懐かしいあなた
「……クリス、来てくれたのね」
エレナは手足を起こして、なんとか立ち上がった。
月光を背に浴びた少年の顔は陰になり、よく見えない。
窓枠に立ったまま、彼は静かに言った。
「本当は特別な用事がない限り、この部屋へ来てはいけないんだ。……もう行かないと」
クリスはそのまま背を向けた。
「待って」
広い部屋に、エレナの声だけが響いた。
「傍に来てよ、お願い」
少年は振り向いた。窓から差し込む月光に、ちらりと鳶色の瞳が見える。
彼は息をつくと、窓枠を飛び下りてエレナの前に来た。
「俺、忙しいんだけど。用があるなら手短にね」
久しぶりに見るその顔は、やはり笑っているのに、どこか歪んでいた。エレナは彼の目を見る。
「ずっと、あなたのことを考えないようにしてたの」
表情を変えず、少年は呟いた。
「そう」
「だけど本当は、会いたくて、会いたくて……たまらなかった」
少年の目は冷たい。エレナは彼が何を考えているのか、まったく分からなかった。
見離したかと思えば、こうして助けるのに、彼の態度はいつも冷たい。
その胸のつかえは疑問となり、悔しさとともに放たれた。
「わたし、あなたに見捨てられたんだと思ってた。どうしてもっと早く来てくれなかったの? あなたが来てくれたら、姫様を助けられたのに!」
彼は冷えた声で言った。
「黒の王に敵う者はいない。俺はそれを一番よく分かってる。あいつに逆らえば、こちらの命が危ないんだ。例え助けようと思ったとして、俺には為す術もないさ」
どこか自嘲するような響きで言い放つと、静かにエレナを見た。
「それより、お前その傷、大丈夫なのか?」
突然向けられるやさしさに、エレナは胸が詰まる。
少し痛い。そう言おうとして、はっとした。
月明かりの中、それでもエレナにははっきりと分かった。
クリスは体中傷だらけで、あちこちから血がにじみ出ている。鋭い破片に切り裂かれたようなものもあり、思わず唇を噛んだ。
自分はさんざん痛めつけられたが、彼はその比ではない。
物々しい傷跡が、それを物語っていた。
「わたしは平気よ」
すり傷だらけの腕を抑え、俯いた。
自分が殺されてしまう、そう思ったほどの痛みを、彼は耐えたのだ。
弱い自分が情けなくて、彼に対して恥ずかしかった。
「なんでそんな顔するんだよ。本当は我慢してるんじゃないのか?」
彼は表情はそのままに、心配そうな声を出した。
エレナは喉をつまらせながら、必死に言い返した。
「あなたの方が、痛いんじゃないの?」
少年の瞳が、わずかに揺らぐ。それでもすぐに元の笑みに戻り、ぎこちなく笑った。
「こんなの、大したことないよ」
いつもそうだった。
彼はどんな時もうまく笑っていたが、今は限界のようだった。
エレナにも、彼が嘘を尽いていることが分かる。
「あなた、いつもそうやって来たの?」
何を、とも言わなかった。けれどその言葉だけで、クリスの顔はひきつった。
「あなたは昔はそんな顔をしなかったのに、今は無理して笑ってる。わたしに嘘を尽くのはやめてよ。城で再会した時から、ずっとそうだわ」
「勝手に勘違いするのはやめろ。俺が城に忍び込んだのはジェロームを殺すためで、お前と関わるためじゃない」
心外だ、というようにクリスは言い返した。それでもどこか苦しそうな様子に、エレナは一層強く、その瞳を見つめた。
「あなたは陛下を殺した時も、そんな顔をしてた。本当は殺したくなかったんじゃないの?」
少年が何か言う前に、言葉を続ける。もう、隠されるのは嫌だった。
「わたし、誰にも言わなかったけど、本当は疑問に思ってたの。あなたが陛下を傷つけるなんて信じられない。もし本当に殺したとしても、望んでやった訳じゃないって」
「うるさいなぁ!」
少年は叫んだ。
「望んだ訳ないだろ! 俺だって本当は……!」
そこまで言って、少年はハッとした。
エレナは静かに彼を見る。
「良かった……」
瞳を揺らし、わずかに微笑んだ。
「それだけでもいい。あなたはやっぱり、やさしいから」
そっと近寄ると、彼の手を取ろうとした。
少年はぎくりとして、その手を跳ねのける。
「丸め込もうとするのはやめろ!」
彼の表情に、睨むような目に、エレナは傷ついていた。
それでももう、引き返すことはできない。
「こっちへ来てよ。わたしはあなたに何もしないわ」
少年の目は悲しそうにエレナを見た。
「言ったじゃないか。お前とは、関わりたくないって」
その目は怖いものでも見るようにエレナを捕えた。
エレナはふと思い出す。これは王女の部屋で話した時と同じだ。
あの時は、訳も分からずに言い寄って、彼と仮初の友人に戻ることができた。
でも、結局それは仮でしかなかった。今彼はこうやって、再びエレナを避けるのだ。
――――だけど、こんどは違う。
エレナは、必死に彼を見た。
少年は少しでも近づけば、窓枠に飛び乗り、闇夜に消えてしまいそうだった。
――――同じことは、繰り返さない。
遠い森の中、木漏れ日の差す庭で、毎日彼に会いに行った。
あの庭で風に吹かれている間、二人は心からの友達だった。何も言わなくても、お互いに分かり合えたのだ。
エレナの欲しいのは「仮」の友達ではなく、あの時のように、心から分かり合える友達だった。
――――クリス
彼が好きだった。
思い出すのはいつだって、魔法使いから守り切った、あの庭での思い出だ。
