彼が罪人になった訳4
牢獄の中は、どこまでも暗かった。
壁に灯る蝋燭だけが、薄らと辺りを照らすだけだ。
オレンジ色の炎は、見る者の心を狂わせるように、ただちらちらと揺れていた。
精霊は変わり映えのない景色の中、同じような日々を過ごしていた。
あれから何日、あるいは何年経ったのかも分からなかった。周りからは、閉じ込められた様々な「魔」たちの声が響いてくる。
絶望と悲しみと憎しみと。
様々な感情が空気を支配していた。
けれど、リューシルは違った。
壁に揺れる蝋燭を、永遠に眺めようとも思わなかった。
そもそも、外に出ようと夢を見ることもなかったのだ。
エレナは連れて行かれてしまった。
今頃どこかで泣いているかもしれない。人間達がどんなに探したところで、母親はもういないのだ。
まともな家にすら住まわせてもらえないかもしれない。
それに、魔法使いはどうだろう。
彼はたった一人の娘を失ってしまったのだ。
頑なな男は、未だに約束を信じ、あの森で待ち続けているかもしれない。
もう娘は、戻って来ないというのに。
そのすべてが自分のせいだった。
それなのに、暗闇に住むことになった今、その事実にすら救われていた。
人間達は赤子を攫ったと罵ったが、それは間違いだ。
けれど確かに、自分は罪を犯した。
マルクレーンとの約束を破り、あの子を守れなかった。
だからこれは当然の報いであり、受けるべき罰なのだ。
この気の狂いそうな闇の中、精霊が他の「魔」と同じに染まらなかったのは、そのお陰だった。それに救いを見つける自分が、ひどく浅ましく思えた。
それでもリューシルは思う。
自分はもう、二度とエレナに会えないだろう。その代わり、魔法使いがいつか、あの子を見つけてくれたら良い。
そうすれば、きっと。
暗闇に、何かの足音が響く。
いつもの甲冑とは違う、静かな足音だ。
蝋燭に照らされた何かが、朝焼け色に翻った。
精霊ははっと顔をあげる。
息を切らして走って来た男は、こちらを見るなり鉄格子に駆け寄った。
「リューシル……リューシル・ヴィエータか?」
ローブを纏った魔法使いが、小さくはっきりした声で尋ねた。
「そうだ」
掠れた声で答えた精霊を、魔法使いが見つめる。
「探したぞ。最後に別れてから、何年経ったか知っているか?」
「いいや」
魔法使いはため息をつくように言った。
「四年だ」
リューシルは目を細めた。
精霊にとって、それは長いとは言えない時間だった。けれど今、リューシルは長いと思ってしまったのだ。
驚きと納得が、じわりと胸に広がって行く。
懐かしい相手に目をやり、不意にリューシルは、どうしようもない思いに駆られた。
マルクレーンはひどくやつれていた。
髪は完全に白髪へと化し、疲れが滲んだ顔は、ひどく老けて見えた。
けれどその瞳だけは、何かを宿したように光っている。
この男は何をしに来たのだろう。
リューシルは考えずにいられなかった。
自分を責めに来たのだ。そうに違いない。
けれど、魔法使いは言った。
「私はお前を責めに来た訳じゃない。あの子の居場所を尋ねに来たんだ」
食い入るようにこちらを見つめた。
「エレナは、どこだ?」
精霊は首を振った。
「分からない」
声が掠れた。
「……どこへ行ったか、分からないんだ」
魔法使いは鉄格子を掴み、大きく息を吐いて項垂れてしまった。
「お前が最後の手がかりだったのに――」
精霊は謝りたくなった。人間が好む最上級の方法で、相手の気のすむまで謝りたいと思った。
けれどそんなことをしても、この男は喜ばないだろう。
「マルクレーン、全部私のせいだ」
心から悔いているのだ。どうしたらそれが伝わるだろう。
こちらを見つめたマルクレーンは、疲れたように言った。
