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ハルシュトラールの夜の果て  作者: 星乃晴香
第一章 木漏れ日の中で
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受け取れなかった贈り物

 始まりは七歳の誕生日だった。

 その日、いつも厳しいリーラが、珍しく花をくれたのだ。



 孤児だったエレナはリーラに拾われ、大きな古い屋敷に住んでいた。大陸の端にある村の、さらにはずれの孤児院。そこではエレナの他にもたくさんの子どもがいて、共に同じ時を過ごしていた。


 孤児院の(あるじ)で唯一の大人、それがリーラだった。

 彼女に食事と寝床をもらう代わりに、子ども達は屋敷の仕事を請け負って生活していたのだ。

 リーラの監督の(もと)、分担したり、当番を決めたりして、せっせと家事をこなしていた。

 いつからそうだったのかは分からない。

 けれど、エレナが気づいた時は、それが当たり前の生活だった。


 いつも厳しく、怒鳴ってばかりのリーラ。それでも時折、子ども達はその優しさに気づくのだ。

 エレナもその日、まさしく「その時」を迎えようとしていた。



 細い目をさらに細めて、リーラが言う。

「ほら、帰り道に咲いてたんだよ。大したものじゃないけどね」

 その言葉通り、花は誕生日の贈り物にしては貧相に見えた。

 しかし、差し出された花を見てエレナは胸の熱さを覚えたのだ。初めての贈り物が、どんなに嬉しかったか分からない。

「ありがとう」

 受け取った花の、その温かさを噛み締めるように、大切に大切に抱え込んだ。

 その瞬間だった。


 みるみるうちに花は萎れ、茎をだらりと垂らした。唖然とするエレナの手のひらから、花びらがはらはらと舞い落ちる。

 それは枯れていく花の、涙のように見えた。

 「花が」リーラが叫ぶ。「花が枯れた…!」


 本当に、突然のことだった。


「『(ノヴル)』だわ!」 

 そう叫ぶ義母を、エレナは怯えた目で見つめた。

 どうして花が枯れたのかも分からない。ただ、心臓が激しく鳴り、恐ろしさに声も出なかった。



 「(ノヴル)」は「魔力を持ち、魔法を使うもの」の事だ。

 彼らのすべては、自然界から生まれてくる。

 こぼれ落ちる雫や(うな)りをあげる火山、あるいは塗りつぶすような闇から、(にじ)む魔力が集まり、一つの生き物として生まれるのだ。

 それは妖精であったり、竜であったり、魔物であったりするのだが、「(ミッド)」はそれを区別などしなかった。

 すべてひとくくりに「(ノヴル)」と呼び、邪悪な存在とみなしていたのだ。


 両者の溝は深く、すべて三百年前の戦いに起因していた。

 かつて二者は共存していたが、それを打ち消すように戦が生じたのだ。


 最初に手を出したのは「(ノヴル)」と言われている。魔物の群れによって、幾つもの国が滅ぼされ、大陸中が荒野と化した。

 しかし争いの末、「(ミッド)」の英雄アシオンが「(ノヴル)」の王グランディールを倒したのだ。


 アシオンは「(ノヴル)」を大陸の端々へ追放し、人間の世界を築き上げた。そのお陰で、今も「(ノヴル)」に出会うことはほとんどない。

 時折魔法に手を出す人間もいたが、厳しく罰せられ、国を追われたのだ。


 誰もが知っている物語は、しかし、単なる伝説にすぎなかった。

 それでも人々の心に、アシオンは根付いているのだ。

 彼が作ったと言う建物は、確かに残っている。

 「魔法は罪」という考えも。


 

 エレナは小さく息を吐いた。動悸はまだ収まらない。

 この状況をどう解釈すればいいのだろう。

 目の前で、突然花が枯れたのだ。

 まるで魔法を使ったみたいに。

 


 リーラは今や、ひどく取り乱していた。

「ああ、この子をどこかへやってしまわないと」

 その目は恐れと怒りに染まっている。

「魔物の血でも引いてるのかしら。元いた場所に返さないと」

 恐ろしい言葉を、エレナ動けないまま聞いていた。

 わたしはそんなものではない。

 そう言いたかったが、足元には茶色くなった花びらが、証拠だと言わんばかりに散らばっている。


 その時ふと、リーラが動きを止めた。

「違う、『(ノヴル)』なんかじゃない。……もうとっくに追い出されたはずだもの」

 エレナは僅かに身じろぎした。

 なんでもいい、リーラが再び優しくしてくれるなら。

 捨てずに、そばに置いてくれるなら。


 突然、黙りこくっていたリーラが口を開いた。

「やめたわ、馬鹿馬鹿しい。今日のことは忘れましょう、今まで通りよ。ただしあんたは二度と花に触らないこと。いいわね」

 エレナは望みが叶ったことを知った。ほっとして胸を抑え、強く頷いて見せる。

 けれど、リーラの目を見て愕然(がくぜん)とした。


「分かったらさっさとその床を片付けなさい」

 リーラが子どもに命令するのはいつものことだ。しかしこの時は違った。彼女の目は拒絶を滲ませ、その声には、いつもの厳しさすら含まれていなかったのだ。淡々とした無機質な響き。

