訪れる夢の夜
本殿の大広間は人でにぎわっていた。
華やかな光を放つシャンデリアの下、色とりどりの人々が踊っている。
ワインを片手に話す人々は、皆笑顔を浮かべていた。
離宮で過ごすエレナは、普段はこの場所に来ることすらないのだ。
何年も城にいるのだから、過去に来たことがあるのかもしれないが、思い出すことはできなかった。こんな大きな部屋があったのかと驚くばかりである。
それは、シルヴィアが政になかなか参加できていないことを意味していた。
エレナは複雑な思いでシルヴィアを見たが、今日は悩むだけ無駄だと思えた。
それというのも、彼女は今までにないほどごきげんなのである。
「舞踏会はね、父様が亡くなった年からずっと行われていなかったの。一度自粛したまま、なんとなく毎年何もせずに流れていったのよね。兄様に頼んでみて良かったわ」
「姫様が陛下にお声をかけて下さったおかげで、この舞踏会が味わえるんですね。ありがとうございます」
微笑みかければ、シルヴィアは心底嬉しそうに言った。
「お礼は兄様に言うべきよ。来賓の方々や準備の手配は、兄様が全てして下さったの。部屋の装飾やあなたのドレスは、わたしが手配したのだけどね」
そう言って笑いかけると、エレナを上から下まで見つめる。
「ああ、それにしても、やっぱりこの色にして良かった。あなた、このドレス本当に似合ってるわよ」
実は、シルヴィアはさっきから何度もこのセリフを繰り返しているのである。親友を見るたび、どうしても口から出てしまうらしい。
最初はエレナもお礼を言っていたものの、ここまで騒がれると恥ずかしくなってしまう。
「わたしより、姫様こそお似合いです」
「謙遜しなくていいわ。あなたの可愛さは誰よりも私が知っているんだから!」
こんな調子である。
エレナはまじまじと王女を見つめた。今の言葉を、そっくり彼女に返したい。
着飾った彼女は、いつも以上に華やかだ。
煌びやかな青いドレスに身を包み、真珠の髪飾りをつけている。
頬を桃色に上気させ、楽しげに話すシルヴィアは、うっとりするほど美しい。
――――姫様は、もう少し自分の美しさを自覚した方がいいのに。
向こうから、幾人かの紳士が、ちらちらとこちらに視線を投げている。
「姫様、あちらの殿方達が姫様を見ていますよ」
エレナは声をかけたが、シルヴィアの目は翳った。
「あの人が、見つからないわ」
その言葉で、エレナも誰のことかすぐに分かった。
シルヴィアは一心に会場を見回している。
その時、エレナはその男を見つけた。ロレンツォは人ごみに紛れ、ちょうど姫に見えない角度に立っている。着飾った様子もなく、給仕から飲み物を受け取っていた。
彼は踊る素振りもみせず、時折こちらを観察していた。
――――どうしてなの?
エレナは喉まで出かかった声を抑えた。
――――姫様はこんなにあなたを思っているのに。どうして隠れるように立っているの?
そこまで考えて、エレナはハッとした。
以前、ジェロームは期限付きで彼を雇ったと言っていた。
行商人の恰好をさせ、姫を見守るように頼んだと。
何かが、じわりじわりと心を侵食してくる。
分かりかけた事実に蓋をしようとしたが、できなかった。
――――あなたは、いつも仕事をしているだけなの?
口にすることもできず、一心にロレンツォを見つめた。
――――姫様には、本当に何の感情も持っていないの?