「お前が責任を感じる必要はない。お前が戦いに不向きだと知っていながら、あの子を託したのは私だ」
その瞳には後悔が滲んでいた。彼の中では確かに、すべての責任が彼自身のものとなっているのだ。
リューシルは悲しくなった。相手にこんな顔をさせる、自分の不甲斐なさに。
長い間遠のいていた様々な感情が、再び胸の内に沸き起こってくる。
「マルクレーン」
魔力のかかった鉄格子をすり抜けることはできない。その隙間から、そっと魔法使いの手に触れようとした。
彼は「人」でも「魔」でもない。
節くれだった手を、すり抜けたのかそうでないのか、自分でもよく分からなかった。
けれど魔法使いは顔をあげた。
「なんだ、珍しいな。私を慰めるつもりか」
そう言って、少しだけ笑みを浮かべた。
「私は大丈夫だ。お前に気を使わせるほど落ちぶれてはいない。あの子はまだ見つからないが、他にも守るものを見つけたのだ」
訝しげな顔をする精霊に、魔法使いは笑いかける。
「私はあの後、森でずっとお前を待っていた」
リューシルの顔が強張る。マルクレーンは首を振った。
「責めに来たのではないと言っただろう。――約束の日が三日過ぎたところで、私はどうもおかしいと気づいたんだ。お前は約束を果たす奴だ。来ないなら、何かあったに違いないと」
リューシルは何も答えられず、ただ続きを待った。
「私は方々探した。だが手がかりは何一つなかったのだ。だから思ってしまったのだ。お前もエレナも、『魔』の王に殺されたのではないかと。――そして、復讐をすることにした」
リューシルは瞳を揺らした。今まで黙っていたのが嘘のように、マルクレーンに詰め寄った。
「まさか、彼の住処へ乗り込むつもりか?」
「もう乗り込んで来たのさ」
返って来た答えに、精霊は目を丸くする。
魔法使いはそれを見て、何を思ったか笑い出した。小さな笑い声だったが、心から面白がっているのだと精霊にも理解できた。
訳もわからず茫然としていると、魔法使いは楽しそうに言った。
「――ああ、悪いな。お前はこんな奴だったと思い出してな」
そして不意に、まっすぐな目で精霊を見つめた。
「お前の言う通り、私はあいつの住処に行ったのだ。それは闇そのもので、普通の人間が入ることは難しかった。私は魔物を追いかけて、暗闇の中へ飛び込んだのだよ。例え戦っても、一ひねりで殺されることは分かっていた。恐ろしかったが、その時は復讐のために、なんでもできる気がしたのだ」
リューシルは不安を覚えた。目の前の男まで、黒い感情に染まってしまったのかと思ったのだ。けれど、魔法使いの目は濁ってはいなかった。
「私は溶けるような闇に隠れ、様子を伺った。『魔』の王はやはり黒々としていて、おぞましかった。その足元で、幾匹の魔物達が言っていたのだ、裏切り者がまだ見つからない、精霊と赤子は行方が知れないままだ、と」
言いながら、魔法使いは精霊を見た。
「お前が奴らから、エレナを守り切ってくれたことを知った。娘は殺された訳じゃなったんだ。魔物達が王に罵られているのを見ながら、私は復讐心がなくなっているのに気づいた。そうして別のものを見つけたのだ」
様々な思いが、精霊の胸を通り過ぎて行く。一番強かったのは安堵だった。
マルクレーンは――確かに友人である彼は、闇に染まりなどしていなかったのだ。
彼の目には、ただ光が宿っている。
「『魔』の王の怒りは、報告をした魔物達には向けられなかった。怒りを鎮めるための存在が、別にいたのだ。……小さな少年だった。人間にそっくりで、けれど確かに恐ろしい魔力を持っていると、私にも分かった。彼は王の攻撃を受けても、他の魔物と違って、簡単に死ねないのだ。王は飽きることなくその子を痛めつけ、自分の事を棚にあげて、お前は化け物だと罵っていた」