 まるで今起こったことに気づかなかったように。

 まるで少女を見ていないかのように。


 去っていく足音を呆然と聞きながら、エレナは思った。

 今まで通りにはいかない、と。



「なあお前、花枯れさせたってほんと?」

「キースが言ってたぞ。リーラ婆さんのよこした花を、お前が枯らしたって」

「なあ、黙ってないでなんとか言えよ」

 今日も同じことの繰り返しだ。

「そんなのただの(うわさ)だわ。あっちへ行って!」

 叫んで、エレナはため息をつく。あれからというもの、毎日こんな状態が続いていた。


 同じ家に住む子どもの一人が、この事件を見ていたのだ。またたく間に噂は知れ渡り、気づいた時には屋敷中の子どもに広まっていた。

 そのお陰で、花を枯らせてからというもの、他の女の子たちは話かけてこなくなった。

 それは意地悪ではなく、単に怖いものに近づくのを恐れたからだったが、エレナは(いた)く傷ついた。それでも、気にしていない振りをして、努めて堂々とふるまうことにした。

 それが彼女にできる精一杯だったのだ。


 代わりにエレナに話しかけるのは、恰好のいじめ相手を見つけた男の子達だった。彼らは言葉を選ぶという事を知らない。口々に悪口を投げつけた。

 その度にエレナは負けずと言い返した。

 弱いと分かれば更にからかわれてしまう。

 彼女は気の強いふりをしていたが、いつも泣き出しそうなのをこらえていた。


 そんなことが二ヶ月も続いたある日、男の子の一人が花を差し出して言ったのだ。

 「触ってみろよ」と。


 花を枯らさないよう、練習はしていた。

 皆に隠れて繰り返すうち、気を張っていれば大丈夫だということにも気づいた。

 今や、花畑を歩いても、何も起きない程になったのだ。


 それでも、怖かった。


 悲しいことや辛いことがあったとき、その感情を抑えきれなかったとき、おぞましい力は、再び威力を発揮したからだ。


 エレナは駈け出した。

 朝食のスープを残したまま、一目散に屋敷の外へと走り出た。


 誰もいない場所へ行こう。

 そんな衝動にかられた時、リーラの言葉を思い出した。

――――このあたりの森は道に迷うから入ってはいけない。二度と戻って来られないよ。


 それなら入ってしまえばいい。少女はそう思った。

 帰って来られなければ、それでもいい。

 誰もわたしを見つけなければいいのだ。


 光の差す朝の森。

 木々は腕を広げて待っている。

 エレナは泣きながら、そこへ飛び込んだのだ。



 あれからというもの、エレナは森と孤児院を行き来するようになった。森で大切なものを見つけた上、孤児院でやっていくための元気も得られたからだ。

 朝のうちに孤児院の仕事を終わらせ、明るいうちに出かけては、日が沈む前に急いで帰る。これがエレナの日課だった。


「クリス、また遊びに来たよ!」

 少女は今日も鉄格子を通り抜け、初めての友達に会いに来た。庭では、相変わらず花が咲き乱れている。

 この庭はエレナにとって落ち着く居場所だ。初めてここに来た日から、エレナの花を枯れさせる力は収まっていた。

「エレナ」

 緑の中の少年は、いつものように少女を見つけた。鳶色(とびいろ)の瞳が音もなくこちらを見る。その顔は初めて会ったときから変わらない無表情だ。

 けれど、エレナは最近、彼の表情が豊かになったように感じる。最も、そう感じるのは自分だけかもしれないが。

 それが嬉しくて、エレナの口調は早くなる。

「今日は何して遊ぶ?かくれんぼは飽きたし、追いかけっこも庭の中じゃすぐ終わっちゃう。何か面白いことってないの?」

「だから、俺は新しい遊びは知らないんだよ」

 目をふせたクリスに、エレナは慌てて付け足す。

「わたし、この森で小川を見つけたことがあるの! そこでなら」

「言っただろう。外には出られないって。ここには魔法がかかってるんだ」

 クリスは静かに言った。

「気持ちは嬉しいよ、ありがとう」

 なんとか笑おうとしているのがエレナには分かった。



 エレナは毎日時間を見つけては、クリスの元へ遊びに行ったが、彼がこちらへ来ることはなかった。

 クリスはエレナと違って門を開くことができず、どうしても庭から出られなかったのだ。エレナが門を開けたまま、外に連れ出そうとすれば、彼は首を振った。