食い入るような目線に彼は気付かない。いや、気付かないふりをしているに違いなかった。
エレナの様子に気づいて、シルヴィアがその方向を見る。
「彼を見つけたの?」
エレナは慌てた。
「い、いいえ」
しかし、間に合わなかった。
「ちょっとどいて」
シルヴィアがエレナをそっと押しのける。その方向を見た彼女は、目を見開く。
エレナは顔を背けたくなった。
ロレンツォを見つけた彼女の横顔が、悲しそうに歪んだからだ。
「あの人、どうしてあんなところにいるの?」
シルヴィアはすかさずこちらを見た。エレナにだって明確な理由は分からない。けれど、王女は誰かに聞かずにはいられないようだった。
「わ、分かりません」
シルヴィアは彼を食い入るように見つめている。
「まるで、私に隠れているみたいじゃない! どうしてなの?」
そう言ってエレナの手を握りしめた。本人は握った事すら気付いていないのかもしれない。
強く握られた手にエレナは何も言えなくなって、そっと握り返した。
彼女の見ている方向には、既に彼の姿はない。人ごみに紛れて消えてしまったようだった。
「私、あの人に見てほしくて、着飾って来たのよ」
シルヴィアは泣きそうな顔をして、俯いた。
その間にも、何人もの紳士がこちらを見ていることに、エレナは気付いた。
シルヴィアは、自分に向けられている数多の視線に気づいていないようだった。彼らは一国の王女に声をかけることを戸惑っているようだが、何人かは近づく機会を伺っている。
今の彼女では何人の男がダンスに誘っても、すべて断りそうだ。それはまずい。更に評判が下がってしまうだろう。
エレナは姫に同情しながらも、一生懸命明るい声を出した。
「姫様、あんな薄情な人は忘れてしまえばいいんですよ。ほら、あそこの緑の服を着た方、とてもお美しいですよ」
必死で姫に声をかける。
緑の服の紳士は、今まさに人を掻き分けてこちらへ向かってくるところだった。
どうしようかと慌てている間に、紳士はとうとう目の前に来てしまう。
「あ、あの」
「初めまして。お美しい方々。私はサイラス・クロウリー。国王陛下とはかねがねお付き合いをさせていただいています」
サイラスは丁寧にお辞儀をした。
なにしろ、舞踏会は初めてなのだ。エレナはどぎまぎしながら頭を下げた。
「初めまして。わ、わたしはエレナと言います」
自分の言葉の幼稚さに悲しくなる。シルヴィアなら、もっとうまく返事が出来るだろう。そう思いながら隣を見たが、彼女は押し黙ったままだ。
エレナは急いで続けた。
「こ、こちらはわたしの主で、王女であるシルヴィア様です」
シルヴィアもやっと顔をあげる。
「初めまして」
なんとか涙をこらえたようだが、ともすれば、彼女はひどく落ち込んで、まともな会話すらできないように思えた。
それには気付かないのか、サイラスは微笑んで姫に向き直る。
「お会いできて光栄です。お噂には聞いていましたが、まるで月光のように美しい方ですね」
いつもの姫なら、「まあ、お世辞が上手ね。踊って差し上げてもよろしくてよ」くらいは言いそうだが、彼女は喉をつまらせたまま、何も答えない。
エレナは仕方なくサイラスの手を取った。
半ば強引にこちらへ向かせる。
「姫様は少し疲れていらっしゃるのです。代わりにわたしのお相手をしてもらえませんか?」
ぎこちなく微笑みかける。彼は不思議そうな顔をしたが、すぐに微笑み返した。
「そうでしたか、ではご一緒させて頂きます」
優雅な仕草で広間の中央へと向かう。エレナは彼について行きながら、振り返ってシルヴィアを伺った。遠くなっていく王女は、今も俯いたままだ。
もし次に誘う者があれば、エレナはもう助けることはできない。
「何か気になることでも?」
サイラスに尋ねられ、エレナは急いで首を振った。
「いいえ、初めての舞踏会なので、緊張しているだけです」
「愛らしい方だ」
サイラスは微笑んだ。エレナは心配を隠したまま、なんとか笑みを浮かべる。
そうして踊りは始まった。
流れ始めた音楽は、優雅で美しいものだった。
シルヴィアと共に踊りを習っていたエレナは、ダンスに困ることはない。緊張しているのは確かだが、相手は慣れているようで、優しくエスコートしてくれる。
なんの不足もないのに、エレナは気が気ではなかった。
回転するたびにちらちらとシルヴィアの様子を伺う。時折サイラスが疑問を持ったように見つめてくるが、そのたびに懸命に微笑み返した。
曲も半ばを過ぎた頃、シルヴィアの元に一人の男性が近づいて行くのが見えた。先程視線を送っていた多くの紳士の一人だろう。エレナはなんとかして止めたかったが、どうすることもできない。
「君は、誰をそんなに見ているんだい?」
不意にサイラスに聞かれ、エレナはうろたえた。
「あ、あの」
「参ったよ。心に決めた人がいるなら、先に言ってくれればいいのに」
困ったように言うサイラスに、エレナは必死で笑みを浮かべる。
「そんな方はいませんよ。あなたと踊ることができて嬉しいです」
申し訳ないと思いながら、視界の端で姫を捕えたが、見知らぬ紳士は今まさに彼女に話しかけるところだった。このままでは、悪い事しか起きないだろう。
――――どうしよう!
