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ハルシュトラールの夜の果て  作者: 星乃晴香
第八章 流れ星が照らすもの
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一寸先は闇



「くそ、この小娘!」

 魔物が噛みつくように叫ぶ。

 捕まったら終わりだ。エレナはぞっとして、必死に足を動かした。走りには自信があるが、怖くてたまらない。

 なんとか距離を取り、曲がり角を曲がった。

 目の前には、まっすぐ伸びた廊下がある。そこから枝分かれするように、更にたくさんの細長い廊下が伸びていた。その先はどれも暗闇だ。

 どこに行けばいいのか見当もつかない。これではシルヴィアを連れていた時と同じだ。捕まってしまう。


 その時、別れ道の一つから腕が伸びてきて、エレナの腕をつかんだ。

 叫ぶ間もなく、強い力で引っ張り込まれる。辺りは陰になっていて、不気味なほど暗い。

「っ……!!」

 突然口を手でふさがれ、エレナは恐怖に襲われた。

 懸命に声を出そうとするも、相手の力は強く、動けないほどエレナを押さえつける。恐怖の中で必死にもがき、抗おうとしていると、低い声がささやくように言った。

「叫ぼうとしないで。落ち着いて。僕だ」

 はっとして抗うのをやめる。相手が力を弱めた隙に振り返ると、暗がりの中に見慣れた顔があった。

「ロレンツォ……」

 ほっとして息をつくと、彼はエレナを引き寄せ、曲がり角の向こうをうかがった。

「静かに。気付かれたかもしれない」

 彼が声を殺して言う。エレナが慌てて口を噤むと、廊下の先から魔物の怒鳴り声が聞こえた。緊張して体が強張ったが、魔物は散々うろついた挙句、どこかへ去って行った。


 しばらくして、ようやくロレンツォが息を吐く。

「……大丈夫。行ったみたいだ」

 エレナは肩の力を抜いて、男を見上げた。優しい瞳がこちらを見ている。

 暖かくてほっとする気持ちが、胸に溢れていく。

「良かった。無事だったのね」

 エレナは彼に抱き着いた。男もエレナを抱きしめる。

 クリスとは違う、家族のような温もりに包まれる。

 ロレンツォはいつもエレナを守ってくれる。彼に会えたのならもう大丈夫だ。

 今までの張り詰めていた心がとけていく。けれど、不意に彼を愛する姫の姿が浮かんだ。


 エレナは顔をあげて尋ねた。

「ロレンツォ、今までどこにいたの? 姫様があなたに見捨てられたと思って、傷ついていたわ。わたしもそう思ってた。どうして来てくれなかったの?」

 彼は悲しそうに微笑んだ。

「僕は一度、彼女を見つけたんだ。――でもあれは……会ったことにはならないね」

 エレナは小さく息を呑む。男はどこかやつれて見えた。

「僕では彼女を救えない。それが分かったよ。でも、せめて彼女の助けになるものを届けようと思って」

「助けになるもの?」

「そう。金の弓矢だ」

 エレナは彼の言いたいことを理解した。

 アシオンは金の弓矢を使って魔物を倒した。シルヴィアがそれを手にすれば、うまく使えるかは別としても、大きな勇気になるはずだ。

 彼女が弓を持っているところを見れば、『(ミッド)』も皆、希望を見出せるかもしれない。

「でも、そんなもの本当にあるの? 式場に運ばれたのは模造品だし、本物は行方知れずって話じゃない」

 見上げれば、ロレンツォは苦笑した。

「本物はもちろんあるよ。代々この王家に伝わっていて、王族しか使うことの許されない物だ。でも、陛下しか場所を知らなかったからね。――宝物庫に行って手当たり次第探したんだけど、見つからなかった。……君、陛下から何か聞いてないか?」

 疲れたように言う彼に、エレナは首を振った。

「わたしは何も聞いてないわ。……金でなく、他の弓矢じゃだめなの?」

 そう言うと、彼は優しく見つめて来た。

「いいかい。『銀』は君が言っていた通り、魔法を反射できる。しかし、中にはそれだけでは倒せない敵もいるんだ。グランディールのように強力な魔力を持つものに、魔法を当てても意味はない。衝撃は与えられるが、その心臓を止めることはできないんだ」

 エレナは黙って彼を見上げた。

「けれど『金』は、あらゆる『(ノヴル)』を倒すことができる。体が魔法で出来ていても、実態がなくても、闇に同化したものでも、『金』なら倒すことができるんだ。過去にアシオンはそうやってグランディールを倒した」

 エレナは目を伏せた。

「いいえ、グランディールは死んでいない。伝説は、彼が死んだと思った人々に書き換えられたのよ」

「グランディールは死んだはずだ。そんなでたらめ、誰から聞いたんだい?」

 エレナはロレンツォを見据えた。

「でたらめじゃないわ。本人から聞いたもの」

 男は目を見開いた。

「君はグランディールに会ったっていうのか? あれは三百年前の人物だぞ」

 エレナは表情も変えず、真剣な目で男を見つめる。

「『(ノヴル)』の中には何百年も生きる者もいるわ。彼は孫を殺された復讐をするために、今日まで生きていたの。あの男は気が狂っているのよ。――彼の命令で、わたしは姫様の命を助ける代わりに、彼の孫になったの。だけど……あんな男のところには、もういられない。あの男は夜が明ける前に『(ミッド)』を皆殺しにして、わたしを王女にすると言っているの」

