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ハルシュトラールの夜の果て  作者: 星乃晴香
第四章 精霊はささやく
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少女の悩み



 日の光が差し込む部屋の中、シルヴィアがエレナの目を覗き込んだ。

「エレナ。大丈夫?」

 ハッとして顔をあげると、姫は心底、心配そうな顔をしていた。


 レヴィに問い詰められてから、既に三日が経っていた。

 そのことは分かっていたが、実感がわかないのだ。

 あの後、何があったのか、はっきり覚えていない。

 シルヴィアに抱きしめられ、疑いも晴れ、いつも通りに過ごしてきたはずだ。

 しかし、記憶は曖昧である。


――――姫様がいるんだから、しっかりしなきゃ。


 なんとかシルヴィアに微笑み返すと、ため息をつかれた。

「あなたのその顔、嘘ついてるわ」

 シルヴィアはちょっぴり怒ったように言う。


「嘘……ですか?」

「心から笑っていないって言ってるのよ。あなたのそういう顔、好きじゃない」

 機嫌を損ねてしまったらしい。エレナは俯いた。

「……申し訳ありません」

 シルヴィアは慌てて言った。

「そうじゃないわよ! もう……!! ロレンツォ……!!」

 そう言いつつ、ドレスの裾をつまんで、部屋を出て行ってしまった。


 自分から部屋を出て行くなんて、珍しいな。とエレナは思った。

 彼女は外出したがることは多いのだが、外に行くことと城を歩き回るのは別だ。

 シルヴィアは妾の子どもであり、ちょっと気が強いことも重なって、城中の人々から嫌われている。エレナもそのことは、ザンクトやヴァーグの件で、嫌と言うほど思い知らされた。ここまで彼女が嫌われているのも驚きだったが、ヴァーグで言われたこともショックだった。

 「(ノヴル)」を逃がす手引きをしたと疑われただけでなく、それがリューシルや、姫と関わりがあるからだ、と言われたのだ。

――――姫の手下なら、国王の敵になり得る。

 レヴィはそう言った。

 部屋から追い出されてからレヴィは何も言ってこないが、エレナは釈然としなかった。

――――レヴィだけじゃない。城には、姫様が国王陛下の敵になると思っている人が、たくさんいるはず。

 そう思うと悲しくなった。

 シルヴィアは城を歩くだけで、周りから冷たい視線を浴びせられる。目の前で、ひそひそと囁き合う人間もいるほどだ。そのお陰で、彼女は滅多に部屋から出ない。


 そこまで考えて、はっとした。

 彼女を一人にさせては危険なのだ。


――――わたしが付いていなきゃいけないのに!!


「姫様!」

 慌てて部屋を出たが、廊下にシルヴィアの姿はない。

 まっすぐ伸びる廊下を走る。走るのは禁止されているが、今はそれどころではなかった。

 回廊を過ぎ、別れ道を左に曲がる。

 その瞬間、誰かが現れるのが見えたが、間に合わなかった。

「うわ!」


 ぶつかった拍子に、ひらひらと紙が舞い落ちる。

 お互いに転ぶことはなかったものの、向こうは書類を持っていたらしく、辺りに散乱してしまった。

「ごめんなさい!」

 慌てて拾い集めて差し出すと、相手は優しく微笑んだ。

「ありがとう」

 美しい金髪に、青い瞳の青年だった。彫刻のような顔立ちに、思わず見とれてしまう。

 思わず見つめていると、青年は首を傾げた。

「ん? 僕に何か用?」

「あ、いえ……姫様を見かけませんでしたか?」

 エレナが慌てて言うと、彼は訝しむような顔をした。

「彼女に何か用なのかい?」

「はい。あの、一人にしちゃいけなかったのに……。わたしがぼーっとしていたせいで、出て行かれてしまって……」

「心配……してるってこと?」

 青年が驚いたように言うので、エレナはむっとした。

 この人もシルヴィアのことを、よく思っていないようだ。

「当たり前です。姫様はいい人だし、何かあっては困りますから」

 わざと「いい人」のところを強調する。

 青年は不思議そうにこちらを見た。

「そうか。君は彼女の侍女? 名前は?」

「エレナです」

 そう答えれば、彼はぱあっと笑顔になった。

「エレナ! ああ!! あのエレナね! 道理で!!」

 なんだか変な人だ。エレナは(いぶか)しむように青年を見た。

 その目に気付いて、青年は慌てて書類を持ち直す。


 何十枚もの紙は、名簿のような物から、数字で埋まった物まで様々だ。その中に書庫の管理書が混ざっているのを見て、エレナは大事なことを思い出した。

 自分は国の蔵書『マルクレーンの書』を壊してしまったのだ。この人がそれを管理しているなら、今伝えた方がいいだろう。

「その書類……もしかして書庫管理の方ですか?」

 そう問えば、彼は不思議そうにエレナを見た。

「まあ、雑務はぼくの仕事だけど」

「それなら、伝えたいことがあるんですが」

 意を決して、小さく息を詰めた。


 実は遠征から帰って来てから、何度かロレンツォと王の執務室を訪ねたのだ。王に謝罪に行くというのは、かなりの勇気がいる。だが生憎、尋ねるたびに国王は仕事で不在だった。

