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ハルシュトラールの夜の果て  作者: 星乃晴香
第四章 精霊はささやく
37/85

彼が罪人になった訳3


 それから、精霊は魔法使いと旅をした。

 子どもを守るため、安住の地を探すのだと、魔法使いは言った。

 リューシルはそれに、ついて行くことにしたのだ。

 これ以上一緒にいる理由もなかったが、もう元の森に帰る気にもなれなかった。

 魔法使いの事は、未だ好きになれなかったものの、その行く末が気になってしまったのだ。


 だが、彼らは妖精の仲介で会話をしていたようなものだ。

 エルマローゼがいなくなってからというもの、言葉を包み隠さず言うようになり、どちらともなく喧嘩(けんか)をするようになった。


「リューシル、なぜついて来る」

「お前がきちんと子どもを守るのか心配なのだ」

「余計な心配はいらん。私はこの子の居場所を見つけるんだ。『(ミッド)』の王にも、『(ノヴル)』の王にも見つからない場所をな」

「言っておくが、そんな場所は存在しない」

「いいや、見つけてみせる」


 それを収めるのは、いつだって小さな赤子だった。

 言葉も知らない赤子は、魔法使いの腕の中で、心配そうに見上げるのだ。

 時には笑い声を、時には泣き声をあげ、加速していく口喧嘩を止めに入るのだった。


 泣き出した子どもを、マルクレーンがあやす。

「――ああ、悪かった。泣かないでくれ」

 リューシルもふわりと降りてきて、赤子の顔を覗き込んだ。

「笑ってくれ、愛しい子よ」

「……なんだその言い方は。この子の父親は私だぞ」

「愛しいと言って何が悪い。嘘は言っていないぞ」

 その言葉を聞いて、マルクレーンがいらいらしたように息をついた。

「ああ、お前達の概念の違いには、幾度も手を焼かされた。包み隠さず物を言う。それがどんな意味かも分かっていない」

 リューシルは、彼がなぜ怒っているのか理解できなかった。

 仲間の妖精が遺した、たった一人の娘。

 その小さく輝く命が、大切でない訳がない。

「私はこの子が愛しいんだ」

 真面目な瞳で見つめれば、相手は何とも言えない表情を浮かべた。

「やめてくれ。……まさか本当に狙っているんじゃないだろうな」

「狙う?」

「確かにこの子は美人だが……誰がお前なんかに」

「――もしかして、何か誤解していないか? 私がその子を伴侶に望むとでも?」

 信じられないが、そう思われているなら心外である。

 リューシルはきっぱりと言い切った。

「安心しろ。――私はその子より、エルマローゼの方が好みだ」

 その言葉の何かが、相手の逆鱗に触れたらしい。

 魔法使いは機嫌を損ね、それから三日間、口を利いてくれなかった。





 そんな日々を過ごしながらも、彼らが別れることはなかった。

 時には追われ、命の危険に晒されながら、精霊と魔法使いは旅を続けた。


「ついたぞ」

 魔法使いが、どこまでも続く木立を見上げる。

 大きな木が立ち並び、空を覆う枝葉の間から、金の光が幾本も差し込んでいた。


「この森の名を知っているか?」

 マルクレーンは振り返り、微笑んで言った。

「帰らずの森、だ。――ここでなら、この子を隠して育てていける」

 リューシルはその言葉を咀嚼(そしゃく)し、首を傾げた。

「だが、それは人間の間で言われている言葉だ。獣や私のような精霊を恐れ、『(ミッド)』が付けた名前。『(ミッド)』が道に迷うとしても、『(ノヴル)』は迷いもしないだろう」

