見つめる先
暗く、静かな夜が続いた。
日が沈むたび、城はひっそりと静まり返る。風は中庭の小さなカスミソウを揺らし、音もなく通り過ぎていった。
そんな寂しい夜のこと、エレナは一人、王女の部屋で月を眺めていた。
「王女の部屋」と言っても、シルヴィアがここで過ごしているのは昼間のみであり、寝室は別だ。
彼女は既に寝室へ行ってしまっていた。エレナもそろそろ寝るべき時間帯だったが、そんな気分にもなれず、この広い部屋に一人ぽつんといるのだった。
いつも彼女と一緒に過ごしている部屋は、今は寂しいくらい静まりかえっている。灯りも消えた部屋では、窓から差し込む月明かりだけが頼りだ。それはうっすらと、青白く部屋を照らしていた。
コンコン、と扉がノックされる。
振り向けば、開いた扉の向こうに背の高い男が立っていた。月明かりに照らされ、家具と一緒にうっすらと浮かび上がっている。
「ロレンツォ? どうしたの、こんな時間に」
そう問いかけると、彼は部屋を見渡しながら言った。
「もうすぐ戴冠式だから、姫君にお祝いの言葉をかけようと思ったんだけど……どうやら来るのが遅かったようだね」
この男がこんな遅い時間に訪れるのは珍しかった。いつもはもっと明るい時間帯に来るのだ。
「姫様はもう寝室へ行かれたわ。もっと早く来てくれれば良かったのに」
ともあれ、ここ最近この男の姿を見ることはほとんどなかったのだ。シルヴィアの元に来てくれたというだけで、エレナは少しほっとする。
彼は困ったように言った。
「僕も会うのがためらわれていたんでね、決心するのが遅れてしまったんだ。今日は出直して、また明日来るよ」
言うなり出て行こうとする男に、エレナは思わず声をかけた。
「待って!」
振り返った彼に、言い募った。
「お願い、姫様に冷たくしないで」
ロレンツォはこちらに向き直り、静かに言った。
「どういう意味だい?」
エレナは彼を見上げる。男の端整な顔が、月明かりに浮かび上がった。
「わたしだって、見ていればわかるわ。あなたはいつも姫様に優しいようで、とても冷たい」
ロレンツォは音もなく微笑んだ。
「もう寝よう。また明日くるから」
その言葉に、エレナは怒りを覚えた。
「明日もきっと、あなたはそうやって笑うんだわ!」
叫ぶように言った。
「そんな風に誤魔化すから、姫様はいつも傷ついているのよ!」
彼は小さく息をついた。その顔にはもう、笑みはない。
「では、僕にどうしてほしいんだい?」
エレナは男を見つめた。
「なぜ姫様を避けるの」
月明かりの中、その声は悲しげに響く。
「姫様の気持ちを知っているでしょう? あなたのことだもの、とっくに気がついているはずだわ」
目を逸らそうとする彼に、エレナは必死に言い募った。
「答えてよ。何がいけないの? あんなに美しくて、優しい方なのに!」
ロレンツォは疲れたようにこちらを見た。
「彼女はとても素敵な女性だ。でも、僕が一番欲しいものはここにはない」
エレナは息を呑む。
シルヴィアが言っていたことを思い出したのだ。
「姫様が言ってたわ。あなたは元の暮らしに戻りたがっていたって。それは、そんなに素敵な物なの?」
「うん。残念ながらね」
彼の目は、どこか遠くを見ているようだった。
「わたし、全部陛下から聞いたの。あなたは命を助けてもらった代わりに、陛下のために働いているって。あなたは陛下の元では情報屋で、姫様の元では行商人なのに、本当はどちらでもないんでしょ?」
彼の表情が僅かに変わった。
この男は礼儀もわきまえているし、口もうまい。だから貴族なのではないかと、エレナは密かに思っていた。
そうだったらいい。そうしていつか、姫様と幸せになれればいい。
そう思っていたのだ。国王の話を聞くまでは。
「陛下は言っていたの。あなたは旅人だったんだって。逃げようとしたことはないけれど、本当はここから出たくてたまらないんだって」
「お喋りな方だなあ」
困ったようにロレンツォは笑った。
「君達に知らせるつもりはなかったのに」
その言葉とは裏腹に、男の目には小さな安堵が宿っていた。彼は国王の優しさを知っていて、その言葉に悲しみと、密かな希望を見出している。
きっと本当は、この事を誰かに知ってほしかったのだ。
