英雄の不在
日が落ちた空に、薄闇が溶けるように塗り重なっている。
窓の向こうでは、訪れたばかりの夜が、町を覆うようにその腕を伸ばしていた。
がらんとした玉座の間は、ひたすら静寂に満ちている。
黙って様子を見ていたグランディールが、静かに傍へやって来た。
「エレナ。あんな王女のことは忘れるがいい。顔をあげて」
エレナは言われた通り顔をあげた。そうして、思い切り男を睨んだ。
濡れた瞳を見て、グランディールは眉を潜める。
「そんな目をする必要はない。辛いことももうすぐなくなる。お前はこの国の王女となるのだ」
エレナは黙ったまま、何も言えなかった。シルヴィアの恐ろしい瞳が、脳裏に焼き付いている。このまま自分が王女になったら、彼女は――自分は、どうなってしまうのだろう。
男はエレナの心も知らず、手の中の煌めく王冠を嬉しそうに見つめた。その目は優しく細められ、魔物でもなんでもない、ただの老人のようだった。
「ほら、見るがいい。お前がくれた王冠だ。もう憎いアシオンも、その子孫も王ではない。私が彼らの国を建て直し、この世界を争いのない場所にするのだ」
「争いのない場所?」
この男は何を言っているのだろう。
これだけ人を殺し、傷つけておいて、平和な国を作ると言うのか。
意味が分からず彼の目を見れば、老人は至極幸せそうに頷いた。
「そうだ。もう『魔』が迫害されることもない。『人』は皆、この地からいなくなるのだから」
老人の目はこちらを見ているはずなのに、どこか遠くを見ていた。
その瞳には夢と希望が溢れていて、エレナはぞっとする。
道理も倫理も、彼の前では意味を成さない。感情に支配された魔物は、馬鹿げた夢を正しいと信じ込んでいる。
この男は、本気なのだ。
「見ているがいい。今にここはこの世で一番幸せな国になる。花が咲き乱れ、鳥が歌い、争いの起こらない平穏な世界」
「――そんなの……変よ。『人』はどうするの? 『人』を殺せば、世界が平和になるって本気で思っているの?」
湧き上げる恐怖を押さえつけ、懸命に言い返した。
この老人をなんとか正気に戻して、やめさせなければ。
それができるのは、きっとエレナだけだ。
「それはあなたがされたことと同じよ。アシオンが『魔』を迫害して、あなたは彼の子孫に復讐してる。それなら、あなたが『人』を殺せば、生き残った彼らが、また年月を重ねて復讐しにくるわ」
「大丈夫だよ、エレナ」
老人は優しい目をして言った。
「彼らを一人残さず殺してしまえば、復讐なんて起こらない。何も恐れることはないんだ」
恐怖は今や、エレナの全身を包み、心臓をじわじわと侵食していた。
「目を覚ましてよ。アシオンはあなた達を根絶やしにしなかったでしょ。それなのに、どうして『人』を一人残さず殺そうとするの? あなた達にその権利があると思う?」
一つ一つ言葉を選びながら、声を振り絞って言い返した。
それでも老人の目には決意が満ちていた。
「権利などという問題ではないのだ。あいつは私の大切な家族を殺した。それを悪いとも思わなかった。それだけで理由になるとは思わんかね?」
老人は優しく目を細める。
「『人』が受けるべき罰を、私が与えてやるだけだ。すべてが終われば、永久の平穏が訪れる。魔法を隠す必要だってない。怯えることもなく、もう自由に生きられるんだ。お前は王女となり、いつまでも幸せに暮らすんだよ」
エレナは穴が空くほど老人を見つめた。彼は至極真面目に話している。ガラス玉の瞳はエレナを見つめ、そこに別の何かを見出しているのだ。
「そんな顔をするんじゃない。夜が明けるまでの辛抱だ。この戦いが終われば、好きなところへ連れて行ってあげよう」
「それじゃあ……姫様の元へ行かせて」
