大男の望み
争う音を聞きながら、シルヴィアがため息をついた。
「私のせいだわ」
エレナは顔をあげる。ぽつぽつと言葉が降って来た。
「私のせいで、多くの人がひどい目にあってる。中には死んでしまった人もいるのよ。どうして私が王女だったのかしら。別の人だったら、こんなことにならずに済んだのかもしれないのに」
その言葉に、エレナは驚きを隠せなかった。シルヴィアが弱音を吐くことはほとんどなかったのだ。あったとしても、自分が王女であることを否定したことはなかった。
彼女はそれほど追い詰められているのだ。
シルヴィアが諦めてしまえば、エレナも歩くことができなくなってしまうだろう。すべてが崩れ落ちる中、シルヴィアはエレナの希望を保つ、一本の糸のような存在だった。
「姫様、以前申し上げた通り、陛下は姫様を愛していらっしゃいました。死ぬ間際まで、あなたを気にかけていた。あなたが王女であることに、理由はいらないんです」
シルヴィアはこちらを見返すこともしなかった。
「でも、皆私を嫌っているわ。逃げようとしたことが間違いだったのよ。最初は皆のために生き延びなければならないと思ったけど、それは違ったの。私はあの血に濡れた騎士のいう通り、皆を捨てようとしたんだわ。こんなの王女がとるべき行動じゃない。嫌われて当然よ」
彼女は悲しそうに言った。
「あの人もきっとそう。ロレンツォは私を嫌いなの。いつかは来てくれると思ったのに、姿も現さない。騒ぎに乗じて逃げたんだわ。私が縛りつけるようなことを言ったから」
彼女はどこか遠くを見つめ、そうして目を伏せた。
「結局私は城中に、いいえ、国中に嫌われる王女でしかなかったのよ」
エレナは息を詰まらせた。王女は逃げながら、そんなことを考えていたのだ。
倒れた騎士が罵る声を聞きながら、王女としての存在意義を問うていた。
心のどこかで愛しい人を待ちながら、彼が現れないことで、自分は誰にも愛されていないと確信してしまったのだ。
それは、クリスに見捨てられた自分自身を見ているのかのようだった。
エレナは俯く彼女をよそに、その青い瞳を見続けた。
「ルーバス宰相が、レイモンドが、いるじゃありませんか」
王冠を握りしめ、必死に言い募った。
「わたしがいるではありませんか」
シルヴィアはやっと、エレナを見た。
「エレナ」
青い瞳は泣きそうに揺れていた。
「エレナ、どうか傍にいてね。あなたがいなくなってしまったら、私には何も残らないわ」
エレナは何も言えなかった。
どうしようもなく胸が締め付けられて、ただ、自分は必要とされているのだと、苦しいほどに理解した。
この人を守るだけでなく、自分も死んではならないのだ。
そして間違いなくシルヴィアは、今の自分にとって、無くてはならない存在だった。エレナの傍にいてくれるのは、この人だけになってしまった。
切れそうな何かを必死にこらえ、エレナは親友に笑いかける。
「姫様、わたしだけは、何があってもあなたの味方です」
シルヴィアにはエレナが必要で、エレナにはシルヴィアが必要だった。
突然、巨大な影がぬっと現れた。
二人は叫ぶことも出来ず、息を呑む。大きな「魔」の手に、粉々になったレイモンドの剣が握られていたのだ。
迫りくる恐怖の波に包まれながら、エレナは必死に叫んだ。
「レイモンドに何をしたの! まさか……!!」
「『人』は意地悪だ。俺に攻撃をして来た」
巨人が言った。
その声に空気は震え、二人の髪もなびいた。巨人は怒ったように続ける。
「言っておくが、殺したわけじゃぁない! 倒して、牢屋行きにした。そうしなければ、こっちがやられたんだ」
言いながらエレナを見下ろしたが、その瞳は少しだけ悲しそうだった。
エレナはその目に違和感を覚えた。しかし、シルヴィアが横から声をあげる。
「そんな目をしても駄目よ! 私の国や、部下を傷つけるなんて許さない」
彼女がそう言った瞬間、巨人の顔が僅かに歪んだ。何かをぶつけるように大声で叫ぶ。