一人で抱え込まなければならない、様々な秘密。そういった想いを、彼はまだ心のうちに、たくさん隠しているように見えた。
エレナはそっと顔をあげた。
「わたしね、あなたはもしかしたら貴族なんじゃないかって思っていたの」
「貴族? 僕がそんな身分なわけないだろう。どうしてそう思ったんだ?」
自嘲気味に言う彼に、エレナは素直に告げた。
「あなたは礼儀作法もできるし、社交的だわ」
その言葉に、静かな微笑みが返って来る。
「僕は色々な場所を巡ったけれど、その中でも、国を超えるために領主と交渉しなければならない時もあったんだ。礼儀作法はその時に覚えたものだよ。それに、多少お喋りがうまくなきゃ、彼らに通してもらうのも難しい」
エレナは息をついた。
「でも、そんな大変な生活にどうして戻りたいの。城にいれば安全だし、食べ物にも困らないわ」
「国を超えなければ、見られない物もあるよ」
噛みしめるように彼は言った。
「君達に話したことはあったよね。漆で塗られたようなブリュメールの町並み、イルナータの港に沈む夕陽。本当なら、見せてあげたいくらいだ」
その声は溢れそうな何かを堪えているようだった。
「陛下は優しい方だ。僕がそういったものを見られるよう、あちこちへ遣わしてくれた。――わがままだって事は分かってるよ。でも……仕事の場所は限られている。その先へは行けない」
エレナは不意に彼の腕を掴みたくなった。
シルヴィアの言っていた衝動が、なんとなく分かったような気がした。この男が今にも、消えてしまいそうに思えたのだ。
けれど掴む必要もないのだと、エレナは分かる。
彼の目が、どこか諦めているようだったから。
「大丈夫。どこにも行かないよ」
月明かりに濡れた彼の目は、ここにはない景色を見ている。
「この城にいることを、君も姫君も、陛下も望んでくれる。なんて贅沢な事だろう」
掠れるように言った彼は、未だにどこかを見つめていた。
なぜだかエレナは、その光景に見とれた。
シルヴィアの深い想いを、自分は理解することはできない。
しかし、この男はもっと手の届かない場所にいる気がした。
そんなエレナに、不意に男は振り返った。
「何を考えてるんだい? どこにも行かないと言っただろう」
安心させるような声は、いつもと何ら変わりない。エレナはじっと彼を見つめる。視線を受けて男は優しく微笑んだ。
「疑っているのか? 陛下に聞いたなら、知っているはずだ。僕は彼と約束をしている。そして君もしたんだろう」
エレナはハッとした。
そう、確かに自分はジェロームと約束をした。姫が多くの人に愛される日まで、傍で守り続けると。
しかし、ジェロームは亡くなってしまったのだ。
エレナは約束を守ろうと心に誓っていたが、ロレンツォの心を知ることはできない。彼が逃げようと思えば、それはできるはずだった。
「そんなに自由になりたいのに、あなたは逃げないの?」
そう問えば、月明かりの中、彼の目は細められた。
「君は率直だな。確かに、姫君を残して城を出ていく事はできる。だけど、陛下は命の恩人だ。あの方が助けてくれなければ、僕は岩の中に閉じ込められたまま、食べ物も尽きて死んでいただろう」
彼は息を吐くように言った。
「僕はあの人を立派な王だと思っているし、感謝している。だから、亡くなった後も約束はきちんと果たすつもりだ。それが僕の使命だと思っている」
「でも……それだけじゃないはずよ。使命だから姫様の傍にいるなんて、ひどいこと言わないで」
それは確認でも頼みでもなく、エレナの願いだった。
「あなたは舞踏会で姫様を踊りに誘ったじゃない。あれは使命なんかじゃないでしょ」
「冷静に考えてくれ。僕は身分も低い。踊りを望まれていても、彼女に近づかないぐらいの分別はあった。――でも、あの時の姫君は誰の相手もできないほど俯いていた。……僕が責任を取らなければ、彼女はどうなっていたと思う?」
静かに言う男を、エレナは呆然と見上げた。
彼は表情一つ変えなかった。
「紳士の誘いをすべて断る、高慢な娘。お高くとまる妾腹の王女。――今までに輪をかけて、酷い噂が立つのは目に見えてる。それぐらいなら、男の趣味が悪いという噂の方が、ましに思えないか?」
