、目に見えない速さで少年に襲い掛かった。
耳をつんざくような轟音。
傷だらけの体は吹き飛ばされ、壁に衝突すると、ばらばらと石の欠片と共に大理石の床に倒れた。
少し離れたところから、ラズールが怯えたようにその様子を見ていた。
瓦礫の中の彼女は長いこと気配を消していた。しかし、黒の王から離れることすら恐れているようで、ただ震えながら見ていることしかできないのだ。
少年は必死に体を起こすと、グランディールを見据えた。
「もう、たくさんだ」
鳶色の瞳に、押し殺していた感情が滲んだ。
「俺もエレナも、あんたの持ち物じゃない!」
グランディールは再び右手を掲げた。
「やめて!」
エレナは男の腕を引っ張った。
魔法は少年から逸れ、横の壁にぶち当たる。
壁を轟音が突き破り、大きな穴が空いた。その向こうには、外の闇が覗いている。
少年があれに直接当たっていたのだと思い、エレナはぞっとする。
「心配いらない」
冷たい声でグランディールは言った。
「あいつは魔法では死なない。いくら攻撃したところで、あの心臓は止まらないのだ。せいぜい痛みを感じるだけさ」
そう言いながら、次々と魔法を撃って行く。
エレナは思わず王の腕に飛びつき、噛みついた。
「この、小娘!」
黒の王は怒鳴り、人間とは違う、巨人のような強さで腕を振り払った。
小さな体は後ろへ飛ばされ、壁に打ち付けられる。
「エレナ!」
少年は叫んで起き上がると、こちらへ来ようとした。
しかし、飛んできた銀の光にあたり、魔力ごと反対側の壁へ打ち付けられる。
瓦礫と共に床へ崩れ落ち、それでも彼は体を起こした。
「あんたのせいで、全部めちゃくちゃだ」
ゆっくりと顔をあげ、きっ、と黒の王を睨んだ。
「俺はあんたみたいに、醜くて、残酷な奴を他に知らない」
グランディールは何も答えなかった。
ただ、銀の光を放ち続け、有無を言わさず、少年を壁に打ち付けた。
壁にはいくつもの窪みができ、ところどころに穴が空いていた。
エレナは唇を噛んで、黒いローブの後ろ姿を眺めた。
密かに魔法で蔓を出し、黒の王めがけて一気に伸ばす。
しかし、彼がこちらを一瞥し、何かを唱えると、たちまち蔓は枯れてしまった。
グランディールは魔力を感じ取ってしまうのだ。
何度やっても結果は同じだった。
エレナは自分の手を眺めた。
――――なんて役に立たないんだろう。
疎まれた末に、使い方を知ったこの魔法も。
傷だらけになりながら、結局何もできない自分自身も。
顔をあげれば、視界は眩しい程に銀色だ。
おぞましい魔法は止む気配もなかった。
壊れたグランディールそのもののように、終わりなくすべてを傷つけていく。
何度も。何度も。何度も。
少年はうめき声をあげて、壁の残骸に崩れ落ちた。
「ぐっ!」
響く声に、エレナの心臓はぎゅっと縮まる。
床に打ち付けられた彼はひどい傷で、あちこちから血が流れていた。
今にも死んでしまうのではないか。そんな気すらして、エレナは傍に行こうとする。
しかし、それすらもグランディールに遮られた。
クリスは瓦礫の中からぼろぼろの体を起こすと、グランディールを見据えた。
「なあ、グランディール」
「私の名を呼ぶのか。愚かな子どもよ」
少年は嘲笑うようにグランディールを見た。
「俺、あんたの魔法が怖くて、ずっとあんたに逆らえなかったけど、もう限界だ。俺に人殺しなんて、最初から無理だったんだよ。もうたくさん殺ってきちゃったけど、今更遅いだろうけど、でも、あんたの手下はもうやめる」
彼は悲しげに微笑みながら言った。
「あんたは俺を殺す方法を知ってる。逆らえば、消されることは分かってた。でも、俺はエレナをこれ以上傷つけたくない。もう人殺しはいやなんだ」