「俺だって、やりたくてやってるわけじゃないんだ!!」
叫ぶと同時に突風が起き、少女達の髪が暴れた。その勢いに二人は目を見開く。
シルヴィアは口を噤み、エレナはゆっくりと巨人を見上げた。
「……今の言葉は本当?」
「本当だとも。俺は戦いなんかしたくない」
巨人は天井につきそうな頭をかがめた。
シルヴィアが怯えたようにエレナの服を握る。エレナは少しの恐れを隠し、巨人の目を見た。
「それなら、どうしてこの国へ来たの?」
「魔物達に唆されたんだ。でも、他にこの地に降りる術があるか?」
巨人は悲しげに眉をひそめた。
「俺は大昔に『人』に追い立てられ、ずっと山に隠れて住んでいたんだ。ある時魔物達がやってきて、『今が人間の国に入るチャンスだ』と囁いた。思わず降りてきてしまったけど、目的はあいつらとは違う。戦いたかった訳じゃない」
言いながら、エレナの緑の目を見下ろした。
「でもこうするしかないんだ。人間が俺をよく思ってないことは分かってる。姿を見せただけで、皆攻撃してくるんだから。やり返さなければ、やられちまう。……ただ『人』の世界が見たくて、奴らと知り合いたかっただけだとしてもな」
シルヴィアが僅かに瞳を揺らす。エレナはじっと、巨人の目を見つめた。よく見れば、彼の瞳は澄んでいた。
「あなただけじゃない」
エレナは思わず言葉を零した。
「そう思ってる『魔』は他にもいる。『人』の中にも」
それは紛れもなく、自分のことだった。それぞれの血を引くエレナは、確かに巨人と同じ思いを抱いていた。
本当は戦いたくない。
魔力があることをシルヴィアに告げ、本当の自分を愛してもらいたい、
でもそれは、出来ない相談だ。
巨人がため息をつく。彼は一瞬目を伏せたが、ゆっくりと顔をあげた。
「その通りだな。俺の他にもそう思ってる奴はごまんといる。本当に『人』を憎んでいる『魔』もいるが、ほとんどが俺と同じ考えだよ。人間はそれを知らないんだ」
わずかに後ろのシルヴィアが身じろぎする。しかし巨人は、それには気付かなかった。
「皆本当は、仲良くしたいだけなんだ。でもそんなの、できるはずがない。俺達は皆、あの男の支配下にあるのだから」
「あの男?」
「黒の王には、誰も逆らえない。そして『人』の持つ俺達への敵意も、誰も変えることはできない」
不意にシルヴィアが声をあげた。
「その人が誰だか知らないけど、敵意を向けて欲しくないなら、あなた達が変わるべきじゃないの? あなたほどの大男なら、誰が相手でも逆らえるでしょう?」
「彼は恐ろしい相手だ。俺だって勝てやしない」
「そんなの言い訳だわ。あなた達『魔』のせいで、城の人が何人も殺された。結局、被害を受けているのは私達の方だわ」
その言葉に、巨人の目が怒りに染まった。
「お前は何も分かっちゃいない!」
吹き飛ばされるような大声に、シルヴィアは固まった。
「城の中には、『人』の死体ばかりだ。そりゃあ当然さ。『魔』は死んだら、体は消えちまうんだから!」
シルヴィアは小さく息を呑む。エレナは唇を噛んだ。
彼の言う通りなのだ。
「魔」は自然界の魔力から生まれ、死ねば元の形に還る。
空気に溶けて風に散り、後には何も残らない。
以前精霊から聞いた話では、エレナの母も体は消えてしまったらしい。それはとても寂しいことに思えた。
巨人がシルヴィアを見つめ、どこか泣きそうに言う。
「お前はアシオンの子孫なんだろう? 『魔』が死んだらどうなるか、知らなかったのか?」
シルヴィアは動けないまま、黙って巨人を見つめ返した。
「ああ、やっぱりそうだ。『人』は皆、自分だけが苦しんでると思ってる。でもお前らだって、俺達を傷つけてるんだ。『魔』は既に何十匹も殺され、跡形残らず消えちまった。お前は……あいつらが死んだことにも気づかなかったんだろう?」
巨人の大きな瞳が食い入るように王女を見つめる。シルヴィアは息もできないように見えた。
エレナは急いで、二人の間に割って入る。