エレナは食い入るように男を見た。
「あの時踊りに誘ったのはそれだけの理由? あなたがここに残っているのは、姫様のためではなく、本当に陛下への忠誠心からなの?」
シルヴィアのことを思うと、胸が押しつぶされそうだった。
「それならもし、姫様が皆に愛される日が来たら……あなたは行ってしまうのね」
揺れるエレナの瞳を、男は覗き込んだ。
「よく考えてごらん。そんな日が来ると思うかい? 君はいつだったか、彼女がすべての人に愛されるようにしてみせると言っていたね。君ならやりかねない気もするが、何にせよ、僕の力では無理だ。陛下に誓った以上、僕は一生、あの子の傍にいる運命なんだよ」
エレナは何も言えなかった。部屋には、低い声だけが響く。
「あの子は父王にも相手にされなかった妾の子だ。その点、彼女の兄であった現国王は、父王にも側近にも、国民にも愛されていた。人々の心は今、亡き国王への悲しみでいっぱいだ。城では王と比較して、彼女を悪く言う人たちしかいない」
エレナはこれ以上聞きたくなくて、思わず声をあげた。
「でも! 姫様はもうすぐ即位なさるわ。そうしたら皆、姫様の良さに気付くかもしれない。あの冷たい態度も変わるかもしれないわ!」
泣く子をなだめるように、彼は優しく言った。
「確かに彼女が即位して女王になれば、側近達は掌を返すかもしれない。だけど、それはきっとうわべだけだ。彼らの心はいつまでも亡き国王陛下を想うだろう。あの子はいつまでも、一人ぼっちなんだ」
エレナは喉がつまりそうになった。
彼が言っていることは事実だが、言葉にして突き付けられると、その残酷さが際立った。
「だから僕は彼女の傍にいる。あの子が寂しくないように。君もそうだろう?」
反論することもできなかった。
ロレンツォは誰よりも長く姫を見て来たのだ。彼の言葉は、他の何よりも真実味を帯びていた。
何かを決心した目で、彼は言う。
「彼女が一生人々に冷たい目で見られ、罵られるのなら、僕は君と共に、ずっと彼女の傍にいるよ。陛下に救われた命で、僕の一生を捧げよう。だけど、心まで捧げることはできない」
しん、と冷たい部屋の中、エレナはただ立っていることしかできなかった。
男の表情はいつもと変わらない。けれどそこには、あらゆる感情が隠されていた。
凪いだ瞳は、一生姫の傍にいるという決意と、遠い地への羨望の間で、かすかに揺れているように見えた。
彼は王との約束を守ると決心しているものの、本当はすべてを捨てて、どこかへ行ってしまいたいのだった。
エレナは泣きたくなった。
唐突に分かってしまったのだ。
姫がどんなに傍にいて、どんなに愛しても、彼が持つ憧れを消すことはできないのだと。
それでも、一つの可能性を捨てることはできなかった。
「ねえ、ロレンツォ」
静まり返った部屋の中、何かをつなぎ留めるように尋ねる。
「あなたは何年もの間、姫様を見て、傍に寄り添っていたのよ。本当に、姫様に何の感情も持っていないの?」
彼は音もなくこちらを見た。
その答えを聞くのはたまらなく怖かったが、それでもエレナは尋ねずにはいられなかった。
必死に願いながら、たった一つの希望を掲げながら、彼に問う。
「あの方を愛しいと思うことは、本当になかったの?」
窓から差し込む光は、部屋を一層青白く際立たせていた。
「もし僕が愛したとして、彼女は幸せになれるのか?」
半分陰になった顔から、表情を読み取ることはできない。
エレナは息もできずに、彼を見た。
行商人の服を着た彼は、貴族でもなんでもなかった。結局何の地位もない、ただの男だった。
姫と彼が結ばれることはない。彼女が即位したら、なおさらだ。
「愛するほど、彼女が苦しむとは思わないのか?」
エレナはどうしようもない思いで、男を見た。
彼はとても器用な大人だった。かわすのも隠すのも上手かったから、自分が間違えることを許さなかった。
「それは、正しいとは言わないわ」
本当はきっと、それで正解なのかもしれない。
それでも彼の目を見て、間違っているのだと叫んでやりたくなった。想いを隠すのは辛いことだと、自分だってよく知っているのだ。
口を開いたエレナを遮るように、彼は言った。