 魔法使いは動じず、穏やかな声で続ける。

「それでもこの世界で、一番はずれにある場所だ。そう簡単に見つかりはしない。それに、ただ身を隠すだけじゃない」

 そう言って、森の彼方を見つめた。

「私はもともと人間だ。『(ノヴル)』の王から、逃げ切れるとは思えない。だが、魔法を使うことはできるのだ」

 その視界の先は、煌めく木々と、温かい日の光で溢れている。

「私はここに隠れ家を創ろう。この子と共に、安心して住める場所を。誰にも知られず、私の家族だけが入れる、一つの世界を」


 リューシルは小さく息をついた。途方もない話だと思った。

「そんな魔法が使えるのか?」

「難しい魔法だ。だが、やってみせるよ。きっとうまくいく」

 振り返った魔法使いには、不安など見えなかった。決意に満ちた瞳は優しさを滲ませていて、ひどく美しく思えた。


 その顔が、少しだけ寂しそうに歪む。

「だが、少し時間がかかるんだ。一度始めれば、眠らずに続けなければならない。七日程な」

 精霊は顔をあげた。

「そんなことができるはずない」

「大丈夫だ、この子が無事に暮らせると思えば、なんだってできる」

 そう言って、腕の中の赤子を見つめ、ゆっくりと顔をあげた。

「魔法を使っている間、私は無防備だ。七日の間、この子を預かり、どこか別の場所に隠れてもらえないだろうか」

 リューシルは戸惑った。

 悔しいが、自分よりこの魔法使いの方が、ずっと強い。

 無力な自分は、七日もこの子を守れるだろうか。


 魔法使いは静かに微笑む。

「本当はずっと、この腕の中で守りたい。けれど、それではいつでも危険がつきまとう。一度隠れ家をつくれば、この子は絶対に安全だ。『(ミッド)』にも『(ノヴル)』にも見つからず、守り切ることができる。――エルマローゼとの約束も果たせるんだ」

