歪んだ微笑み
数刻が経ち、なんとか立ち直ったエレナはシルヴィアの部屋へ向かった。
ずっと泣いている訳にはいかない。自分はシルヴィアの傍で働く役目があるのだ。
涙を拭き、いつもの笑みを練習して部屋に向かったものの、その顔を見たシルヴィアは、すぐに尋ねた。
「ずいぶん遅かったじゃない。……なにかあったの?」
エレナは城門前に倒れていた少年の話をした。ジェロームが彼を救護室に運ばせ、自分も見舞いに行ったこと。ただ、彼と自分の関係や、何を言われたかは話すことができなかった。
「倒れている子どもを救うなんて、さすがは私の兄様だわ」
ジェロームに冷たい素振りを見せられていても、シルヴィアにとってやはり、彼は大事な兄であり、尊敬できる国王らしかった。
元気になったシルヴィアを見て、エレナは罪悪感に捕らわれていた。
隠し事はなしと互いに言っておきながら、ずっと「魔」である少年のことも、自分の魔力のことも隠してきたのだ。クリスや自分の身を守るために作った秘密は、長い間にどんどん大きくなっている気がした。
いっそのこと話してしまおうかとも思ったが、どうしてもできなかった。
少年と知り合いであり、自分達が「魔」であることを教えれば、シルヴィアは親身になって秘密を共有してくれるだろう。
しかし、もし城の人間に知られれば、シルヴィアは「魔」を庇った者として、更に冷たい目でみられるはずだ。もしかしたら、ヴァーグに幽閉されるかもしれない。
ジェロームにシルヴィアを守ると約束したのだ。
そんなことは許されなかった。
「エレナ、そのけがしたって子、どんな子だった?」
「……とても、いい人、でしたよ」
無邪気に言うシルヴィアに、エレナはつっかえながら答えた。
クリスが現れた今、隠し続けるのは困難かもしれない。この秘密がばれた時のことを思い、エレナはぞっとした。
*
日を追うごとに、城は活気づいていた。
その間も、エレナの心はクリスのことでいっぱいだった。
本殿と離宮という違いはあっても、同じ城の中にいるのだ。
とりあえず謝ろう! そう思って何度か会いに行こうとしたが、結局できなかった。
もう一度「お前、誰?」なんて言われたら、今度こそ立ち直れない。
そうこうしているうちに五日が経ってしまった。
うわさでは少年の傷は治ったようだ。あまりの治りの速さに「化け物みたいだ」という者もいて、エレナは胸が苦しくなった。
なにより、傷が治ってほっとする気持ちと、彼が行ってしまうのではないかという思いがせめぎ合い、仕事も手に着かなくなりそうだった。
「なにをそんなに焦っているの?」
見かねたのかシルヴィアが聞いた。
「……わたし、焦っているように見えますか?」
エレナが聞き返すと、シルヴィアは頷いた。
「ええ、悩みがあるなら相談してちょうだい」
優しい言葉を掛けられると、ますます胸が締め付けられる。
「ちょっと考え事をしていただけです。悩みなんてありませんよ」
そう答えれば、シルヴィアは頬を膨らませた。十五の少女の仕草とは思えなかったが、シルヴィアがやると、愛らしく思えてしまうのだった。
「もう、あなたと私の仲じゃない」
彼女はエレナの傍に詰め寄り、顔を覗き込んだ。
「誰かに嫌な事でもされた? それとも具合が悪いの?」
心配しているというよりは、怒っているようだった。
大事な親友が話してくれないことで、自分が信頼されていないと思っているのだろう。その事は申し訳なく思ったが、こればかりは言えないのだ。
なんとかごまかそうとしたものの、うまく言葉が出てこない。
困り果てたその時だった。
「姫君、失礼します」
聞きなれた声に、思わず振り向く。
扉の傍に、背の高い行商人が立っていた。
「ロレンツォ!」
シルヴィアはぱっと顔をあげる。
そのままロレンツォの傍へ走って行った。
――――助かった。
エレナはほうっとため息をついたが、ロレンツォの後ろに誰かが立っているのに気付いた。
シルヴィアが首をかしげる。