掠れた声で頼めば、老人は不思議そうに言った。
「エレナ、わざわざ危険なところへ行くものではないよ」
「姫様は危険じゃない。私を傷つけたりしないわ」
彼は心配そうに眉を寄せた。
「だが、お前は裏切り者と呼ばれていたじゃないか。彼女はアシオンの子孫であり、『魔』を嫌っている。お前を憎んでいるんだぞ」
エレナは喉を鳴らした。唐突に涙があふれる。
老人は目を見開いた。
「おお、可哀想に」
エレナはぽろぽろと涙を流した。もう止まらなかった。
老人はいたわるように、優しくエレナを抱き寄せる。
「お前はあの王女にも嫌われてしまったんだね。大丈夫だよ。私はいつまでも、お前の家族だ。お前を守って、傍にいてあげる」
エレナはしゃくりあげながら、どうすることもできず、老人の腕の中で泣き続けた。
その腕は本当の家族のように温かく、それが余計に悲しかった。
老人はしばらくそうしていたが、エレナが泣き止むのを待って、小さな肩に皺だらけの手を置いた。それはずっしりと重い感触だった。
「さあ、顔をあげて。……本当はずっと傍にいてやりたいが、私もそろそろ行かねばならないからね」
老人は名残惜しそうに言うと、体を離した。エレナははっとして、彼のローブを掴む。
「どこへ行くの? こ、ここにいて」
老人がやろうとすることを思うと、恐怖で身が強張った。彼はゆっくりと言う。
「ちょっと町へ行ってくるだけさ。良い子にして待っておいで」
エレナは濡れた瞳を揺らした。彼にしがみつき、すがるようにしてその目を見た。
「誰も殺さないで。あなただって、苦しいでしょ? もうやめてよ」
彼は振り返ると、ゆっくりと微笑んだ。
「心配しなくても大丈夫だよ。もう慣れてしまったから」
エレナが息を呑んだ瞬間、彼はゆらりと歪んで、闇に溶けた。
目の前の影は消え、エレナは広い部屋で一人、立ち竦んだ。
「お、じいさん」
ローブを掴んでいた手には、何も残っていない。
エレナはその場にしゃがみ込むと、宙を見つめた。
*
町はひどい騒ぎだった。
城の方で暴れていた「魔」達が、町へ降りてきていたのだ。人々は店を閉めたり、扉を急いで補強したりしたが、それは何の意味もなさなかった。
それほど、「魔」は激しく暴れたのだ。
彼らはアシオンに迫害された三百年前から人里を離れ、闇に潜んで生きてきた。
この地を奪う機会を待ち続け、ようやく声を掛けて来たグランディールに、喜んでついて行ったのだ。
そのうちの何十匹かは、人間への憎しみや復讐心があり、それらは今、すべてを破壊尽くす衝動として放たれていた。
「魔」達は町を、畑を、瞬く間に破壊していった。
職人たちは長年作り上げて来た商品を噛みちぎられ、農民は懸命に育ててきた畑を食い荒らされた。
家々の窓ガラスは割れ、扉は壊されていく。
あたりでは赤子の泣き声が響き渡り、彼らを抱きしめたまま家の奥で縮こまる母親の姿があった。
幾人かは鋤や鍬をかかげ、勇猛果敢に抗った。
それでも、銀の魔法の前にはひれ伏すことしかできない。
結局人々は泣き叫び、逃げ惑う事しかできなかった。
一人の男が広場に逃げ、アシオンの像にしがみつく。石像のアシオンは長い髪をなびかせ、弓を引いて雄々しく立っていた。
銀の光と共に、その首が吹き飛ばされる。
男は呆然と目を見開き、悲鳴をあげてそこから離れた。
「アシオンの子孫は何をしているんだ!」
靴屋の主人がぼろぼろになった扉から顔を出した。
「ジェローム様は亡くなったが、今日は戴冠式のはずだろう。」
「そうだよ! 王女様が即位なさるはずだ!」
向かいの家の女も、道の真ん中でわめき立てた。
その目の前にはぴょんぴょん飛び回る小さな「魔」がいる。彼女はそれを踏みつけようと躍起になっているところだった。
