飛び立った魔物達
耳をつんざくような喧騒。
大きな地響き。小さな足音。
視界を横切る幾つもの黒い羽。銀のカギ爪が伸ばされ、自由を掴んだ。
何百もの魔物達が、思い思いに叫び声をあげている。
笑い声にも泣き声にも聞こえるそれが、両方であることを少年は知っていた。
歓喜と、憎しみと、言葉にできない感情達。
それが今、壊された牢獄から次々と解き放たれていた。
魔物に応戦するのは、青い服を着た男達だ。
少年は離れた岩陰からそれを見る。彼らが王宮の騎士団だというのは、すぐに分かった。
今は彼らと戦っても無駄だ。そう悟った主が、闇への入り口を用意したというのに。
何匹かの魔物はそこへ飛び込もうとせず、騎士達に襲い掛かっているのであった。
くだらない。
両者の戦いを眺めていると、赤毛の少女が高い声で呼んだ。
「クリス! どこへ行ってたのよ!」
少年は、黙ってそちらを見た。
「また勝手にいなくなって! 早くこっちへ来て、手伝ってちょうだい!」
一つため息をつき、クリスはそちらへ向かう。洞窟の岩壁を軽々と登りながら、赤毛の少女――ラズールに声をかけた。
「俺はもう仕事を終えた。後はお前がやれ」
「何よその言い方。あんたは檻を壊しただけじゃない!」
クリスはラズールの傍に立つと、無表情で彼女を見た。
「お前も知ってるだろ。俺は檻ごと壊したんじゃない。檻だけ壊したんだ。この魔法、骨が折れるんだぞ」
その言葉通り、彼の使った魔法は複雑なものだった。
闇から生まれた魔物は、魔力を使ったところで、辺りの物を手当たり次第に破壊することしかできない。
その中でも、格段に魔力の強いクリスは、その標的を定め、他のものに当たらないように操ることができた。いわば、彼だけが使える特別な力だ。
「魔」の王が重宝しないはずがなかった。
ラズールは、ふん、といまいましそうに鼻をならす。
「そんなに複雑なやり方ができるなら、あの騎士団をなんとかしちゃってよ。あんたなら一度に全員、殺れるでしょう」
クリスは疲れたように息を吐いた。確かに自分の魔力なら一撃で全員殺せるかもしれない。けれど、そんなことはしたくないのだ。
きっとあの子が悲しむから。
クリスはそっと自分の手を見た。
触れた温かさを思い出し、小さく息を吐く。
ここへ来たときは、仕事をすることになんの迷いもなかった。
そんな迷いはとっくの昔に、うまく捨てたはずだったのに。
どうして彼女は、何度も現れるのだろう。
あの時。
崩れて行く牢獄の狭間に、少女の姿を見つけた瞬間、全身の血の気が引いた。
彼女の頭上には、岩盤が迫っていたのだ。
あんなに恐怖を感じたのは、初めてかもしれない。
――――エレナ。
気づいた時には、走り出していた。
ラズールの目を盗み、崩れゆく洞窟に飛び込んだ。逃げ出していく魔物達の流れに逆らい、あの子の傍へ向かった。
目を閉じた少女の、懐かしい顔。
抱えた体の、その温かさ。
凍らせていた心が溶けそうになる。それをふりきるように出口へ走った。
この子を守らなきゃ。
魔物達のいない、安全なところへ連れて行かなきゃ。
自分を呼ぶ声に聞こえないふりをして。
光の差す方へ、ただ走った。
頬をかすめる風がなびき、ざわざわと木々が謳う。
ついた先は、森のはずれ。
幾本もの光の柱が、枝葉を貫き輝いていた。
腕に抱えた少女が、眩しげに身じろぎする。
少年は逃げ出そうとしたが、少女の顔から、どうしても目が離せなかった。
瞼が歪められ、ゆっくりと開く。
愛しく懐かしい、深緑の瞳。
「来て、くれたの……」
少年は口を開いた。話そうとしたが、声が出て来ない。
溢れそうな叫びは、喉につかえたまま言葉にすらならない。
少女は小さく微笑んだ。