 エレナとしては、正直これ以上先延ばしにしたくなかった。王でなくとも、さっさと誰かに伝えてしまいたかったのだ。

「あの、わたし、陛下からお借りした『マルクレーンの書』を壊してしまったんです」

 勇気を出して言い切ると、相手は目を丸くした。

「……へえ、それはまた……」

「その、実は、何度か陛下に謝りに行ったんですけど、なかなかお会いできなくて。順番が逆になってしまうけど、せめてあなたには伝えておきたいんです」

 自分の言葉が言い訳じみて聞こえ、エレナは唇を噛んだ。

 どうすればうまく伝えられるだろう。陛下には後でもう一度、きちんと謝りに行く。

 だけど、今は先に、この人に伝えておきたいのだ。

「本を壊してしまって、申し訳ありませんでした」

 懸命に見上げれば、青年は少し慌てたようだった。

「ああ、廊下で謝らないでくれ。なんかぼくが苛めてるみたいじゃないか」

 言われてみればそうかもしれない。だが廊下には今、二人の他誰もいないのだ。

 この際、周りの目は関係ないだろうと思いながらも、エレナは口を噤んだ。

 青年が苦笑する。

「そんな顔をしなくていいよ。……まあ、あの本が大事な物だとは聞いてたけど、前に盗まれた時だって、兵士やぼく達も長年気づかなかったんだ。ぼくが責められることじゃないさ」