エレナは息を呑んだ。
グランディールの声は、揺らぎのない水面のように静かだ。
「お前の魔力は私と同等だ。お互いにお互いを魔法で殺すことはできない。だが確かに私は、お前を殺す方法を知っている」
言いながら、ゆっくりと少年の方へ歩み寄った。
離れたところから、ラズールが黙って様子を見守っている。
グランディールは少年の前まで来ると、おもむろに告げた。
「お前の魔力は強い。その戦力をなくすのは惜しいことだ。だから最後にチャンスをやろう」
身をかがめ、クリスの目を覗き込んだ。
「夜明けまででいい。そうしたらお前を自由にしてやろう。それまで、私の復讐を手伝うのだ」
少年は音もなく黒の王を見上げた。
鳶色の瞳は揺らぐこともなかった。
「俺は、あんたの手下じゃない」
グランディールの手が光る。
エレナは恐怖に捕らわれ、二人を見つめた。
黒い男は何かを出そうとしていた。
魔法ではない、何かを。
エレナは咄嗟に叫んだ。
「おじいさん!!」
男の動きが止まった。
その手から光が消え、黒い背中はゆっくりとこちらを振り向いた。
少年が驚いたようにこちらを見つめる。
エレナは微笑んで両手を広げた。
「こっちへ来て! わたしよ!」
しわが刻まれた顔が少女を見つける。その唇が、不思議そうに言葉をつむいだ。
「……エレナ?」
「そうよ!」
彼は大きな体を動かし、こちらへ歩き出す。
一歩一歩進むごとに、瞳から鋭さは消え、優しさが満ち溢れた。
「エレナ」
黒の王はもう、どこにもいなかった。
老人は黒いローブの奥から、温かな微笑みをエレナに向けた。
「ああ、やっと会えた」
しわだらけの手をエレナに伸ばす。
「エレナ、私の愛しい孫娘」
エレナは彼に微笑み返す。
ガラス玉のような瞳は、いつにも増して美しい。それでもやっぱり空っぽで、恐ろしいほどに澄んでいた。
古い老木のような男が微笑むと、エレナはなぜか、ひどく懐かしさを感じた。
日の差し込む森で、大きな木を見上げているような、そんな懐かしさだった。
彼は枝のような腕を伸ばし、包むようにエレナを抱きしめる。その力はとても強いのに、慈しむようなやさしさがあった。
「エレナ、ありがとう」
木々が揺れるように、老人は囁いた。
「お前は私の、大切な家族だ」
その姿は、愛するものを守ろうとする、巨木のようだった。
「……お、じいさん。いいえ……グランディール」
エレナの瞳から涙がこぼれた。
「わたしは、あなたを」
老人は静かに微笑んだ。
「何を泣くことがある」
大理石の床に落ちたのは、涙だけだはなかった。
ぽたり、ぽたり、赤がこぼれて広がって行く。
老人はその血が、自分の腹から流れているのを見た。
おもむろにローブを掴めば、その手は鮮やかな紅に濡れる。
「エレナ……」
うろたえる老人を、エレナは見つめ返した。その手に短剣を握りしめたまま。
「いつの間に、それを拾って……ぐっ」
血が、滴り落ちる。
エレナは食い入るように老人の眼を見つめた。
「あなたは、両親と、リューシルの仇」
彼が息絶えるまで、決して目を逸らすつもりはなかった。
「だけど、わたしは復讐するためにあなたを殺すんじゃない」
分かったのだ。仇を討つだけではこの男と同じ。
憎しみを振りかざすだけでは、黒の王に勝つことはできない。
本当に大切なものは。
今生きて、傍にいる人を――。
「エレナ……ぐ、ああっ」
老人の口から鮮血が吐き出される。遠い昔、彼に殺されたマルクレーンのように。
それをかき消すように、エレナは言い放った。
「わたしはわたしの大事なものを守るために、あなたを殺すの。これ以上、あなたに手出しはさせない。姫様にも、この国にも……クリスにも」