「分かった」

 リューシルは、静かに頷いた。

「七日間、私が預かろう」

 魔法使いは赤子をしばらく眺め、それからそっと、リューシルに手渡した。

 リューシルはまたもや、すりぬけるのではないかと心配になったが、赤子はやはり、腕の中にきちんと納まった。

「七日後に、もう一度ここに来ればいいか?」

「ああ」

 寂しそうに(きびす)を返す魔法使い。リューシルは腕の中の赤子を見て、はっとした。

 はじかれたように顔をあげ、思わず叫んだ。

「マルクレーン! この子の名は?」


 驚いたように、魔法使いが振り返る。

 恐ろしい逃亡を続けるあまり、彼らは赤子の名を付け忘れていたのだ。

 けれど、それはエルマローゼが生きていた頃の話だ。彼女は娘を「赤ちゃん」と呼んで、大層可愛がっていた。

 あれから時間は経っているのに、赤子は未だ名を持っていない。


 妖精がいなくなった後、名を付ける機会ならいくらでもあった。

 けれど、どちらとも言い出さなかったのだ。

 名付けるべき母親が死に、無意識にそのことを避けていたのかもしれなかった。


 魔法使いが戻ってきて、困ったように微笑んだ。

「まったく、私も駄目な父親だな。いつまでも名を付けられないなんて」

 リューシルはまた、小さな胸の痛みを覚えた。

 思わず抱きしめる腕に力を込めると、赤子がこちらをじっと見つめた。

「すまない、力が強すぎたか?」

 けれど、それには答えず赤子は笑った。それだけで、痛みを溶かすように、温かい気持ちが溢れて行く。



「エレナ」

 リューシルは思わず呟いていた。

「エレナ――光という意味だ。どうだろう?」


 妖精がいなくなって、精霊も魔法使いも、本当は寂しくてたまらなかった。太陽が永遠に沈んだように、長く深い夜を彷徨った。

 手探りでお互いに向き合い、前へ進もうと必死だったのだ。

 その中で、この子の存在は、いつも一筋の光だった。


「良い名だ」

 マルクレーンは微笑んだ。

「それではお前が、名付け親という訳だな」

 その言葉に、リューシルは目を丸くする。

「名づけ――親?」

「驚いたな、お前がそんな顔をするとは……。言っておくが、勘違いするなよ。本当の親は私だ」

 文句を言いながら、魔法使いはやはり、笑みを浮かべていた。

「でもお前も、家族にしてやってもいい」


 精霊は驚き、ゆっくりと微笑みを浮かべた。

 なぜか胸がいっぱいになる。

 エルマローゼが言った意味が、分かりかけた気がした。

 家族を持つのは、こんなにも嬉しいことなのだ。


「私も家族になっていいのか? 本当に?」

 赤子を抱きしめたまま魔法使いに詰め寄ると、彼は気圧(けお)されたようにこちらを見た。

「ああ本当だ、――顔が近い」

 精霊は慌てて離れ、けれど抱きしめる腕に力を込めた。はちきれんばかりの笑顔で、マルクレーンを見つめる。

「ありがとう、マルクレーン」

 魔法使いは呆れたような、どこか困ったようなため息をついた。

「こんなに単純な奴だとは思わなかった。……なんでもいいが、その子――エレナだけは守れよ」

「分かっている」

 どこか嬉しそうに、けれど真面目にリューシルは頷く。

 魔法使いは精霊に近づくと、その腕の中の赤子を覗き込んだ。

「エレナ――私のエレナ、どうか元気で」

 優しく撫でると、赤子は笑い声をあげた。

 マルクレーンは、少しだけ泣きそうな顔になる。

 けれど、すぐに表情を引き締め、リューシルを見つめた。

「七日後だ。七日経ったら、その子を連れて、戻ってきてくれ」

 その声に、リューシルも真面目な顔になり、しっかりと頷いた。

「分かった。約束だ」

 マルクレーンは踵を返し、今度こそ森の奥へと歩いて行った。

 


 金の光の満ちる森に、朝焼け色のローブが映える。

 時折舞い降りる落ち葉も、日の光を反射して、黄金に煌めいている。

 遠くなっていく後ろ姿を眺めながら、リューシルはそっと、抱きしめる腕に力を込めた。






 魔法使いと別れた後、彼が必ずそうしていたように、精霊はいつも、その腕に赤子を抱えていた。


 誰にも見つからないよう、森の奥深くで世話をした。

 泉の水を飲ませ、森の木の実を潰して与えた。

 人間は毒に弱いという。リューシルは細心の注意を払い、絶対に安全な木の実だけを選んだ。


 初めてのことに戸惑いながら、それでもリューシルは幸せだった。

 赤子との日々は輝いていて、時間は飛ぶように過ぎていく。刻一刻と時は経ち、約束の日まで後一日となった。


 六日目の夜、リューシルは寂しさを覚えながら、それでも確かに安堵していた。

 自分だけでは、やはり心もとない。

 精霊は戦いに向いていないのだ。赤子を守るには、やはりマルクレーンが傍にいるのが一番だと思った。



 赤子を抱いて木陰に隠れ、明日が来るのを待ち望んだ。

 月夜の光に照らされると、リューシルは遠い森を思い出す。



 仲間たちは今頃、草木の陰で眠りについているだろうか。それとも日が昇るまで、踊り続けているだろうか。

 きのこに囲まれた輪の中で舞い、水の上を滑っては笑い声をあげた日々。

 

