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ハルシュトラールの夜の果て  作者: 星乃晴香
第八章 流れ星が照らすもの
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懐かしいあなた 



「……クリス、来てくれたのね」

 エレナは手足を起こして、なんとか立ち上がった。



 月光を背に浴びた少年の顔は陰になり、よく見えない。

 窓枠に立ったまま、彼は静かに言った。

「本当は特別な用事がない限り、この部屋へ来てはいけないんだ。……もう行かないと」

 クリスはそのまま背を向けた。

「待って」

 広い部屋に、エレナの声だけが響いた。

「傍に来てよ、お願い」

 少年は振り向いた。窓から差し込む月光に、ちらりと鳶色の瞳が見える。

 彼は息をつくと、窓枠を飛び下りてエレナの前に来た。

「俺、忙しいんだけど。用があるなら手短にね」

 久しぶりに見るその顔は、やはり笑っているのに、どこか歪んでいた。エレナは彼の目を見る。

「ずっと、あなたのことを考えないようにしてたの」

 表情を変えず、少年は呟いた。

「そう」

「だけど本当は、会いたくて、会いたくて……たまらなかった」

 少年の目は冷たい。エレナは彼が何を考えているのか、まったく分からなかった。

 見離したかと思えば、こうして助けるのに、彼の態度はいつも冷たい。

 その胸のつかえは疑問となり、悔しさとともに放たれた。

「わたし、あなたに見捨てられたんだと思ってた。どうしてもっと早く来てくれなかったの? あなたが来てくれたら、姫様を助けられたのに!」

 彼は冷えた声で言った。

「黒の王に敵う者はいない。俺はそれを一番よく分かってる。あいつに逆らえば、こちらの命が危ないんだ。例え助けようと思ったとして、俺には()す術もないさ」

 どこか自嘲するような響きで言い放つと、静かにエレナを見た。

「それより、お前その傷、大丈夫なのか?」

 突然向けられるやさしさに、エレナは胸が詰まる。


 少し痛い。そう言おうとして、はっとした。

 月明かりの中、それでもエレナにははっきりと分かった。

 クリスは体中傷だらけで、あちこちから血がにじみ出ている。鋭い破片に切り裂かれたようなものもあり、思わず唇を噛んだ。

 自分はさんざん痛めつけられたが、彼はその比ではない。

 物々しい傷跡が、それを物語っていた。

「わたしは平気よ」

 すり傷だらけの腕を抑え、俯いた。

 自分が殺されてしまう、そう思ったほどの痛みを、彼は耐えたのだ。

 弱い自分が情けなくて、彼に対して恥ずかしかった。


「なんでそんな顔するんだよ。本当は我慢してるんじゃないのか?」

 彼は表情はそのままに、心配そうな声を出した。

 エレナは喉をつまらせながら、必死に言い返した。

「あなたの方が、痛いんじゃないの?」

 少年の瞳が、わずかに揺らぐ。それでもすぐに元の笑みに戻り、ぎこちなく笑った。

「こんなの、大したことないよ」

 いつもそうだった。

 彼はどんな時もうまく笑っていたが、今は限界のようだった。

 エレナにも、彼が嘘を尽いていることが分かる。

「あなた、いつもそうやって来たの?」

 何を、とも言わなかった。けれどその言葉だけで、クリスの顔はひきつった。

「あなたは昔はそんな顔をしなかったのに、今は無理して笑ってる。わたしに嘘を尽くのはやめてよ。城で再会した時から、ずっとそうだわ」

「勝手に勘違いするのはやめろ。俺が城に忍び込んだのはジェロームを殺すためで、お前と関わるためじゃない」

 心外だ、というようにクリスは言い返した。それでもどこか苦しそうな様子に、エレナは一層強く、その瞳を見つめた。

「あなたは陛下を殺した時も、そんな顔をしてた。本当は殺したくなかったんじゃないの?」

