少女の悩み
日の光が差し込む部屋の中、シルヴィアがエレナの目を覗き込んだ。
「エレナ。大丈夫?」
ハッとして顔をあげると、姫は心底、心配そうな顔をしていた。
レヴィに問い詰められてから、既に三日が経っていた。
そのことは分かっていたが、実感がわかないのだ。
あの後、何があったのか、はっきり覚えていない。
シルヴィアに抱きしめられ、疑いも晴れ、いつも通りに過ごしてきたはずだ。
しかし、記憶は曖昧である。
――――姫様がいるんだから、しっかりしなきゃ。
なんとかシルヴィアに微笑み返すと、ため息をつかれた。
「あなたのその顔、嘘ついてるわ」
シルヴィアはちょっぴり怒ったように言う。
「嘘……ですか?」
「心から笑っていないって言ってるのよ。あなたのそういう顔、好きじゃない」
機嫌を損ねてしまったらしい。エレナは俯いた。
「……申し訳ありません」
シルヴィアは慌てて言った。
「そうじゃないわよ! もう……!! ロレンツォ……!!」
そう言いつつ、ドレスの裾をつまんで、部屋を出て行ってしまった。
自分から部屋を出て行くなんて、珍しいな。とエレナは思った。
彼女は外出したがることは多いのだが、外に行くことと城を歩き回るのは別だ。
シルヴィアは妾の子どもであり、ちょっと気が強いことも重なって、城中の人々から嫌われている。エレナもそのことは、ザンクトやヴァーグの件で、嫌と言うほど思い知らされた。ここまで彼女が嫌われているのも驚きだったが、ヴァーグで言われたこともショックだった。
「魔」を逃がす手引きをしたと疑われただけでなく、それがリューシルや、姫と関わりがあるからだ、と言われたのだ。
――――姫の手下なら、国王の敵になり得る。
レヴィはそう言った。
部屋から追い出されてからレヴィは何も言ってこないが、エレナは釈然としなかった。
――――レヴィだけじゃない。城には、姫様が国王陛下の敵になると思っている人が、たくさんいるはず。
そう思うと悲しくなった。
シルヴィアは城を歩くだけで、周りから冷たい視線を浴びせられる。目の前で、ひそひそと囁き合う人間もいるほどだ。そのお陰で、彼女は滅多に部屋から出ない。
そこまで考えて、はっとした。
彼女を一人にさせては危険なのだ。
――――わたしが付いていなきゃいけないのに!!
「姫様!」
慌てて部屋を出たが、廊下にシルヴィアの姿はない。
まっすぐ伸びる廊下を走る。走るのは禁止されているが、今はそれどころではなかった。
回廊を過ぎ、別れ道を左に曲がる。
その瞬間、誰かが現れるのが見えたが、間に合わなかった。
「うわ!」
ぶつかった拍子に、ひらひらと紙が舞い落ちる。
お互いに転ぶことはなかったものの、向こうは書類を持っていたらしく、辺りに散乱してしまった。
「ごめんなさい!」
慌てて拾い集めて差し出すと、相手は優しく微笑んだ。
「ありがとう」
美しい金髪に、青い瞳の青年だった。彫刻のような顔立ちに、思わず見とれてしまう。
思わず見つめていると、青年は首を傾げた。
「ん? 僕に何か用?」
「あ、いえ……姫様を見かけませんでしたか?」
エレナが慌てて言うと、彼は訝しむような顔をした。
「彼女に何か用なのかい?」
「はい。あの、一人にしちゃいけなかったのに……。わたしがぼーっとしていたせいで、出て行かれてしまって……」
「心配……してるってこと?」
青年が驚いたように言うので、エレナはむっとした。
この人もシルヴィアのことを、よく思っていないようだ。
「当たり前です。姫様はいい人だし、何かあっては困りますから」
わざと「いい人」のところを強調する。
青年は不思議そうにこちらを見た。
「そうか。君は彼女の侍女? 名前は?」
「エレナです」
そう答えれば、彼はぱあっと笑顔になった。
「エレナ! ああ!! あのエレナね! 道理で!!」
なんだか変な人だ。エレナは訝しむように青年を見た。
その目に気付いて、青年は慌てて書類を持ち直す。
何十枚もの紙は、名簿のような物から、数字で埋まった物まで様々だ。その中に書庫の管理書が混ざっているのを見て、エレナは大事なことを思い出した。
自分は国の蔵書『マルクレーンの書』を壊してしまったのだ。この人がそれを管理しているなら、今伝えた方がいいだろう。
