白いドレスと黒い影
ささやき声とは裏腹に、大広間は不思議な荘厳さに包まれていた。
居並ぶ大きな窓からは、午後の光が差し込み、人々を照らしている。それぞれの窓の両脇には赤いカーテンがゆったりと縛られ、そこには侍女達の飾った金の留め金が煌めいていた。
白で統一された壁には幾つもの彫刻が掘られ、中性的な男女が見下ろすようにして式場を彩っている。
ざわめきが広がる中で、一人の男が壇上の傍に立った。
撫でつけた白髪に、ぴしりと背を伸ばした彼は、ルーバス宰相だ。
「これより、戴冠式を始めたいと思います。皆様、お静かに願います」
厳めしい彼の声に、式場は突然静まり返る。
一気に頭が冷えたような人々の顔を見ながら、エレナは密かに思った。
――――ああ、あの人たちもルーバス宰相が怖いんだ。
国王のジェロームでさえ、彼を苦手としていたのだ。事実、その場にいる者達は皆、この男を怒らせると危険だと瞬時に認識したようだった。
ルーバスは静まり返ったことに満足したように、こちらを見て言った。
「では新たな女王陛下から、お言葉を賜りたいと思います」
シルヴィアは静かに頷いた。
エレナが傍にいられるのはここまでだ。
口上を何度も練習していたシルヴィアは、間違えることはないだろう。それでも、この大勢の前に立ち、女王然とした立ち居振る舞いを続けることは、簡単なことではないように思えた。
そっと見上げると、彼女はいつもとは違う表情をしていた。
幼さはなりをひそめ、凛とした気高さを際立たせている。
舞踏会で見たものとは異なる、張り詰めたような美しさ。
エレナは息を呑む。
そこにいるのは、守られるがまま無邪気に遊んでいた少女ではなく、この国を統治する覚悟を持った、未来の女王だった。
シルヴィアは壇上に上がると、静かな目で式場を見渡した。小さく息をつくと、ゆっくりと微笑みを浮かべる。
悪口を言っていた貴族たちでさえ、彼女の表情に目を細めた。
「皆様、今日はお集まり頂き、ありがとうございます。このような日を皆様と共に迎えられて、嬉しく思います」
彼女の凛とした声と美しさに、式場の空気が僅かにどよめいた。
エレナは彼女を一心に見つめる。
自分は、シルヴィアの喜びや悲しみを人一倍分かっているつもりだ。
彼女がここへ来るまでには、様々な苦しみがあった。だからこうして壇上に立ち、女王として微笑んでいるのを見ると、様々な思いがよぎってくるのだ。
感慨深く、なぜか苦しいような気持ち。
今までの彼女を知っているからこそ、喜びと切なさで胸が締め付けられた。
――――この方は、わたしにとって一番の誇りだわ。
この人に出会えて、本当に良かった、とエレナは思う。
それはロレンツォのお陰であり、彼を雇ったジェロームのお陰でもあった。
国王との約束を果たしたい。義務からではなく、本心からそう思える。
シルヴィアへの深い思いは、やがて決意となり、エレナの心に深く宿った。
――――わたしは、ずっとこの方の傍にいて、見守り続けるわ。誰が敵に回っても、わたしだけは傍にいる。
どんなに自分とかけ離れた人になってしまっても、シルヴィアはエレナにとって、かけがえのない存在だった。
長い口上を終えたシルヴィアの傍に、ルーバスが近づく。
彼の手には、金の王冠が煌めいていた。
あちこちから息を呑む声が聞こえる。
エレナは近くて遠い人を、静かに見上げた。
彼女はゆっくりと頭を下げる。
長い金髪が流れるように揺れ、まるで絵画を見ているようだった。
冷たい目に怯える王女はもうどこにもいない。
気高い白さを放ち、凛とした威厳を持つシルヴィアは、今まさに女王になろうとしていた。
その時だった。
幾つもの窓ガラスが派手な音を立てて割れた。
刃のように降って来る鋭い欠片に、あちこちから悲鳴があがる。
エレナがはっとしてそちらを見ると、窓ガラスの向こうに、何かが動くのが見えた。
耳をつんざくような笑い声と、立ち並ぶ無数の黒い影。
エレナはおぞましい生き物たちを見た。
彼らは止める間もなく、次々と窓ガラスを割り、侵入してくる。手当たり次第に銀の魔力を放ち、傍にいた人間をたちまち動かない死体へと変えてしまった。
あまりの唐突さに、貴族たちは呆然とそれを眺め、ついで思考を割くような悲鳴をあげた。
エレナの目の前で、式場は混乱へと化していく。
貴族たちはあまりの恐ろしさに奇声をあげ、泣き叫びながら逃げ惑う。我先にと出口へ押し合い、その間にも何人かが銀の光を受け、息絶えた。
「姫様!」
女王と呼ばなければならないことも忘れ、エレナはシルヴィアの元へ走った。壇上では彼女とルーバスが、驚いたような目で辺りを見ている。
シルヴィアはエレナの声を聞き、助けを求めるようにこちらを見つめた。
「エレナ、どうしよう! 私」
さっきの威厳が嘘のように、彼女は恐怖に包まれていた。
周りでは何人もの騎士達が、黒い生き物と戦っている。落ちたガラスを固い靴底が踏むたびに、ぴしりぱきりと乾いた音が響いた。