そうしてまた、ゆっくりと眠りについた。
木立の並ぶ森の中。
零れ落ちそうな何かを堪え、抱きしめる腕に力を込める。
少年は少女を抱えたまま、ひたすら草を踏みしめた。
木漏れ日の揺れる木陰に来ると、そっと少女を地に降ろす。
声をかけようとしたが、やはり言葉は出て来ずに。
少年は二、三歩と後ずさり、逃げるようにして走り去った。
大丈夫。大丈夫。まだ心は溶けていない。
必死で殺した心はまだ、きちんと動かないままだ。
「ちょっと! 聞いてるの!?」
甲高い声に、クリスははっと我に返った。
「何考えてるのよ! 手伝って、って言ってるでしょ!」
ラズールは怒りで瞳をぎらつかせる。クリスはその目を、静かに見返した。
「他の奴に頼んでくれ」
「はぁ!?」
燃え上がる赤毛をよそに、淡々と続ける。
「檻を壊した時、魔力を使い切ったんだ。俺はしばらく、魔法を使えない」
嘘だった。
確かに彼にも限界はある。けれど今、魔力は溢れるほどに満ちていて、その気になれば目の前の少女を殺すことだってできた。
けれど、彼はもう、赤毛の少女を見なかった。
「俺は、これ以上手伝わない」
踵を返すその背中に、ラズールが叫ぶ。
「この役立たず! あんたって本当に使えないわね!」
甲高い声が、空気を貫く。
「ご主人に言いつけてやるわ!」
好きなようにすればいい。
クリスは思った。
今はどうしても騎士達を傷つけたくなかった。
何をされようが、あの子に泣かれるより、よっぽどましだ。
彼の進む先には、あの空間があった。
ぱっくりと口をあけた、黒くて深い闇への入り口。
そこに向かう少年の前に、ふっと黒い靄が現れる。
それはたちまち人の大きさになり、行く手を阻んだ。
クリスは息を呑んで後ずさる。
「魔」の王は闇を纏ったまま、音もなく少年を睨んだ。
そこには感情というものが存在しなかった。
「クリス」
常人だったら気を失っていただろう。けれど、名を呼ばれた少年は、気丈に答えを返した。
「黒の王、なんの御用でしょう」
「良いことを思いついたのだ。ヴァーグの件が片付いたら、今回手にした軍団で、『人』の奴らに手を下す。だが、その前に準備をせねばならない」
そう言って、抑揚のない声で尋ねた。
「再びお前の力が必要だ。手伝ってくれるな?」
選択肢などなかった。
生きるために、少女を守るために、少年は幾度となく心を殺す。
「はい」
黒い魔物は満足したように、クリスに微笑みかけた。
その瞳は肌を刺すほど冷たく、その笑みは鳥肌が立つほど残酷だった。
*
騎士達は戦いを続けていた。
閃き、飛び交う銀は、剣と魔法の色だ。
頭上で翼を羽ばたかせ、大地でカギ爪を振るう魔物に、騎士達はその場をしのぐだけで精いっぱいだ。
それでも、レイモンドの的確な指示により、それぞれうまい具合に応戦していた。
「ガスパル! 後ろから来てるぞ!」
「おっと」
魔物の頭上に、ガスパルが剣を振り下ろす。それを見たレイモンドは、息をつく間もなく目の前の翼を切り裂いた。
「グギャァァア!」
醜い悲鳴をあげ、おぞましい魔物が地に落ちる。
「はあっ……きりがないな」
向こうから飛んできた魔法を、剣の平を返して待ち受ける。
銀の光は反射し、別の魔物に直撃した。
「レイモンド!」
息せき切って、ロレンツォが走って来た。その合間にも、彼は器用に剣を振り続けている。襲いかかった魔物は、ばたばたと地に落ちて行った。
「何があったんです?」
レイモンドが振り返れば、ロレンツォは吐き出すように言った。
「あの子がいないんだ。どこにも!」
「エレナ嬢が?」
再び剣を構え、襲いかかる魔物を貫くと、レイモンドは額の汗をぬぐった。
「一体どこに……まさか瓦礫の下敷きになったんじゃ……」
