鉄格子の向こう側
明くる日庭へ出かけると、クリスは門のところまで出迎えてくれた。
いつものようにたわいない話をしながら、エレナは昨日のことを思い出し、胸が苦しくなった。
あの貴族のことを伝えるべきなのに、今なお、それが出来なかった。
「どうしたんだ、今日は元気がないな」
クリスはすぐに、様子がおかしいことに気づいた。
「そんなことないよ」
少女は唇をかみしめる。
やはり言うべきだ。近くまでお父さんが来ているよ、と。
しかし、その事実が間違っていては意味がない。きちんと確かめてからにしようと決めた。
いつも避けていた話題を、おもむろに口にする。避けていたのは、クリスが嫌な思いをするだろうと思ったからだ。それでも今は聞かなければならなかった。
「あの、聞きたいことがあるんだけど」
声が震えないように、ゆっくりと話す。
「ここに来る前のこと、覚えてる?」
「覚えているよ。少しだけだし、はっきりしたものじゃないけどね」
クリスは表情を変えずに、少しずつ話し始めた。
「俺は、光の差さない場所に住んでいた。家族のことは覚えていない。ただ、黒い男がいたんだ」
エレナはびくりと肩を震わせた。
「それって、お父さんだよね」
「さあね、はっきりとは覚えてないんだ」
クリスは遠い目をしている。その横顔から表情を読み取ることはできない。
エレナはなぜだか涙が出そうになった。彼の心は、既に自分の届かないところに行ってしまっているようだ。
自分の気持ちを悟られないよう、なんとか言葉を紡いだ。
「それで、どうしてここに?」
「マルクレーンが……あの魔法使いが襲ってきたんだ。連れ去られた時のことはあまり覚えてないけど、あたりには何人かの男が倒れていた。たぶん、あれは黒い男に仕えていた従者たちだったと思う」
「それから?」
「よく思い出せない。ただ気づいたらここにいて、マルクレーンに閉じ込められていた」
間違いない。クリスはダリウスの息子だ。
エレナはそう確信した。
思わず目を伏せると、ふいに少年が言った。
「どうして閉じ込められているのか聞かないのか?」
顔をあげると、まっすぐに見つめてくる目があった。
「俺はね、本当は居てはいけない存在なんだ。」
少女は黙って見つめ返す。
「自分でもよく分からないけど、俺は強い魔力を持ってるんだって。この国って、魔法が禁じられてるだろう? 魔力を持つ者は、とっくの昔に追放されたはずなんだ」
エレナもそれは聞いたことがある。
小さく頷いて見せると、彼は苦しげに息を吐いた。
「マルクレーンみたいに隠れて生きている奴もいる。あいつは『人』のくせに魔法を習得して、裏切り者と呼ばれたんだ。
牢獄に閉じ込められる前に国から逃げ出したらしいけど、俺とあいつは別だ。マルクレーンは人間で、研究しながら魔法を習得した。
だけど俺はそうじゃない。生まれつきだ。この違いが分かるか?」
彼の口調は早くなったり、遅くなったりした。
この話題は、よほど話し辛いらしい。エレナは黙って続きを促す。
「俺は『魔』だ。『人』の国にいてはならないんだ。政治とか、難しいことはよくわからない。とにかく捕まれば、マルクレーンよりもひどい仕打ちを受けるだろう。だから、外に出ちゃだめなんだよ」
だんだん言葉を組み立てることすらできなくなって、吐き出すようにクリスは言った。
顔はいつものように無表情だが、瞳はずっと、ずっと遠くを見ていた。
その目が、少女に向き直る。
「ずっと、嫌われるのが怖くて言えなかった。でも今なら分かるんだ」
彼は噛みしめるように言った。
「お前なら、きっと嫌いにならないでいてくれる」
分かる、と言ったくせに、クリスの目は「そうであってほしい」と懇願していた。
それを見ただけで、エレナは胸が締め付けられる。
「嫌いになるわけないわ。……ねえ、初めて会った時の事、覚えてる? あなたはわたしを怖がらなかったわ」
もう、声は震えなかった。
「わたしは花を枯らしてしまうの。きっとあなたと、同じ部分があるのよ」
