窓の外は満月
「どこに逃げたの!? 出て来なさい!」
甲高い声が、城の堅牢な廊下に響く。
シルヴィアは頬に汗を垂らし、物陰に隠れて様子を伺った。
胸を上下させ、声を殺して赤毛の魔物を見つめる。
「早く出て来なさいよ! 隠れたって無駄よ!」
瞳を吊り上げ、鋭く辺りを見回す魔物。
牢獄へ連れて行かれる途中、シルヴィアはラズールから逃げたのだ。
隙を見計らい、なんとかこうして隠れたものの、体が震えてしょうがなかった。
ラズールは怒りを露わにして、きょろきょろと周囲を探っている。
「何なのあの王女! あたしから逃げられるとでも思ってる訳!」
ごうごうと赤毛が燃え上がる。
「余計な手間をかけさせて! ああ、ご主人に怒られちゃう!」
叫びながら、近くにはいないと考えたらしく、別の廊下へと飛んでいった。
「ふぅ……」
シルヴィアは深く息を吐いた。こうしている暇はないのだ。一刻も早く、ラズールと距離を取らなければ。
城の中は危険だ。しかし、身を隠せる場所なら幾つか知っている。そこに行って、様子を伺いながら隠れていようと思った。
喉を鳴らし、息を切らして廊下を進む。張り詰めた空気と迫りくる恐怖に、心臓がねじれるようだった。
城は死角がたくさんある。逆に言えば、魔物がどこから顔を出してもおかしくなかった。
見つかったら最後、どんな仕打ちが待っているか分からない。
怖い。あまりに怖くて、泣き出したくなる。
けれど自分は王女だ。いつかは女王になり、この国を取り戻す。
一度は城を捨てようとしたけれど、今は違う。倒れた騎士達の言葉を聞いて、決心したのだ。
ここから逃げてはいけない。
私がいなければ、この国は滅んでしまう。
人々には希望が必要なのだ。アシオンの子孫という、たった一つの希望が。
もしこの国が滅びるならば、自分も共にあるべきだと思った。
不意に、腕がぐいと引かれた。
「ひっ」と声をあげてしまう。
振り向けば、見慣れた、けれど嫌いな顔があった。
レヴィが小動物のような目を細め、口の端をあげる。
「やっと見つけた。お美しい王女様。……どこに行くおつもりで?」
まるで獲物を見るような瞳だ。
シルヴィアは恐ろしくなったが、必死に相手を見返した。
「黒の王の手下に追われているの。……あなたこそなぜ騎士達の所にいないの!? 副団長なら、傍についているべきでしょう?」
「これは負け戦だ、勝てる見込みなどありません。そうだと分かって戦うなんて、俺は遠慮したいんですよ。――大体あいつらは、俺を必要としていない」
言いながら、レヴィは目を鋭くさせた。
「でも俺には、あんたが必要だ」
野望と、欲望の混じった瞳。
シルヴィアの肩が僅かに震える。
「『魔』の連中は馬鹿だ。城を手に入れれば、きっと気を抜くだろう。そこを闇討ちすればいいだけだ。――王女様、俺のものになって下さい。そうすれば、あんたを守ってやれるし、この国を取り戻せる」
「……離して」
声が震える。腕を引っ張ったが、びくともしない。
「よく考えた方が良い。あんた一人では無理です。でも俺なら、王位を取り戻せる」
レヴィが当然のごとく言う。
その目は、シルヴィアを通り過ぎ、彼女の持つ地位を見つめていた。
「あなたが王になるですって? 馬鹿げてるわ! 部下を見捨てるあなたに、何が出来るって言うの!?」
「魔物達は頭が足りない。隙を突くことならいくらでもできます。さあ、俺と一緒に」
レヴィが肩を掴む。恐怖にかられ、シルヴィアは必死に身をよじった。
「離しなさい! この無礼者!」
この間にも、ラズールが自分を探しているのだ。
目の前に迫る、レヴィの瞳。
それは獲物を狩るような、嗜虐にさえ満ちていた。
「離して! 誰かぁ!」
レヴィの目が細められる。
「少し静かにしてください」
言うなり、肩を掴んでいた手を離し、拳を作った。
シルヴィアは目を見開く。
恐怖に息ができない。
衝撃が走り、視界は真っ暗になった。
「へっ、うるさい小娘だ」
レヴィはシルヴィアを持ち直し、廊下の向こうにある階段を見た。
うまく「魔」に会わずにいけば、この王女を自分の物にできるはずだ。
魔物は力が強いが、頭が弱い者が多い。まともに張り合わず、うまく騙して隙を作ればいいのだ。
レヴィは思わず笑みを浮かべ、王女を見た。
気が強い小娘だが、美しいことは確かだ。
知り合いは少ないそうだから、優しい言葉をかければ、落とすのは簡単だろう。うまくいった暁には、彼女と玉座を手に入れる。
そっとその頬に触れれば、王女は僅かに身じろぎした。
長い金髪は流れるようだ。睫は伏せられ、憂いを帯びている。柔らそうな唇は血の気を失い、それでもなお美しかった。
これは、俺の物だ。
笑みを浮かべた瞬間だった。
頭に酷い衝撃が走る。
意識が飛び散り、何もかも遠ざかって行った。
崩れ落ちるレヴィの横で、一人の男が咄嗟に王女を受け止めた。
「肝が冷えました。城中探したんですよ」
なんとか抱えると、ロレンツォはシルヴィアの顔を覗き込んだ。
「お可哀想に。さぞ怖い思いをなさったでしょう」