「探しに行ってくる。――『魔』の相手を頼んでもいいか?」
尋ねるロレンツォに、慌ててレイモンドは首を振った。
「もしもの時は、貴方の知恵が必要になります。他の者に任せましょう」
その時、一人が声をあげた。
「じゃあ、俺が行きます」
副団長のレヴィだ。レイモンドは片眉をあげる。この最年少の男は、何を考えているのか分からないところがあった。
「俺は副団長ですけど、使いっぱしりが入り用なら、使って下さい。俺は騎士団の経験もそれほど長くはないし、そこの男より、頭脳は劣るようですから」
皮肉げな言い方は、嫌味にも聞こえる。レイモンドは冷静に返した。
「レヴィ。今はふざけている場合じゃないんだ。私はお前をそんな風に思ったことは」
「嘘をつかないで下さいよ」
レヴィは鼻で笑った。
「まあでも、団長様じきじきのご命令なら……おっと」
飛んできた魔物を、素早く小刀で切り落とした。
彼の顔の傍で、赤い血しぶきがあがる。そのまま笑みをうかべ、馬鹿にしたように続ける。
「お望みのままに動きますよ。逃げている『魔』は捕え、八つ裂きにしてやります。団長が命じるなら、あの娘も連れて来ます」
その含んだ言い方に、ロレンツォが怪訝な顔をする。魔物と戦いながらも、口を開こうとした。けれど、それよりも早く、レイモンドが怒鳴る。
「さっさと行け! エレナ嬢を見つけてくるんだ!」
「承知しました、っと」
さっとお辞儀をすると、レヴィは魔物を払いながら、足早に去って行った。
残った者達の傍らに、尚も魔物は飛んでくる。
それは次々と襲いかかり、剣で貫かれるたび、黒い靄となって消えて行った。
戦い続ける騎士団を、レヴィは一度だけ振り返る。
「馬鹿め」
小さく彼は呟いた。
その目は、騎士団の頭上に舞う、魔物の軍勢を見ていた。
「目の前ばかり見て、周りを見ないからこうなるんだ」
騎士達は必死に剣を振っている。けれど、彼らが戦っている多くの魔物はほんの一部でしかなかった。他の魔物は皆、岩山の上に開かれた、闇へ続く空間に飛び込んでいる。
あの向こうに「魔」の巣があることは、容易に想像できた。
レヴィは小さく肩を竦める。
なぜ自分はこんな場所で、こんな仕事をしているのだろう。
彼は貴族の次男坊であり、爵位を継げなかったため、常々自分の立場が気に入らないと思っていた。
副団長という地位は、両親に権力と体裁を以て与えられたものだ。けれど当の本人にとっては、押し付けられたものと変わりなかった。
そもそも、騎士団の中でさえ、自分が二番目だということが気にくわなかった。
団長のレイモンドは努力家だ。一緒に仕事をしていても、彼だけが周りに認められ、賞賛される。当然のこととは言え、毎日比較するように眺められれば、うんざりせずにはいられない。
レイモンドが生真面目で、実力でのし上がって来たという事実も、なぜだか腹立たしくてしょうがなかった。
魔物を八つ裂きにすれば、少しは腹いせが出来るかと思ったが、国王は生け捕りにしろと命じたのだ。
今でこそ正面切って戦っているものの、その命令を聞いた当初は、国王はとんだ腰抜けだと思った。
「魔」はいまや、空を覆い尽くす群れとなり、闇の入り口に飛び込んでいる。
必死で戦う騎士達がそれに気づくのは、もう少し時間がかかるだろう。
戦うだけ馬鹿らしい。
放っておけばいいものを。
「魔」を見ながら彼は思う。
何もかも面白くない、と。
けれど、その顔には笑みが浮かんでいた。
団長に下された命令に、初めて興味を持てたからだ。
以前、魔物の巣へ飛び込もうとした、浅はかな少女。
彼女が人間だと言う確証は、どこにもない。
「あの、小娘」
小さく呟いた彼の目は、野望と疑いをちらつかせていた。