 少年が何か言う前に、言葉を続ける。もう、隠されるのは嫌だった。

「わたし、誰にも言わなかったけど、本当は疑問に思ってたの。あなたが陛下を傷つけるなんて信じられない。もし本当に殺したとしても、望んでやった訳じゃないって」

「うるさいなぁ!」

 少年は叫んだ。

「望んだ訳ないだろ! 俺だって本当は……!」

 そこまで言って、少年はハッとした。

 エレナは静かに彼を見る。

「良かった……」

 瞳を揺らし、わずかに微笑んだ。

「それだけでもいい。あなたはやっぱり、やさしいから」

 そっと近寄ると、彼の手を取ろうとした。

 少年はぎくりとして、その手を跳ねのける。

「丸め込もうとするのはやめろ!」



 彼の表情に、睨むような目に、エレナは傷ついていた。

 それでももう、引き返すことはできない。

「こっちへ来てよ。わたしはあなたに何もしないわ」

 少年の目は悲しそうにエレナを見た。

「言ったじゃないか。お前とは、関わりたくないって」

 その目は怖いものでも見るようにエレナを捕えた。


 エレナはふと思い出す。これは王女の部屋で話した時と同じだ。

 あの時は、訳も分からずに言い寄って、彼と仮初の友人に戻ることができた。

 でも、結局それは仮でしかなかった。今彼はこうやって、再びエレナを避けるのだ。

――――だけど、こんどは違う。

 エレナは、必死に彼を見た。

 少年は少しでも近づけば、窓枠に飛び乗り、闇夜に消えてしまいそうだった。

――――同じことは、繰り返さない。



 遠い森の中、木漏れ日の差す庭で、毎日彼に会いに行った。

 あの庭で風に吹かれている間、二人は心からの友達だった。何も言わなくても、お互いに分かり合えたのだ。

 エレナの欲しいのは「仮」の友達ではなく、あの時のように、心から分かり合える友達だった。


――――クリス


 彼が好きだった。

 思い出すのはいつだって、魔法使いから守り切った、あの庭での思い出だ。

 父だったマルクレーンは、娘だとも知らないまま、エレナからクリスの記憶を消そうとした。きっとクリスを守ろうとしていただけなのに、自分はそれに逆らった。

 卑怯なことに、あれで良かったと思ってしまう。

 クリスの存在が、彼との思い出が、どんなに大切なものか。

 エレナは今まで、何度も噛みしめてきた。

 だからこそ、本当のクリスを取り戻したかったのだ。


 彼がどうしてこんな顔をするのか、今度こそ知らねばならない。

 時間はかかってしまったけれど、心から分かり合わなければならない。



「クリス」

 名を呼べば、彼は怯えた目でこちらを見た。

「わたしには言えないことなの?」

 彼は黙ったまま、こちらを食い入るように見た。

「隠していることがあるなら教えて。わたし、あなたのことならどんなことでも受け入れる」

 彼のことならなんでも知りたかった。

 どんなに恐ろしいことでも、一緒に受け止めたいと思った。

「どうしてそんな態度をとるの? 隠されている、わたしの気持ちが分からない?」

 一歩一歩近づけば、少年は怯えたように下がる。

「……俺は何人も人を殺してるんだ」

 エレナは息を呑んだが、それでも少年から目を逸らさなかった。

「それなら、話してくれれば良かったじゃない。わたしがあなたを嫌うとでも思った?」

 少年は揺らぐ目でエレナを見た。

「いいや」

 必死に声を絞り出した。

「お前はあの時も来てくれた。何があっても、俺を見捨てない」

 エレナは喉を詰まらせ、彼を見た。

「そうよ。わたしはあなたを見捨てたりしない。それが分かっているなら、どうして話してくれなかったの?」

 手を伸ばして、その頬に触れようとした。

「触るな!」

 鋭い叫び声に、エレナはびくりと肩を揺らした。

 少年は噛みつくように言う。

「これ以上近づくな! 近づいたら殺してやる!」

 睨むようにエレナを見たが、その目は揺れていた。