冷や汗を垂らしながらサイラスに微笑みかけていると、向こうから別の人影が現れるのが見えた。
その男は紳士が声をかけるよりも先に、するりと姫の前に躍り出る。
姫はほころぶような笑顔を見せた。
男は彼女の手を取って、微笑み返す。
――――ロレンツォ。
なぜ今になって姫に声をかけたのだろう。気が変わったのだろうか。
しかし、そんなことはどうでも良かった。
――――姫様の元に、来てくれたのね。
気が付けば、姫の傍にいた紳士は諦めたように去ってしまっていた。
一部始終を見ていたエレナはほっと息をつく。
そうこうしているうちに曲が終わった。
「とうとう君は私を見てくれなかったね」
半ば心外だというように、サイラスは言った。
さすがに失礼だったと思い、エレナは真摯に謝った。
「申し訳ありません。どうしても姫様のことが気になって」
しかし、彼は困ったように笑った。
「隠さなくてもいい。想い人がいるなら、素直になるべきだよ」
なんだか勘違いをしているようだ。
彼は苦笑したまま、エレナが説明する前に行ってしまった。
だんだん冷静になってきて、エレナは反省した。あんな上の空で相手をされれば、誰だって嬉しくはないだろう。サイラスは次のパートナーを探しに行ったに違いない。
一人ため息をついていると、周りからひそひそと囁く声が聞こえた。
「あれが噂の姫君か。性格は悪いそうだが、見目は大層美しいな」
「それにしても、なぜあんな男と踊ってるんだ?」
はっとして振り返ると、何人かの男女が広間の中央を一心に見据えていた。
そこには美しい王女と、背の高い男が踊っていた。
シルヴィアは青いドレスを優雅に翻し、独特の気品に溢れている。
それに対し、ロレンツォはいつもの行商人の恰好をしていて、シルヴィアと比べると、あまりに華やかさに欠けていた。
後ろからは、何人のものかも分からない声が、しきりに飛び交っている。
「行商人風情じゃないか」
「着飾る様子もないのを見ると、他の紳士を舐めているのかね」
「そうではないさ。着てくる服もなかったんだよ」
どっと笑い声が響き、エレナは悲しくなる。
彼らに言い返したかったが、ここで自分が騒ぎを起こせば、シルヴィアの迷惑になるだけだ。
「それにしても、姫君はなぜわざわざあんなみずぼらしい男を選んだんだ?」
「決まってるじゃない。あの男が好きなのよ」
エレナはびくりと肩を揺らす。
「本気で言ってるのか? 姫はとんだ悪趣味だな」
「腹違いの子ですもの。所詮その血が流れているのよ」
叫びたい衝動をぐっと飲み込む。
シルヴィアはいつも我慢しているのだ。自分も耐えなければ。
その時、目の前を通り過ぎた王女にはっとした。
彼女の横顔は、とても幸せそうだった。
その視線はまっすぐ愛する人に注がれていて、嫌な事など、何もないかのようだった。
――――今だけは、何も気にする必要はないんだわ。
エレナは彼女を見つめた。
確かに、シルヴィアはいつも陰口をたたかれて苦しんでいる。でも今だけは、心配することすら馬鹿らしく思えた。そんな必要はどこにもない。
――――姫様の目には、ロレンツォしか映っていないのだから。
それに気づき、エレナは知らずに微笑んだ。
楽しげに踊るシルヴィアは、かつてない程輝いていた。
その美しさは、きっと愛によるものだ。
愛する人の傍にいるのは、どれだけ幸せなことなのだろう。
エレナはふと思った。
自分には、あそこまで愛する人ができるのだろうか。
その時唐突に、燃えるような目を思い出した。
――――クリス。
なぜか、あの少年の顔が浮かんでくる。
確かに彼のことは好きだ。長い間再び会える日を思い続けてきた。
でもそれは恋でなく、友人に向ける想いだった。
それなのに今、彼を想うだけでこんなにも胸が熱い。
逆に、クリスは自分をどう思っているのだろう。
シルヴィアの部屋で話してから、彼とは今日まで会っていない。
友人に戻ってもいい。そう言った彼は、続けてこうも言ったのだ。
――――あまりお前とは関わりたくないんだ。分かるな?
