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ハルシュトラールの夜の果て  作者: 星乃晴香
第四章 精霊はささやく
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飛び立った魔物達


 耳をつんざくような喧騒。

 大きな地響き。小さな足音。

 視界を横切る幾つもの黒い羽。銀のカギ爪が伸ばされ、自由を掴んだ。

 

 何百もの魔物達が、思い思いに叫び声をあげている。

 笑い声にも泣き声にも聞こえるそれが、両方であることを少年は知っていた。

 歓喜と、憎しみと、言葉にできない感情達。

 それが今、壊された牢獄から次々と解き放たれていた。


 魔物に応戦するのは、青い服を着た男達だ。

 少年は離れた岩陰からそれを見る。彼らが王宮の騎士団だというのは、すぐに分かった。

 今は彼らと戦っても無駄だ。そう悟った主が、闇への入り口を用意したというのに。

 何匹かの魔物はそこへ飛び込もうとせず、騎士達に襲い掛かっているのであった。


 くだらない。


 両者の戦いを眺めていると、赤毛の少女が高い声で呼んだ。

「クリス! どこへ行ってたのよ!」

 少年は、黙ってそちらを見た。

「また勝手にいなくなって! 早くこっちへ来て、手伝ってちょうだい!」

 一つため息をつき、クリスはそちらへ向かう。洞窟の岩壁を軽々と登りながら、赤毛の少女――ラズールに声をかけた。

「俺はもう仕事を終えた。後はお前がやれ」

「何よその言い方。あんたは檻を壊しただけじゃない!」

 クリスはラズールの傍に立つと、無表情で彼女を見た。

「お前も知ってるだろ。俺は檻ごと壊したんじゃない。檻だけ壊したんだ。この魔法、骨が折れるんだぞ」

 その言葉通り、彼の使った魔法は複雑なものだった。

 闇から生まれた魔物は、魔力を使ったところで、辺りの物を手当たり次第に破壊することしかできない。

 その中でも、格段に魔力の強いクリスは、その標的を定め、他のものに当たらないように操ることができた。いわば、彼だけが使える特別な力だ。

 「(ノヴル)」の王が重宝しないはずがなかった。


 

 ラズールは、ふん、といまいましそうに鼻をならす。

「そんなに複雑なやり方ができるなら、あの騎士団をなんとかしちゃってよ。あんたなら一度に全員、()れるでしょう」

 クリスは疲れたように息を吐いた。確かに自分の魔力なら一撃で全員殺せるかもしれない。けれど、そんなことはしたくないのだ。

 きっとあの子が悲しむから。


 クリスはそっと自分の手を見た。

 触れた温かさを思い出し、小さく息を吐く。

 ここへ来たときは、仕事をすることになんの迷いもなかった。

 そんな迷いはとっくの昔に、うまく捨てたはずだったのに。

 どうして彼女は、何度も現れるのだろう。

 


 あの時。

 崩れて行く牢獄の狭間に、少女の姿を見つけた瞬間、全身の血の気が引いた。

 彼女の頭上には、岩盤が迫っていたのだ。

 あんなに恐怖を感じたのは、初めてかもしれない。


――――エレナ。


 気づいた時には、走り出していた。

 ラズールの目を盗み、崩れゆく洞窟に飛び込んだ。逃げ出していく魔物達の流れに逆らい、あの子の傍へ向かった。

 目を閉じた少女の、懐かしい顔。

 抱えた体の、その温かさ。


 凍らせていた心が溶けそうになる。それをふりきるように出口へ走った。

 この子を守らなきゃ。

 魔物達のいない、安全なところへ連れて行かなきゃ。


 自分を呼ぶ声に聞こえないふりをして。

 光の差す方へ、ただ走った。





 頬をかすめる風がなびき、ざわざわと木々が謳う。

 ついた先は、森のはずれ。

 幾本もの光の柱が、枝葉を貫き輝いていた。

 

 腕に抱えた少女が、眩しげに身じろぎする。

 少年は逃げ出そうとしたが、少女の顔から、どうしても目が離せなかった。

 (まぶた)が歪められ、ゆっくりと開く。

 愛しく懐かしい、深緑の瞳。


「来て、くれたの……」


 少年は口を開いた。話そうとしたが、声が出て来ない。

 溢れそうな叫びは、喉につかえたまま言葉にすらならない。


 少女は小さく微笑んだ。

 そうしてまた、ゆっくりと眠りについた。


 