「あら、その人は誰?」
ゆっくりと入って来た少年に、エレナは固まった。
彼は丁寧に一礼すると、シルヴィアに向き直った。
「初めまして王女様。クリスと申します」
エレナやロレンツォを除いて、姫にこんな丁寧に挨拶する者はほとんどいない。シルヴィアは微笑み、ドレスの裾をつまんでお辞儀を返した。
「初めまして。シルヴィアです」
美しい王女に、クリスは微笑み返す。
エレナは複雑な思いでその様子を見ていた。
改めて見ると、小さかった彼は、美しく成長していた。
濡れるような黒髪に、鋭さを滲ませる鳶色の瞳。
青年というには早い、まだ幼さを残した顔立ちは、どこか懐かしさを覚えずにはいられなかった。
未だに、目の前の事実が信じられない。
あれだけ探し続けた彼に、やっと出会えたのだ。
しかし、そこにいるのは確かに彼なのに、彼ではなかった。
昔は無表情の中でも、瞳の中に煌めく光を見せたのだ。
それが今ではきちんと表情を変え、確かに微笑んでいるのに、まるで何も見ていないかのような目をしていた。
この再会はあまりに唐突だった上、長年夢見ていたものとはまったく違ったのだ。
こちらを見てほしくて、エレナは一心に彼を見つめた。
少年は時折ちらりとこちらを一瞥する。しかし何を言うのでもなく、あくまでエレナがいないかのようにふるまった。
その態度に、エレナは深く傷ついた。
会ったらまず謝ろうと思っていたのに、それすらできなくなってしまった。
あの少年の憎しみは想像以上に強いらしい。
クリスは、話しかけることすら許してくれないように思えた。
少年と姫は仲良くやりとりをしている。
エレナは何も言えず、その場に立ち尽くした。
不意にロレンツォが言った。
「クリス、あちらにいるのがエレナだ。挨拶してきたらどうだい?」
少年はロレンツォを睨むと、シルヴィアに一礼して、こちらへやってきた。
音もなく歩いて来るクリスに、エレナは動けなくなる。
これ以上傷つくのは怖かった。
しかし、逃げることもできず、ただ近づいてくる少年を見つめることしかできない。
クリスはお辞儀をすると、エレナを見つめた。
「初めまして。エレナさん」
涙も出なかった。
ただ、喉はからからに乾き、立っているのもやっとだった。
きつく唇を噛み、唾を呑みこむと、やっと声を絞り出した。
「は、じめまして」
彼は微笑んだ。
弧を描いた口は、どこかいびつで、つくりもののようなその笑みに、エレナは違和感を覚えた。
皮肉めいた態度もそうだが、クリスはこんな表情をする子どもではなかったのだ。
何が彼をここまで変えてしまったのだろう。
「……クリス、」
言ってはいけないような気がしたが、言葉は勝手にこぼれだした。
「どうして、そんな顔をするの」
少年は笑みを崩した。
その瞳は、どうしていいか分からないというように、ひどく揺らいでいる。
ロレンツォとシルヴィアは、驚いたように、黙ってその様子を見ていた。
エレナが思わず歩み寄ると、クリスは一歩さがる。
怒っているのか、泣いているのかも分からないその顔を見て、エレナは話しかけずにはいられなかった。
「わたしのことを怒っているんでしょ? 許せないのは分かるわ。許してとも言わない。でも、お願いだから知らないふりなんてしないで」
クリスは黙ってこちらを見た。その目はまるで怖いものを見るかのように、怯えていた。
エレナは胸につかえる何かを吐き出すように、揺らぐ瞳で尋ねた。
「……わたしが、怖いの?」
少年は一瞬はっとして、すぐに元の笑みに戻った。
「怖い訳ないだろう」
そう言って一つため息をつくと、エレナを見返した。
「――お前がそう言うなら、少しの間だけ友人に戻ってもいい」
先程の恐れる素振りはどこにもない。ただその顔は、やはりどこか歪んでいるように見えたが、エレナは嬉しさのあまり、それには気付かなかった。
「い、いいの!?」
思わず手を取るとふり払われた。
「少しの間だけだ。あまりお前とは関わりたくないんだよ。分かるな?」