父だったマルクレーンは、娘だとも知らないまま、エレナからクリスの記憶を消そうとした。きっとクリスを守ろうとしていただけなのに、自分はそれに逆らった。
卑怯なことに、あれで良かったと思ってしまう。
クリスの存在が、彼との思い出が、どんなに大切なものか。
エレナは今まで、何度も噛みしめてきた。
だからこそ、本当のクリスを取り戻したかったのだ。
彼がどうしてこんな顔をするのか、今度こそ知らねばならない。
時間はかかってしまったけれど、心から分かり合わなければならない。
「クリス」
名を呼べば、彼は怯えた目でこちらを見た。
「わたしには言えないことなの?」
彼は黙ったまま、こちらを食い入るように見た。
「隠していることがあるなら教えて。わたし、あなたのことならどんなことでも受け入れる」
彼のことならなんでも知りたかった。
どんなに恐ろしいことでも、一緒に受け止めたいと思った。
「どうしてそんな態度をとるの? 隠されている、わたしの気持ちが分からない?」
一歩一歩近づけば、少年は怯えたように下がる。
「……俺は何人も人を殺してるんだ」
エレナは息を呑んだが、それでも少年から目を逸らさなかった。
「それなら、話してくれれば良かったじゃない。わたしがあなたを嫌うとでも思った?」
少年は揺らぐ目でエレナを見た。
「いいや」
必死に声を絞り出した。
「お前はあの時も来てくれた。何があっても、俺を見捨てない」
エレナは喉を詰まらせ、彼を見た。
「そうよ。わたしはあなたを見捨てたりしない。それが分かっているなら、どうして話してくれなかったの?」
手を伸ばして、その頬に触れようとした。
「触るな!」
鋭い叫び声に、エレナはびくりと肩を揺らした。
少年は噛みつくように言う。
「これ以上近づくな! 近づいたら殺してやる!」
睨むようにエレナを見たが、その目は揺れていた。
「殺せもしないくせに、どうしてそんなことを言うのよ!」
エレナは訳も分からず叫んだ。
彼は自分を殺せない。
それは分かっていた。
分からないのは、どうしてこんなに拒絶されるのかだった。
「なぜ避けるの? 本当はまだ、昔のことを怒ってる?」
一心に彼を見つめても、彼は怯えたように見つめ返すだけだ。一生懸命微笑みかけたが、クリスは口を開こうともしない。
彼にとって、エレナは本当に恐ろしいもののようだった。
本心から拒絶するような瞳。
そんな目で見られると、辛くて、悲しくて、どうにかなりそうだった。
「教えてよ。教えてって言ってるじゃない!」
エレナはたまらなくなって声を荒げた。
「わたしが嫌いなら、そう言ってよ!!」
叫んだ拍子に涙があふれた。エレナの気持ちもお構いなしに、ぽろぽろと頬を流れ落ちる。
「……エレナ」
少年は驚いたようにこちらを見つめた。
泣き出した少女を前に、呟くように言った。
「嫌いじゃない。……嫌いなんかじゃない」
淡々とした言葉を聞いて、エレナはしゃくりあげながら叫んだ。
「嘘つき! いつも冷たくするくせに!」
心からの叫びが喉をついて、涙と共に流れ出した。
「ひどいよ!! わたしはこんなに、会いたかったのに!!」
少年の顔は突然崩れていく。彼の中で、何かが壊れたようだった。必死に抑えていた感情が、堰を切ったようにあふれていく。
「エレナ!! 違う! そうじゃない!!」
一度こぼれた感情は、もう止まらない。
「俺はお前を守りたかったんだ!」
エレナの手を取り、必死に瞳を覗き込んだ。
「お前が好きだった。だから、傷つけてしまうのが怖くて、遠ざけたんだ」
ゆっくり、はっきりと、少年は言った。
エレナは、顔をあげる。
「……それが、わたしに冷たくした理由?」
「そうだよ」
エレナは彼の瞳を一心に見返した。
「あなたはわたしが、嫌いじゃないのね」
「ああ」
少年は泣き出しそうな声で告げた。
「大好きだよ、エレナ」
強く強く、エレナを抱きしめた。
少年の腕の中、エレナは何も言えずにしゃくりあげた。
涙が止まらなかったが、胸に温かい思いが溢れていく。
それは今までの苦しみや悲しみを吹き消すくらい、優しい想いだった。
――――きっと、もう大丈夫だ。
そっと微笑み、そう思った。
少年の胸に顔を寄せると、静かに瞳を閉じる。
今までの寂しさを埋めるかのように、彼の胸に、深く深く、顔をうずめた。
窓から差し込む月明かりが、二人を優しく照らしていた。
その時、クリスがはっと顔をあげた。
「――黒の王が、来る」
エレナは思わず彼を見た。
「クリス、あなたここに居ちゃいけないんでしょ。……もう行って」
「……でも、俺は」
言い淀む少年を、エレナは強く見つめた。
「そのひどい傷、黒の王につけられたんでしょう?」
少年の瞳が揺らぐ。予想が確信に代わり、エレナは彼の肩に触れた。
「わたしは大丈夫。……あの男が来る前に、ほら」
本当は行ってほしくなんかない。黒の王が恐ろしくてたまらない。
でもクリスが傷つくことが、何より一番怖かった。
「……エレナ、気をつけて」
少年は少女の額に、そっと触れるような口づけをした。一度だけ目を合わせると、窓の方へと向かい、あっという間に闇夜に消えて行った。
彼が去ったと同時に、そこに黒い闇が集まって来る。
闇はみるみる何かを形作り、窓の下には大きな影が落ちた。
「エレナ、無事か」
窓枠に漆黒の男が立ち、こちらを見降ろした。差し込んだ月光に、はためく黒いローブが浮かび上がる。
「グランディール……」
エレナは目を細め、唇を結んで男を見上げた。




