裏切り者の取引
「エレナ、私はね、ずっと考えていたのよ」
薄暗い闇の中でも、彼女の瞳ははっきりこちらを見据えていた。こんな時だと言うのに、彼女はゆっくりと話し出す。
「以前、ロレンツォがハーピアの花を用意したことがあったわね。あの時は嬉しかったけど、何か変だと思っていたのよ。……だって、ロレンツォがあんなにたくさんの花を持って帰る訳ないじゃない」
エレナは息を呑んだ。
「ほら、その顔。やっぱりあなただったのね」
シルヴィアは自嘲するように言った。
「あなたは彼と口裏を合わせて、私を騙していたんだわ。ロレンツォもあなたの側についてたなんて。――あれよりもずっと前から、あなたは私に『魔』だって隠してた。私と過ごしたこの八年間ずっと。さすがはマルクレーンの娘ね」
エレナは顔を強張らせた。シルヴィアはこんなことを言う人ではないのだ。
彼女の顔や手足には擦り傷がある。軽いすり傷だったが、それでも王女にとってはひどい痛みだろう。
「姫様……」
唐突に、胸に恐怖が押し寄せる。信じられなかったけれど、これは確かに現実だ。
よく考えれば、彼女がこんな風になる可能性は、ずっと前からあったのだ。
なぜ気づいてあげられなかったのだろう。
彼女はただでさえ、兄を失ったばかりなのだ。気丈に振る舞っているけれど、本当はいつ壊れてもおかしくなかったのに。
今朝女王になるはずだったシルヴィア。それが突然、魔物に式場を追われ、迫りくる恐怖の果てに、暗闇へと追い詰められた。
シルヴィアを守るための嘘でさえ、疑いを導く要因になってしまった。
彼女を守り切れていたら、自分が選択を誤らなければ、こんな事態は避けられたはずだ。
だからこそ、もう一度信じてもらわなければ、とエレナは思う。
もうお互いに、唯一の味方は自分達しかいない。
エレナは叫びたいのを必死にこらえ、一つ一つ言葉を紡いだ。
「ハーピアの花は姫様を喜ばせたくてやったんです。ロレンツォが持ってきたことにしたのは、わたしが『魔』であることを隠すためです。あなたが知ってしまったら、危険な目に遭うかもしれないでしょう」
シルヴィアはこちらを睨んだ。
「言い逃れはたくさんよ。そうやってにこにこ笑いながら、いつも私をだましてきたんでしょう。今も助けるふりをして、その黒い男と一緒に、私をどうにかするつもりなのよ」
そういう彼女の目は完全に、敵を見るものだった。
「姫様、目を覚ましてください」
エレナは手を伸ばしたいのを堪え、震える声で懸命に言った。
「わたしが誰かお忘れですか? あなたの傍にいて、何年もあなたと過ごしてきた者です。わたしがあなたを傷つけ、陥れると、本気で思っているんですか?」
シルヴィアは暗闇の向こうから、エレナを睨みつける。
「私を愛する者なんて誰もいないのよ。――そんなこと、本当は知ってたわ。訓練場の騎士達を見たでしょう。皆が私を見捨ててしまった」
「だけど、それなら分かるはずです! ――わたしは彼らとは違う!」
緑の瞳を歪め、エレナは王女を見つめた。
シルヴィアは暗闇に襲われている間に、心までその色に染められてしまったようだった。
「わたしはあなたを助けたいんです。ただそれだけです。なぜ信じてくれないんですか」
彼女は当然のように告げた。
「あなたは『魔』だわ。それだけで理由になると思わない」
心臓が殴られたような気分だった。
泣きたい衝動に駆られたが、エレナはぐっと唇を噛んだ。なんとか顔をあげたまま、気丈に姫を見返した。
「……『魔』の血が混ざっていたら悪者なんですか? それはあなたが妾の子と言われ、疎まれているのと同じです。だけどわたしは、あなたの傍にいたい」
答えない彼女に、迫るように言い募る。
「わたしは確かに『魔』です。でも、姫様の味方でもあるんです。こんな男は関係ありません。魔法を使ってでも、絶対あなたを守りますから、信じて下さい」
それでも、帰って来るのは冷たい視線だけだ。
その時、グランディールの腕が動いた。
彼はいつの間にか魔法を宿し、再びシルヴィアを見据えていた。
シルヴィアは混乱の最中、逃げることも思いつかないようだった。
「やめてよ! お願い!」
エレナは再び蔓を出す。シルヴィアの顔が悲しげに歪むのを見て、心臓が張り裂けそうだった。
歯を食いしばって蔓を男に伸ばすが、グランディールはそれをものともしない。彼が小さく何かを唱えるたび、蔓は次々と枯れていった。
その向こうで、彼の手が銀色に光る。
シルヴィアの顔はその光に照らされ、美しく浮かび上がった。
「姫様はわたしの大切な人なの! お願いだからやめて!」
エレナは泣き叫ぶように言った。
「姫様を殺すなら、あなたも殺す!」
彼は静かに手を止めた。
銀の光を宿したまま、静かにこちらを見る。
「王冠を、持って来い」
エレナはぴくりと肩を揺らした。
目の前には、転がった王冠が煌めいている。
震えそうな手でそれを取ると、彼を見た。
「これを渡せば、姫様を助けてくれる?」
「王冠と、お前だ」
シルヴィアが息を呑んだ。
グランディールの瞳は、底が知れないほど透明だった。
「私の家族になるといい。王冠を手にした私は王となり、お前は王女になる」
それはあんまり残酷な響きだった。シルヴィアを差し置いて王女になれと言うのか。