「待って。姫様を責めるのはやめて」
「先に責めて来たのは、この女の方だぞ」
巨人が怒鳴ると空気が揺れた。エレナは体を強張らせたが、目を逸らしはしなかった。この巨人は、根は悪い奴ではないと理解できたのだ。
「その事はわたしが謝るわ。ごめんなさい。……だからあなたも、攻撃はしないで」
巨人が僅かに目を見開いた。僅かと言っても、馬車の車輪ほどあった。
「お前、その女の味方じゃないのか?」
「もちろん味方よ」
エレナはシルヴィアを振り返った。王女は少しだけ、表情を強張らせている。
「エレナ、あなたは裏切ったりしないわよね?」
エレナは彼女が誤解しないよう、まっすぐにその目を覗き込んだ。
「当たり前です。あなたの一番傍にいるのは、わたしですから。……大丈夫です。あの巨人は悪い奴じゃありません。あなたがいい人だと知らせれば、きっと味方になってくれます」
「『魔』が味方? ありえないわ」
シルヴィアが不安そうに言ったが、エレナは巨人を振り返った。
シルヴィアはああ言っているが、エレナ自身が『魔』でもあるのだ。
視界を覆うほどの巨体を見上げ、彼に届くように声を張った。
「聞いて、姫様はあなたの考えているような人じゃないの。さっきは驚いただけで、本当はあなたと同じに戦いなんてしたくないのよ」
「……それは本当か? お前も?」
「ええ」
エレナが頷けば、巨人の目が細まった。そこからは鋭さが消えていた。
「そうか。それじゃあ、どうすればいい?」
「味方になってくれない? 姫様をお守りしたいの」
「そうしたら何をくれる?」
「何もあげられないけど……わたしもあなたの味方になるわ」
巨人が背をかがめた。
「お前が、俺の?」
「この方もよ。……いいでしょう、姫様」
振り返ったエレナを、シルヴィアがまじまじと見つめる。
怯えたように巨人を見上げ、彼女は小さく首を振った。
「ごめんなさい。……『魔』なんて信用できない」
巨人の顔が歪んだ。わずかに、エレナの顔も。
シルヴィアはエレナを見る。
「だ、だってそうでしょ? 『魔』に何をされたか忘れた? 兄様を殺して、城の人を大勢傷つけたのよ。いい奴なんている訳ないじゃない」
エレナは何も言えなかった。
悲しくて胸が押しつぶされそうだった。けれど口に出すことはできないのだ。
自分が「魔」なんて口が裂けても言えない。
不意に大粒の雨が降って来た。
ぽとりぽとりと落ちるそれは、床に当たり、水滴をとなって砕け散った。
見上げれば、天井はまだ崩れていない。雨は空からではなく、巨人の瞳から落ちていた。
「『人』じゃないと駄目なのか」
声は震えて響き渡り、エレナの心臓をも揺らした。
「嘘じゃないのに。本当に、友達が欲しいだけなのに」
大きな涙がこぼれ落ち、みるみるうちに水たまりを作った。幼子のような泣き声は城中の空気を震わせ、いくつもの影が顔をあげた。
「魔」達がやってくる。
エレナはなぜか、そんな予感がした。
叫びたいのをこらえて唇を噛み、シルヴィアの腕を掴んだ。
「行きましょう」
あっけにとられる彼女をよそに、廊下を駆け出した。
おおん、おおんと大男が泣いている。
ぽろぽろと溢れる涙は止まらない。
あたりは既に水浸しになっていた。
「巨人が泣いてるぞ!」
「何が起きたんだ?」
魔物達の声が聞こえる。巨人は答えず、泣き声をあげるだけだ。
魔物達は騒ぎ合っていたが、不意に声をあげた。
「あっちだ! あの小娘ども!!」
次いで、ばたばたと足音が聞こえてくる。
「見ろ! あれはきっと、アシオンの子孫だぞ!」
二人の少女は息を切らし、長い廊下を一心に走った。
幾つもの扉の前を通り過ぎていると、廊下の途中に別れ道に出た。正面の通路と右に伸びた道、エレナは二つを交互に見たが、どちらへ行けばいいのか見当もつかない。
と、まっすぐ伸びた正面の廊下から、別の「魔」達が現れた。
彼らもまた、泣き声を聞きつけてやってきたのだ。人間ほどの大きさだったが、数は数えきれないほどだった。
