真夜中の決意
広い部屋に、月の光が差し込んでいる。
一人の少女がその窓を見つめ、佇んでいた。
緑の瞳は決意に満ち、その手には銀の光が宿っている。
エレナはおもむろに手を伸ばした。次の瞬間、大理石の床をつきやぶり、太い蔓が現れる。
一本が伸びると、次々と他の蔓が現れた。
――――行け!!
まっすぐに青々とうねりながら、幾本もの蔓が窓に向かって進んでいく。
ものすごい速さで伸びていくと、ガラスごと窓を突き破った。
ガシャン! とけたたましい音と共に、緑の蔓が外へと伸びる。ガラスの破片がぱらぱらと暗闇に落ちていった。
「……ふぅ」
静かに息をつくと、銀の光を宿したまま窓の傍へ近づいた。
窓から下をのぞき込めば、自分のいる城の壁に、灯りがついたままの窓がいくつか見える。
エレナはその窓の一つに蔓を伸ばした。
緑色の蔓は、葉を広げながらにょきりにょきりと伸びていく。蔓の先が窓の中へしっかり入ったのを見届けて、エレナは息をついた。
蔓を掴むと、恐る恐る足をかけ、窓から身を乗り出した。
空に浮かんでいる月に、体が明るく照らされる。急いで移動しなければ、そのうち敵に見つかってしまうだろう。
怖くない、きっと行ける。そう自分に言い聞かせ、一歩ずつ、丁寧に降りていく。
少しずつだが、エレナは確実に進んで行った。
その時、突然突風が吹いた。
蔓が揺れた拍子に、足が外れる。
心臓が浮くような感覚。
伸ばした手が宙を切る。
――――落ちる!!
ひゅっと喉を鳴らした次の瞬間、落下が途中で止まった。
体が宙に浮いているのだ。
いや、何かが服の背を掴み、持ち上げているらしかった。
ゆっくりと揺れながら、再び蔓の元へと運ぶ。
エレナは急いで腕を伸ばし、ばくばくする心臓を呑みこむようにして蔓を掴むと、なんとか足も乗せた。
その途端、自分を持ち上げていた何かがふっと離れる。
エレナは恐ろしくなり、慌てて蔓に抱き着いた。太い蔓は切れないものの、未だ心臓がどくどくと音を立てる。
「……っ、……はぁっ」
喉がつまって、うまく唾が呑み込めない。
しばらくそうやって留まっていたが、少しずつ落ち着いて来ると、恐る恐る辺りを見回した。
すぐ横で、パタパタと風を切る音がする。
その方向を見て、エレナははっとした。
黒い夜空を背に、真っ赤な瞳が二つ煌めいている。月光に照らされた緑の鱗が、うっすらと輝いて見えた。
竜だ。いつかヴァーグで助けた、小さな子どもの竜だった。
短い距離とは言え、その小さい体でエレナを持ち上げ、運んでくれたのだ。
竜が小さく火を吐くと、牙に引っ掛かっていた服の切れ端がちりっと燃えた。
「あなた……わたしのことを覚えてたの?」
息を吐くように言うと、竜は小さく声をあげた。
何を言っているのかは分からない。でも何が言いたいのかは、何となく分かった。
竜は下の窓を見つめ、もう一度エレナを見つめる。パタパタと翼を動かすと、促すように眼下の蔓へ飛んでいった。
「わ、分かった。……今行くから」
誰かが傍にいるだけで、こんなにも安心するものだとは思わなかった。
まだ恐怖は残っているし、気を緩めてはならないと分かっているが、少なからずほっとしたのだ。
大丈夫。
怖さの中に、小さな勇気が湧いて来る。それはどう考えても、この竜がいてくれるからだった。
エレナは一つ息を吐いた。
蔓に捕まったままそっと空を見ると、黒い闇夜に満月が浮かんでいる。
ふと、黒髪の少年が思い出された。
大好きなクリス。その鳶色の瞳を、いつしか無理矢理考えないようにしていた。
彼は来ない。そう分かっているからこそ、思い浮かべないようにしている自分がいた。
――――クリス、今どこにいるの。
もう会えないのかもしれないが、せめて無事でいてほしい。
彼が自分を憎んでいても、その間覚えていてくれるなら、それで構わないと思った。彼に忘れられること、それこそが最も恐ろしいことだった。
食い入るように満月を見ていると、金の光はいよいよ輝きを増すように見えた。その優しさと美しさに、もう一人の大切な人を思い出す。
夜空に伸びる金の光は揺れる長い髪のようだ。
シルヴィアは、今も無事だろうか。
彼女は牢獄に連れて行かれたのだ。今も傷ついて泣いているのではないか。
そう思うと、いてもたってもいられなくなった。
ここに来てくれた竜のように、クリスやシルヴィアの傍に行きたい。そうすれば少しは、彼らの力になれるかもしれない。
「ぐりゅ?」
竜が小さく鳴き、二つの赤い眼でこちらを見た。
こんな所にいる場合ではない。