「その書類……もしかして書庫管理の方ですか?」
そう問えば、彼は不思議そうにエレナを見た。
「まあ、雑務はぼくの仕事だけど」
「それなら、伝えたいことがあるんですが」
意を決して、小さく息を詰めた。
実は遠征から帰って来てから、何度かロレンツォと王の執務室を訪ねたのだ。王に謝罪に行くというのは、かなりの勇気がいる。だが生憎、尋ねるたびに国王は仕事で不在だった。
エレナとしては、正直これ以上先延ばしにしたくなかった。王でなくとも、さっさと誰かに伝えてしまいたかったのだ。
「あの、わたし、陛下からお借りした『マルクレーンの書』を壊してしまったんです」
勇気を出して言い切ると、相手は目を丸くした。
「……へえ、それはまた……」
「その、実は、何度か陛下に謝りに行ったんですけど、なかなかお会いできなくて。順番が逆になってしまうけど、せめてあなたには伝えておきたいんです」
自分の言葉が言い訳じみて聞こえ、エレナは唇を噛んだ。
どうすればうまく伝えられるだろう。陛下には後でもう一度、きちんと謝りに行く。
だけど、今は先に、この人に伝えておきたいのだ。
「本を壊してしまって、申し訳ありませんでした」
懸命に見上げれば、青年は少し慌てたようだった。
「ああ、廊下で謝らないでくれ。なんかぼくが苛めてるみたいじゃないか」
言われてみればそうかもしれない。だが廊下には今、二人の他誰もいないのだ。
この際、周りの目は関係ないだろうと思いながらも、エレナは口を噤んだ。
青年が苦笑する。
「そんな顔をしなくていいよ。……まあ、あの本が大事な物だとは聞いてたけど、前に盗まれた時だって、兵士やぼく達も長年気づかなかったんだ。ぼくが責められることじゃないさ」
さすがに怒られると思っていたエレナは、その言葉を聞いて、少しだけほっとした。
青年も表情を和らげたが、ふと不思議そうな顔になった。
「そう言えば、その本どこで壊したんだい? 紛失って言うのはたまに聞くけど、壊すなんてあまりないから」
エレナは申し訳なくなって、目を伏せた。
「正確には壊されたんです。この前ザンクトの討伐について行った時、わたしが持っていたせいで『魔』に奪われて、ばらばらに……」
「相手は『魔』だったのか? それじゃあ仕方ないよ」
明るい声で言われ、エレナは思わず彼を見た。
声だけでなく、青年の表情はどこまでも明るい。
「むしろ本だけで良かった。『魔』に殺された人なんてたくさんいるんだ。例えば君が殺されたら、その主人が悲しむだろう。君は無事だったんだから何も問題ないよ」
なんていい人。
エレナは胸が温かくなっていくのを感じた。
見上げれば、見下ろす彼と目が合った。
「いい人? ぼくが……?」
胸の中で呟いたはずが、どうやら声に出てしまったらしい。この際、細かいことはどうでもいい。エレナは笑って、彼の手を引いた。
「ええ。是非姫様に会って下さい。あなたとお話したら、きっと喜ばれます」
「なんでぼくが……?」
「あの方は寂しがり屋なんです。知り合いは少しでも多い方がいいから」
「そんなに、友達が少ないの……?」
不躾な言葉だったが、エレナは正直に頷いた。
「あの方のお世話をしている人は何人かいるけれど、わたしの他にきちんと会話をするのは、ロレンツォ――時折来る行商人くらいです」
「……本当に少ないんだね」
あまりにもずけずけと物を言うが、彼の言葉は事実だ。エレナはその事に、少しだけ腹が立っていた。
「それもこれも、良くない噂のせいです。あなたがどう思っているかは分かりませんが、姫様は本当はとても可愛い人なんですよ」
青年は心底不思議そうな顔をしている。
この人は優しいが、少し失礼なところがある。そう思ったものの、エレナは青年をどうしてもシルヴィアに会わせてやりたくなった。
「行きましょう。姫様は今部屋を外していますが、わたしが見つけますから」
「駄目だよ、姫の部屋に入るなんて」
初対面の男を姫の部屋へ通す。なかなかの案件であるが、シルヴィアはきっと許してくれるだろう。なにより、彼女とこの青年は馬が合いそうな気がしたのだ。
「ちょっと待ってくれ、ぼくは忙しいんだ。見てくれよこの書類の山」
「多いですね。半分持ちますよ」
そう返すと、青年は書類を取り落しそうになった。
「本気で言っているのか?」
