受け取れなかった贈り物
始まりは七歳の誕生日だった。
その日、いつも厳しいリーラが、珍しく花をくれたのだ。
孤児だったエレナはリーラに拾われ、大きな古い屋敷に住んでいた。大陸の端にある村の、さらにはずれの孤児院。そこではエレナの他にもたくさんの子どもがいて、共に同じ時を過ごしていた。
孤児院の主で唯一の大人、それがリーラだった。
彼女に食事と寝床をもらう代わりに、子ども達は屋敷の仕事を請け負って生活していたのだ。
リーラの監督の下、分担したり、当番を決めたりして、せっせと家事をこなしていた。
いつからそうだったのかは分からない。
けれど、エレナが気づいた時は、それが当たり前の生活だった。
いつも厳しく、怒鳴ってばかりのリーラ。それでも時折、子ども達はその優しさに気づくのだ。
エレナもその日、まさしく「その時」を迎えようとしていた。
細い目をさらに細めて、リーラが言う。
「ほら、帰り道に咲いてたんだよ。大したものじゃないけどね」
その言葉通り、花は誕生日の贈り物にしては貧相に見えた。
しかし、差し出された花を見てエレナは胸の熱さを覚えたのだ。初めての贈り物が、どんなに嬉しかったか分からない。
「ありがとう」
受け取った花の、その温かさを噛み締めるように、大切に大切に抱え込んだ。
その瞬間だった。
みるみるうちに花は萎れ、茎をだらりと垂らした。唖然とするエレナの手のひらから、花びらがはらはらと舞い落ちる。
それは枯れていく花の、涙のように見えた。
「花が」リーラが叫ぶ。「花が枯れた…!」
本当に、突然のことだった。
「『魔』だわ!」
そう叫ぶ義母を、エレナは怯えた目で見つめた。
どうして花が枯れたのかも分からない。ただ、心臓が激しく鳴り、恐ろしさに声も出なかった。
「魔」は「魔力を持ち、魔法を使うもの」の事だ。
彼らのすべては、自然界から生まれてくる。
こぼれ落ちる雫や唸りをあげる火山、あるいは塗りつぶすような闇から、滲む魔力が集まり、一つの生き物として生まれるのだ。
それは妖精であったり、竜であったり、魔物であったりするのだが、「人」はそれを区別などしなかった。
すべてひとくくりに「魔」と呼び、邪悪な存在とみなしていたのだ。
両者の溝は深く、すべて三百年前の戦いに起因していた。
かつて二者は共存していたが、それを打ち消すように戦が生じたのだ。
最初に手を出したのは「魔」と言われている。魔物の群れによって、幾つもの国が滅ぼされ、大陸中が荒野と化した。
しかし争いの末、「人」の英雄アシオンが「魔」の王グランディールを倒したのだ。
アシオンは「魔」を大陸の端々へ追放し、人間の世界を築き上げた。そのお陰で、今も「魔」に出会うことはほとんどない。
時折魔法に手を出す人間もいたが、厳しく罰せられ、国を追われたのだ。
誰もが知っている物語は、しかし、単なる伝説にすぎなかった。
それでも人々の心に、アシオンは根付いているのだ。
彼が作ったと言う建物は、確かに残っている。
「魔法は罪」という考えも。
エレナは小さく息を吐いた。動悸はまだ収まらない。
この状況をどう解釈すればいいのだろう。
目の前で、突然花が枯れたのだ。
まるで魔法を使ったみたいに。
リーラは今や、ひどく取り乱していた。
「ああ、この子をどこかへやってしまわないと」
その目は恐れと怒りに染まっている。
「魔物の血でも引いてるのかしら。元いた場所に返さないと」
恐ろしい言葉を、エレナ動けないまま聞いていた。
わたしはそんなものではない。
そう言いたかったが、足元には茶色くなった花びらが、証拠だと言わんばかりに散らばっている。
その時ふと、リーラが動きを止めた。
「違う、『魔』なんかじゃない。……もうとっくに追い出されたはずだもの」
エレナは僅かに身じろぎした。
なんでもいい、リーラが再び優しくしてくれるなら。
捨てずに、そばに置いてくれるなら。
突然、黙りこくっていたリーラが口を開いた。
「やめたわ、馬鹿馬鹿しい。今日のことは忘れましょう、今まで通りよ。ただしあんたは二度と花に触らないこと。いいわね」
エレナは望みが叶ったことを知った。ほっとして胸を抑え、強く頷いて見せる。
けれど、リーラの目を見て愕然とした。
