一寸先は闇
「くそ、この小娘!」
魔物が噛みつくように叫ぶ。
捕まったら終わりだ。エレナはぞっとして、必死に足を動かした。走りには自信があるが、怖くてたまらない。
なんとか距離を取り、曲がり角を曲がった。
目の前には、まっすぐ伸びた廊下がある。そこから枝分かれするように、更にたくさんの細長い廊下が伸びていた。その先はどれも暗闇だ。
どこに行けばいいのか見当もつかない。これではシルヴィアを連れていた時と同じだ。捕まってしまう。
その時、別れ道の一つから腕が伸びてきて、エレナの腕をつかんだ。
叫ぶ間もなく、強い力で引っ張り込まれる。辺りは陰になっていて、不気味なほど暗い。
「っ……!!」
突然口を手でふさがれ、エレナは恐怖に襲われた。
懸命に声を出そうとするも、相手の力は強く、動けないほどエレナを押さえつける。恐怖の中で必死にもがき、抗おうとしていると、低い声がささやくように言った。
「叫ぼうとしないで。落ち着いて。僕だ」
はっとして抗うのをやめる。相手が力を弱めた隙に振り返ると、暗がりの中に見慣れた顔があった。
「ロレンツォ……」
ほっとして息をつくと、彼はエレナを引き寄せ、曲がり角の向こうをうかがった。
「静かに。気付かれたかもしれない」
彼が声を殺して言う。エレナが慌てて口を噤むと、廊下の先から魔物の怒鳴り声が聞こえた。緊張して体が強張ったが、魔物は散々うろついた挙句、どこかへ去って行った。
しばらくして、ようやくロレンツォが息を吐く。
「……大丈夫。行ったみたいだ」
エレナは肩の力を抜いて、男を見上げた。優しい瞳がこちらを見ている。
暖かくてほっとする気持ちが、胸に溢れていく。
「良かった。無事だったのね」
エレナは彼に抱き着いた。男もエレナを抱きしめる。
クリスとは違う、家族のような温もりに包まれる。
ロレンツォはいつもエレナを守ってくれる。彼に会えたのならもう大丈夫だ。
今までの張り詰めていた心がとけていく。けれど、不意に彼を愛する姫の姿が浮かんだ。
エレナは顔をあげて尋ねた。
「ロレンツォ、今までどこにいたの? 姫様があなたに見捨てられたと思って、傷ついていたわ。わたしもそう思ってた。どうして来てくれなかったの?」
彼は悲しそうに微笑んだ。
「僕は一度、彼女を見つけたんだ。――でもあれは……会ったことにはならないね」
エレナは小さく息を呑む。男はどこかやつれて見えた。
「僕では彼女を救えない。それが分かったよ。でも、せめて彼女の助けになるものを届けようと思って」
「助けになるもの?」
「そう。金の弓矢だ」
エレナは彼の言いたいことを理解した。
アシオンは金の弓矢を使って魔物を倒した。シルヴィアがそれを手にすれば、うまく使えるかは別としても、大きな勇気になるはずだ。
彼女が弓を持っているところを見れば、『人』も皆、希望を見出せるかもしれない。
「でも、そんなもの本当にあるの? 式場に運ばれたのは模造品だし、本物は行方知れずって話じゃない」
見上げれば、ロレンツォは苦笑した。
「本物はもちろんあるよ。代々この王家に伝わっていて、王族しか使うことの許されない物だ。でも、陛下しか場所を知らなかったからね。――宝物庫に行って手当たり次第探したんだけど、見つからなかった。……君、陛下から何か聞いてないか?」
疲れたように言う彼に、エレナは首を振った。
「わたしは何も聞いてないわ。……金でなく、他の弓矢じゃだめなの?」
そう言うと、彼は優しく見つめて来た。
「いいかい。『銀』は君が言っていた通り、魔法を反射できる。しかし、中にはそれだけでは倒せない敵もいるんだ。グランディールのように強力な魔力を持つものに、魔法を当てても意味はない。衝撃は与えられるが、その心臓を止めることはできないんだ」
エレナは黙って彼を見上げた。
「けれど『金』は、あらゆる『魔』を倒すことができる。体が魔法で出来ていても、実態がなくても、闇に同化したものでも、『金』なら倒すことができるんだ。過去にアシオンはそうやってグランディールを倒した」
エレナは目を伏せた。
「いいえ、グランディールは死んでいない。伝説は、彼が死んだと思った人々に書き換えられたのよ」
「グランディールは死んだはずだ。そんなでたらめ、誰から聞いたんだい?」
エレナはロレンツォを見据えた。
「でたらめじゃないわ。本人から聞いたもの」
男は目を見開いた。
「君はグランディールに会ったっていうのか? あれは三百年前の人物だぞ」
エレナは表情も変えず、真剣な目で男を見つめる。
「『魔』の中には何百年も生きる者もいるわ。彼は孫を殺された復讐をするために、今日まで生きていたの。あの男は気が狂っているのよ。――彼の命令で、わたしは姫様の命を助ける代わりに、彼の孫になったの。だけど……あんな男のところには、もういられない。あの男は夜が明ける前に『人』を皆殺しにして、わたしを王女にすると言っているの」
エレナは彼を罵っているつもりなのに、なぜか悲しくてたまらなかった。
グランディールは残酷だが、それでいてどこか可哀想に思えた。
エレナの顔を見て、ロレンツォは息をついた。
「……その話が本当なら、確かに相当狂っているみたいだね。それで君は逃げて来た訳か」
