国王の願い
次の朝、エレナが目を覚ますと、シルヴィアはいなかった。
なんでも用事があるとかで、今日は別の者が傍に付いている、とのことだった。
――――わたしがあんな態度をとったからだわ。
エレナは朝食のパンを食べながら思った。
――――ルーバス宰相には、前に側近から外してやるって脅されたことがある。昨日怒らせてしまったし、そろそろ潮時が来たのかもしれない。
自分のせいだと分かっているのだが、シルヴィアの傍を離れなくてはならないのかと思うと、胸が苦しくなった。
一人で食べる朝食は、なんて味気ないのだろう。
エレナは一人、野菜を頬張った。
昼頃になり、コンコン、と部屋の戸を叩く者がいた。
急いで扉を開けると、立っていたのは、白髪を撫でつけた初老の男だった。
「ルーバス宰相……」
エレナは蒼白になった。
「あ、の、わたしに、御用ですか」
舌がうまく回らない。
宰相は面倒くさそうに言った。
「王がお呼びだ」
――――終わりだ。
宰相に怒られるならまだしも、国王まで出てくるというのだから、よほどの怒りを買ったらしい。
そこまで考え、エレナははっとした。
昨日会った、書庫管理の青年が頭をよぎる。
彼は言っていたのだ。陛下に報告する時、エレナの考えも伝えると。
もしかしたら、自分の言葉が本当に国王に伝わってしまったのかもしれない。
だとしたら、もう。
――――本当に、終わりかもしれない。
こわごわと宰相を見上げれば、彼はエレナを一瞥し、くるりと扉に向き直った。
「行くぞ」
エレナは解雇を覚悟した。
*
慣れない城の中央部を歩き、いくつもの廊下を経て通されたのは、執務室だった。
「では、私はこれにて」
扉の前で、ルーバス宰相は当然のように言った。
ここから先は、一人で行けという事らしい。
エレナは焦った。国王陛下は、シルヴィアを嫌って近寄ろうともしない人である。そんな相手と初めて会うというのに、二人きりにするのはあんまりだ。初めて、宰相に傍にいてほしいと思った。
「あ……あの……、」
「まだ、何か御用が?」
宰相がこちらを睨む。エレナが怯んでいると、彼は面倒臭そうに目を細め、足音を立てて行ってしまった。
やはり一人で行くしかないようだ。
仕方なく、エレナは荘厳な扉に向き直った。美しい金の装飾が施された扉は、それだけで威圧的だ。
「ふぅ……」
一つ深呼吸すると、意を決して扉を叩く。
中から返事が聞こえた。
もう後には引けない。
恐る恐る扉を開くと、中に誰かがいるのが見えた。
その人は物音に気付いて振り返ったが、エレナを見た途端、にこりと微笑んだ。
「やあ、よく来たね」
「あなたは……!!」
それはまぎれもなく、昨日廊下でぶつかった青年だった。
「そんな……あなたが、国王陛下!?」
「知らなかったのは君だけだよ」
にこにこ微笑む国王を、エレナはあっけにとられて見つめた。
昨日のことを思い出しているうちに我に返り、がばっと頭を下げた。
「昨日のご無礼をお許しください!!」
ああ、どうしよう。無礼どころじゃない。
目の前で、彼に対するあけすけな文句を言ってしまったのだ。
頭を深く下げたまま、地面を食い入るように見つめていると、ため息が降って来た。
「やめてくれ、レイモンドじゃあるまいし。堅苦しいのは嫌なんだよ。昨日だってルーバスに追いかけられて大変だったんだから」
昨日ルーバス宰相が探していたのは、国王だったらしい。
「あの人疲れるんだよね。誰もいないところで書類の整理をしたかったんだけど、すぐ見つかるし。とにかく、顔をあげてよ。もっと楽にしていいから」
エレナは恐る恐る顔をあげた。
「それでは……どうしたら宜しいでしょうか」
「うーん、そのままの君で話してくれ」
そう言われると、逆に難しい。
試行錯誤の上、結局固まっているエレナを見て、国王は笑った。
「ぼくはジェロームだ。君はエレナだよね。昨日君に会えて、ロレンツォから聞いた通りの子だと思ったんだよ」
彼は優しい微笑みを浮かべている。
「昨日話していて、君がどんな子か大体分かった。安心してほしい。ぼくは本当に本を壊した件も、君の言動についても、まったく怒っていないから」