「分かったらさっさとその床を片付けなさい」
リーラが子どもに命令するのはいつものことだ。しかしこの時は違った。彼女の目は拒絶を滲ませ、その声には、いつもの厳しさすら含まれていなかったのだ。淡々とした無機質な響き。
まるで今起こったことに気づかなかったように。
まるで少女を見ていないかのように。
去っていく足音を呆然と聞きながら、エレナは思った。
今まで通りにはいかない、と。
*
「なあお前、花枯れさせたってほんと?」
「キースが言ってたぞ。リーラ婆さんのよこした花を、お前が枯らしたって」
「なあ、黙ってないでなんとか言えよ」
今日も同じことの繰り返しだ。
「そんなのただの噂だわ。あっちへ行って!」
叫んで、エレナはため息をつく。あれからというもの、毎日こんな状態が続いていた。
同じ家に住む子どもの一人が、この事件を見ていたのだ。またたく間に噂は知れ渡り、気づいた時には屋敷中の子どもに広まっていた。
そのお陰で、花を枯らせてからというもの、他の女の子たちは話かけてこなくなった。
それは意地悪ではなく、単に怖いものに近づくのを恐れたからだったが、エレナは甚く傷ついた。それでも、気にしていない振りをして、努めて堂々とふるまうことにした。
それが彼女にできる精一杯だったのだ。
代わりにエレナに話しかけるのは、恰好のいじめ相手を見つけた男の子達だった。彼らは言葉を選ぶという事を知らない。口々に悪口を投げつけた。
その度にエレナは負けずと言い返した。
弱いと分かれば更にからかわれてしまう。
彼女は気の強いふりをしていたが、いつも泣き出しそうなのをこらえていた。
そんなことが二ヶ月も続いたある日、男の子の一人が花を差し出して言ったのだ。
「触ってみろよ」と。
花を枯らさないよう、練習はしていた。
皆に隠れて繰り返すうち、気を張っていれば大丈夫だということにも気づいた。
今や、花畑を歩いても、何も起きない程になったのだ。
それでも、怖かった。
悲しいことや辛いことがあったとき、その感情を抑えきれなかったとき、おぞましい力は、再び威力を発揮したからだ。
エレナは駈け出した。
朝食のスープを残したまま、一目散に屋敷の外へと走り出た。
誰もいない場所へ行こう。
そんな衝動にかられた時、リーラの言葉を思い出した。
――――このあたりの森は道に迷うから入ってはいけない。二度と戻って来られないよ。
それなら入ってしまえばいい。少女はそう思った。
帰って来られなければ、それでもいい。
誰もわたしを見つけなければいいのだ。
光の差す朝の森。
木々は腕を広げて待っている。
エレナは泣きながら、そこへ飛び込んだのだ。
*
あれからというもの、エレナは森と孤児院を行き来するようになった。森で大切なものを見つけた上、孤児院でやっていくための元気も得られたからだ。
朝のうちに孤児院の仕事を終わらせ、明るいうちに出かけては、日が沈む前に急いで帰る。これがエレナの日課だった。
「クリス、また遊びに来たよ!」
少女は今日も鉄格子を通り抜け、初めての友達に会いに来た。庭では、相変わらず花が咲き乱れている。
この庭はエレナにとって落ち着く居場所だ。初めてここに来た日から、エレナの花を枯れさせる力は収まっていた。
「エレナ」
緑の中の少年は、いつものように少女を見つけた。鳶色の瞳が音もなくこちらを見る。その顔は初めて会ったときから変わらない無表情だ。
けれど、エレナは最近、彼の表情が豊かになったように感じる。最も、そう感じるのは自分だけかもしれないが。
それが嬉しくて、エレナの口調は早くなる。
「今日は何して遊ぶ?かくれんぼは飽きたし、追いかけっこも庭の中じゃすぐ終わっちゃう。何か面白いことってないの?」
「だから、俺は新しい遊びは知らないんだよ」
目をふせたクリスに、エレナは慌てて付け足す。
「わたし、この森で小川を見つけたことがあるの! そこでなら」
「言っただろう。外には出られないって。ここには魔法がかかってるんだ」
クリスは静かに言った。
「気持ちは嬉しいよ、ありがとう」
なんとか笑おうとしているのがエレナには分かった。
エレナは毎日時間を見つけては、クリスの元へ遊びに行ったが、彼がこちらへ来ることはなかった。