「三百年前のときみたいに、金の弓でやっつけてくれないのかねえ!」
「無駄だよ」
突然剣が振り下ろされ、飛び跳ねていた「魔」は一瞬で息絶えた。
女は顔をあげて、息を呑む。
「サイラス!」
それは、王宮騎士団の一人である、若い青年だった。
傷だらけの騎士は、血の付いた剣をぬぐう。
「ああ、まあ、あんた、城につかえてるんじゃなかったのかい?」
「おばさん達が心配で、帰っちゃったんだ」
彼はそばかすだらけの顔で、弱々しく笑った。
靴屋の主人が怒ったような声をあげる。
「何言ってるんだお前は! 王に仕えている者が、王を守らないでどうする!!」
「王なんて、いないんだ」
サイラスは静かに言った。
「アシオンの子孫は、もういない」
靴屋の主人と、女は顔をみあわせる。
女が恐る恐る尋ねた。
「いないって、まさか死んだのかい?」
「死んじゃいないさ。だけど、靴屋のダドリー、あんたの息子から聞いたんだ」
唐突に名を呼ばれ、靴屋の主人はハッとサイラスを見た。
「ふ、フレッドか? あいつは今無事か?」
「彼は死んだよ。俺はあいつに言われてここに来たんだ」
靴屋の主人は目を見開いた。
しばらく何も言えずに佇んでいたが、やっとのことで喉から声を絞り出した。
「あいつが、死んだ? ……死んだっていうのか?」
サイラスは目を伏せて言う。
「死んだよ。俺はその死に際に会ったんだ。フレッドは王女がこの国を捨てようとしたのを見たそうだ。彼女は追い詰められて再び城へ戻ったけど、もうアシオンの子孫じゃない。俺たちを捨てようとした、腰抜けだって言ってた。英雄を信じて待っていれば、国は亡びる。だけどせめて、城を捨ててでも町を、父を守ってくれって」
「そんな……」
主人の瞳は悲しみに濡れる。それは少しずつ絶望に染まっていった。
女も俯き、深く長い息を吐いた。
サイラスは静かに続ける。
「英雄が現れるのを待っていちゃだめだ。何とかして、皆で戦うか、ここから逃げるんだよ。フレッドがそう望んだんだ」
女は息をついた。
「……王女は国を捨てようとした――あたし達を裏切ったんだね」
主人が静かに顔をあげる。その瞳は悲しみや絶望だけではない。憎しみに染まっていた。
「フレッドはそんな奴のために戦い、死んだのか……」
その目は鋭く細められた。
「そんな王女なんて、いなければよかったのに」
「その通りだ」
周りで様子を伺っていた人々が言った。
「アシオンの子孫がいないなら、この国は終わりだ」
少しずつ扉から出てくると、それぞれ声をあげた。
「俺たちだけで戦おう」
「そうするしかない」
彼らは互いに頷いた。
「もう王女なんて信じない」
その時、向こうから、一つの影が走って来た。
人々はぎょっとしたが、それが人の形をしていることに安堵する。
息を切らしてやってきたのは、黒髪に鳶色の瞳をした少年だった。
「逃げるんだ!」
少年は叫んだ。
「黒の王がやってくる! 早く、逃げて!」
人々は顔を見合わせ、次に少年を見た。
「黒の王?」
「お前は逃げないのか?」
少年は泣きそうな顔で叫んだ。
「いいから早く!! どっかへ行ってくれ!!」
その時、銀の光が空から降って来た。
辺りを照らしながら降り注ぎ、家々の屋根を突き破る。轟音を立てて窓は吹き飛び、壁は無残に撃ち砕かれた。
光に見とれていた一人の女が、胸を貫かれ、崩れ落ちる。
寄り添った別の男も、その場に倒れて動かなくなった。
「あ、あ、あ、」
少年はうめき声とも泣き声とも分からない声を出した。
その上に、黒い影が落ちる。
「何をしている」
少年は宙に浮いた男を見上げ、叫ぶように言った。