本当に懐の深い人だ。エレナはほっとすると同時に、この人はきっと、その器の大きさで、この国を受け止めているのだろうと思った。
「ありがとうございます、陛下」
そっと微笑み返すと、手を差し出された。握手だ。
握り返しながら、エレナは尋ねた。
「あの……」
「なんだい?」
思っていたことを、恐る恐る口にする。
「わたしは、解雇されると思って来たのですが……」
ジェロームは目を見開いた。
「解雇!? とんでもない!!」
握られた手に力が込められる。
「君を呼んだのはね、お礼を言うためなんだ」
エレナはその迫力に気圧される。
「どういう……ことですか?」
ジェロームは微笑むと、やっと手を離した。
「実は先程、シルヴィアがぼくの部屋に来た」
「え……姫様が!?」
エレナはとても驚いた。
母が違うジェロームとシルヴィアの不仲は有名だ。二人が会っても、ジェロームはほとんど妹を相手にしないと噂だ。その事をシルヴィアの口から聞いたこともある。
そんなエレナの心中を察したように、ジェロームは言った。
「君の言いたいことは分かる。ぼくとシルヴィアは仲が悪い、そう考えてるんだろう。だけど、それは真実とは違う。……妹と久しぶりに話せて嬉しかったよ。あの子が自分で決心し、自分で部屋を出てここまで来た。これは君のおかげだ」
ジェロームは嬉しそうだった。
エレナは戸惑いながら彼を見つめる。
その視線を受けると、彼が身に纏った空気は緊迫したものに変わった。
「今から君に、大切な話をするから、よく聞いて。これは絶対に、シルヴィアには秘密にしてほしい」
エレナはただならぬものを感じて、頷いた。
「ぼくはこの国の王だ。アシオンの子孫であり、『人』の象徴であらねばならない。それは、皆の期待に沿える人物でなければならないと言うことだ」
ジェロームは静かに歩き、窓の傍に立った。
「でも本当はね、ぼくは弱いんだ。周りの者に逆らうこともできない、ただの弱虫」
エレナは何か言いたかったが、何も言ってはいけない気がして黙っていた。
「皆は、母が妾だからという理由で、シルヴィアを毛嫌いしている。だからぼくに、あの子に近づくなと言うんだ。小さい頃は何度も近づこうとした。でもその度に、彼女にいやがらせをする者が現れるんだ」
そう言うと、疲れたようにため息をついた。
「だから、妹を守るために、近寄らないことにしたんだ。ぼくがあの子を放っておけば、皆もあの子をに手出しはしない」
エレナは黙って聞いていた。
ジェロームは悲しげに微笑む。
「でも一人にするのは心配だろう。だから、誰かを傍に行かせることにした。あの子が六歳の時……ぼくが十三の時、ぼくは騎士団と共に、遠い地へ調査に行ったことがあるんだ。その時たまたま、がけ崩れで閉じ込められた青年を見つけた」
ジェロームは窓の外を見た。
差し込んだ光で、国王の姿は黒い影になっていた。
「旅人だったよ。一人で何でもやってしまう、優秀な青年だった。助けてやった代わりに、ぼくは頼んだんだ。ぼくの臣下となって、情報屋として働いてくれと」
エレナは息を呑む。
「彼はそれを引き受けて、ぼくの元で働くようになった。あの男は口もうまいし、そのくせ忠実だった。ぼくはまだ幼かったから、とても助かったよ。ただ、妹のところにそのまま行かせれば、ぼくの息がかかったものだとばれてしまう。だから、行商人の恰好をさせたんだ。あの人の客は実のところ、君とシルヴィアだけなのさ。今でも怪しんでいる人はいるけど、情報屋よりはましだろう」
エレナはなんとか笑って見せたが、胸が締め付けられてしょうがなかった。
ジェロームの声は悲しげだ。
陰になったその顔から、表情を読み取ることはできない。
「あの男はね。何よりも自由を愛していたんだ。それをぼくが縛りつけたんだよ。彼は大陸中の情報を集め、そのついでに行商人として売る商品を集めている。あちこちを自由に旅しているように見えて、僕の命令を遂行しているだけなんだ」
「逃げたことはないんですか?」