「ええ。見つかったら、きっとまた連れ戻されてしまうわ」
エレナは俯いた。
あのガラス玉のような瞳を思い出すと、ぞっとする。
からっぽなあの瞳は、エレナを映しているのに、何も見ていなかったのだ。
ロレンツォは黙ったまま、外套の内側へ手を入れた。懐から何かを取り出すと、エレナに差し出す。
握られていたのは、金に光る短剣だった。
「念のため、宝物庫から一つだけ持ってきたんだ。これを君に渡しておこう」
エレナは驚き、困ったように男を見た。誰かを手にかけたことなどないし、そんな勇気もなかった。
彼は微笑んで言う。
「殺せという訳じゃない。護身用だ。これは弓と同じ金で出来ている。何が起きたとしても、相手が誰であっても、この剣で身を守ることができる。金の弓は王族しか使うことが許されないが、これは別だ。持っておおき」
エレナはまじまじと短剣を眺めた。
宝石が散りばめられた剣は、美しく金色に輝いている。自分が持つにはふさわしくない気がしたが、今はそんなことを言っている場合ではなかった。
そっと手に取ると、気を引き締めて、腰にくくりつける。
彼はそれを眺めると、静かに言った。
「君は姫君を助けに行ってくれ。僕は弓矢を探さなきゃ」
エレナは思わず男を見た。
「あなたは行かないの? 弓矢はそんなに大切な物?」
「うん、今の彼女には……国を想う姫君には、あれが必要だ」
困惑するエレナに、男は言い募る。
「よく聞くんだ、ここから牢獄へはそう遠くない。目の前の廊下を右に行って、突き当りを左に曲がるんだ。階段があるから、そこを降りれば辿り着く。『魔』が見張っているかもしれないから気をつけて」
さすがは王の情報屋だ。彼の知識なら間違いないだろう。そう思うと、エレナはますます、この男こそ姫の元へ行くべきではないかと思えた。
「やっぱりあなたが行った方がいいわ。姫様もあなたに会いたがっていたもの。なんなら、弓矢はわたしが探す。だから……」
「駄目だよ」
男は笑って言った。
「僕ではなく、君が傍に行くんだ。それが彼女にとって、一番いいことだよ」
エレナはなぜか納得いかなかった。
動けないまま男を見つめていると、不意に不気味な音が聞こえてきた。
人間のものではない、ひたひたとした足音と、腹に響く唸り声。
それもかなりの数だった。うるさい声でさわぎ立てている。
どうやら、さっきの魔物は諦めたのではなく、仲間を呼びに行っていたらしい。
「どこに隠れた!」
「こっちだ、こっち!」
「物陰を片っ端から探せ!」
キアアという叫び声があがる。ギャギャギャ、グエッグエッと言うけたたましい声が響き、廊下は恐ろしいくらい騒々しくなった。
ロレンツォは息を詰めた。
「あの数じゃ隠れても無駄だ。逃げることはできない。――先に場所を変えるべきだったな」
舌打ちでもしそうな勢いだ。エレナは怖くなってロレンツォを見た。
「どうしよう……このままじゃ捕まっちゃう」
考えながら、はっとして言った。
「そう、だ……わたし、ちょっとした魔法が使えるの。倒すことはできないけど、少しだけ時間稼ぎができるかも」
「相手があの数でか?」
彼は怒ったような目でこちらを見た。エレナは口を噤む。
時間稼ぎと言っても、先程はすぐ蔓を切り裂かれてしまったのだ。この数じゃほとんど意味をなさないだろう。
「僕が行こう」
ロレンツォがおもむろに言った。
「君と話していたら、少し勇気が出た。君がいれば、いつかは姫君を助け出せる。さっきは負けてしまったけど、今ならやれる気がするんだ」
剣を抜き放った彼は、何かを反射させるように、しきりに動きを試している。
エレナは息を呑んで彼を見た。
「無茶よ。捕まるかもしれないわ」
「僕は捕まってもなんとかうまくやれる。でも君は、狂った『魔』に閉じ込められてしまうんだ。もう一度捕まれば、今度こそ厳重に守られ、外へも出してもらえないだろう」
エレナの瞳は揺らいだ。
「でも、あなたは捕まっても、生かしてもらえるかも分からないのよ」
彼は聞いているのかいないのか、剣を見つめ、目を細めている。
「うん、やる価値はある」
「魔」の騒ぎ立てる声はもうすぐそこまで来ていた。エレナは離れることもできず、立ち尽くす。
彼は振り返り、いつものように優しく微笑んだ。
「僕は大丈夫」
エレナは唇を噛む。何も言えなかった。
男は、強い瞳で見つめて来た。
「ほら、行って」
怒涛のように押し寄せるわめき声。
唐突にエレナは走り出した。
廊下を曲がり、必死に階段へ向かう。追いかけてくるものはなかった。
後ろの方から甲高く、残酷な叫び声が聞こえてくる。閃く光と、それをはじく音。
背後で何かが光るたび、走るエレナの影も揺れた。
エレナは歯を食いしばって、なんとかその場を離れた。
石造りの螺旋階段はところどころに、灯りが灯っている。
暗い地下へと続くその場所を、エレナは必死に駆け下りていた。
――――振り返ってはだめだ。
自分に言い聞かせながら、白く浮かび上がる石段を、延々と降りていく。
――――ロレンツォは、わたしに姫様を託したんだ。姫様を助けるまでは振り返ってはだめ。
蝋燭が影を落とす中、王女のいる場所を目指し、エレナはひたすら暗闇へと向かった。