「君といると余計なことを喋ってしまうな。もう、行くよ」
そう告げると、いつものようにさっさと扉へ歩いて行く。
エレナは止めようとしたが、陰になった背中はあっという間に、扉の向こうへ消えてしまった。
残されたエレナは呟いた。
「……分からない」
再び包まれた静寂の中、叫びそうになる心を抑え、深く息を吐いた。
「……わたしには、分からないわ」
*
次の朝やって来たロレンツォは、やはりいつもと同じ笑顔を浮かべていた。
何事もなかったように二人の少女に挨拶をする。
シルヴィアがどんなに切ない目を向けても、表情を崩すこともなく、にこやかに微笑んでいた。
エレナは責めることも出来なかった。
この男は、シルヴィアに一生を捧げると言ったのだ。
これ以上、何を求めることができるだろう。
男はうやうやしく一礼した。
「式の日は、あなたの周りに大勢の人々が集まり、賛辞を述べることでしょう。僕は彼らの間を掻き分けて近づくことはできません。だから、こうして先立って祝辞を述べさせて頂くことにしました」
シルヴィアは静かな目で言った。
「ロレンツォ、式には来てくれるのよね?」
「もちろんです。貴族の末席にも入ることはできませんが、後ろの方から、あなたのお姿を拝見しますよ」
その言葉を聞いて、シルヴィアはふっと息をはいた。
「そうしてちょうだい。それで、祝辞を述べてくれるんだったわね?」
彼は静かに微笑むと、改まって言った。
「この度はご即位おめでとうございます。あなた様がこうして立派に成長し、女王陛下となられること、心からお喜び申し上げます。――――未来の女王陛下に、多くの幸がありますように」
エレナは堅苦しい言葉だと思わずにはいられなかったが、シルヴィアを見ると、彼女は少しだけ微笑んでいた。
「ありがとう」
祝いの挨拶をすると、ロレンツォは一礼して、いつもの足取りで行ってしまった。
姫はいつもと違って、止める様子はない。彼が行ってしまうと、静かに言った。
「エレナ」
名を呼ばれて彼女を見ると、シルヴィアはまっすぐこちらを見つめていた。
どこか緊張した面持ちは、彼女の白い頬を際立たせている。
「私、本当に女王になれるかしら」
エレナはその視線を受け止めた。
この姫は、気が強いところもあるが、根は優しく、美しい心を持っている。
平民で親もいない自分に、友達として接してくれた。
薄汚く、礼儀も知らない子どもを、傍に置いてくれたのはこの人だ。
彼女の未来を想いながら、たくさんのことを思い出していた。
姫はどんな時だって優しかった。
侍女や側近たちに冷たくされようが、彼らを罰することもなかった。どんなにひどいことを言われようと、どこかへ逃げようとすることもなかった。
ただ、苦しみに耐えて、必死に前を向いて生きていたのだ。
それは彼女の強さになっているはずだ。
女王になれば、苦しいことがたくさん待っているだろう。
昨日ロレンツォが言っていたことが事実なら、彼女はきっと苦しみ続けるはずだ。
それでも、彼女は前を見て生きていくのだと思えた。
そんなシルヴィアはエレナから見て、とても気高く、美しかった。
「なれます」
エレナは言った。
「あなたは、立派な女王になれます」
シルヴィアは息をついた。
「ああ、少しだけ落ち着いてきたわ。そう言ってほしかったの」
彼女は微笑んだ。
「ロレンツォでもなく、兄様でもなく、誰よりもあなたに」
青い瞳で、嬉しそうに笑った。
「ありがとう、エレナ」
戴冠式まで、あと五日。
ロレンツォは、姫に心を捧げられないと言った。
だけど、自分はこの人に捧げよう。
エレナはまっすぐに、王女を見つめる。
あと数日で、この長く無邪気だった日々は幕を閉じる。
もう朝から晩まで楽しくおしゃべりしたり、遊んだりすることもできなくなるだろう。
それが寂しくて、けれど喜ばしかった。
ずっと見守って来た大切な姫は、もうすぐ大きな世界に立つ。国民を前にして、この国の象徴となるのだ。
小さな部屋の王女は、この国を見渡す女王へと変わる。
例え手の届かない存在になってしまっても、自分が支えられることがあればいい、とエレナは思った。
シルヴィアが幸せになることを、願ってやまなかった。