「黒の王! あんまりです! こんなの、こんなこと!!」
グランディールは笑い声をあげ、残酷な瞳で少年を見た。
「何を今更! お前は『人』をたくさん殺してきただろう!」
「ええ、そうです……! でも全て、あなたが憎む理由を持っていた人たちだ……だから何とか、殺ることができた! だけどこの人たちは、何の罪もない!!」
「幾つもの命を奪って来たお前に、誰かを殺す理由が必要だったか?」
少年は息を呑んだ。
「お前にそんなものを求める資格はないだろう。それでも理由が欲しいなら、与えてやろう」
グランディールは残忍に笑った。その瞳は冷たく、まるで心すらなくしてしまったかのようだった。
「我々は『人』に迫害されてきた。だから、『人』であること、それこそが罪だ」
少年は目を見開いた。
「まさか、すべて殺せと……?」
「そうだ。何を迷うことがある。今まで通りにやればいいのだ」
その言葉通り、少年は今まで男に盾突いたことはなかった。
必死に表情を押し込め、心を殺して、うまくやって来たのだ。
それでも少年は、男を見上げて叫んだ。
そうでもしなければ、そろそろ心が壊れてしまうと思ったからだ。
「正気になって下さい! あなたは憎しみに呑まれているだけだ! こんなの間違ってる!」
「黙れ! お前がぐずぐずしている間に町の者達は逃げてしまったじゃないか!」
少年がはっとして辺りを見回せば、人の気配はもうなかった。彼がグランディールと話している間、人々は助け合って逃げたのだ。
少年は思わず微笑んだ。
「たわけ!」
銀の光が少年を直撃した。
吹き飛ばされた体は、光もろとも崩れた壁にあたり、うめき声をあげて転がった。倒れたまま目をあければ、重なり合った瓦礫のかけらが見えた。
全身は痛くてたまらないのに、心臓はきちんと動いている。
少年は小さく息をついた。
「魔」は魔法の力で死ぬこともある。だが、少年は別だった。
グランディール同様、生まれつき強い魔力を持っていた彼に、銀の光は意味をなさない。痛めつけ、苦しめることはしても、心臓を止めることはないのだ。
黒の王や少年を殺せるのは、伝説の弓のように、黄金でできた物だけだった。
「死ねなくて、残念だったな」
嘲笑うように言うと、グランディールは再び少年に手をかざした。
「さあ、行くがいい。行って、奴らを全員殺せ」
銀に光る掌を、少年は転がったまま見上げた。遥か上空で、それは幻のように光っていた。
「あなたに新しい孫ができたと聞きましたが、その方はそれを望んだのですか?」
グランディールは、見下したまま睨みつける。
「あの子は望まなかった。だが怖がっているだけだ。何も知らない、弱くて優しい子だからな」
少年は微笑んだ。
「それでは俺も、望みません」
グランディールは目を剥いた。それは驚いたからと言うよりは、あまりの怒りにそうせずにいられなかったためだった。二つの瞳はまっすぐに少年を睨み、見た者を凍り付かせるような恐ろしさを持っていた。
町に銀の光が降り注ぐ。
遠くから見ていた人々は声をあげた。
「あそこ、靴屋だぜ」
「ダドリー、良かったな、逃げられて」
「だけど靴屋にはもう誰もいないでしょう? どうしてあそこばかり狙ってるのかしらね?」
女の言葉に、靴屋の主人は小さく微笑む。
「私の作った靴が、あまりにきれいなもんで、履けない奴らが腹を立てたのさ」
それを聞いて、人々は小さく笑い合った。
サイラスは、微笑んだ主人を見て息をつく。
「奴らはこっちにも来るかもしれない。とにかく町を出ないとな。残っている奴も逃げられるといいけど」
銀の光は未だ降り注いでいた。
それは遠くから見ると、流れ星のように美しく、おぞましかった。