「あなたこそ、そんなに姫様に会いたくないんですか」
ごねる青年を前に、エレナは少しずつ怒りが込み上げてきた。
「一度会って下れば分かります。あの方は噂みたいな人じゃない」
青年を前に、思わず本音がこぼれて行く。
「大体こんな離宮に閉じ込められているからいけないんだわ。陛下も陛下よ、傍観してないで、早く姫様を呼び戻せばいいのに」
「くっ、はははは……!」
突然笑い出した青年に、エレナは驚いて顔をあげた。
「君、面白すぎる。もっと早く会うべきだった」
楽しくてたまらないというように、ひたすら笑っている。
エレナは今度こそ疑うような視線を向けた。
「あなた本当に王宮の人? そんなに笑ってたら、陛下にお仕えできないでしょ」
「うんうん、ぼくは王宮の人だ。それに、普段は君みたいな人がいないから、大丈夫」
ひとしきり笑った後、やっと落ち着いたと言うように、崩れかけた書類を抱え直した。
彼は一つ息をつき、エレナを見つめる。
「申し訳ないけど、本当に仕事が詰まっているんだ。君の主人の所には行けない。でも、陛下に君のことは報告しておくよ」
そう言って、にこやかな笑みを浮かべる。
「安心してくれ。君が本をなくしたのは仕方のないことで、きちんと反省しているってことも、ちゃんと伝える。君が陛下をどう思っているかも、そのままね」
「ちょ、ちょっと待って……!」
慌てたエレナは止めようとしたが、「ついて来ないでね」と笑顔で言われ、戸惑っているうちに、彼を見逃してしまった。
小さくついたため息は、誰もいない廊下に落ちて行く。
なんだか変わった人だった。あの青年は本当に、エレナの言ったことを国王に伝えてしまうかもしれない。今更になって、それがどんなに危険なことか気づき、見逃したのを後悔した。
だが、自分は先程までシルヴィアを探していたのだ。
エレナは静かに顔をあげ、辺りを見回した。あれからずいぶん時間が経ってしまったが、姫は無事だろうか。
急に不安が襲って来て、急いで廊下を走り出した。
*
「姫様!!」
廊下を全速力で走れば、叱咤が飛んできた。
「止まりなさい!!」
びくりとして思わず止まってしまう。
声の主が、カツカツと音を立ててやってくる。ルーバス宰相だ。
しばらく見なかったが、撫でつけた白髪は相変わらずきっちりとしていて、エレナは恐ろしさに固まった。
この男には、姫と城を抜け出した際、さんざん叱られたのだ。
――――でも、どうしてここに……?
エレナは不思議に思った。彼は普段、城の中心部で仕事をしているのだ。
シルヴィアのいる離宮に来たことはほとんどない。
考えようとしたが、疑問は鋭い声に吹き飛ばされる。
「お前は確か姫君の件の……!!」
ルーバス宰相は思い出したように言って、エレナを睨みつけた。
エレナは蛇に睨まれたように、動くこともできない。
「廊下を走るとは何事だ!? 禁止されているのは知っているはず!! 王族に仕えるお前がそれを破るとはどういうことだ!!」
エレナはその迫力に言い返すことも出来ない。
「そういえば今回の件に関わっていたのもお前だったな! ヴァーグの囚人の脱獄を手引きしたと、噂があがっていたぞ!」
どくん、と心臓がはねあがる。
どこかで息をひそめていた恐怖と悲しみが、動き出す。
――――わたしじゃない。
自分を責める、レヴィの瞳を思い出した。
ルーバス宰相が怒鳴っているその声が、どこか遠くなって行く。
ただ分かるのは、自分を誰かが責めていることだけ。
自分は確かに、この国を裏切っているのだ。
クリスを探し、精霊を逃がし、再び会いたいと思っている。
それが裏切りだと知りながら、今もシルヴィアを騙し続けている。
不意に、怒鳴り声が止んだ。
見れば、行商人が立っていた。隣にはシルヴィアもいる。
ぼうっと眺めていると、彼らは口々に話し始めた。
嵐のようなやりとりも、エレナの中には入ってこない。
「おやめください。この子は姫君を探そうとしていたのですよ。だから必死になって走ったのです」
「そうよルーバス。この子を責めるのはお門違いだわ」
「それでは姫君、あなたに来ていただきましょうか。侍女の不始末は主のあなたに責任があります」
「ちょ……ちょっと待って! 助けてロレンツォ!」
