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ハルシュトラールの夜の果て  作者: 星乃晴香
第五章 永遠のような一時
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やって来た彼


 救護室に入るのは初めてではない。以前トラヴィスの屋敷で、ナイフで首を傷つけられた際に、ここで手当てを受けたことがある。

大した傷ではなかったのだが、シルヴィアが治療を受けろと言ってきかなかったのだ。そのお陰もあって、今はほとんど傷跡も残っていない。

 しかし、「(ノヴル)」に襲われたという子どもは、あの時とは比べものにならない程の苦しみと痛みを負っているだろう。思わず来てしまったが、自分が会っていいのかどうかも分からなかった。



 意を決して救護室の扉を叩こうとすると、扉の両脇にいた兵士がエレナを睨んだ。

「入るな」

 以前はここまで警備が厳しかっただろうか。

 エレナは凄みのある目にくじけそうになったが、兵士を見返した。

「あの、確認したいことがあるんです。それが分かったらすぐに出ますから、中へ入れてもらえませんか」

「だめだ」

 兵士は即答した。

「今、中には陛下がいらっしゃる」

 エレナは驚いて兵士を見つめた。

「陛下が? 朝からずっとですか?」


 帰ろうとしないエレナに、兵士は面倒くさそうに答えた。

「仕事の合間を縫って様子を見に来ているんだ。あの方はお優しいからな。どちらにせよお前のような部外者を入れる訳がないだろう」

 どうやら「(ノヴル)」に襲われた人間は、ジェロームの興味を引いたらしい。ジェロームとはこの前話をしたばかりだが、それでもずかずかと中に入る訳にはいかなかった。これでは一旦引き下がるしかない。

「……分かりました。すみません」


 仕方なく来た道を戻ろうとすると、ふいに扉が開いた。

「どうしたの? なにかあった?」

 その隙間から、美しい金髪が見えた。

「陛下!」

 二人の兵士は居住まいを正した。ジェロームはエレナを見つけると、微笑んで顔を覗かせた。

「ああ、君か。僕になにか用かい?」

 兵士達は驚いたようにエレナを見た。

 ジェロームに用があったわけではないのだ。エレナがどう答えようかと困っていると、彼はそれを察したように言った。

「けがをした子の話を聞いて、見舞いに来たんだね?」

 物分かりの良さに感謝しながら、エレナは頷いた。

「はい」

「そうか。君たち、通してあげて」

 彫刻のような顔は、そのまま中に引っ込んでしまった。

 兵士達はもう、何も言う気配はなかった。その目は信じられないというようにこちらを見ていたが、エレナは気にしないようにして、そっと扉に手をかけた。



 中は、白一色の部屋だった。以前来た時もそうだったが、改めて落ち着いた場所という印象を受ける。

 救護室は二部屋に分かれており、両方とも大きめに造られている。最初の部屋は傷やけがの治療室で、薬の瓶が棚に並べられており、奥の部屋はたくさんのベッドがしつらえてあった。ベッドを使えるのは重病人や重傷者で、大抵は一つ目の部屋で治療を受けて済んでしまう。ここ最近は戦争がないこともあって、二つ目の部屋は、あまり頻繁には使われていなかった。