エレナは咄嗟に後ろを見る。
向こうから同じように魔物の群れが押し寄せていた。
「エレナ!」
シルヴィアの叫び声を聞き、エレナは選ぶ術もなく右の道へ入った。
そんなことを何度も繰り返しているうちに、追いかけてくる「魔」の数はいつの間にか膨れ上がっていった。
巨人の大きな瞳が、未だ胸に焼き付いている。
本当は戦いたくないんだと、彼は言った。
他の魔物もほとんどそうだと。
エレナは歯を食いしばる。
彼の気持ちは痛いほど分かるのだ。
魔法が罪と言ったアシオンが、正しいとは思えない。
けれど後ろの魔物達は、あまりにおぞましかった。
殺意を宿し、獲物を見つめる瞳は、きっと王を恐れているからだろう。
それでもカギ爪をふるい、牙を剥きだす姿は、それすら嘘のように思えてしまうのだった。
はぁ、はぁとシルヴィアが息を切らす。彼女は汗を流し、瞳にありありと恐怖を浮かべていた。
彼女の目に映る「魔」は、恐ろしい敵でしかない。
「どこまで逃げるの!」
シルヴィアが叫んだ。
「このままじゃ殺されちゃうわ!!」
エレナは答えることもできなかった。銀の光が放たれるたび、息を詰めてシルヴィアを引っ張るだけだ。
何とかかわすことを続けながらも、二人は限界を感じていた。足はもつれ、息も絶え絶えだ。
おまけに、魔物達は二人を城の中央へと追い詰めているようだった。まるで示し合わせているようなやり方が、二人を恐怖で包み、焦らせた。
事実二人は、一つの扉へと追い詰められていたのだ。
「行き止まりです!」
エレナの言葉に、シルヴィアが泣きそうな声をあげる。
「エレナ! どうしよう!」
目の前には扉があるが、他に逃げ道はない。かと言って中に入れば罠が待っているような気がした。
――――どうすればいい。どうしたら姫様を守れる。
シルヴィアが振り返り、顔を恐怖と悲しみに染めた。
「ああ、エレナ、私……」
エレナも後ろを振り返り、ぎょっとした。
それこそ「魔」の大群が、こちらへ押し寄せているところだった。もう、迷っている暇などない。
「姫様! 中へ!」
「だけど、……」
エレナは扉を開き、王女を見た。「魔」は今にも飛び掛かりそうな勢いだ。
「早く! 入って!」
そう叫べば、シルヴィアは扉の中へ走った。部屋には灯り一つない。
エレナも駆け込むと、恐ろしい光景に目を塞ぐように、思い切り扉を閉めた。急いで鍵をかけると、ばたん、がったん、と扉が押される。その向こうから、わあわあと大声で騒ぎ立てる声がする。
急いで扉から離れると、暗く静かな部屋の中、二人の少女は身を寄せ合った。
「あけろお!」
「あけろ! 小娘どもめ!」
二人は息をひそめ、抱きしめあって震えた。
「こうなりゃ魔法で扉を壊してやる!」
扉の隙間から、銀の光が溢れる。
二人がすべてを覚悟した時だった。
銀の光が突然消えた。
嘘のように、外の喧騒も掻き消える。
突然、すべてが静寂に包まれた。
二人は訳も分からないまま、深く息をついた。
少しずつ余裕を取り戻し、ゆっくりと辺りを見回す。暗い中でも、とても広い部屋だと分かった。
高い壁には、他のどの部屋よりも大きなが窓があり、いつの間にか訪れた夕暮れの景色が見えていた。大理石の床は美しく、一段と高くなった場所には、どっしりと構える玉座があった。
「謁見の間だわ」
シルヴィアが呟いた。
誰もいない部屋にその声はひどく響き、吸い込まれていった。
静寂と暗闇に包まれた謁見の間。
不意に、誰かの気配を感じて、エレナはどきりとする。思わず振り返れば、そこには影のような男がいた。エレナは目を凝らし、わずかに息を詰めた。
薄暗い部屋の中、男の黒い外套は更に色を濃くしている。
「まったく、うるさい連中だな」
シルヴィアが顔をあげ、驚いたように彼を見た。
「あなたが助けてくれたの?」
近寄ろうとしたシルヴィアを、エレナが制した。
その男は以前出会った敵にしか見えなかったのだ。