 木立の並ぶ森の中。

 零れ落ちそうな何かを堪え、抱きしめる腕に力を込める。

 少年は少女を抱えたまま、ひたすら草を踏みしめた。

 木漏れ日の揺れる木陰に来ると、そっと少女を地に降ろす。

 声をかけようとしたが、やはり言葉は出て来ずに。

 少年は二、三歩と後ずさり、逃げるようにして走り去った。



 大丈夫。大丈夫。まだ心は溶けていない。

 必死で殺した心はまだ、きちんと動かないままだ。





「ちょっと! 聞いてるの!?」

 甲高い声に、クリスははっと我に返った。

「何考えてるのよ! 手伝って、って言ってるでしょ!」

 ラズールは怒りで瞳をぎらつかせる。クリスはその目を、静かに見返した。

「他の奴に頼んでくれ」

「はぁ!?」

 燃え上がる赤毛をよそに、淡々と続ける。

「檻を壊した時、魔力を使い切ったんだ。俺はしばらく、魔法を使えない」

 嘘だった。

 確かに彼にも限界はある。けれど今、魔力は溢れるほどに満ちていて、その気になれば目の前の少女を殺すことだってできた。

 けれど、彼はもう、赤毛の少女を見なかった。

「俺は、これ以上手伝わない」


 踵を返すその背中に、ラズールが叫ぶ。

「この役立たず! あんたって本当に使えないわね!」

 甲高い声が、空気を貫く。

「ご主人に言いつけてやるわ!」


 好きなようにすればいい。

 クリスは思った。

 今はどうしても騎士達を傷つけたくなかった。

 何をされようが、あの子に泣かれるより、よっぽどましだ。


 彼の進む先には、あの空間があった。

 ぱっくりと口をあけた、黒くて深い闇への入り口。

 そこに向かう少年の前に、ふっと黒い(もや)が現れる。

 それはたちまち人の大きさになり、行く手を阻んだ。

 クリスは息を呑んで後ずさる。

 

(ノヴル)」の王は闇を(まと)ったまま、音もなく少年を睨んだ。

 そこには感情というものが存在しなかった。

「クリス」


 常人だったら気を失っていただろう。けれど、名を呼ばれた少年は、気丈に答えを返した。

「黒の王、なんの御用でしょう」

「良いことを思いついたのだ。ヴァーグの件が片付いたら、今回手にした軍団で、『(ミッド)』の奴らに手を下す。だが、その前に準備をせねばならない」

 そう言って、抑揚のない声で尋ねた。

「再びお前の力が必要だ。手伝ってくれるな?」

 選択肢などなかった。

 生きるために、少女を守るために、少年は幾度となく心を殺す。

「はい」

 黒い魔物は満足したように、クリスに微笑みかけた。

 その瞳は肌を刺すほど冷たく、その笑みは鳥肌が立つほど残酷だった。

 



 

 騎士達は戦いを続けていた。

 (ひらめ)き、飛び交う銀は、剣と魔法の色だ。

 頭上で翼を羽ばたかせ、大地でカギ爪を振るう魔物に、騎士達はその場をしのぐだけで精いっぱいだ。

 それでも、レイモンドの的確な指示により、それぞれうまい具合に応戦していた。


「ガスパル! 後ろから来てるぞ!」

「おっと」

 魔物の頭上に、ガスパルが剣を振り下ろす。それを見たレイモンドは、息をつく間もなく目の前の翼を切り裂いた。

「グギャァァア!」

 醜い悲鳴をあげ、おぞましい魔物が地に落ちる。

「はあっ……きりがないな」

 向こうから飛んできた魔法を、剣の平を返して待ち受ける。

 銀の光は反射し、別の魔物に直撃した。


「レイモンド!」

 息せき切って、ロレンツォが走って来た。その合間にも、彼は器用に剣を振り続けている。襲いかかった魔物は、ばたばたと地に落ちて行った。

「何があったんです?」

 レイモンドが振り返れば、ロレンツォは吐き出すように言った。

「あの子がいないんだ。どこにも!」

「エレナ嬢が?」

 再び剣を構え、襲いかかる魔物を貫くと、レイモンドは額の汗をぬぐった。

「一体どこに……まさか瓦礫(がれき)の下敷きになったんじゃ……」

「探しに行ってくる。――『(ノヴル)』の相手を頼んでもいいか?」

 尋ねるロレンツォに、慌ててレイモンドは首を振った。

「もしもの時は、貴方の知恵が必要になります。他の者に任せましょう」

 