会いに行こうとするたび、その言葉が枷となって、足は動かなくなった。
伝えたいことはたくさんあるのに、再び拒まれたらと思うと、怖くてたまらなかった。
そんな自分の弱さがいやで、エレナは再び会場を見回す。もしかしたら、今まで無意識に彼を気にしないようにしてきたのかもしれない。
あんなに会いたかったからこそ、会うのが怖かった。
でもやはり、きちんと話をすべきなのだ。
「誰をそんなに探しているんだ?」
突然、誰かが後ろから声をかけてきた。
はっとして振り返ると、そこには、金の髪に青い瞳の青年が立っていた。
「国王陛下……」
エレナは肩の力を抜いた。
そんなエレナに、ジェロームは優しく笑いかける。
「実は、踊ってくれる相手を探しているんだよね」
その言葉は、まっすぐこちらに向けられている。エレナは驚いて国王を見た。
「……わたしと踊って下さるんですか?」
そう尋ねれば、彼はにこりと微笑んだ。
「君さえよければ」
ジェロームの足取りは優雅だった。彼はやはり彫刻のように美しく、エレナは緊張のあまり、時々足を踏んでしまう。
「申し訳、ございません!」
懸命に謝るが、彼はやはり微笑んでいた。
「気にしてないよ。そんなに恐縮する必要もない。君にはお礼が言いたかったんだ」
エレナは顔をあげる。目が合うと、ジェロームは優しく言った。
「さっきから君を見ていたけど、君は本当にシルヴィアを大切に思ってくれているね」
エレナは口を開こうとしたが、言葉がすぐに出て来ない。国王は青い瞳を細めた。
「ぼくは全部分かっているんだよ。君はずっと、妹を気にかけてくれている」
その言葉に気恥ずかしくなって俯くと、彼は嬉しそうに言った。
「やはり君たちに頼んで正解だった」
君たちというのは、ロレンツォのことも含んでいるのだろう。エレナがそう考えていると、ジェロームは遠くを見ながら言った。
「見てごらん。あの子、あんなに幸せそうな顔をするんだね」
その目線の先にはくるくると回るシルヴィアとロレンツォがいた。
「ぼくはあの子の傍にいることはできないけど、こうして舞踏会を開けば、いつでもあんな笑顔が見られるんだ」
ジェロームは寂しそうな微笑みを浮かべた。
この青年はシルヴィアと同じで、自分が他人に見られていることを知らないようだった。きっと、シルヴィアに慕われていることにすら気づいていないのだ。
それを知ってほしくて、エレナは思わず声をかけた。
「姫様が笑っているのは、陛下のお陰です」
ジェロームが驚いたようにこちらを見る。
「この舞踏会が開かれたのも、陛下が姫様の願いを聞き届けて下さったからです」
「でも、それは君のために……」
否定しようとする国王に、なおもエレナは言った。
「陛下のお力があったからこそ、姫様はここで踊り、あんな笑顔を見せているんですよ。それに、姫様はいつも陛下の自慢話をなさるんです。兄様はやっぱりお優しいとか、お美しいとか、賢い方だとか。それはもう、うんざりするほど」
最後に自分の本心が混ざってしまってはっとしたが、国王は怒った様子もなく、それどころかくすくすと笑っていた。
「うんざりかあ、初めて言われたな」
あっけにとられるエレナの前で、国王は楽しそうに言う。笑っているのに、その目は何かを秘めているようだった。
「ああ、ぼくはやっぱり君が……」
そこまで言って、ジェロームは笑うのをやめた。
「これ以上は駄目だね。彼に怒られてしまう」
「陛下?」
意味も分からず問いかけると、ジェロームはいつもの笑みに戻った。
「もうそろそろ曲が終わる。君と踊れて楽しかったよ」
どこか憂いを湛えた顔に、エレナは分からないという顔をした。
「まだ何かお話があるのでしたら、もう一曲」
「駄目だよ」
国王は静かに笑った。
「ほら、君を見る視線があちこちから来てる。」
エレナは首をかしげた。
「姫様への間違いでは?」
ジェロームは首を振る。
「君は自分の魅力に気付いていないんだよ。ほら、あそこにいる男が見えるかい? あの目、まるで燃えているようだ」
彼が揶揄するように見た先には、あの少年がいた。
「クリス……」
思わずつぶやけば、ジェロームはエレナの手を離した。
「それじゃあ、ぼくはこれで」
そう言ったきり、彼は人ごみにまぎれて消えてしまった。
燃えるような目は、今もじっとこちらを見つめている。
エレナが見つめ返せば、彼はゆっくりとやって来た。
どうしてだろう。心臓が強く打ち始める。
鳶色の目は、エレナを捕えて離さない。
――――クリス
何か言いたいのに、やはり言葉はでてこない。
彼は、確かに自分を見ている。
けれど燃えるような瞳は、幼い頃に見た、憎しみに満ちたものではない。
もう、怖くはなかった。
彼の瞳が湛える感情が、何なのかは分からない。
ただ、その目に自分が映っていることに、確かな喜びを覚えた。
クリスはエレナの前までくると、静かに一礼した。
初めて出会った時、少女がそうしたように、手を差し述べる。
「一緒に踊ってくれないか?」
あの日、少年がそうしたように、エレナはそっとその手をとった。




