魔法使いの庭
次の日、いつものように森を通り、開けた場所に出ると、屋敷の門の前に見知らぬ人が立っていた。
朝焼けに似た紫のローブを着て、頭をすっぽりと覆っている。背格好からして男のようだが、その顔は全く見えなかった。
きっと、あれが魔法使いだ。
エレナはそっと木の陰に隠れ、息をひそめた。音を立てないように様子を伺っていると、男は門の鉄格子開き、いつも少女がやっているように庭に入って行く。まもなく、朝焼け色は草木の緑にまぎれて、見えなくなった。
あの人が出るまで、庭に入っちゃだめだ。
心の中で、自分に言い聞かせる。
このまま帰る気にもならず、エレナは男が去るまで待つことにした。
時間というのは、何かを待っている時ほど遅く感じるものだ。
男が入ってからの時間は、とても長く感じられた。エレナが待ちくたびれて、しびれを切らしそうになった時、やっとローブの暗い色が見えた。
門の中でクリスと言い争っているようだったが、何を言っているのかまでは分からない。
――――何を話してるんだろう。
木から離れて、少し近づいてみる。
その時、男が急に門の外に出た。
唐突に話を終わらせたようだ。
慌てて木の陰に隠れる。けれど、その拍子にガサッと音を立ててしまった。
男が訝しげにこちらを向く。
「っ……」
エレナは声を殺して身を縮めた。
視線を感じる。
――――早く、行ってしまって。
悲鳴をあげたいのをこらえ、心の中で叫ぶ。
ごう、と風が吹いた。枝葉を揺らして、木々がざわめく。
「……気のせいか」
ざくり、ざくりと遠ざかる足音。
その音がずいぶん遠ざかってから、エレナはほぅ、とため息をついた。
完全に姿が見えなくなったのを確認して、屋敷に走り寄る。門に手を触れ、開くことを確認してから中に駆け込んだ。
「お前、ずっとあそこにいたのか?」
一部始終を見ていたクリスが言った。
「そうよ。見つかるかと思ってすごく怖かった。あの人が魔法使いだよね?」
息を切らしながら言うと、クリスはため息をついた。
「そうだよ。あまり心配させないでくれ。俺はここから出られないんだから、何かあっても助けてやれないよ」
「そう言ってくれるだけでうれしいよ」
エレナが答えると、彼は黙って、目を細めた。
その日、クリスは初めて、屋敷の中を案内してくれた。
今まで入れるつもりはなかったそうだが、エレナの行動を見て、どこに何があるか、きちんと教える事に決めたらしい。
屋敷の中は温かみに満ちた木造づくりで、居心地がよさそうな場所だった。ただ、住みやすそうなのは暖炉のある部屋だけで、あとは灯りもつけられず、ほとんど使われていないようだ。
小さな部屋に本棚がしきつめられ、ほこりを被っているのを見たときは、勿体ないと思わずにはいられなかった。
「ずっと使われていない訳じゃないよ。あの男は本が好きみたいで、帰ってくると時々読んでるから」
見かねたのかクリスが言った。
「あなたも読むの?」
「いや。俺は字が読めないんだ。必要ないって言われて、教えてもらえなかった」
恥ずかしそうに俯くクリスに、エレナは言った。
「それ、わたしと同じだわ」
顔をあげた少年に、微笑み返す。
時々、自分たちがそっくりだと思うことがあった。
例えそれが些細なことでも、二人とも、なぜか嬉しく思うのだった。
屋敷を案内しながら、クリスは魔法使いについても説明してくれた。
とは言っても、彼もほとんど、詳しいことは知らないようだった
男の名はマルクレーン。いつも長いローブを着ているから、彼の表情ははっきり見えないのだという。ずっと前からクリスをここに閉じ込め、自身の魔力だけが反応して開くよう、門に魔法をかけたそうだ。
「だから、お前が通れるのはおかしいんだよ」
彼はそう言ったものの、エレナにも理由は分からないのだ。
訝しげな少年に首を振って見せれば、彼はため息をついて続きを話してくれた。
マルクレーンは昼の間出かけていて、屋敷には夜にしか帰ってこない。その代わりにクリスが不自由な生活をしないよう、枯れることのない湧き水と、あらゆる果実の木を用意してくれたらしい。
エレナは驚いた。庭には何度か来ていたが、そんな素晴らしい場所だったとは知らなかったのだ。
「すごい。それじゃ、ここで一生暮らすこともできるのね」
「そのための庭だからね」
「それなら、こんど外から他の食べ物を持ってきてあげるわ。食べたことないでしょ?」
「他の? お前の食料なんてただでさえ少ないだろ。自分の分を減らして分けるつもりなら、受け取らないからな」
言い当てられて俯きそうになるが、エレナはめげない
「ねえ、どうせなら二人でここから出ようよ。一生懸命頼めば、リーラ叔母さんもあなたの面倒を見てくれるかもしれないわ。なんとかして柵を越えるの」
「何度も言ってるじゃないか。出たところでどうする? マルクレーンはすぐに俺を見つけるだろう。もしそこにお前がいたら?」
少年の舌は、珍しくよく動いた。
「お前は俺の記憶を消されるか、もしかしたら殺されるかもしれない。そんなの耐えられない」
クリスは真剣な声で言う。けれど、エレナは納得できなかった。
「でもあなた、本当は、いつも外に出るのを夢見てるでしょ?」
それは毎日クリスを見ていれば分かることだった。
変わらない表情の中で、唯一物を言う目は、時々嬉しそうに、悲しそうに輝きを変えた。
エレナは知っていた。
外の話をするとき、クリスがいつも目を輝かせるのを。
別れ際、門をはさんで見る彼の目は、どこか遠くを見つめるようで、ひどく悲しげだったことを。
「俺は、外には行かないよ」
クリスは繰り返した。
「今の生活で満足してるんだ。マルクレーンがなんでも揃えてくれる。ここには何でもあるんだから」
嘘だ、とエレナの心は悲鳴をあげた。
けれど、何かを決心したようなクリスの目に、何も言い返すことは出来なかった。
ふるふると木々が揺れている。
何かの到来を告げるように。
いつの間にか日は傾き、夜が足早に近づいていた。