王女は答えない。目を閉じたままだ。
「……姫君、」
細い腕から伝わる体温は、恐怖のせいか、死人のように冷たかった。
不意に、男の顔がくしゃりと歪んだ。
「姫君、姫君、姫君、」
呟いて、抱きしめる腕に力を込めた。
「僕がいけなかった。あなたの望みを聞いて、どこへでも連れて行ってあげれば良かったんだ」
顔を離し、再び王女を見つめると、想いを零すように続ける。
「この国はあなたを傷つけてばかりだ。あなたが望むなら今度こそ、どこへだってお連れします」
溢れそうな叫びを堪え、噛みしめるように言った。
「僕と一緒に行きましょう。ここに残るには、あなたは優しすぎたんだ」
不意に、シルヴィアの唇が震えた。
「……にぃ……さま……」
寝言だろうか。
ロレンツォはハッとして耳を澄ました。
「わ、たし…………みんな……まもる、から……」
それきり、聞こえなくなった。
シルヴィアは再び夢の世界に戻り、安らかな寝息を立て始める。
その寝顔は、どこか幸せそうだった。
ロレンツォは動けなかった。
なんの言葉も出て来ない。
食い入るように王女を見つめ、呆然とその場に立ち尽くした。
「見つけた! やっと見つけたわ!」
突然、甲高い声が叫んだ。
はっとして振り仰げば、頭上に赤毛の少女が浮かんでいた。
大きな瞳が笑う。
ロレンツォは睨み返し、抱きしめる腕に力を込めた。
ラズールは楽しそうに微笑み、片手に銀の光を宿す。
「その王女を渡しなさい。そうしたら、魔法はやめてあげるわ」
「嫌だ」
ロレンツォは思わず剣を抜こうとした。
しかし、両手はふさがっている。
「馬鹿ね!!」
きゃははっ、と笑い声が降って来る。
はっと顔をあげた瞬間には、視界が銀に染まった。
「っ……!」
激しい突風に、体ごと吹き飛ばされる。
抱きしめていたはずの王女は、衝撃で地に転がった。
「姫君!」
手が届くよりも早く、ラズールが姫を持ち上げる。
どこにそんな力があるのだろう。小さな赤毛の魔物は、荷物でも持ち運ぶように、軽々とシルヴィアを抱きあげ、宙に浮かんだ。
「残念でした」
楽しそうに笑うと、馬鹿にしたように男を見下ろす。
「アシオンの子孫は、黒の王のものよ。連れて行かないと、あたしだって怒られちゃうんだから!」
言いながらけらけらと笑った。その姿が砂嵐に包まれていく。
「待て!!」
男は思わず叫んでいた。
「待ってくれ! 僕と、取引をしよう!」
必死に声をあげ、ラズールを見上げる。
不意に砂嵐が止んだ。
王女を抱いた魔物は、訝しむようにこちらを見下ろした。
「取引? 『人』はろくな事を考えてないってご主人が言ってたわ。あんたもどうせ騙すんでしょう」
「僕は嘘をつかない」
シルヴィアを救えるかもしれない。
そう思っただけで、男の顔には笑みが浮かんだ。
「姫君を離してくれ。彼女を自由にしてくれれば、代わりに僕が、君達の物になる」
ラズールが片眉をあげる。
「そんな事をして、あたし達に何の得があるのよ」
「君たちの言う事を何でも聞く。僕は剣が使えるんだ。君の主人の言う人殺しにも、向いているだろう」
ラズールがふんと鼻を鳴らした。
「どうかしら? あんたはどうせ逃げ出すんじゃないの?」
「逃げ出したりしない。命令は何でも聞く、本当さ。これでも腕はいい方だ。一人で十人分働くよ」
微笑んで言ったが、ラズールは王女を持ち直した。
「残念だけど、腕のいい殺し屋ならいるのよね」
馬鹿にしたように男を見下ろす。彼の顔からは、既に笑みが消えていた。
「それに、あんたは自分が王女の代わりになれるとでも思っている訳? アシオンの子孫とあんたじゃ、全然価値が違うじゃない!」
男は魔物を食い入るように見つめた。そして、眠ったままの王女も。
ラズールは目を細めた。
「そういう事! あんたには何の価値もない! 他の『人』と同じように、その辺に転がっていればいいのよ!!」
ロレンツォは目を見開く。
不意に視界が銀に光った。素早く剣を抜いたが、はっとして構えるのをやめた。
跳ね返せば、シルヴィアに当たってしまう。
次の瞬間吹き飛ばされ、光が体を貫いた。
「……っ」
地に転がり、なんとか立ち上がる。
痛みに目を細めれば、ラズールが笑った。
「邪魔をするだけ無駄よ。剣で攻撃しても、この女に当たるもの」
その言葉に、反撃もできなかった。
「なぜ姫君を連れて行くんだ、彼女が君に何かしたか?」
「ご主人が捕えろと言ったのよ。他に理由なんてないわ」
くっくと笑い、ラズールは男を見つめた。
「この女はご主人の物よ。さよなら、ちっぽけな『人』」
「待て!」
砂嵐が渦巻く。それは銀色に光り、みるみる魔物と王女を包み込んだ。
「やめろ! くそ!!」
構えた剣は意味をなさない。
激しさを増す突風に駆け寄り、男は掠れる声で叫んだ。
「姫君!!」
砂嵐は、空気を揺らして掻き消えた。
後には砂の粒が散らばり、静けさに包まれる。
ロレンツォは呆然と宙を眺めた。
ラズールの甲高い声が、耳に焼き付いている。
――――あんたは自分が、王女の代わりにでもなれると思っている訳?