「殺せもしないくせに、どうしてそんなことを言うのよ!」

 エレナは訳も分からず叫んだ。

 彼は自分を殺せない。

 それは分かっていた。

 分からないのは、どうしてこんなに拒絶されるのかだった。



「なぜ避けるの? 本当はまだ、昔のことを怒ってる?」

 一心に彼を見つめても、彼は怯えたように見つめ返すだけだ。一生懸命微笑みかけたが、クリスは口を開こうともしない。

 彼にとって、エレナは本当に恐ろしいもののようだった。

 本心から拒絶するような瞳。

 そんな目で見られると、辛くて、悲しくて、どうにかなりそうだった。

「教えてよ。教えてって言ってるじゃない!」

 エレナはたまらなくなって声を荒げた。

「わたしが嫌いなら、そう言ってよ!!」

 叫んだ拍子に涙があふれた。エレナの気持ちもお構いなしに、ぽろぽろと頬を流れ落ちる。


「……エレナ」

 少年は驚いたようにこちらを見つめた。

 泣き出した少女を前に、呟くように言った。

「嫌いじゃない。……嫌いなんかじゃない」

 淡々とした言葉を聞いて、エレナはしゃくりあげながら叫んだ。

「嘘つき! いつも冷たくするくせに!」

 心からの叫びが喉をついて、涙と共に流れ出した。

「ひどいよ!! わたしはこんなに、会いたかったのに!!」

 少年の顔は突然崩れていく。彼の中で、何かが壊れたようだった。必死に抑えていた感情が、堰を切ったようにあふれていく。

「エレナ!! 違う! そうじゃない!!」

 一度こぼれた感情は、もう止まらない。

「俺はお前を守りたかったんだ!」

 エレナの手を取り、必死に瞳を覗き込んだ。

「お前が好きだった。だから、傷つけてしまうのが怖くて、遠ざけたんだ」

 ゆっくり、はっきりと、少年は言った。

 エレナは、顔をあげる。

「……それが、わたしに冷たくした理由?」

「そうだよ」

 エレナは彼の瞳を一心に見返した。

「あなたはわたしが、嫌いじゃないのね」

「ああ」

 少年は泣き出しそうな声で告げた。

「大好きだよ、エレナ」

 強く強く、エレナを抱きしめた。

 少年の腕の中、エレナは何も言えずにしゃくりあげた。

 涙が止まらなかったが、胸に温かい思いが溢れていく。

 それは今までの苦しみや悲しみを吹き消すくらい、優しい想いだった。


――――きっと、もう大丈夫だ。


 そっと微笑み、そう思った。

 少年の胸に顔を寄せると、静かに瞳を閉じる。

 今までの寂しさを埋めるかのように、彼の胸に、深く深く、顔をうずめた。

 窓から差し込む月明かりが、二人を優しく照らしていた。




 その時、クリスがはっと顔をあげた。

「――黒の王が、来る」

 エレナは思わず彼を見た。

「クリス、あなたここに居ちゃいけないんでしょ。……もう行って」

「……でも、俺は」

 言い淀む少年を、エレナは強く見つめた。

「そのひどい傷、黒の王につけられたんでしょう?」

 少年の瞳が揺らぐ。予想が確信に代わり、エレナは彼の肩に触れた。

「わたしは大丈夫。……あの男が来る前に、ほら」

 本当は行ってほしくなんかない。黒の王が恐ろしくてたまらない。

 でもクリスが傷つくことが、何より一番怖かった。

「……エレナ、気をつけて」

 少年は少女の額に、そっと触れるような口づけをした。一度だけ目を合わせると、窓の方へと向かい、あっという間に闇夜に消えて行った。

 彼が去ったと同時に、そこに黒い闇が集まって来る。

 闇はみるみる何かを形作り、窓の下には大きな影が落ちた。


「エレナ、無事か」

 窓枠に漆黒の男が立ち、こちらを見降ろした。差し込んだ月光に、はためく黒いローブが浮かび上がる。

「グランディール……」

 エレナは目を細め、唇を結んで男を見上げた。



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