「ルーバス宰相、あなたが離宮に来るのは珍しいことです。何かご用件があったのでは?」
「ああそうだ、探し物をしていたんだった。まったく、その良く回る口に鍵をかけてやりたいよ」
カツカツ、と足音が去って行く。
ああ、行ったみたい、とエレナは考える。
「大丈夫かい?」
「ひどいこと、言われなかった?」
ロレンツォとシルヴィアが、心配そうにのぞき込んでいる。
「……ありがとう。大丈夫です。」
そう言い返したが、シルヴィアの笑顔を見るたびに、罪悪感だけが降り積もった。
彼女の傍にいる自分が、ひどく浅ましい者に思えた。
「……困ったなあ」
「だからあなたを呼んだのよ。なんとかしてあの子を元通りにしてちょうだい」
二人が口々に言い合うのを、エレナは不思議そうに眺めた。
*
気が付くと、シルヴィアの部屋に戻っていた。
いつのまにか、帰って来たらしい。
エレナは椅子に座らされ、傍にはシルヴィアが立っていた。
足元を見れば、行商人が絨毯を広げている。絨毯には色とりどりの品物が置かれ、きらきらと輝いていた。
行商人を見ると、彼は立ち上がり、微笑んで一礼した。
「今宵ご紹介しますのは、はるか南の国、イルナータで手に入れた品物の数々です。すべてエレナ嬢のために、ご用意させて頂きました」
疑問に思ってシルヴィアを見上げれば、彼女は真面目な顔で言った
「今夜だけ、特別にあなたのために売ってもらうの。今夜だけよ」
よく分からないまま頷くと、行商人は演説を始める。
「まず一つ目。貝殻で出来たオブジェです。小さいですが、なにしろあのロマル貝を使っていますからね。そこら辺では、手に入りません。この貝殻は、深海でしかとれない貴重なものです。漁師たちが手に入れた中でも、選りすぐったものから作られています」
シルヴィアが口を挟んだ。
「それ本当? ちょっと安すぎるんじゃない?」
「姫君、お静かに。それからこちら。ナナイロドリの尾羽で出来た首飾りです。この鳥の名前の由来はご存知ですか?」
部屋に沈黙が流れる。
シルヴィアが慌てて言った。
「な、七色の鳥だからかしら!?」
少しの間があってから、ロレンツォは続けた。
「……残念ながら違います。エレナ嬢もご存じないようですね。この鳥は個体によって色が異なるのです。それも、頭から尾に掛けて、一つの色を基調に、徐々に濃くなっていきます」
そう言いながら、手に持った首飾りを掲げて見せた。
「こちらは赤を基調とした鳥のものですね。まるでイルナータの夕陽そのもの。自然にしか存在しない美しさです。お気に召して頂けたでしょうか?」
エレナは静かに瞬きをした。
シルヴィアが突然叫ぶ。
「わあ、私それ、気にいっちゃった! ああでもこれ、一つしかないのかしら?」
行商人は困ったように頭を垂れた。
「申し訳ございません。手に入れるのが容易ではないのです。一点ものとなってしまいます」
「まあ、どうしましょう! ねえエレナ、これ、一つしかないそうよ! もしあなたが欲しいっていうのなら、私、譲ってあげても良くてよ!!」
エレナは話しかけられていることに気付き、シルヴィアを見上げた。
「……姫様がお気に召したのなら、どうぞ」
行商人がため息をつく。
「だめだ。僕では力不足です」
ごそごそと商品をしまい始める。
シルヴィアは彼の傍に行くと、がっかりして言った。
「それじゃあ、どうすればいいの?」
「あの子は何か悩んでいるみたいだから、解決するまで待つことです。いつになるか分かりませんがね」
ロレンツォは荷物を整え、立ち上がった。
シルヴィアは恐る恐る尋ねる。
「それって……何十年もかかることもあるの?」
「ええ。ありますとも」
去ろうとする行商人に、シルヴィアはすがりつく。
「そんなのだめよ!! ねえ、他に頼れる人は知らない?」
「知っていますよ」
「誰なの? 教えて!」
行商人は振り返った。
「あなただ」
シルヴィアは目を丸くした。
「私!?」
「そう、姫君です。あなたが一番、エレナの傍にいる」
行商人は優しく言った。
「姫君ならきっと、彼女を元気にできるはずです」
「でも、何をすれば……」
「それはご自身で考えることですよ。それでは、おやすみなさい」
そう言って一礼すると、行商人は背を向けた。
去って行く後ろ姿を、シルヴィアはぼうっと見つめた。