 その時、一人が声をあげた。

「じゃあ、俺が行きます」

 副団長のレヴィだ。レイモンドは片眉をあげる。この最年少の男は、何を考えているのか分からないところがあった。

「俺は副団長ですけど、使いっぱしりが入り用なら、使って下さい。俺は騎士団の経験もそれほど長くはないし、そこの男より、頭脳は劣るようですから」

 皮肉げな言い方は、嫌味にも聞こえる。レイモンドは冷静に返した。

「レヴィ。今はふざけている場合じゃないんだ。私はお前をそんな風に思ったことは」

「嘘をつかないで下さいよ」

 レヴィは鼻で笑った。

「まあでも、団長様じきじきのご命令なら……おっと」

 飛んできた魔物を、素早く小刀で切り落とした。

 彼の顔の傍で、赤い血しぶきがあがる。そのまま笑みをうかべ、馬鹿にしたように続ける。

「お望みのままに動きますよ。逃げている『(ノヴル)』は捕え、八つ裂きにしてやります。団長が命じるなら、あの娘も連れて来ます」

 その含んだ言い方に、ロレンツォが怪訝な顔をする。魔物と戦いながらも、口を開こうとした。けれど、それよりも早く、レイモンドが怒鳴る。

「さっさと行け! エレナ嬢を見つけてくるんだ!」

「承知しました、っと」

 さっとお辞儀をすると、レヴィは魔物を払いながら、足早に去って行った。

 


 残った者達の(かたわ)らに、尚も魔物は飛んでくる。

 それは次々と襲いかかり、剣で貫かれるたび、黒い(もや)となって消えて行った。

 戦い続ける騎士団を、レヴィは一度だけ振り返る。

「馬鹿め」

 小さく彼は呟いた。

 その目は、騎士団の頭上に舞う、魔物の軍勢を見ていた。

「目の前ばかり見て、周りを見ないからこうなるんだ」

 騎士達は必死に剣を振っている。けれど、彼らが戦っている多くの魔物はほんの一部でしかなかった。他の魔物は皆、岩山の上に開かれた、闇へ続く空間に飛び込んでいる。

 あの向こうに「(ノヴル)」の巣があることは、容易に想像できた。


 レヴィは小さく肩を竦める。

 なぜ自分はこんな場所で、こんな仕事をしているのだろう。

 

 彼は貴族の次男坊であり、爵位を継げなかったため、常々自分の立場が気に入らないと思っていた。

 副団長という地位は、両親に権力と体裁を以て与えられたものだ。けれど当の本人にとっては、押し付けられたものと変わりなかった。

 そもそも、騎士団の中でさえ、自分が二番目だということが気にくわなかった。

 団長のレイモンドは努力家だ。一緒に仕事をしていても、彼だけが周りに認められ、賞賛される。当然のこととは言え、毎日比較するように眺められれば、うんざりせずにはいられない。

 レイモンドが生真面目で、実力でのし上がって来たという事実も、なぜだか腹立たしくてしょうがなかった。

 魔物を八つ裂きにすれば、少しは腹いせが出来るかと思ったが、国王は生け捕りにしろと命じたのだ。

 今でこそ正面切って戦っているものの、その命令を聞いた当初は、国王はとんだ腰抜けだと思った。


 「(ノヴル)」はいまや、空を覆い尽くす群れとなり、闇の入り口に飛び込んでいる。

 必死で戦う騎士達がそれに気づくのは、もう少し時間がかかるだろう。


 戦うだけ馬鹿らしい。

 放っておけばいいものを。

 

 「(ノヴル)」を見ながら彼は思う。

 何もかも面白くない、と。


 けれど、その顔には笑みが浮かんでいた。 

 団長に下された命令に、初めて興味を持てたからだ。

 

 以前、魔物の巣へ飛び込もうとした、浅はかな少女。

 彼女が人間だと言う確証は、どこにもない。


「あの、小娘」


 小さく呟いた彼の目は、野望と疑いをちらつかせていた。





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