夢の余韻
王女の部屋で、エレナは使い終わった装飾品を片付けていた。
シルヴィアの分もきちんと分けてしまいながら、ぼうっと昨日のことを思い出す。
光の満ちた部屋の中、クリスはとても美しかった。
黒髪に黒い服をまとった彼。鳶色の瞳は、ずっとこちらを捕えて離さなかった。
触れた手の温もりも、未だに思い出せる。
舞踏会が終わった後、彼は国王の傍へ戻ってしまったけれど、もう悲しくはなかった。
あの夜、二人は友達に戻れたのだから。
彼はエレナを怒ってなどいなかった。もうクリスとの間にわだかまりはないのだ。
――――これでいつでも会いにいけるんだわ。
エレナはうっとりと思った。
――――こんな日が、本当に来るなんて。
あの舞踏会は遠い昔のことに思えるが、つい昨日のことなのだ。
その証拠に、今もまだ、夢の続きにいるような気分だった。
ふとシルヴィアを見ると、彼女は窓の外を眺めていた。
――――姫様も、わたしと同じ気持ちなんだ。
彼女の目は、城壁に遮られて見えない、どこか遠くを見つめている。
その王女が、嬉しそうにこちらを振り返る。
「ねえエレナ、わたし今、とてもいい気分なの!」
軽やかな足取りで傍にくると、美しい笑顔をこちらに向けた。
「あなたもでしょ?」
「ええ」
エレナは微笑み返す。
大きな窓から、朝の陽ざしが部屋いっぱいに差し込んでいる。
やさしげな朝日に照らされ、二人の少女はきらきらと輝いた。
笑い声をあげる二人は、今日も幸せだった。
*
左手に酒瓶を持ち、右手で頬杖をつきながら、レヴィは唸った。
「あの王女、何を考えてるんだ」
隣に座っていた騎士が、困ったように言う。
「副団長、ここって酒は禁止でしたよね」
舞踏会が終わってから、二日が立っていた。
城の片隅にある騎士の訓練場は、夕暮れの中、静まり返っている。
しかし、その傍に建てられた小屋は、練習を終えた騎士達でにぎわっていた。
ここは休憩所であり雑談の場として使われていたが、今はどこから持ってきたのか、テーブルの上にパンや酒瓶が散らばっている。
堅物な騎士団長がいないのをいいことに、若い騎士達が好き勝手に飲んだくれているのであった。
「レイモンドは王に謁見中だろう、帰ってこないって」
騎士団長の名を呼び捨てにしながら、レヴィは酒を注ぐ。
傍で見ていた騎士はため息をついた。
「なんでもいいですけど、それだけ酒に強ければ得ですよねえ。うらやましい。……それで、なんで私を呼んだんですか?」
「そりゃあシモン、お前なら他人の話に付き合うのに慣れてそうだからな。他言もしなさそうだ」
「……まあ、否定はしませんよ。それで、話ってなんのことですか?」
シモンはグラスを口に運んだ。彼は騎士団長を恐れているのか、グラスの中身は水である。その横で、レヴィは事もなげに酒を飲んだ。
「お前、エレナとかいう小娘のこと、どう思ってる? 舞踏会でも王に近づいていた。あれは絶対……」
「彼女、可愛いですよね。踊りたかったなら声をかければ良かったのに」
「そうじゃない。あいつは精霊の……いや、いい」
レヴィは唸り、グラスを思い切りテーブルに置いた。
「じゃあ、王女はどう思う? 俺が踊ろうと思ってたのは、あの王女の方さ」
「意外ですね。彼女がお好みなんですか」
シモンが再び水を飲む。レヴィは鼻を鳴らした。
「お前、分かってないな。俺があのわがまま娘に惚れているとでも思ってるのか? よく聞けよ。もし心をつかんで、結婚までいきさえすれば、王弟の立場を手に入れられる、そのために言ってるんだ」
さらりととんでもないことを言う。
シモンは目を見開き、呆れたようにレヴィを見た。
「話って……副団長、そんなことを考えてたんですか」
「そんなことを考えてたんだよ」
レヴィは椅子に座ったまま、テーブルに両足を乗せ、つまらなそうに酒を飲んだ。
「言っただろ。お前は真面目だし、誰にも言わないだろうから喋ってるんだ」
シモンはため息をついた。
「私だって人間ですよ。誰かに喋ったらどうするんです? ……まだ愚痴か惚気を聞いてる方がましです」