 さすがに怒られると思っていたエレナは、その言葉を聞いて、少しだけほっとした。

 青年も表情を和らげたが、ふと不思議そうな顔になった。

「そう言えば、その本どこで壊したんだい? 紛失って言うのはたまに聞くけど、壊すなんてあまりないから」

 エレナは申し訳なくなって、目を伏せた。

「正確には壊されたんです。この前ザンクトの討伐について行った時、わたしが持っていたせいで『(ノヴル)』に奪われて、ばらばらに……」

「相手は『(ノヴル)』だったのか? それじゃあ仕方ないよ」

 明るい声で言われ、エレナは思わず彼を見た。

 声だけでなく、青年の表情はどこまでも明るい。

「むしろ本だけで良かった。『(ノヴル)』に殺された人なんてたくさんいるんだ。例えば君が殺されたら、その主人が悲しむだろう。君は無事だったんだから何も問題ないよ」


 なんていい人。

 エレナは胸が温かくなっていくのを感じた。

 見上げれば、見下ろす彼と目が合った。

「いい人? ぼくが……?」

 胸の中で呟いたはずが、どうやら声に出てしまったらしい。この際、細かいことはどうでもいい。エレナは笑って、彼の手を引いた。

「ええ。是非姫様に会って下さい。あなたとお話したら、きっと喜ばれます」

「なんでぼくが……?」

「あの方は寂しがり屋なんです。知り合いは少しでも多い方がいいから」

「そんなに、友達が少ないの……?」

 不躾(ぶしつけ)な言葉だったが、エレナは正直に頷いた。

「あの方のお世話をしている人は何人かいるけれど、わたしの他にきちんと会話をするのは、ロレンツォ――時折来る行商人くらいです」

「……本当に少ないんだね」

 あまりにもずけずけと物を言うが、彼の言葉は事実だ。エレナはその事に、少しだけ腹が立っていた。

「それもこれも、良くない噂のせいです。あなたがどう思っているかは分かりませんが、姫様は本当はとても可愛い人なんですよ」

 青年は心底不思議そうな顔をしている。

 この人は優しいが、少し失礼なところがある。そう思ったものの、エレナは青年をどうしてもシルヴィアに会わせてやりたくなった。


「行きましょう。姫様は今部屋を外していますが、わたしが見つけますから」

「駄目だよ、姫の部屋に入るなんて」

 初対面の男を姫の部屋へ通す。なかなかの案件であるが、シルヴィアはきっと許してくれるだろう。なにより、彼女とこの青年は馬が合いそうな気がしたのだ。

「ちょっと待ってくれ、ぼくは忙しいんだ。見てくれよこの書類の山」

「多いですね。半分持ちますよ」

 そう返すと、青年は書類を取り落しそうになった。

「本気で言っているのか?」

「あなたこそ、そんなに姫様に会いたくないんですか」

 ごねる青年を前に、エレナは少しずつ怒りが込み上げてきた。

「一度会って下れば分かります。あの方は噂みたいな人じゃない」

 青年を前に、思わず本音がこぼれて行く。

「大体こんな離宮に閉じ込められているからいけないんだわ。陛下も陛下よ、傍観してないで、早く姫様を呼び戻せばいいのに」


「くっ、はははは……!」

 突然笑い出した青年に、エレナは驚いて顔をあげた。

「君、面白すぎる。もっと早く会うべきだった」

 楽しくてたまらないというように、ひたすら笑っている。

 エレナは今度こそ疑うような視線を向けた。

「あなた本当に王宮の人? そんなに笑ってたら、陛下にお仕えできないでしょ」

「うんうん、ぼくは王宮の人だ。それに、普段は君みたいな人がいないから、大丈夫」

 ひとしきり笑った後、やっと落ち着いたと言うように、崩れかけた書類を抱え直した。

 彼は一つ息をつき、エレナを見つめる。

「申し訳ないけど、本当に仕事が詰まっているんだ。君の主人の所には行けない。でも、陛下に君のことは報告しておくよ」

 そう言って、にこやかな笑みを浮かべる。

「安心してくれ。君が本をなくしたのは仕方のないことで、きちんと反省しているってことも、ちゃんと伝える。君が陛下をどう思っているかも、そのままね」

「ちょ、ちょっと待って……!」

 慌てたエレナは止めようとしたが、「ついて来ないでね」と笑顔で言われ、戸惑っているうちに、彼を見逃してしまった。



 小さくついたため息は、誰もいない廊下に落ちて行く。

 なんだか変わった人だった。あの青年は本当に、エレナの言ったことを国王に伝えてしまうかもしれない。今更になって、それがどんなに危険なことか気づき、見逃したのを後悔した。

 だが、自分は先程までシルヴィアを探していたのだ。

 エレナは静かに顔をあげ、辺りを見回した。あれからずいぶん時間が経ってしまったが、姫は無事だろうか。

 急に不安が襲って来て、急いで廊下を走り出した。




「姫様!!」

 廊下を全速力で走れば、叱咤(しった)が飛んできた。

「止まりなさい!!」

 びくりとして思わず止まってしまう。

 声の主が、カツカツと音を立ててやってくる。ルーバス宰相だ。

 しばらく見なかったが、撫でつけた白髪は相変わらずきっちりとしていて、エレナは恐ろしさに固まった。

 この男には、姫と城を抜け出した際、さんざん叱られたのだ。


――――でも、どうしてここに……?


 エレナは不思議に思った。彼は普段、城の中心部で仕事をしているのだ。

 シルヴィアのいる離宮に来たことはほとんどない。

 考えようとしたが、疑問は鋭い声に吹き飛ばされる。

「お前は確か姫君の件の……!!」

 ルーバス宰相は思い出したように言って、エレナを睨みつけた。

 エレナは蛇に睨まれたように、動くこともできない。

「廊下を走るとは何事だ!? 禁止されているのは知っているはず!! 王族に仕えるお前がそれを破るとはどういうことだ!!」

 エレナはその迫力に言い返すことも出来ない。

「そういえば今回の件に関わっていたのもお前だったな! ヴァーグの囚人の脱獄を手引きしたと、噂があがっていたぞ!」

 どくん、と心臓がはねあがる。

 どこかで息をひそめていた恐怖と悲しみが、動き出す。

――――わたしじゃない。

 自分を責める、レヴィの瞳を思い出した。


 ルーバス宰相が怒鳴っているその声が、どこか遠くなって行く。


 ただ分かるのは、自分を誰かが責めていることだけ。

 