 似たような毎日の繰り返しが、懐かしくてたまらない。


 けれど今は、帰りたいとは思えなかった。

 この赤子がいるからか、それとも別の理由があるからか。

 リューシルには分からなかった。



 精霊は眠る赤子を見つめる。

 静かな寝息を立てる赤子は、あまりに小さくて、潰してしまわないかと心配になる。

 それでいて、驚く程温かいのだ。

 熱いと思えるほどの体温。それを感じるたび、リューシルはどうしようもないほど、胸がいっぱいになるのだった。


「エルマローゼ……お前の子は温かいね」


 懐かしい妖精を思い出し、リューシルはそっと呟いた。

 彼女がいなくなっても、この子が確かに生きている。


「エレナ……エレナ――私の光」


 穏やかな寝顔を眺めると、思わず笑みが浮かんだ。


 それが精霊と赤子の、最後の時間だった。








 次の日、精霊は今までにない速度で飛んでいた。

 森の木々が異変に気づき、ごうごうと唸りをあげる。


 茂みを掻き分けて、何かがしつこく追いかけてくる。

 それは黒の王の手下の、名もなき魔物達だった。五匹ほどの魔物は、カギ爪を振り上げ、牙を剥き出して走って来る。

 腕に赤子を抱きしめ、リューシルは木々の間を縫うように飛んだ。


 早く、早く、父親のところへ連れて行かなければ。


 最初は追い払おうと魔法を使った。

 けれどリューシルができるのは植物を操ることぐらいだ。行く手を阻む蔓も枝も、魔物達は容赦なく切り裂いた。

 戦って勝てる相手ではないのだ。

 あのカギ爪で赤子に触れられたらと思うと、リューシルは恐ろしさに呑まれそうになった。



「大人しく子どもを寄越せ!」

「黒の王に抗った、『(ミッド)』の血を引く娘!」

「醜い人間の血が流れているんだ!」


 精霊は長い髪を乱し、必死になって逃げ惑った。

 木々を見上げて息を吸い、喉から声を絞り出した。


「森の木々よ、お願いだ。

彼らの道を閉ざしておくれ」


 空を見上げ、泣きそうになりながら、謳うように叫んだ。


「森の小鳥よ、お願いだ。

彼らの行く手を阻んでおくれ」


 その途端、木々がざわざわと蠢き、その枝の一本一本が、細長く伸びて絡み合った。枝葉でできた緑の壁は、精霊と赤子を覆い、魔物の目から姿を隠した。


「くそ! この向こうか!」


 やって来た魔物が、枝葉の壁を見て怒鳴り散らす。

 そこに小鳥の群れがやって来て、魔物の黒い身体や、カエルのような眼玉を、一斉につつき始めた。


「ぎゃあ! 痛い! いたい!」

「俺の目が! うぐあっ!」

「ちくしょう! 悪知恵の働く精霊め!」



 緑が張り巡らされた壁の中、リューシルは震えながら、赤子を抱きしめていた。

「大丈夫だよ、エレナ」

 恐怖を抑え込んで、必死に赤子に微笑みかけた。

 人間が得意とする、偽物の笑みだ。あれだけ嫌っていたというのに、精霊はどうしても、赤子に笑顔だけを見せていたかった。

「エレナ。エレナ。私が守ってあげるから」



「くそっ! この小鳥が!」

「こうしてやる!」


 魔物の叫び声とともに、ぐしゃりと何かをえぐる音。

 ピイっと甲高い悲鳴が響き、空気の震えを、リューシルは感じた。


「へっ、こんな鳥、どうってことねえよ」

「子どもはそこか!?」


 ミシリ、ミシリ、枝葉の壁が音を立てる。

 魔物がカギ爪を振るうたび、枝は折れ、葉が飛び散った。魔法で出した蔓と同じように、木々が裂かれて行くのが分かる。


 自分のせいで、森が傷ついている。

 リューシルには耐えられなかった。


「やめてくれ! もう守らなくていい!」


 そう叫ぶと、木々は萎れたように、おずおずと絡めた枝葉を引っ込めた。

 申し訳なさそうに、緑の壁がなくなっていく。


「見つけたぞ!」

「やっぱりそこだ!」


 リューシルは迷わず、森の外へと向かった。

「エレナ、お前は私が守る」


 これ以上、森を傷つけさせるわけにはいかなかった。