精霊は目を細めた。なぜ魔法使いがその話をしたのか分からなかったのだ。
ローブの奥の瞳は、いまやいたずらっぽく煌めいていた。
「私はね、リューシル、その子を連れ出したのだ」
彼が幸せそうに言うので、リューシルは驚いた。
思いを馳せるようなマルクレーンの目は、温かなものだ。
「あの子は今、私の創った庭で暮らしている。冷たいが、根は優しい子なのだ。私はエレナを見つけ出し、一緒にあの庭で暮らしたいのだよ。もし良かったらお前も――」
「私は行けない」
即座に答えた精霊に、魔法使いが不思議そうな顔をする。
「……なぜ? お前はあんなに、家族ができるのを喜んでいたじゃないか」
守ると誓ったエレナ。
その泣き声は、今も耳に焼き付いている。
約束を守れなかった精霊に、家族を名乗る資格はない。
魔法使いは気遣うように、そっと笑いかけてくる。
「ここから出られないとでも? 私がお前を置いて行くような薄情な奴に見えるか? 安心しろ、すぐにここから出してやる」
精霊は目を逸らさなかった。今度こそ、はっきりと言い放つ。
「私はお前とは行けないのだ」
マルクレーンの顔が、強張った。
「何を言ってる。まだ私が気に入らないか? 私達は仲が悪かったが――確かに友人だったろう?」
「ああ、その通りだ」
リューシルは笑った。そう言ってもらえることが、涙が出そうなほど嬉しかった。
友人のために何かができる。そんな歓びもあった。
瞳を輝かせ、リューシルは言う。
「エレナは人間達にさらわれた。行き先は知らないが、おそらく『人』の地にいる」
「リューシル?」
魔法使いは立ち尽くしている。
「人間達は、エレナの母親を探しに『ヤクショ』に行くと言っていた。『ムラ』とも言っていたと思う。お前ならきっと、見つけ出せるだろう」
「待ってくれ、お前は本当に、ここから出ないつもりか?」
答えようと口を開いた時、不意に何かが聞こえてきた。
耳慣れた兵士達の声だ。
「おい、どうした!?」
「見張りがやられてる! 侵入者だ!」
暗闇の向こうから、甲冑のけたたましい音が走って来る。
「行くんだ」
精霊の瞳は、どこまでも澄んでいる。
「マルクレーン、もうここへ来てはいけない」
魔法使いは僅かにたじろいだ。
「私がお前を許していないと思っているのか?」
「そうかもしれない」
リューシルは笑う。
「それにもしお前が良くても、エルマローゼは私を許しはしないだろう」
――――この子を、守ってほしいの。
最後に願った妖精。頷いた魔法使い。
子どもを託された精霊は、それを粉々にした。
「これは私のけじめだ。ここから出ても、私が私を許せない」
それは真実であり、本心を隠す建前でもあった。
「さあ早く、逃げるんだ」
彼の邪魔をしてはならない。行く手を阻まないように、あの子を探す道を開かなければならない。
自分は約束を破り、エレナを奪われた。牢獄に入れられて当然だ。
優しい魔法使いは、そんな精霊を逃がそうとしている。
この男はこうやって、また罪を背負っていくのだ。
娘を探すための足に、枷をつけることは許されない。
「さようなら、マルクレーン」
魔法使いが、食い入るような目を向ける。
彼が闇に染まることはないだろう。
その見つめる先には光がある。
飴色の髪の、小さな娘。
そして今、彼の傍には寄り添う者がいる。
自分ではなく、小さな魔物の少年が。
「いたぞ!」
「そこだ!」
松明の灯りが見えた。
ゆらゆら揺れながら、こちらへ向かってくる。
緊迫した足音が、いつにない怒気を放っている。
魔物達が動転して騒ぎ始め、辺りはひどい喧騒だ。