自分にできることは、グランディールの手から出ることだ。そのためにも、今は一歩ずつ進んで行かなければならない。
例え少しずつでも。確実に。
いつしか固まっていた体は動くようになり、その目はしっかりと蔓の入った窓を捕えた。時折風で蔓が揺れるが、一度立ち止まり歯を食いしばって、再びそろそろと進んで行く。
長く見えた道のりも終わりの方まで近づき、エレナは緊張を保ったまま丁寧に降り続けた。
遠かった窓がすぐそこに見えると、一層気を付けて足を伸ばす。静かに蔓を伝い、窓の中に飛び降りた。
そこは、廊下だった。
灯りのついたままの廊下は、両側へまっすぐ伸びている。
竜がぱたぱたとエレナの傍に飛んできた。
「右と左、どっちに行けばいいか分かる?」
思わず尋ねて見たが、竜は場違いな唸り声をあげるだけだ。
仕方なしに左へ歩くと、さっそく向こうから足音が聞こえて来た。エレナはどきりとして、慌てて踵を返す。
しかし、何かが鋭い声で叫んだ。
「『人』! まだ残っていたのか!」
一匹の魔物が目をぎらつかせ、こちらへ向かって走って来る。
エレナは急いで駈け出したが、走っているうちに、耳元で鳴っていた羽音がいつの間にか消えているのに気づいた。
代わりに聞こえたのは、くぐもった叫び声。
「ぐぎゃう!」
はっとして振り返れば、魔物が小さな竜をわしづかみにしていた。
竜は体をよじって暴れているが、緑の鱗を鋭い爪にしっかり押さえられている。痛そうだ。
エレナは息を切らして立ち止まった。
「その子を離して」
黒い魔物はギヒヒッと気味の悪い声をあげた。にたりと笑いながら、竜を押さえつける。
「こいつは渡さん。『人』を庇うなら、裏切り者だ。牢へぶちこまなきゃならんからな」
竜が唸り声をあげ、真っ赤な口から火を吐いた。
しかし、魔物は「あちっ」と声をあげただけだ。
「お前、そんな火で俺を倒せると思ったのか?」
そう言いながらもよほど熱かったらしく、怒ったように竜を締め上げる。竜はきいきい声をあげ、手足をばたつかせるが、もう火を吐くことも叶わなかった。
「やめて! わたしを助けたからって、その子は裏切り者にはならないわ」
エレナは胸が締め付けられ、竜を食い入るように見つめた。
「わたしは『人』でもあるけど、『魔』の血も流れているもの」
「何言ってんだ。やっぱり人間は嘘が好きなんだな」
魔物が馬鹿にしたような声をあげる。エレナは目を鋭くさせた。
自分だって、リューシルに聞いた時は信じられなかったのだ。父は魔法使いで母は妖精だと言われても、現実味がないし、実感すら湧かない。
信じられないのは当然だ。彼らはエレナが物心つく前に、グランディールに殺されたのだから。
両親は裏切り者と呼ばれた。その血を引く自分が、同じ道を辿るのではないかと、密かに恐ろしくなる。
竜が苦しそうに声をあげた。真紅の瞳が、助けを求めるように時折光る。
「……結局あなた達は『人』でも『魔』でも、簡単に裏切り者と決めつけるんでしょ?」
エレナは魔物を見据えて言った。
「グランディールもあなたも、わたしの敵だわ」
次の瞬間、魔物の足下から蔓が飛び出した。
「ぐあっ」
瞬く間に黒い腕を縛り、締め上げる。
「こいつ!」
その手が緩んだ瞬間に、竜が飛び出した。翼をばたつかせ、エレナの傍へやって来る。
エレナは微笑んだが、それも束の間だった。
魔物が蔓を噛みちぎり、自由になった手で切り裂いたのだ。エレナは慌てて次の蔓を出したが、それもすぐに破られてしまった。
「お前は確かに『魔』だ。だが『人』より性質が悪い」
爛々(らんらん)と目を光らせ、魔物は唸った。
「お前も竜も、裏切り者だ!!」
その言葉が、胸に鋭く突き刺さる。シルヴィアの凍るような瞳が蘇った。
「お前らは牢屋行きだ! どこへ行っても無駄だぞ!」
魔物は蔓を切り裂き、まっすぐこちらへ走って来る。あの爪に引き裂かれたら、ひとたまりもないだろう。
エレナは駆け出し、竜に叫んだ。
「逃げて!」
真紅の瞳、緑の鱗。竜はそれを煌めかせ、じっとエレナを見つめて来た。まるで困惑しているようだった。
「くそ! 飛べなくしてやろうか!!」
恐ろしい唸り声が追いかけて来る。エレナは竜を見上げ、かぶりを振った。
「早く逃げて! あなたには助けられたわ。だから今度は、わたしの番よ」
竜は小さく唸った。そのまま翼をはためかせていたが、やがて小さく火を吐いた。
そうして壊れた窓の一つから、風を切って飛んで行ってしまった。
エレナはそれを見届けると、再び前を見据え、一層強く地を蹴った。
ひび割れた廊下が続いている。
道は遠く、夜は長い。