 木々や小鳥の力ではなく、自分で守らなければいけない。






 透き通る精霊にだって、限界はある。

 疲れた体に鞭打って、赤子を抱きしめたまま、リューシルは飛び続けた。もう、マルクレーンの元へ向かう余裕もなかった。

 今はただ、魔物達を振り切ることだけを考えていたのだ。

 そしてそれは、叶えられた。


 森のはずれに辿り着いた時、あのしつこい足音が聞こえなくなったのだ。茂みを掻き分ける音も、恐ろしい怒鳴り声も。


 リューシルは用心深く様子を見たが、もう、誰も追ってくる様子はなかった。

 確かに、振り切ったのだ。


 赤子を抱え直し、乱れた髪の間から、深いため息と微笑みを零した。

 その時だ。


「見ろ! 精霊だ!」


 数人の人間が、驚いたようにこちらを見ていた。


「赤ん坊を持ってるぞ!」

「盗んだのか!?」



 リューシルは失念していた。

 魔物達が、追わない理由があることを。

 森の外に、もう一つの世界があることを。


「『(ミッド)』……」

 呟いた瞬間に、人間達は襲い掛かって来た。


「この『(ノヴル)』め!」

「どこから赤子を攫って来た!」


 (くわ)を、(すき)を掲げ、男達はやってくる。

 その中には青い服の男も数人混じっていて、煌めく剣を抜き放った。たまたま視察に来ていた王宮の騎士達だったが、リューシルにそんなことが分かるはずもない。

 騎士は精霊を見て、思い出したように笑みを浮かべた。

「そういえば、念のために魔力封じを持ってきたんだ」

「あの縄か! 使えるぞ!」


 リューシルは訳が分からなかった。

 この子は盗んだ訳ではない。れっきとした妖精の子どもだ。


 人間達を見つめ返し、腕の中の赤子を、強く抱きしめた。


「絶対に、渡すものか」


 素早く飛び立ち、森の中へ戻ろうとする。

 けれど、その寸前、何かが体に絡みついた。


「……っ!」


 身動きが取れない。

 必死に見下ろせば、金色の縄が巻き付いていた。騎士達の投げた、魔力封じの縄だった。


 動けないどころか、ひどく苦しい。

 騎士達が嬉々として縄を引っ張る。それに引きずられるようにして、リューシルは地に降りた。


「さあ、寄越すんだ!」

 知らない手が、赤子を奪い取っていく。

 取り返そうと伸ばした手に、更に縄がかけられる。


「なんだこいつ? 透明で縄でしか触れないぞ?」

「縛れるんだからなんでもいい。――縄を持っていて良かったよ。危うく赤ん坊が一人、喰われちまうところだった」


 信じられなかった。

 この男達は、自分を何だと思っているのだろう。

 思わず反論しようとしたリューシルは、息を呑んだ。男達の目は明らかな敵意に染まり、侮蔑すら浮かんでいた。




「お前はヴァーグ送りだ」

 不意に男の一人が言った。

「知ってるか? 『(ノヴル)』専用の牢獄だよ。お前は死ぬまで、永遠にあの暗闇で暮らすんだ」


 リューシルは喉をつまらせた。逃げようともがいてみるが、縄は緩む気配もない。

 混乱しながら、男達を見上げた。

「でも私は、何も悪いことはしていない」


 どっと笑い声が起こる。その中には、密かな怒りが混じっていた。

「良く聞くんだ。お前は『(ミッド)』の領域に踏み込んだ。大昔にアシオンが決めた(ことわり)だ。その上、人間の子どもを盗んだ。――まだ言い逃れをするのか?」


「その子の母親は妖精だ。父親も、私の友人だった」

 魔力が込められた縄は、動こうとするたびに締め付けるようだった。

「私は頼まれたんだ。その子を守ってくれと――」

 掠れる声で、リューシルは初めて人間に頭を垂れた。

「お願いだ、返してくれ。私はエレナを、守らなくちゃならないんだ」


 眺めていた男の一人が、用心深そうに近寄った。その腕に、奪った赤子を抱えている。

「おい精霊、嘘を言うな。その話が本当なら、こいつは『(ノヴル)』の血を引いてるってことだ。お前と一緒に牢屋へ入れることになる。――嘘を言っても、良いことはないぞ」