「いいから聞けよ。俺は昨日の王女のあの態度が理解できないんだ。あいつ、ずっと同じ男と踊ってただろう。着飾りもしない行商人なんかと」
「ああ、あの二人目立ってましたねえ」
シモンの言葉に、レヴィは怒ったようにつけ加えた。
「あの王女は馬鹿なのか? あんな公の場で、あんなみずぼらしい男と踊るなんて。あれじゃあ、ますます評判が悪くなるぞ」
不機嫌そうな副団長に、シモンは尋ねた。
「それであなたは、そのことをどう思ってるんです?」
「決まってるだろう。評判が落ちれば価値が下がる。そうなれば、結婚できても意味がない」
つまらなそうに言えば、シモンは心底呆れ顔で言った。
「さすがに不敬ですよ。それに、いくらなんでも王女と結婚なんて現実味のない……」
「いいから聞け。これはあくまで理想の話だ。俺はな、今のこの国に不満なんだ。国王はへらへらした弱虫だし、『魔』を見つけたら生け捕りにして牢獄送りだ。そんなんだから、ヴァーグの時に多くの『魔』に逃げられたんだよ。捕まえられた時点で殺すべきなんだ」
シモンは困ったように言った。
「それって、自分が国王になって、『魔』を皆殺しにしたいってことですか?」
「そういうことだ」
レヴィは満足気に言った。
「どうだ、面白いだろう?」
「困りますよ、そんな物騒な話をされても」
「まったくだ」
後ろから、もう一人の声が聞こえて、二人は慌てて振り返った。
そこには鍛え上げた腕を組んで、一人の男が立っていた。
「騎士団長!」
シモンは驚いて叫ぶ。
「聞いていらしたんですか?」
レイモンドは怒りを含んだ瞳で見下ろした。
「阿呆な計画の下りからな」
彼は騎士団の中でも、とりわけ国王への忠誠心が強いのだ。こういった王族を侮辱するような話には厳しい。
シモンは慌てて姿勢を正した。
「申し訳ありません!」
「お前はもういい。こいつのふざけた話に付き合っていただけだろう。席をはずせ」
「はい」
いそいそと去って行くシモンをよそに、レイモンドは若い副団長を見た。
レヴィは面白くなさそうに睨み返す。
「俺は自分の夢を語ったまでです。何かいけませんか?」
開き直るレヴィに、レイモンドは静かに告げた。
「お前は騎士団の中でも一番若い。その若さは騎士団にとっては貴重な戦力だが、間違った方向に走らせてはならない」
普段から団長に敵意を向けていたレヴィは、ここぞとばかりに反論する。
「国王が間違った道を歩んでいたら、どうするのですか? それを正すのが騎士の役目では?」
途端にレイモンドの顔が険しくなる。彼は滲み出る怒りを、必死に抑え込んでいた。もはや剣を抜きそうな勢いだ。
「レヴィ」
「なんでしょう?」
「お前が爵位を継げず、仕方なくここに回って来たことは分かっている。だからそんな風にいつもふてくされているのだと」
レイモンドの言葉に、レヴィは心底嫌そうな顔をした。
そんな彼を見下ろし、団長は怒りを潜めて続ける。
「お前は侯爵家の出身だし、色々と仕方ないと思って大目に見ていたのだ。だが、これ以上不敬を働くなら、見過ごすわけにはいかない」
底冷えした目に、レヴィはぐっ、と押し黙る。
――――どうしてこんなに反りが合わないのかねえ。
一人、腹の底で思った。
――――ああ、面倒くさい。こいつらを全部燃やしてやりたい。あの王女を奪って、城ごと俺の物にできたらなあ。
そんなことには気づかず、レイモンドは静かに言った。
「よく聞け。国王は弱虫ではない。動きつつある『魔』達との戦いに向けて、兵を整えておられるのだ」
レヴィはうんざりしたように言った。
「はぁ、それでは、どうしてこんな派手な舞踏会をしたんですか?」
「まだ、分からないのか?」
レイモンドの目がぎらぎらと光った。その目に睨まれ、レヴィは思わず身を竦めた。
騎士団長は静かに、低い声で言う。
「これから長い戦いが始まるだろう。国王はその前に、最後の晩餐として、この舞踏会を開かれたのだ」
レヴィは口を噤み、目を見開いた。
言い返す言葉も出ないまま、騎士団長を眺めることしかできなかった。