 ジェロームは既に奥の部屋へ行ったのだろう。最初の部屋にはロレンツォと一人の兵士がいるだけで、とても静かだった。

 久しぶりに来る救護室に、エレナはなぜか緊張していた。部屋は独特の緊迫した空気に満ちており、向こうから時折ジェロームの話す声が聞こえる。


 扉の傍に立つロレンツォに、行ってもいいかと目で問うと、彼はまっすぐにこちら見つめてきた。

 それは今までにない真剣な目で、エレナははっとした。

 慌てて隣の部屋へ行くと、数あるベッドの一番奥に、誰かがいるのが見えた。横たわった状態から、今は半分体を起こしている。


 傍の椅子にジェロームが座り、時折声をかけていた。

 窓から入る日差しに、二人は陰になって見える。


 エレナは静かに歩き出した。

 知らずに、手をきつく握っていた。

 日差しの中を近づくにつれ、だんだんとベッドの人影がはっきりしてくる。


 そこに、彼はいた。


 鳶色の瞳が大きく見開かれる。

 エレナは微笑んでいいのか分からなかった。

 伝えたいことが山ほどあるのに、喉が詰まって声も出なかった。


――――会いたかった。

 エレナはクリスを見つめた。


――――ずっと会いたかったの。


 ジェロームが見ていることも忘れ、ベッドの側に近づいた。

 なんでもいい。何か言わなくちゃ。

 ずっと探していたこと、謝りたかったこと、もう一度傍にいたいこと。

 半ば混乱しながらも、なんとか口を開いた。

 だが、それよりも先に、クリスは言った。


「お前、誰?」


 何も答えられなかった。

 クリスも、この部屋も、何もかも遠のいていくように思われた。

 世界から、自分一人だけが取り残されていくような感覚。

 日差しの中の少年は、目の前にいるのに、あまりにも遠くにいた。



――――怒っているんだ。

 様々なことが怒涛(どとう)のように過ぎていく中で、それだけが、やっと分かった。


――――怒っているんだわ。わたしが裏切った時のこと。今までも、これからも、ずっと許す気はないんだ。

 彼の一言で、すべてが分かった気がした。

 自分がダリウスに騙され、居場所を教えたせいで彼は連れて行かれた。

 その先は知らない。

 けれどクリスはこの何年間、エレナのせいで苦しんだに違いなかった。


 どんなに謝っても無駄だと分かる。それでも謝りたかったが、できなかった。

 何かを一言言うだけで、泣いてしまう気がした。

 ここで泣くことは許されない。

 王の前だからではなく、クリスの前だからだ。自分が城の中で平和に暮らしている間、彼は苦しい思いをしてきたのだ。

 そんな自分が彼の前で泣くのは一番卑怯なことに思えた。


 クリスに背を向けると、一目散に部屋の外へ走り出した。

 国王の存在さえ忘れ、行商人の声すら聞こえなかった。救護室を飛び出し、長い廊下をどこまでも走って行く。

 回廊を渡り、離宮にある自室へ辿り着くと、力を失ったように床に座り込んだ。

 抱えた膝は、とても冷たい。


 あの声が。

 愛しいあの声が、ずっと聞きたかった。

 それなのに。


 エレナは膝に顔を押しつけ、声を殺して泣きじゃくった。



 飛び出した少女の遠ざかる足音を聞きながら、ジェロームはクリスを見た。

 光の中、少年は無表情でどこかを見ていた。

 一刻前、彼が目を覚ましたという知らせを聞いて、仕事を片付けて見にきたのだ。しかし助けた礼を言ったきり、この少年は何も喋ろうとしなかった。何度か声をかけてみたが、面倒くさそうに相槌を打つだけだ。

 今分かっているのは、南の町へ行く途中、この近くで「(ノヴル)」に襲われたということだけだった。

 家族や親せきについては「いない」と答えるばかりで、こちらを見ようともしない。

 しかし、そんな彼が一度だけ表情を変えた。

 妹に仕える少女が訪ねて来た時のことだ。エレナというその少女を見た途端、一瞬だけ、彼の目が揺らいだのだ。


「なあ」

 ジェロームは、横たわるクリスに声をかけた。

「どうして知らないふりなんかするんだ」

 クリスは遠くを見たまま言った。

「ふりではありません。あの子に会うのは初めてです」

「嘘をつくな。彼女、泣いていたじゃないか。どうしてあんなことを言った?」

「失礼ですが、親切とお節介を穿()き違えていらっしゃいませんか?」

 皮肉めいた言い方に、ジェロームは驚く。こんな物言いは、助けてもらった相手にも、一国の王に対してもするべきものではない。

 けれど、気のいい国王はそれで怒るようなことはなかった。

「君はずいぶんと率直な言い方をするね。他の人にそんな態度をとってはだめだよ」

「ご忠告ありがとうございます」

 またもや皮肉めいた言い方に、ジェロームはなぜか笑ってしまった。

 クリスが不機嫌そうに国王を眺める。

「何か面白いことでも?」

「君のような人は初めてだよ。皆僕に笑顔を作って、ご機嫌を取りにやってくるんだから」

「俺も、あなたみたいな考えの持ち主は初めて見ましたよ」

 呆れたような物言いに、やはり国王は笑ってしまう。

「気に入ったよ。君、家族もいないみたいだし、傷が治って後も、もう少しここにいてくれないか?」

 そう尋ねると、クリスは不思議そうにこちらを見た。

「なんのために? もちろん感謝はしていますが、治ったらすぐに出発しようと思っているんですが」

「頼むよ、話し相手になってほしいんだ」

 ジェロームがなんとか引き留めようとすると、クリスは困ったように言った。

「俺はあなたにとって、得体の知れない者だ。傍に置けば、何かするかもしれませんよ。それに俺と一緒にいれば、あなたの評判が下がるのでは?」

「そうだね、だけどもう周りの目を気にするのも疲れてしまったんだ。話し相手になってくれるだけでいいんだよ。それにもし君がエレナのところへ行ってくれたら、あの子も喜ぶんじゃないかな」

 言いながらちらりと彼の表情を伺ったが、そこには何の変化もなかった。

 クリスは少し考えた後、静かに頷いた。

「分かりました。ここに居ます」

「良かった、ありがとう」

 ジェロームはそう言ってから、はっとした。

 クリスの目が、ひどく悲しげだったからだ。




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