騎士団は以前、ザンクトでラズールを追い払ったが、今回の相手は比べものにもならない数だ。勝てるかなんて、分からなかった。
それでも今は、シルヴィアを落ち着かせ、希望を持たせるべきだ。
エレナは恐怖に震える心臓を抑えて笑いかけた。
「大丈夫です。姫様はわたしがお守りします」
噛みしめるように言うと、彼女に寄り添った。
命にかけても、この人を守らなければ。
その横で、ルーバスが鋭い声で叫んだ。
「騎士団長! どういうことだ! 見張りはどうした!」
控えていたレイモンドは、焦った顔で言った。
「分かりません。戦力に不足はありませんし、城外にもきちんと配置をしていました。あの守りを破れたとしたら、敵は相当な数です。とにかく私は王女……女王陛下をお守りします!」
「そうしろ! 全く、なんということだ!」
ルーバス宰相は叫んだ。
「戴冠式に奇襲をかけてくるなんて! 王が殺された時点で気付くべきだったのだ! 奴らの狙いは女王だ!」
シルヴィアが息を呑む。エレナは、彼女の手をぎゅっと握った。
ルーバスは、傍にいた騎士の一人に声をかけた。
「外にいる騎士どもに伝えろ! これ以上の侵入は許すなとな! 中にいる者には、命を懸けて女王をお守りしろと!」
エレナは必死に叫んだ。
「わたしは……わたしは何をすればいいでしょうか!?」
自分にできることなど、何もないと分かっていた。それでも、言わずにはいられなかったのだ。
ルーバスはこちらを睨んだ。
「お前にできることなどないだろう。だが、あるとすれば、女王の傍にいることだ」
エレナはハッとした。
シルヴィアの方を向けば、彼女は一心にこちらを見た。
「行かないで。あなたは戦いなんてしなくていいから」
握られた手に力がこもる。
「どうか傍にいて、私の手を握っていて」
エレナは彼女をまっすぐに見つめ返し、静かに頷いた。
その様子を見たルーバス宰相は、レイモンドに告げた。
「騎士団長、お前に女王を任せよう。彼女を連れて逃げるのだ」
「分かりました。しかしあなたはどうされるのですか……?」
そう問うレイモンドに、ルーバスは厳めしい顔で言った。
「私はここで指示を出す。武術の心得はないが、まったく関わっていない訳でもないのだ。指示くらいならできる。本当はお前がやるべきだが、護衛もつけずにこの者達を逃がすことはできん」
ここに残ると言うことは、いずれ「魔」の相手をすることになるかもしれなかった。
命の保障はどこにもないのだ。
シルヴィアは彼を見つめた。
「ルーバス……」
「そんな目で見るものではない。私はあなたのことではなく、国のことを思ってやっているのです。アシオンの子孫が絶えれば、この国は完全に『魔』の手に落ちるでしょう」
あくまで国の行く末を思う言葉に、シルヴィアは目を伏せた。
ルーバスは続ける。
「女王よ、あなたの使命は生き延びることだ。どうか国のためにも、陛下のためにも、命を大切にして頂きたい」
シルヴィアはハッと顔をあげ、ルーバスを見たが、彼は見返すこともなかった。代わりにエレナの方を見ると、静かな声で続ける。
「それから、お前には女王陛下の支えとなってもらいたい」
真剣な物言いに、エレナは緊張も忘れ、必死に頷いた。
「分かっています」
彼は目を細めると、おもむろに言った。
「それと、これもお前に託そう」
言いながら、王冠を差し出した。
エレナは目を見張る。
「わたしに……?」
ルーバスの声は、厳かな響きを持っていた。
「私は、いずれ奴らの手に落ちるかもしれん。騎士団長はそれを持ったままでは、うまく戦えないだろう。だからお前に託すのだ。城を滅ぼされても、女王陛下とその王冠があれば、また我々の国を建てられる」
エレナは、自分の身に課せられた使命の重さを感じた。
王冠を一心に見つめると、その手でしっかりと受け取った。
緑の目に決意を宿し、ルーバスを見上げて、はっきりと言う。
「分かりました。この方も、王冠も、わたしが守ります」
ルーバスは少しだけ微笑んだように見えた。それも一瞬のことで、すぐに厳しい表情に戻ると、レイモンドを見た。
「騎士団長、あとは頼んだぞ」
そう言うなり背を向けて、指示を出しに行ってしまった。
あたりでは銀の光と剣の閃きが交互に飛び交っている。
金属のぶつかるような音を立て、多くの騎士が「魔」と争っていた。
「お二人とも、行きましょう」
レイモンドが言う。
「城の地図は全て頭に入っています。どうぞこちらに」
少女達は頷き、彼の示した扉をくぐった。扉の先には細長い廊下が伸びており、レイモンドを先頭に、白いドレスのシルヴィアが続く。
エレナは王冠を胸に抱き、彼らの後を追った。
最後にちらりと振り返ると、扉の陰からぼろぼろになった式場の様子が見えた。
美しい彫刻は粉々に砕かれ、大きな赤いカーテンはびりびりに引き裂かれている。あたりに転がった人々の死体。黒い生き物と対峙する何人もの騎士。
宰相は今も、厳めしい声で指示を出していた。
彼の背中を見つめると、エレナは静かにその場を後にした。




