裏切りの血
城に帰って来たエレナを、シルヴィアは抱き着かんばかりの勢いで出迎えた。
ロレンツォも部屋に呼び、ひどく嬉しそうに茶を振る舞った。
エレナとロレンツォがいない間、話し相手もいなかったのだろう。
怒涛のごとく喋り始める王女を見て、エレナは少しだけ、申し訳なく思った。
「あなたがお勧めしてくれた本、読み終わったのよ。ほら、『丘の上の騎士』」
そう言いながら、にこにこと本を見せてくる。
「最後の章、すごくハラハラしちゃった。崖から落ちたら普通、助からないもの」
「ええ、そうですよね」
エレナは曖昧に笑い返す。
「それにしても、帰って来るのが遅いじゃない。ヴァーグへ行ったって聞いたけど、なんで寄り道なんてしたの?」
僅かな怒りを滲ませるシルヴィアに、エレナがどう答えようか迷っていると、ロレンツォが静かに言った。
「あなたに隠すと後が怖いですからね。……ヴァーグの牢獄で襲撃があったんですよ」
シルヴィアの目が丸くなる。
「襲撃!?」
その言葉を聞きながら、エレナは様々なことを思い出していた。
問題はヴァーグのことだけではないのだ。たくさんのことが降り積もっている。
シルヴィアが騎士達に、想像以上に嫌われていること。
自分がいつかは「人」と「魔」の片方を選び――片方を捨てなければならないこと。
「逃げられたですって?」
その声に我に返れば、シルヴィアが上ずった声でロレンツォに尋ねていた。
「で、でも、魔物達はハルシュトラールまではやって来ないでしょう? 彼らは昔、ここで倒されたもの」
「僕には分かりかねます。けれど、この国には陛下がいますから……ご心配には及びません」
「そうよね、兄様がいるもの。何も恐れることはないんだわ」
「そうですかね」
と、突然、別の声が響いた。
エレナはこの声を知っている。
ハッとして振り返れば、扉を開き、珍しい客が立っていた。
「レヴィ……」
呟いたエレナは、自分の体が強張るのに気づいた。
隣を見れば、ロレンツォも警戒を露わにしている。
シルヴィアが不機嫌そうに声をかける。
「あなたは誰? 王女の部屋に、ノックもせずに入るなんて」
「これは失礼を。ですがそこの行商人はいいんですか? いつも音もなく出入りしているようですが」
丁寧な言葉の中に、あからさまな敵意が潜んでいる。シルヴィアの瞳が鋭くなった。
「用件は何かしら?」
エレナは全身で、びりびりとした空気を感じていた。
シルヴィアはいつも、剣を向けてくる相手には、同じように刃を返す。
それこそが敵を増やすと分かっていても、彼女にはそうするしか術がないのだ。
けれど、レヴィの剣の切っ先は、王女に向けられていた訳ではなかった。
「エレナ嬢、用件があるのはあんただ」
「わた、し?」
胸の動悸が早くなる。
荒くなる呼吸を、エレナは必死に整えようとした。
この男は、リューシルを殺そうとしたのだ。
それを庇ったエレナを、決してよく思っていない。
彼はにやりと笑って言った。
「お前、なぜ王女に仕えてる? かつて『人』を裏切った、マルクレーンの娘のくせに」
後ろで息を呑む声が聞こえる。シルヴィアは今、どんな顔をしているのだろう。
エレナは拳を握りしめた。
よりにもよって。どうしてこんなところで。
震える心臓を隠し、強くレヴィを睨みつける。
「わざわざそれを言いに来たの? 父がなんであろうと、わたしは『人』を裏切ったりしないわ」
「それはどうかな? この前精霊と逢引きしてたじゃないか」
ひどく面白そうな瞳。哀れなことに、この男は他人をいたぶることしか楽しみがないのだ。
エレナは怒りが込み上げる。
「リューシルはそんな関係じゃないわ。ただ……」
「エレナ」
そう呼ぶ声が、かすかに震えている。思わず振り返れば、シルヴィアが食い入るようにしてこちらを見ていた。強く握りしめた手は、白くなってしまっている。
彼女は怒っているというより、怯えているようだった。
「あなた、マルクレーンの娘なの?」
「姫様、」
シルヴィアの青い瞳が、波立つように揺れる。
「マルクレーンは、あの魔法使いは――お父様を裏切ったのよ。あなたはどうして、私に仕えているの?」
エレナは胸が締め付けられた。
あんなに一緒にいた王女が、男の戯言一つで、自分のことを疑っている。
けれど、それはしょうがないことなのだ。
この王女はわがままで、気が強くて――――いつだって裏切りに怯えているのだから。
声が出ないエレナに、シルヴィアの目が見開かれる。
「エレナ、答えてよ。精霊と会っていたってどういうことなの?……まさか父親の仇でも討ちに来たっていうんじゃ」
「っ、違います」
このままでは誤解されてしまう。エレナは思わず叫んだ。
「わたしもマルクレーンが父親だって、この前初めて知ったんです。仇なんて討とうと思っていません。私達、八年も一緒にいたんですよ」
姫と自分の関係は、そんな悲しいものではなかったはずだ。訴えるように、言い募る。
「わたしがあなたを裏切るなんて、できると思ってるんですか? 大切な大切な……姫様を」
食い入るように見つめれば、シルヴィアの目が揺らいだ。
「そうよね」
小さな、けれどはっきりした声で王女は言った。
「そうよ、あなたが裏切る訳ないんだわ」