 自分は確かに、この国を裏切っているのだ。

 クリスを探し、精霊を逃がし、再び会いたいと思っている。

 それが裏切りだと知りながら、今もシルヴィアを騙し続けている。




 不意に、怒鳴り声が止んだ。

 見れば、行商人が立っていた。隣にはシルヴィアもいる。


 ぼうっと眺めていると、彼らは口々に話し始めた。

 嵐のようなやりとりも、エレナの中には入ってこない。

「おやめください。この子は姫君を探そうとしていたのですよ。だから必死になって走ったのです」

「そうよルーバス。この子を責めるのはお(かど)違いだわ」

「それでは姫君、あなたに来ていただきましょうか。侍女の不始末は主のあなたに責任があります」

「ちょ……ちょっと待って! 助けてロレンツォ!」

「ルーバス宰相、あなたが離宮に来るのは珍しいことです。何かご用件があったのでは?」

「ああそうだ、探し物をしていたんだった。まったく、その良く回る口に鍵をかけてやりたいよ」


 カツカツ、と足音が去って行く。

 ああ、行ったみたい、とエレナは考える。

「大丈夫かい?」

「ひどいこと、言われなかった?」

 ロレンツォとシルヴィアが、心配そうにのぞき込んでいる。

「……ありがとう。大丈夫です。」

 そう言い返したが、シルヴィアの笑顔を見るたびに、罪悪感だけが降り積もった。

 彼女の傍にいる自分が、ひどく浅ましい者に思えた。


「……困ったなあ」

「だからあなたを呼んだのよ。なんとかしてあの子を元通りにしてちょうだい」

 二人が口々に言い合うのを、エレナは不思議そうに眺めた。





 気が付くと、シルヴィアの部屋に戻っていた。

 いつのまにか、帰って来たらしい。


 エレナは椅子に座らされ、傍にはシルヴィアが立っていた。

 足元を見れば、行商人が絨毯(じゅうたん)を広げている。絨毯には色とりどりの品物が置かれ、きらきらと輝いていた。

 行商人を見ると、彼は立ち上がり、微笑んで一礼した。

今宵(こよい)ご紹介しますのは、はるか南の国、イルナータで手に入れた品物の数々です。すべてエレナ嬢のために、ご用意させて頂きました」


 疑問に思ってシルヴィアを見上げれば、彼女は真面目な顔で言った

「今夜だけ、特別にあなたのために売ってもらうの。今夜だけよ」

 よく分からないまま(うなず)くと、行商人は演説を始める。


「まず一つ目。貝殻で出来たオブジェです。小さいですが、なにしろあのロマル貝を使っていますからね。そこら辺では、手に入りません。この貝殻は、深海でしかとれない貴重なものです。漁師たちが手に入れた中でも、()りすぐったものから作られています」

 シルヴィアが口を挟んだ。

「それ本当? ちょっと安すぎるんじゃない?」


「姫君、お静かに。それからこちら。ナナイロドリの尾羽で出来た首飾りです。この鳥の名前の由来はご存知ですか?」

 部屋に沈黙が流れる。


 シルヴィアが慌てて言った。

「な、七色の鳥だからかしら!?」

 少しの間があってから、ロレンツォは続けた。

「……残念ながら違います。エレナ嬢もご存じないようですね。この鳥は個体によって色が異なるのです。それも、頭から尾に掛けて、一つの色を基調に、徐々に濃くなっていきます」

 そう言いながら、手に持った首飾りを掲げて見せた。

「こちらは赤を基調とした鳥のものですね。まるでイルナータの夕陽そのもの。自然にしか存在しない美しさです。お気に召して頂けたでしょうか?」

 エレナは静かに瞬きをした。


 シルヴィアが突然叫ぶ。

「わあ、私それ、気にいっちゃった! ああでもこれ、一つしかないのかしら?」

 行商人は困ったように(こうべ)を垂れた。

「申し訳ございません。手に入れるのが容易ではないのです。一点ものとなってしまいます」

「まあ、どうしましょう! ねえエレナ、これ、一つしかないそうよ! もしあなたが欲しいっていうのなら、私、譲ってあげても良くてよ!!」

 エレナは話しかけられていることに気付き、シルヴィアを見上げた。

「……姫様がお気に召したのなら、どうぞ」


 行商人がため息をつく。

「だめだ。僕では力不足です」

 ごそごそと商品をしまい始める。

 シルヴィアは彼の傍に行くと、がっかりして言った。

「それじゃあ、どうすればいいの?」

「あの子は何か悩んでいるみたいだから、解決するまで待つことです。いつになるか分かりませんがね」

 ロレンツォは荷物を整え、立ち上がった。

 シルヴィアは恐る恐る尋ねる。

「それって……何十年もかかることもあるの?」

「ええ。ありますとも」

 去ろうとする行商人に、シルヴィアはすがりつく。

「そんなのだめよ!! ねえ、他に頼れる人は知らない?」

「知っていますよ」

「誰なの? 教えて!」

 行商人は振り返った。

「あなただ」

 シルヴィアは目を丸くした。

「私!?」

「そう、姫君です。あなたが一番、エレナの傍にいる」

 行商人は優しく言った。

「姫君ならきっと、彼女を元気にできるはずです」

「でも、何をすれば……」

「それはご自身で考えることですよ。それでは、おやすみなさい」

 そう言って一礼すると、行商人は背を向けた。

 去って行く後ろ姿を、シルヴィアはぼうっと見つめた。



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