――――アシオンの子孫とあんたじゃ、全然価値が違うじゃない!
酷い喪失感と絶望が、男を打ちのめしていた。
いくつか傷ができていたが、その痛みも忘れていた。
――――結局僕は、ちっぽけな平民でしかなかったんだ。
それは、ラズールの言葉だけでなく、シルヴィアの言葉からも、はっきりと理解できてしまった。
シルヴィアは「守る」と言ったのだ。
彼女は既に決意している。
この国を見捨てず、残って民を守ることを。
どんなに無力か知っていても、彼女はそうと決めたのだ。
それなのに、自分は彼女に何と言った。
国を捨てて、一緒に逃げようと。
――――なんて馬鹿なことを言ったんだろう。
今思えば、自分の浅はかさが分かる。
もともと彼女と自分とでは、生きる場所も、その意味も違うのだ。
傷つけられても国を愛するシルヴィアは、とても美しいと思えた。
何よりも尊く、だからこそ離れられなかった。
いっそのこと連れ去ってしまいたいと、何度思ったことだろう。それを口にしてしまった、愚かな自分。
これではレヴィと、何も変わりないではないか。
今、彼女との立場の違いが、はっきりと分かった。
手を伸ばしてはいけなかったのだ。
シルヴィアの想いはとうに知っていた。けれど、怖かったのだ。
彼女の想いは深い。それに応えたら、自分は焼き尽くされてしまうだろう。
ひとたび足を踏み入れれば、きっとすべてを台無しにしてしまう。この想いを認めたら最後、何もかも終わってしまう気がしたのだ。
真っ白で、国を愛する王女。
彼女はそうであるべきだ。
いずれ女王になり、ハルシュトラールを守っていくのだから。
自分と一緒になれば、彼女は幸せになれない。密かにそう確信した。
それでも、今は傍に行かなければならない。彼女は攫われてしまったのだ。隣に立つことができなくても、力になることならできる。
――――彼女を探そう。
――――せめて役に立つように、金の武器を届けよう。
アシオンの子孫。
たった一人の王女。
薔薇色だった彼女の頬は、恐怖のせいか、青ざめていた。
彼女を手に入れることなど、もう諦めている。
けれど、自分の出来るすべてを以て、力になりたいと思えた。
男は一つ息を吐くと、静かに剣をしまい、歩き始めた。
見据えた先には、長い廊下が広がっている。
彼の瞳からは一切の感情が消え、その表情はいつもと同じに戻っていた。
*
夜が深くなるにつれ、闇は濃くなる。
エレナは広い部屋に佇み、大きな窓から外を見ていた。
幾度か部屋を出ようとしたのだ。
しかし窓も扉も、鍵ではなく魔法がかけられ、エレナの力では開くことができなかった。この暗い部屋では、時間がどれくらい経ったのかも分からない。
せめて朝が来れば、もう少し希望が見える気がするが、外はいつまでも暗く、夜が明ける気配はなかった。
グランディールが行ってから、随分経った気がする。
エレナは時折彼の言葉を思い出し、その度に心臓が凍りそうな気分になった。
――――もう「魔」が迫害されることもない。「人」は皆、この地からいなくなるのだから。
あの目は、どこか夢見るようで、それでも決意に満ちていた。
――――彼らを一人残さず殺してしまえば、復讐なんて起こらない。何も恐れることはないんだ。
確信に満ちた声でそう言って、老人は去って行ったのだ。
何を言っても彼を止めることはできなかった。それでも、他にやりようがあったのではないかと、エレナは思う。彼を引き留めるためなら、きっとなんでもできたはずだ。それなのに、行かせてしまった。
エレナは激しく後悔していた。
時折町に銀の光が降り注ぐたび、苦しくて、申し訳なくて、胸が潰されるようだった。
なんとか止める方法はないのか。
なんど押しても引いても、開かなかった窓を見る。
今も頭は混乱しているが、ずっとこうして、何もできずに見ているのは嫌だった。窓も扉も魔法がかかっているが、何か方法があるはずだ。
その時、エレナは一つの考えを思いついた。
「いい子にしているもんですか」
小さく呟いて、窓の向こうを見つめた。
月はもう、空の真ん中まで昇っていた。