 リューシルは言葉を失った。

 何を言っても無駄なのだ。それどころか、本当のことを言えばエレナは捕まってしまう。

 『(ミッド)』の世界では、『(ノヴル)』というだけで罪なのだ。

 その血を引いているだけで、罪人になってしまう。

 それがやっと、リューシルにも分かった。


「そ、その子は私が盗んだ」

 そう告げた声は、震えていた。

 男達の勝ち誇った笑み。その光景が、どこか遠い夢のように思える。


 その時、不意に赤子が泣き出した。

 男達は驚いたものの、面倒くさそうに顔を見合わせ、赤子の行き先について話し始めた。

 彼らの言葉はすべて、リューシルの耳をすり抜けて行く。

 ただはっきり聞こえるのは、つんざくような泣き声だけだ。


 傍に近寄って慰めたい。手も伸ばせないリューシルは、その声を聞いていることしかできない。

「――エレナ」

 呟けば、男の一人が唸った。

「ふざけた精霊だ、まったく、どこから盗んだんだ」

 彼らは当然のように見下ろしてくる。

「おい、どこから(さら)って来た。返す場所を教えろ」

 盗んでなどいないのだ。だから、返す場所もない。

「忘れた」


「こいつ! いい加減にしろよ」

 見かねたのか、騎士の一人が懐からナイフを取り出した。

 金で出来たナイフに、リューシルはなぜか、寒気を覚えた。

「これはな、今回の視察のために、陛下がお貸し下さったんだ。ランドルフ陛下がな」

 喉元に、ナイフが突きつけられる。

「これはどんな『(ノヴル)』も殺せる。お前のような透明な奴でさえ」

 その感触に、リューシルは少しずつ、事の重大さを理解した。なんとかすれば取り戻せる、そう考えていたが、違ったのだ。

 彼らに逆らうことなど、不可能だ。


「おい、場所を忘れたなら、その子の名前を教えろ」

「エレナだ」

「それはお前が付けた名だろう。本当の名前は何だ?」


 エレナ。それが本当の名前だ。

 だけど男達は、この答えがまだ気に入らないらしい。

「早く言え。お前が付けた汚らわしい名前など、この子が可哀想だ。――母親が見つからなければ、最悪、別の名を付けることになる」

 胸が苦しい。この痛みはやっぱり、好きじゃない。

 けれどこの子と会えたことを想えば、それすら耐えられる気がした。

「それは、人間の母親が、付けた名だ」

 何かが壊れて行く、音がした。


「そうか。この名前が本物か」

「エレナね。預けるなら近くの村だな。――役所に行けば、そこから母親を探せるだろう」





 金に輝く森で、魔法使いは待っているだろう。

 七日間の魔法を終わらせ、一つの世界を完成させて。


――――それじゃお前が、名付け親だな。


 そう言って笑った、彼の顔を思い出した。


――――お前を家族にしてやってもいい。


「……私は、」


 赤子は未だ泣きじゃくっている。

 近づくことできないリューシルは、一人ぼっちのその子を、一心に見つめた。


「エレナ。エレナ」


 男達の慰める声と、泣きわめく声が遠のいていく。


 行ってしまう。


 叫ぼうとすれば、ナイフがちりちりと喉に当たった。

 この声すら、もう届かない。


 いっそのこと、この場で刺し殺してほしかった。

 自分のせいで、あの子は家族を失うのだ。

 魔法使いが守ったすべてが、終わってしまう。


 遠くなっていく泣き声を聞きながら、精霊は悟った。

 マルクレーンとの約束を破ってしまった。

 自分はもう、あの家族には戻れない。



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