 エレナは彼を(ののし)っているつもりなのに、なぜか悲しくてたまらなかった。

 グランディールは残酷だが、それでいてどこか可哀想に思えた。


 エレナの顔を見て、ロレンツォは息をついた。

「……その話が本当なら、確かに相当狂っているみたいだね。それで君は逃げて来た訳か」

「ええ。見つかったら、きっとまた連れ戻されてしまうわ」

 エレナは俯いた。

 あのガラス玉のような瞳を思い出すと、ぞっとする。

 からっぽなあの瞳は、エレナを映しているのに、何も見ていなかったのだ。



 ロレンツォは黙ったまま、外套の内側へ手を入れた。懐から何かを取り出すと、エレナに差し出す。

 握られていたのは、金に光る短剣だった。

「念のため、宝物庫から一つだけ持ってきたんだ。これを君に渡しておこう」

 エレナは驚き、困ったように男を見た。誰かを手にかけたことなどないし、そんな勇気もなかった。

 彼は微笑んで言う。

「殺せという訳じゃない。護身用だ。これは弓と同じ金で出来ている。何が起きたとしても、相手が誰であっても、この剣で身を守ることができる。金の弓は王族しか使うことが許されないが、これは別だ。持っておおき」

 エレナはまじまじと短剣を眺めた。

 宝石が散りばめられた剣は、美しく金色に輝いている。自分が持つにはふさわしくない気がしたが、今はそんなことを言っている場合ではなかった。

 そっと手に取ると、気を引き締めて、腰にくくりつける。

 彼はそれを眺めると、静かに言った。

「君は姫君を助けに行ってくれ。僕は弓矢を探さなきゃ」

 エレナは思わず男を見た。

「あなたは行かないの? 弓矢はそんなに大切な物?」

「うん、今の彼女には……国を想う姫君には、あれが必要だ」

 困惑するエレナに、男は言い募る。

「よく聞くんだ、ここから牢獄へはそう遠くない。目の前の廊下を右に行って、突き当りを左に曲がるんだ。階段があるから、そこを降りれば辿り着く。『(ノヴル)』が見張っているかもしれないから気をつけて」

 さすがは王の情報屋だ。彼の知識なら間違いないだろう。そう思うと、エレナはますます、この男こそ姫の元へ行くべきではないかと思えた。

「やっぱりあなたが行った方がいいわ。姫様もあなたに会いたがっていたもの。なんなら、弓矢はわたしが探す。だから……」

「駄目だよ」

 男は笑って言った。

「僕ではなく、君が傍に行くんだ。それが彼女にとって、一番いいことだよ」

 エレナはなぜか納得いかなかった。

 動けないまま男を見つめていると、不意に不気味な音が聞こえてきた。



 人間のものではない、ひたひたとした足音と、腹に響く唸り声。

 それもかなりの数だった。うるさい声でさわぎ立てている。

 どうやら、さっきの魔物は諦めたのではなく、仲間を呼びに行っていたらしい。

「どこに隠れた!」

「こっちだ、こっち!」

「物陰を片っ端から探せ!」

 キアアという叫び声があがる。ギャギャギャ、グエッグエッと言うけたたましい声が響き、廊下は恐ろしいくらい騒々しくなった。

 ロレンツォは息を詰めた。

「あの数じゃ隠れても無駄だ。逃げることはできない。――先に場所を変えるべきだったな」

 舌打ちでもしそうな勢いだ。エレナは怖くなってロレンツォを見た。

「どうしよう……このままじゃ捕まっちゃう」

 考えながら、はっとして言った。

「そう、だ……わたし、ちょっとした魔法が使えるの。倒すことはできないけど、少しだけ時間稼ぎができるかも」

「相手があの数でか?」

 彼は怒ったような目でこちらを見た。エレナは口を(つぐ)む。

 時間稼ぎと言っても、先程はすぐ(つる)を切り裂かれてしまったのだ。この数じゃほとんど意味をなさないだろう。


「僕が行こう」

 ロレンツォがおもむろに言った。

「君と話していたら、少し勇気が出た。君がいれば、いつかは姫君を助け出せる。さっきは負けてしまったけど、今ならやれる気がするんだ」

 剣を抜き放った彼は、何かを反射させるように、しきりに動きを試している。

 エレナは息を呑んで彼を見た。

「無茶よ。捕まるかもしれないわ」

「僕は捕まってもなんとかうまくやれる。でも君は、狂った『(ノヴル)』に閉じ込められてしまうんだ。もう一度捕まれば、今度こそ厳重に守られ、外へも出してもらえないだろう」

 エレナの瞳は揺らいだ。

「でも、あなたは捕まっても、生かしてもらえるかも分からないのよ」

 彼は聞いているのかいないのか、剣を見つめ、目を細めている。

「うん、やる価値はある」

 「(ノヴル)」の騒ぎ立てる声はもうすぐそこまで来ていた。エレナは離れることもできず、立ち尽くす。

 彼は振り返り、いつものように優しく微笑んだ。

「僕は大丈夫」

 エレナは唇を噛む。何も言えなかった。

 男は、強い瞳で見つめて来た。

「ほら、行って」

 怒涛のように押し寄せるわめき声。


 唐突にエレナは走り出した。

 廊下を曲がり、必死に階段へ向かう。追いかけてくるものはなかった。

 後ろの方から甲高く、残酷な叫び声が聞こえてくる。閃く光と、それをはじく音。

 背後で何かが光るたび、走るエレナの影も揺れた。

 エレナは歯を食いしばって、なんとかその場を離れた。






 石造りの螺旋階段はところどころに、灯りが灯っている。

 暗い地下へと続くその場所を、エレナは必死に駆け下りていた。


――――振り返ってはだめだ。


 自分に言い聞かせながら、白く浮かび上がる石段を、延々と降りていく。


――――ロレンツォは、わたしに姫様を託したんだ。姫様を助けるまでは振り返ってはだめ。


 蝋燭が影を落とす中、王女のいる場所を目指し、エレナはひたすら暗闇へと向かった。



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