これ以上何を言ったところで、狂った男には通じない。
エレナは泣きそうな目でグランディールを見た。
「それで、姫様を助けてくれるのね?」
「ああ、命だけは、助けてやろう」
頷くグランディールの言葉を聞いて、シルヴィアが嗤った。
「面白い茶番ね。……エレナ、いつから王女の座を狙ってたの?」
その声はどこか泣きそうだった。
「違う! わたしは――」
それを遮り、グランディールが当然のように言った。
「早く来い。今ならまだ殺さずに済む」
エレナはもう何も言えなかった。
恐怖と悲しみの混ざった、訳の分からない叫びが胸にせめぎ合っている。砕けてしまいそうな足を動かし、よろよろと進んだ。歯を食いしばって彼の元へ辿り着くと、王冠を差し出した。
「あ、あなたの物になるわ。――これで、満足?」
グランディールの目に、かすかな光が灯った。
代わりに、かざした掌から銀の光が消える。
彼は手を降ろすと、静かに言った。
「ラズール」
途端に砂嵐が吹き荒れ、赤毛の少女が現れた。
「お呼びですか、ご主人」
嬉々として現れた「魔」はエレナを見ると、ひどく目を剥いた。
「ご主人、なんでこいつがここに!」
「お前の仕事はそいつを牢屋へ連れていく事だ」
指差されたシルヴィアは顔を強張らせ、ラズールは赤毛を燃え上がらせた。
「どうしてですか? こっちの忌々しい奴は牢屋へ入れないんですか?」
グランディールは、赤毛の少女を底冷えのする目で睨んだ。
「この娘はお前ごときが触れていいものではない! お前はその王女を連れて行くんだ!」
彼はひどく怒っているようだった。
シルヴィアが馬鹿にしたようにエレナを見る。
「エレナ、ずいぶん気に入られているのね。こんなくだらない劇、さっさと終わらせてちょうだい」
エレナは食い入るようにシルヴィアを見つめる。こんなことを言う彼女は、今どんなに辛いだろう。きっと今のシルヴィアには、何を言っても通じない。青い目はそれほどに、猜疑心と絶望に染まっていた。
隣では、ラズールが怒りをくすぶらせている。
口を尖らせる彼女を、グランディールは一層強く睨みつけた。
「さっさとやらんか! アシオンの子孫を連れて行け!」
しわがれた声には、身も凍るような冷たく恐ろしい響きがあった。ラズールは震えあがると、シルヴィアを捕まえにかかった。
シルヴィアは抵抗していたものの、ラズールに腕を引っ張られ、部屋の外へと連れて行かれる。
近寄ろうとしたエレナは、グランディールに阻まれる。必死に乗り出し、身がちぎれる思いでシルヴィアに叫んだ。
「姫様、誤解しないで! 絶対助けに行きますから!」
こちらを見たシルヴィアは、恐ろしい目で言った。
「嘘つき」
別人のような目つきだった。
「助けになんか来る訳ないわ。信じたくないけど、あなたはずっと私の隙を伺ってた。マルクレーンの仇を討ち、私の地位を奪うつもりだったのよ」
その口の端が、かすかにつりあがる。彼女は不思議な笑みを浮かべた。笑っているのに、どこか泣きそうな表情に見えた。
「分かるわ、エレナ。仇を討ちたい気持ちは。だってあなた達は私の兄様を殺したもの!」
叫ぶような声に、エレナは立ったまま動けなくなった。
目の前の光景が信じられない。幼い頃、同じような瞳を見たことを思い出した。
あの日、彼に宿った憎しみは、再会を果たしても消えることがなかった。
少年に見捨てられたエレナには、今はもう、たった一つのものしか残されていない。
それなのに。
大切な青い瞳に、いつもの優しい面影はなかった。
渦巻く憎しみが、エレナを捕え、離さない。
恐ろしい、と思った。
「魔」達よりも、何よりも、大切なシルヴィアに嫌われることが、一番怖かった。
人は誤解と憎しみで、こんなにも変われるのか。
真実が霞んでしまうほど、目の前が見えなくなってしまうのか。
自分は誰より、こんなにも、あなたを守りたいと思っているのに。
「お願い、聞いて下さい、わたしは、」
「私をこんなに傷つけて、楽しい?」
嘲笑うような声に、エレナは喉をひきつらせた。
「そんな顔をしてもだめよ。あなたを信じても、また苦しむだけだわ」
彼女の声は、少しだけ掠れていた。
そこには憎しみだけではなく、深い悲しみがあった。
「もう関わらないで。あなたなんか、出会わなければ良かった」
動けないエレナは、零れ落ちそうな瞳でシルヴィアを見つめた。
きゃはははは、とラズールの笑いが降って来る。
「仲間割れ? 面白いけど、そろそろ時間切れよ! ご主人の命令だもの、早く牢屋へ行かないと!」
王女は逃げることも出来ず、ぐいぐいと引っ張られて行く。ラズールが甲高い声で言った。
「こう見えて、あたし力は強いのよ。早く来ないと、その腕がちぎれちゃうわ!」
エレナは叫ぼうとしたが、喉がつかえて声も出なかった。今までに苦しいことはあったけど、そのどれよりも心臓が痛み、声をあげるようだった。
大好きなシルヴィアが見えなくなっていく。
その瞬間、彼女は恐ろしい声で叫んだ。
「この裏切り者!」
扉の向こうからエレナを睨み、罵声を放った。
「あなただけは、絶対に許さないわ!」
ひめさま、と叫ぼうとして、漏れたのは嗚咽にも似た声だった。
大きな音を立てて、扉が閉められる。
彼女の声も姿も見えなくなると、エレナは動けないまま、茫然と立ち尽くした。