「俺を閉じ込めているのは魔法使いなんだ。その門に魔法をかけたのもあいつ。俺は危険だから、ここから出すわけにはいかないんだって」


 その目はどこか遠くを見つめていて、エレナは思わず言ったのだ。「わたしがここから出してくれるよう頼んでみるわ」と。

 けれど、クリスは即座に返した。

「あの男は、俺の存在を誰にも知られたくないんだ。もしお前が庭に入ったと気付かれたら、八つ裂きにされてしまう」

 だから、絶対あいつには見つかってはいけない。彼は何度も繰り返した。




 初めてエレナが訪れた日、クリスは帰る道順と、また庭にくる方法を教えた。

 それはとても単純な理屈だった。

 庭には魔法がかけられており、帰ろうとすればすぐに家路に辿り着くというのだ。そして、もう一度庭を訪れるためには、森で道に迷えばいいのだと。

 クリスは真面目な顔で告げた。

 帰るのは簡単だが、庭へ来るのはとても難しいことだ。もう一度ここに来るためには、道順を覚えようとしてはいけない。歩いた距離も、費やした時間も分からない、完全な迷い人にならなければならない、と。


 しかし、エレナにとってそれは簡単なことだった。

 これが知識に()けた大人だったら別だったかもしれない。

 けれど、孤児院に住む少女は未だ七歳であり、方位磁針も、自分の時計も持ったことがなかったのだ。距離の測り方も、時間の感覚さえも、はっきりとは分からなかった。

 つまり、迷うことにおいては天才だったのである。




 夕食時、自分の食器を片付けながら、エレナは物思いにふけっていた。ふと、皿を集める手が止まる。

「何考えてるんだ?」

 向かいの席の少年が声をかける。

 意地悪ばかり言う少年たちの名を、エレナは知らない。もちろん、ほとんどの子の名前は知っていたが、意地悪な彼らに関しては覚える気にもなれなかったのだ。


 再び皿を集め始めれば、少年は勝手に話し続けた。

「お前最近、どこかへ遊びに行ってるそうじゃないか。帰ってくるときは体中に葉っぱをくっつけて。何しに、どこへ行ってるんだ?」

 それはいつもの意地悪というよりは、本心から気になっているようだった。

 事実、エレナに直接聞かないものの、この件は、多くの子どもたちの関心事だったのだ。

「あなたには関係ないでしょ」

「皆気になってるんだぜ。お前が森に入っていくのを見た、って奴もいるし。もしかして、森に化け物の仲間でもいるのか?」

 仲間などではない、友達だ。

 それでも、誰かに会いに行っていることには間違いない。


 エレナはどぎまぎしながら言い返す。

「勝手に話をつくらないでよっ」

「だって疑われてもしょうがないだろ。そいつも花を枯らすのか? それとも生き血をすするとか。どっちにしろ、魔物だろ?」

 少年の物言いには、だんだんいつもの嫌味が混じってくる。

 自分が悪口を言われるのは構わなかった。けれど、これは許せない。


 彼は、魔物なんかじゃない


 心の中でそう怒鳴る。けれど、口に出すことは出来なかった。


 エレナの心を一つの考えがよぎったのだ。


 庭をつくった魔法使いは、クリスが危険だと危惧していたのだ。

 何より、初めて会った時、クリス自身が言っていたではないか。

 俺は化け物だ、と。

 

 信じたくなかったが、クリスが魔物という可能性は十分にあった。

 

 彼は知られてはいけない存在なのかもしれない。


 もしそうなら、口にしては駄目だ。

 彼の存在を、誰にも悟られてはいけない。


 幾つもの思いがせめぎあい、エレナは固く口を閉ざした。今日もう、何も喋らない方がいい。

 自分にできる最大の速度で食器をかき集めると、不思議そうに見つめる少年の前を通り過ぎ、さっさと洗い場に向かった。


 皿を洗いながら、あの庭のことを考える。

 なぜ閉じ込められているのだろう。危険だからというだけでは、納得がいかない。クリスに直接理由を聞くわけにはいかないが、気になってしょうがなかった。


 その日エレナは皿を二枚割り、リーラにひどく叱られた。

 けれど、小さな胸は少年のことでいっぱいだったのだ。

 長々としたお小言でさえ、エレナの耳には入らなかった。


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