魔法使いはこちらを見たまま、おもむろに口を開いた。
「リューシル、お前が望むなら言う通りにしよう」
苦しそうに言って、やっとのことで笑みを浮かべた。
「――ああ、お前は本当に、人間らしくなってしまった」
リューシルはその目を見てどきりとした。
魔法使いの瞳は、何もかも見抜いていた。
「お前に会えて良かった。――リューシル、私はお前の願いを叶えよう。必ずエレナを探し出し、幸せにする」
「捕まえろ!」
踵を返した魔法使い。ローブがふわりと翻る。
精霊の視界は一瞬、朝焼けに染まり、すぐに暗闇に戻った。
去って行く足音。
走って来た甲冑。
「くそ、どこへ行きやがった」
「足の速い奴め」
甲冑達はしばらく辺りを探し回っていたが、やがて諦めて帰って行った。
彼らの文句を聞き流し、リューシルは茫然と、元の暗闇を見つめていた。
――――私は、お前の願いを叶えよう。
魔法使いはそう言った。
そう。あれは確かに、自分の願いだったのだ。
もしもこの世界のどこかで、あの子が泣いていたら、耐えられない。
彼女を家族から引き離したのは自分だというのに。
身勝手な事に、再びマルクレーンに見つけてほしいと願っていた。
彼らが出会えたならきっと、自分も幸せになれるから。
一瞬見えた朝焼けの色を思い出す。
今、魔法使いの言葉がはっきりと信じられた。
自分とは違い、彼は約束を必ず守る。
マルクレーンはそういう男だ。
彼は最愛の娘を見つけるだろう。そうして幸せにしてくれる。
願った通り、二度とここへは戻ってこない。
暗闇の牢獄の中、胸に希望が宿る。
それはあの子の存在と共に、確かな光となった。
嬉しさと、寂しさと、言葉にできない感情が混じり合い、リューシルは胸を強く抑えた。
――――それってとても、素敵なことじゃない?
血を流しながら笑った妖精。
彼女の笑顔を思い出し、リューシルは微笑んだ。
家族と認められた時も、よぎった言葉。
今はもう、家族と言えないけれど。
ここに来てやっと、本当の意味で。
彼女が何を伝えたかったか、分かったのだ。
平和な森は居心地が良かった。
あの場所を捨てたせいで、苦しみも悲しみも感じた。
けれどもう、あそこに戻りたいとは思えない。
だってきっとあそこにいたら、こんなにも愛しい感情を知らなかった。
誰かのために、幸せを願うことすらなかった。
飛び出したことで、あの子に、あの家族に出会えたのだ。
それはとても、素敵なことだ。
真っ暗な牢獄の中、リューシルは思う。
この道を選んで、何も後悔はしていないと。
*
精霊はゆっくりと、少女の髪を撫でる。
煌めく緑の中、少女は幸せそうに眠っていた。
風が吹き抜けていく。
辺りはどこまでも静かだ。
「――あの男は、死んだのか」
精霊はぽつりと呟いた。
少女が言った事実。
その言葉を受け入れるのに、少し時間がかかっていた。
妖精も魔法使いも死んでしまった。あれほど大切に思っていたのに。
けれど今、自分の隣には少女がいるのだ。
幸せそうに眠るエレナを見ると、彼らの死が無駄ではないと思えた。
拒絶していた思いが、少しずつ溶けて行く。
彼らの娘は、確かにここに生きている。
「マルクレーン、お前の娘は大きくなった」
陽差しを受けるたび、飴色の髪が輝いている。
それは背中まで伸びていて、赤子の時とは比べものにならないほどだ。
「う、ん……?」
小さな声がして、少女がそっと目を開いた。
かつて腕に抱いた時も、同じ瞳で見つめてきたのだ。
「……リューシル?」
精霊は笑った。
成長したこの子に、再び会えた。
それがとても、嬉しかったから。
「起きたかいエレナ? さあ、お前の両親の話をしてあげよう」