決断が遅すぎたのだ。
憎い仇と思っておきながら。
愛しい人を守りたいと思っておきながら。
家族のいないエレナにとって。
抱きしめられたその腕は、あまりにも温かかった。
老人は目を見開いた。零れ落ちんばかりに、少女を見つめる。
「なぜ、だ……。ああ、ああそうか、怖がっているのかね」
血にまみれた手を伸ばす。
「大丈夫。大丈夫。だいじょうぶだから」
エレナは一歩後ずさった。それでも、一寸たりとも目を離しはしない。
老人は、頬の皺を寄せ、腹から血を流しながら、優しく微笑んだ。
「もう何も……心配いらない。お前は私が、守ってみ、せる」
その瞳に、エレナを映したまま。
「お前は、私の、かぞ、くなんだか、ら……」
そのまま、砕けるように倒れ伏した。
黒いローブに、赤い血がしみ込んでいる。
エレナは金の短剣を握ったまま、動けなかった。
黒の王も、老人も、もういない。
グランディールは死んだのだ。
「ご主人……?」
静寂を破ったのは、ラズールだった。
瓦礫の中から立ち上がり、ふらふらと歩いてくる。彼女は傍にやって来ると、泣きわめくこともなく、ただグランディールの亡骸を見下ろした。彼の体は少しずつ、闇に還って行くように見えた。
ラズールはじっと彼を見つめ、ようやくぽつりと零した。
「すべて、終わったのね……」
エレナとクリスは、黙ったまま彼女を見守る。ラズールは突っ立ったまま、グランディールに微笑みかけた。
「あなた、馬鹿ね。小娘を孫にしたくせに、自分で殺そうとするんだから。……ねえ、いつからおかしくなっちゃったの? 最初から?」
大きな瞳から、静かに涙がこぼれた。
「あんなに好きって言ったのに、あなたは全然分かってくれなかった。――――あたしもね、気づくのが遅かった。とても怖い思いをして……さっきやっと分かったの。あなたはとても危険だから、死ななければならなかったのよ」
そう言って、傍にしゃがみ込むと、小さく笑った。
「だけどもう一つ分かったの。どんな風になっても、あたしはやっぱり、あなたと家族になりたかったんだわ」
動かない頬にキスをすると、ラズールは静かに立ち上がった。
彼女の目の前で、黒い男の体も顔も、闇に溶けて消えて行く。
その最後の靄が見えなくなると、ラズールは腕で顔を拭い、少しだけさっぱりした表情でエレナを見た。
「変ね、ご主人を殺した奴なら、死ぬほど憎いはずなのに」
立ち竦んだままのエレナを、大きな瞳でつまらなそうに眺めた。
「このまま始末してもいいんだけど……まあ、あんたのせいで色々分かっちゃったし……殺さないでおいてあげるわ」
言いながら、わずかに顔を歪ませた。
「あたしはきっと、本当は誰も殺す資格なんかないし、愛される資格もないの」
命令を遂行し続け、とうとう振り向いてもらえなかった魔物は言った。
「あたしはご主人と同じ。とても危険な魔物だった。ほんとはね、アシオンの子孫――あの国王だって……」
「ラズール」
遮ったのはクリスだった。
「お前はまだ得る資格がある。……ジェロームは俺が殺した。だからお前は、気にしなくていい」
ラズールの大きな瞳が、わずかに見開かれた。
「あたし、あんたに気を使われるようなことしたかしら? それとも同情してくれてる訳?」
「……同情、かもな。でもお前はまだ、チャンスがあってもいいと思うんだ」
静かに言うクリスを、赤毛の少女は睨んだ。
「あんたの同情なんていらないわ」
「貰っておけよ」
ラズールの顔が僅かに歪んだ。
「……かっこつけちゃって。――後で後悔しても知らないからね!」
そう言ってぞんざいに手を振ると、巻き起こった砂嵐と共に消えてしまった。