少年は、はっとしたように目を見開いた。少女は笑って言う。
「わたし達、ほんとに似てるわね」
クロッカスが風に吹かれた。
木の葉はこすれ、優しくざわめく。
木漏れ日が、ゆらゆらと音もなく揺れた。
この瞬間は、永遠だった。
二人は何も言わなかったが、それでも分かっていた。
自分たちはずっと友達であることを。
互いに、絶対に裏切りはしないことを。
それは形のない約束のようなものであり、言葉を交わさずとも、お互いの心は伝わっていた。
その時だった。
がさりがさり、花々を掻き分ける音がした。
続いて低い男の声。
「誰かいるのか?」
あの魔法使いだった。
今は昼間だというのに、なぜこんなに早く帰ってきたのだろう。
二人は真っ青になった。
「こっちだ。早く」
クリスはエレナの手を引いて、庭の奥へと急いだ。高い草花は身を隠してくれる。けれど、どんなに静かに歩こうとしても、がさがさと音を立ててしまうのはまぬがれなかった。
屋敷に入れば、追い詰められた時逃げ場がない。音を立てながら、庭の奥へ駆け込むしかなかった。
エレナは恐怖で身が包まれていた。走りながら、すれ違った花が時々枯れていく。
今もまた、肩にあたった大輪のヒマワリが花びらを落とした。
――――落ち着け。大丈夫、大丈夫だから。
自分に言いきかせたが、足元のシロツメクサが萎れるのが見えた。
「どこにいるんだ! おとなしく出てこい!」
後ろから、怒鳴り声が追いかけてくる。
高いキンギョソウの生えた場所へうずくまり、二人は縮こまって身を寄せた。
「なんだこれは…ヒマワリが枯れている」
がさりがさり、足音が近づいてくる。
「そこだな、出てこい」
キンギョソウの前で、足音がやんだ。二人は黙ったまま、動くこともできない。
「出てこいと言ってるんだ! さもなければカエルにしてやるぞ!」
がさり、とクリスが出た。続いて、エレナもおずおずと這い出す。
二人は立ちあがり、恐怖に満ちた目で魔法使いを見つめた。
クリスの言った通り、ローブに隠れて顔の上半分は見えない。しばらくの沈黙のあと、どうにか見える口が動いた。
「お前、村の娘か」
エレナに向けて、鋭い響きで言い放った。
「は、はい」
「どうやってここに来た」
「道に……迷ってしまって。」
「一度目ではないな」
どきりとする。
男の目は見えないのに、鋭い眼光が胸を貫いた気がした。
エレナは言葉に詰まった。恐怖で話せないと言った方が正しいかもしれない。
ふん、と鼻を鳴らすと、魔法使いはクリスに向き直った。どうやらエレナとの会話を諦めたらしい。
「それでお前は? 言いつけは守れと言ったよな?」
いつも無表情の少年は、真っ青になっていた。
「ご、ごめんなさい」
「ごめんなさい? あれほど存在を知られるなと言ったのに。なぜ守れない? お前は危険なんだ。自分がどんなに恐ろしいものかも知らないくせに、余計なものを欲しがるな。友達など諦めろと言っただろう」
傍から聞いていたエレナは、口を挟まずにはいられなかった。
「そ、そんなのおかしいわ」
「何?」
勇気を出して、声をしぼり出す。
「わたしは、クリスを危険だと思ったことはないし、か、彼は誰かを傷つけるような人じゃない」
噛んでしまったものの、何とか言い切った。
けれど、魔法使いは馬鹿にしたように笑った。
「ほう? それでは、お前はこいつが安全だと言い切れるのか。こいつは生まれながらにして恐ろしい魔力を持ってるんだ。それを制御する術もままならない。
いつ魔力が暴発して、お前のその小さな心臓を焼き尽くすかもしれないのに。なぜ、危険じゃないと分かる?」
その口調は嘲るようなものだったが、声音は低く、ちっとも楽しそうではなかった。
エレナは恐怖でこぼれそうな涙を、必死にこらえていた。
「私が怖いか? そうだろう。だが、こいつの方がもっと恐ろしい生き物なんだ。見かけに騙されてはならない。分かるな?」
彼の前でなんてことを言うのだろう。クリスはそんなものじゃない。大事な友達だ。