自分に言い聞かせるように言って、エレナの瞳を覗き込む。
「ごめんなさいエレナ。あなたを疑うなんて、どうかしていたわ」
エレナは小さく微笑んだ。
様子を見ていたレヴィが鋭い瞳でこちらを睨む。
「失礼ですが、その娘を信用する根拠は?」
「そんなもの必要ないわ」
きっ、と睨みつけるシルヴィアに、レヴィは憐れみと嘲笑の混じった視線を向けた。
「お可哀想な王女様、あなたは騙されてるんですよ。その娘は確かに精霊と会っていたんです。それもヴァーグから逃げ出した奴に。あなたはいつか、彼女に殺されますよ」
そう言うと、射殺すようにエレナを見た。
猛禽類のような、獲物を狙う瞳。
「ずいぶんと王女に取り入るのがうまいんだな。――何を隠しているのか知らないが、そんなことを続けていれば、いずれ相応の罰を受けることになるぞ」
エレナの体が、小さく震えた。
シルヴィアがいきり立つ。
「出てってちょうだい!」
彼女は怒りに胸を染め、エレナの震えには気づいていないようだった。
「不愉快だわ。エレナをそんな風に言うなんて許さない」
けれどレヴィは、動じもせずに静かに笑った。
「私はあなたの身を案じて言っているのです。もしあなたがその娘を庇うならば、裏切り者をかくまうのと同じこと。陛下に対する反逆にもなり得ます」
エレナは全身が冷めて行くのが分かった。
この男の狙いは、自分だけでなく、王女でもあるのだ。
目を見開くシルヴィアに、レヴィは更に畳みかける。
「ご心配なく。私はあなたを訴えるつもりなどありません。しかし、その娘を離さないと言うのなら、いずれあなたの身も危険に晒されることになるでしょう」
エレナは喉がからからになった。何か言い返したいのに、言葉は何も出て来ない。シルヴィアも同じらしく、呼吸さえやめてしまっているかのようだ。
レヴィは楽しそうに近づいて来る。笑っているのに、その目は恐ろしいほど残酷だった。
「もし国王陛下が事を知ったら、いくら妹君と言えど、不敬罪として処分を下されるに違いありません」
なおも近づき、シルヴィアの目を覗き込んだ。
「そこで私から提案があるのですよ。その娘を手放せとは言いません。幾つか条件を呑んで下されば、こちらも……ぐっ」
突然、レヴィの体が僅かに浮いた。
いいや、持ち上げられたのだ。
「君、不敬罪の意味が分かっているのか?」
ロレンツォが低い声で言った。レヴィの胸ぐらをつかみ、力任せに引き上げる。
この男は今まで、空気のように気配を消していたのだ。それが何かに突き動かされたかのように、波立つ感情を滲ませている。
「相手が誰だと思っている? 一国の姫君だぞ」
いつもと同じ表情だが、静かな目は怒りを湛えていた。
少女達は息を呑む。こんな彼を見るのは初めてだった。
「――君は確かレヴィと言ったね。僕も一応王宮勤めだ。君の態度こそ姫君への不敬だと思わないか?」
「くそっ、行商人風情に何が……っ」
声をあげるレヴィを見据え、淡々と続ける。
「もし国王陛下が事を知ったら、いくら貴族と言えど、不敬罪として処分を下されるに違いない。――さて、どうしたものか」
先程のセリフを繰り返す男に、レヴィの顔が強張る。
「そこで提案だ。王族に仕えるのをやめろとは言わない。君がいくつか条件を呑んでくれるなら、こちらもそれなりに対処するけれど」
そう言う彼の目は本気だ。騎士が声をあげた。
「わ、分かっ、息が……っ、離せっ」
「それじゃあ、ちょっとこっちへ来てもらおうか」
言うなり、レヴィを引きずって行く。
エレナとシルヴィアは、動けないままそれを見ていた。
去り際にレヴィが叫ぶ。
「王女、騙されるな! 小娘、お前もこのままで済むと思うなよ……っ」
苦し紛れに、エレナを睨みつけて怒鳴り散らす。
「お前は『魔』の手先だ! いずれ、『人』を裏切るつもりなんだ!」
その目は射殺さんばかりに見開かれ、エレナは恐怖に身がすくんだ。
「隠したって無駄だ、いつかは化けの皮が剥がされるぞ! その時お前は、王女に――」
ばたん、と扉が閉められる。
突然静かになった部屋に、二人の少女が取り残される。
エレナは未だ動けなかった。
ナイフのように鋭い、敵意と軽蔑。
それを胸に突き立てられ、息をすることもままならない。
「エレナ、もう大丈夫よ」
シルヴィアが優しく微笑む。
「変な男だったわね。でもロレンツォなら、きっと良いようにしてくれるわ」
エレナは揺らぐ瞳で彼女を見つめる。
「エレナ? そんな目をしないで、もう疑ったりしてないわ。あなたは私の一番の味方だもの。精霊とだって、もう会わないんでしょう?」
「え、ええ」
シルヴィアが抱きついた。
「良かった。無駄な心配しちゃったわ」
胸が苦しい。
それに気づかない王女は、抱きしめる腕に力を込める。
「ありがとう。あなたは私の、一番のお友達よ」
――――クリス。
エレナは泣き出したくなった。
――――苦しいよ、会いたい。どこにいるの。
自分は既に、この王女を裏切っているのだ。
魔力を隠し、魔物の少年を思い続けている。
「人」も「魔」も、どちらも選べないというのに。
自分は確かに、父親の血を継いだのだ。
温かな腕の中、エレナはそっと、そう思った。