エレナは思わず言ってしまって、あわてて口を抑えた。
「すみません、失礼なことを……!」
黒い影が、こちらを向いた。
「いいんだよ。そう思うのも無理はない。そうだね……彼は、逃げたことはなかったな。こちらには騎士団がいるし、逃げても無駄だと思っているのかもしれない。あるいは、期限が終わるのを待っているのかも……」
エレナはどきりとした。
「期限……?」
「そう。ぼくは期限を設けた。そして、君にも彼と同じことを頼みたい」
ジェロームはエレナの傍まで来ると、まっすぐその目を見つめた。
真剣な瞳をして、彼は言った。
「シルヴィアが皆に愛される日まで、どうか傍にいてやってほしい」
エレナは息を呑んだ。
シルヴィアが皆に愛される日。
そんな日は、永遠に来ないように思われた。
ジェロームは、それを前提として言っているのだ。
彼女と別れることは考えたこともなかったが、死ぬまで一緒にいるということも、考えたことはなかった。
それでもふと、酒場の出来事を思い出す。
騎士達が口々にシルヴィアの悪口を言っていた日。
エレナは決心したのだ。
方法は分からないが、いつかこの状況を変えてみせると。
それに今は一つの思いがあった。
あの時の決心とは別に、ただ姫様のお傍にいたい、と。
「分かりました」
エレナは頷いた。
「あの方が多くの人に愛されるまで、わたしはずっとお傍にいます」
ジェロームはエレナの手をとった。
「ありがとう」
エレナが見つめれば、彼は心から嬉しそうに言った。
「本当に、ありがとう」
*
不思議な気持ちで部屋に帰ると、シルヴィアは既に戻っていた。
「もう、どこへ行っていたの?」
エレナの顔を覗き込む。
ジェロームは、シルヴィアには秘密にしてほしい、と言っていた。
それを思い出し、エレナはどぎまぎして答えた。
「えーと、姫様を探しに、行ってました」
「今日は別の人が付いてるって言ったじゃない」
シルヴィアはたしなめるように言った。
「でもいいわ。エレナ、私今、とても楽しい気分なのよ」
姫は言葉の通り、大層ごきげんな様子だった。
シルヴィアが国王と会っていたことを思い出し、エレナは一人納得した。
――――きっと、仲直りをしたんだわ。
そう思い、シルヴィアに向き直る。
「良かったですね。仲直りできて」
「仲直り?」
シルヴィアは分からない、という顔をした。
「国王陛下です。お会いしたんでしょう?」
エレナがそう言ったが、シルヴィアは尚も首を傾げた。
「ジェローム兄様には以前もお会いしたことがあるけど、何も変わらないわ。冷たくて、私のことは嫌ってるみたい」
エレナは不思議に思った。
ジェロームが「会えて嬉しい」と言っていたことを伝えようとしたが、はっとする。
これがあの人の意思なのだ。
遠ざけるだけでは駄目なのだ。冷たくして、愛していないことを周囲に知らせる。
そうして、シルヴィアを守っているのだ。
エレナは握られた手の強さを思い出した。
「エレナ? どうしたの? まだ元気が出ない?」
「い、いいえ。」
心配そうなシルヴィアの瞳を見返せば、彼女はにっこり笑った。
「まあいいわ。あなたはもうすぐ元気になるもの!」
よく分からないことを言って微笑むシルヴィアを、エレナはそっと見つめた。
――――わたしが落ち込んでちゃ駄目なんだわ。姫様の笑顔を守らないと。
ふと、精霊の言葉が頭をよぎる。
――――お前が笑ってくれることが、私の幸せだから。
リューシルにそう言われた時、その意味を理解しかねていた。
こんな笑顔が何になるのか分からなかった。
けれど、それは違ったのだ。
あの言葉の意味が、ようやく分かった気がした。
シルヴィアの笑顔は、きっとジェロームの幸せだ。
そしてそれは、エレナの幸せでもある。
――――わたしは、姫様の笑顔を守ろう。
心の奥で、何かが燃え始める。
――――陛下の分も、姫様の傍にいて、お守りしよう。
行き先も見えない暗闇に、光が差した。
やらなければいけないことを思うと、もう俯いてはいられなかった。
精霊がどこかで、微笑んだ気がした。