エレナは首を横に振った。ハッと少年が息を呑む。
「それでは、お前をここから遠ざけるしかあるまい」
魔法使いは恐ろしい声で言った。
「お前の記憶を、消してやる」
恐怖で全身が包まれる。
それは、最も恐れていたことだった。
魔法使いが何やら呪文を唱え始める。
ぼうっと気が遠くなったとき、クリスの声が耳をつんざいた。
「逃げて!」
その声が、かすかな意識を呼び戻した。エレナは我に返り、魔法使いの目を盗んで走り出す。
そうだ、これだけは守らなくちゃならない。
彼との思い出だけは。
絶対に、失いたくない。
エレナは走った。草花を掻き分け、門へと向かう。魔法使いが追いかけてくる。
ざざざざざ、と鳴り止まない草は、嵐のようだ。
早く、早く、ここから出なきゃ。
息を切らし、髪を振り乱して走った。
手足を草で切り傷だらけにして、ようやく門の外へ出た。
後は森を抜ければいい。魔法のかかった庭から出たのだ。このまま走っていれば、すぐに家路に辿り着くはずだ。
その時、声がした。
「危ない!」
振り返れば、鉄格子の向こう側で、クリスが叫んでいた。
庭の外に魔法使いが立っている。追いかけてくる様子はないが、その手は銀色に光っていた。
魔法だ、と一目で分かった。
魔法使いが何か叫んだ。銀の光がこちらへ飛んでくる。
――――絶対に、絶対に忘れるものか。
エレナは思い切り身を伏せた。
次の瞬間、銀の光はエレナの上を通り過ぎ、そのまま近くの木に当たって砕け散った。
恐る恐る顔をあげる。
クリスの顔も彼と遊んだ思い出も、くっきりと頭に残っていた。
「二度とここへは来るな! 次はないぞ!」
罵声がとんでくる。どうやら見逃してくれるらしかった。
エレナは一度だけ振り返ると、一目散に走って行った。
*
クリスは、エレナが木立の中へ消えていくのを見ていた。
鉄格子をつかんだまま、追いかけることもできずに。
彼女はもう、ここへは来ないだろう。
魔法は当たらず、思い出を持ち帰った。
きっとあの思い出を大切にしてくれるはずだ。
それでいいじゃないか。
それなのに、クリスは悲しくてたまらなかった。
もう二度と会えないのだと思うと、苦しくて胸が締め付けられた。
「諦めろ」
ふいに魔法使いが言った。
クリスの横で門を開け、再び庭に入る。
少年はその姿を憎々しげに眺めた。
「そんな目をするな。私はお前のことを思ってやってるんだ。あの娘のこともな。大切に思うなら、関わってはだめだ。傷つけてからでは遅いんだぞ」
クリスは何も言い返せなかった。鉄格子を一層強く握りしめるだけだ。
「お前は誰とも関わってはいけない。大切なものをつくれば、それだけ失う悲しみが大きいんだ。どうしてそれが分からない」
この言葉は、二人の間で何度もくり返されていた。
そんな時、クリスは決まってうなずき、おとなしく従った。
いつも、仕方のないことだと割り切っていたから。
自分の運命を受け入れていたから。
けれど、この時は違った。
「俺は、あの子を傷つけたりしない」
クリスは魔法使いを睨んだ。その目はまるで蛇のようで、剥き出しの敵意が相手を射抜いた。
「やめておけ。この庭ではお前の力は封じてある」
魔法使いは動じない。
それでも少年は殴りかかった。魔力が使えなければ素手で戦うしかない。
けれど、力の差は歴然だった。
「馬鹿め」
魔法使いが何かを唱える。
次の瞬間、少年の体は吹き飛び、地面に激しく叩きつけられた。
「……ぐっ」
口の中に砂の味が広がる。
全身が痛かった。すぐには動けそうにない。
砂ってやっぱり不味い、と思いながら顔だけあげると、なぎ倒されたチューリップが見えた。魔法使いが覗き込んでいる。
「分かったろう、あの娘は諦めろ」
頭上から降ってくる声には、憐れみが混じっていた。
「分からないよ」
喉から声を絞り出す。駄々をこねる幼子のような声だった。
目の前では、シロツメクサが咲いている。優しく揺れる白い花を見ながら、視界が滲んでいくのが分かった。