クリスはエレナと違って門を開くことができず、どうしても庭から出られなかったのだ。エレナが門を開けたまま、外に連れ出そうとすれば、彼は首を振った。
「俺を閉じ込めているのは魔法使いなんだ。その門に魔法をかけたのもあいつ。俺は危険だから、ここから出すわけにはいかないんだって」
その目はどこか遠くを見つめていて、エレナは思わず言ったのだ。「わたしがここから出してくれるよう頼んでみるわ」と。
けれど、クリスは即座に返した。
「あの男は、俺の存在を誰にも知られたくないんだ。もしお前が庭に入ったと気付かれたら、八つ裂きにされてしまう」
だから、絶対あいつには見つかってはいけない。彼は何度も繰り返した。
初めてエレナが訪れた日、クリスは帰る道順と、また庭にくる方法を教えた。
それはとても単純な理屈だった。
庭には魔法がかけられており、帰ろうとすればすぐに家路に辿り着くというのだ。そして、もう一度庭を訪れるためには、森で道に迷えばいいのだと。
クリスは真面目な顔で告げた。
帰るのは簡単だが、庭へ来るのはとても難しいことだ。もう一度ここに来るためには、道順を覚えようとしてはいけない。歩いた距離も、費やした時間も分からない、完全な迷い人にならなければならない、と。
しかし、エレナにとってそれは簡単なことだった。
これが知識に長けた大人だったら別だったかもしれない。
けれど、孤児院に住む少女は未だ七歳であり、方位磁針も、自分の時計も持ったことがなかったのだ。距離の測り方も、時間の感覚さえも、はっきりとは分からなかった。
つまり、迷うことにおいては天才だったのである。
*
夕食時、自分の食器を片付けながら、エレナは物思いにふけっていた。ふと、皿を集める手が止まる。
「何考えてるんだ?」
向かいの席の少年が声をかける。
意地悪ばかり言う少年たちの名を、エレナは知らない。もちろん、ほとんどの子の名前は知っていたが、意地悪な彼らに関しては覚える気にもなれなかったのだ。
再び皿を集め始めれば、少年は勝手に話し続けた。
「お前最近、どこかへ遊びに行ってるそうじゃないか。帰ってくるときは体中に葉っぱをくっつけて。何しに、どこへ行ってるんだ?」
それはいつもの意地悪というよりは、本心から気になっているようだった。
事実、エレナに直接聞かないものの、この件は、多くの子どもたちの関心事だったのだ。
「あなたには関係ないでしょ」
「皆気になってるんだぜ。お前が森に入っていくのを見た、って奴もいるし。もしかして、森に化け物の仲間でもいるのか?」
仲間などではない、友達だ。
それでも、誰かに会いに行っていることには間違いない。
エレナはどぎまぎしながら言い返す。
「勝手に話をつくらないでよっ」
「だって疑われてもしょうがないだろ。そいつも花を枯らすのか? それとも生き血をすするとか。どっちにしろ、魔物だろ?」
少年の物言いには、だんだんいつもの嫌味が混じってくる。
自分が悪口を言われるのは構わなかった。けれど、これは許せない。
彼は、魔物なんかじゃない
心の中でそう怒鳴る。けれど、口に出すことは出来なかった。
エレナの心を一つの考えがよぎったのだ。
庭をつくった魔法使いは、クリスが危険だと危惧していたのだ。
何より、初めて会った時、クリス自身が言っていたではないか。
俺は化け物だ、と。
信じたくなかったが、クリスが魔物という可能性は十分にあった。
彼は知られてはいけない存在なのかもしれない。
もしそうなら、口にしては駄目だ。
彼の存在を、誰にも悟られてはいけない。
幾つもの思いがせめぎあい、エレナは固く口を閉ざした。今日もう、何も喋らない方がいい。
自分にできる最大の速度で食器をかき集めると、不思議そうに見つめる少年の前を通り過ぎ、さっさと洗い場に向かった。
皿を洗いながら、あの庭のことを考える。
なぜ閉じ込められているのだろう。危険だからというだけでは、納得がいかない。クリスに直接理由を聞くわけにはいかないが、気になってしょうがなかった。
その日エレナは皿を二枚割り、リーラにひどく叱られた。
けれど、小さな胸は少年のことでいっぱいだったのだ。
長々としたお小言でさえ、エレナの耳には入らなかった。