エレナは伸ばした手を引っ込めた。これは仲直りでもなんでもない。自分の一方的な願いを、彼が諦めて聞き入れただけだ。
許すつもりなど毛頭ないのだろう。
それでも、喜びを感じずにはいられなかった。
仮初でも、もう一度友人になることができたのだ。
もう少し一緒にいられるのだと思うと、それだけで幸せな気持ちになった。
そんなエレナに、少年は困ったように言った。
「あまり喜ぶなよ。俺はいつかこの城を出て行くかもしれない」
「分かってる」
それでもエレナは微笑んでしまう。
これが嘘の関係だったとしても、嬉しかった。
例え少しの間でも、傍にいることを許されたのだから。
*
「あなたが落ち込んでいたのは、あの子のせいだったのね!」
少年が去った後、シルヴィアはエレナに駆け寄った。
「喧嘩していたんでしょう? 相談してくれれば良かったのに」
エレナはシルヴィアを見た。
「ありがとうございます。でも、もう仲直りしましたから」
シルヴィアは納得いかないというように言った。
「いいえ。あなた達がどういう関係かはしらないけど、少しの間だけの友人なんてだめよ。そんなの仲直りなんて言わないわ」
エレナは目を伏せた。
「でも、わたしはこれでいいんです。彼はわたしに関わりたくないって言ってるし。短い間だけでも戻れるなら、構いません」
「またその顔。ぜんぜん納得していないじゃない」
シルヴィアは怒ったように言った。
エレナは顔をあげる。
――――違う。わたしは納得してる。
そう思い込もうとしたが、苦しくなった。
まるで、間違ったものを飲みこんでいるみたいだ。
傍でシルヴィアがため息をつく。そんな彼女を見て、エレナは何かが分かりかけた気がした。
――――わたしは、彼に許してもらいたいのだろうか。
そんな傲慢な願い、捨てたはずだった。
傍にいられるならそれでいい。
少しの間だけでは嫌だとか、笑いかけてほしいとか、そんな風には――――
「ねえエレナ」
王女は真剣にこちらの目を覗き込んだ。
「自分の気持ちを隠すのはあなたの悪い癖よ。欲しいものには、きちんと手を伸ばすべきだわ」
エレナは唾を呑んだ。なぜか舌が回らない。
「でも、彼は、わたしが関わったら迷惑だって、そう言ったんです」
シルヴィアは首を振る。
「お節介だったら申し訳ないけど、これだけは言わせてもらうわ。あの子、あなたが思っているほど、あなたを嫌っているようには見えない」
エレナは顔をあげた。
「ほん……とうに?」
「ええ。あなたのことを迷惑だなんて、絶対に思ってない」
シルヴィアは間違いないというように言った。
その根拠はどこからくるのだろう。
エレナが首を傾げていると、シルヴィアは何かを思い出したように言った。
「そうだわ! あなたの分も用意しておかないと!」
一体何のことだろう。不思議に思って尋ねようとしたが、シルヴィアの楽しげな声に遮られた。
「エレナ、ごめんなさいね。夕食は一人で食べてちょうだい」
「は、はい」
訳も分からずに返事をすると、シルヴィアはドレスの裾をたくし上げ、軽やかな足取りで部屋から出て行ってしまった。
何がそんなに楽しいのだろう。
エレナは静かになった部屋で、呆然と扉の方を見た。
彼女は浮足立っている。それは舞踏会があるからだが、何か他のことを隠されている気がする。
侍女達に話しに言ったところを見ると、エレナだけが知らないらしい。
なんだか一人だけ取り残されている気分だ。
ここまでされると、さすがに寂しくなってくる。
――――姫様だって、わたしに隠し事をしてるじゃない。
大きな部屋に、ぽつんと一人でいると、ぬぐえない孤独が襲ってくる。
ずっと、少年や自分の秘密を黙っていることに罪悪感を持ってきた。
しかし、そうして悩んでいたことすら馬鹿馬鹿しく思える。
肩を落とし、ふてくされたように扉を見つめた。
――――隠し事されるのって、こういう気分なんだ……。
広い部屋で、エレナは一人ため息をついた。




