彼が罪人になった訳3
それから、精霊は魔法使いと旅をした。
子どもを守るため、安住の地を探すのだと、魔法使いは言った。
リューシルはそれに、ついて行くことにしたのだ。
これ以上一緒にいる理由もなかったが、もう元の森に帰る気にもなれなかった。
魔法使いの事は、未だ好きになれなかったものの、その行く末が気になってしまったのだ。
だが、彼らは妖精の仲介で会話をしていたようなものだ。
エルマローゼがいなくなってからというもの、言葉を包み隠さず言うようになり、どちらともなく喧嘩をするようになった。
「リューシル、なぜついて来る」
「お前がきちんと子どもを守るのか心配なのだ」
「余計な心配はいらん。私はこの子の居場所を見つけるんだ。『人』の王にも、『魔』の王にも見つからない場所をな」
「言っておくが、そんな場所は存在しない」
「いいや、見つけてみせる」
それを収めるのは、いつだって小さな赤子だった。
言葉も知らない赤子は、魔法使いの腕の中で、心配そうに見上げるのだ。
時には笑い声を、時には泣き声をあげ、加速していく口喧嘩を止めに入るのだった。
泣き出した子どもを、マルクレーンがあやす。
「――ああ、悪かった。泣かないでくれ」
リューシルもふわりと降りてきて、赤子の顔を覗き込んだ。
「笑ってくれ、愛しい子よ」
「……なんだその言い方は。この子の父親は私だぞ」
「愛しいと言って何が悪い。嘘は言っていないぞ」
その言葉を聞いて、マルクレーンがいらいらしたように息をついた。
「ああ、お前達の概念の違いには、幾度も手を焼かされた。包み隠さず物を言う。それがどんな意味かも分かっていない」
リューシルは、彼がなぜ怒っているのか理解できなかった。
仲間の妖精が遺した、たった一人の娘。
その小さく輝く命が、大切でない訳がない。
「私はこの子が愛しいんだ」
真面目な瞳で見つめれば、相手は何とも言えない表情を浮かべた。
「やめてくれ。……まさか本当に狙っているんじゃないだろうな」
「狙う?」
「確かにこの子は美人だが……誰がお前なんかに」
「――もしかして、何か誤解していないか? 私がその子を伴侶に望むとでも?」
信じられないが、そう思われているなら心外である。
リューシルはきっぱりと言い切った。
「安心しろ。――私はその子より、エルマローゼの方が好みだ」
その言葉の何かが、相手の逆鱗に触れたらしい。
魔法使いは機嫌を損ね、それから三日間、口を利いてくれなかった。
*
そんな日々を過ごしながらも、彼らが別れることはなかった。
時には追われ、命の危険に晒されながら、精霊と魔法使いは旅を続けた。
「ついたぞ」
魔法使いが、どこまでも続く木立を見上げる。
大きな木が立ち並び、空を覆う枝葉の間から、金の光が幾本も差し込んでいた。
「この森の名を知っているか?」
マルクレーンは振り返り、微笑んで言った。
「帰らずの森、だ。――ここでなら、この子を隠して育てていける」
リューシルはその言葉を咀嚼し、首を傾げた。
「だが、それは人間の間で言われている言葉だ。獣や私のような精霊を恐れ、『人』が付けた名前。『人』が道に迷うとしても、『魔』は迷いもしないだろう」
魔法使いは動じず、穏やかな声で続ける。
「それでもこの世界で、一番はずれにある場所だ。そう簡単に見つかりはしない。それに、ただ身を隠すだけじゃない」
そう言って、森の彼方を見つめた。
「私はもともと人間だ。『魔』の王から、逃げ切れるとは思えない。だが、魔法を使うことはできるのだ」
その視界の先は、煌めく木々と、温かい日の光で溢れている。
「私はここに隠れ家を創ろう。この子と共に、安心して住める場所を。誰にも知られず、私の家族だけが入れる、一つの世界を」
リューシルは小さく息をついた。途方もない話だと思った。
「そんな魔法が使えるのか?」
「難しい魔法だ。だが、やってみせるよ。きっとうまくいく」
振り返った魔法使いには、不安など見えなかった。決意に満ちた瞳は優しさを滲ませていて、ひどく美しく思えた。
その顔が、少しだけ寂しそうに歪む。
「だが、少し時間がかかるんだ。一度始めれば、眠らずに続けなければならない。七日程な」
精霊は顔をあげた。
「そんなことができるはずない」
「大丈夫だ、この子が無事に暮らせると思えば、なんだってできる」
そう言って、腕の中の赤子を見つめ、ゆっくりと顔をあげた。
「魔法を使っている間、私は無防備だ。七日の間、この子を預かり、どこか別の場所に隠れてもらえないだろうか」
リューシルは戸惑った。
悔しいが、自分よりこの魔法使いの方が、ずっと強い。
無力な自分は、七日もこの子を守れるだろうか。
魔法使いは静かに微笑む。
「本当はずっと、この腕の中で守りたい。けれど、それではいつでも危険がつきまとう。一度隠れ家をつくれば、この子は絶対に安全だ。『人』にも『魔』にも見つからず、守り切ることができる。――エルマローゼとの約束も果たせるんだ」
「分かった」
リューシルは、静かに頷いた。
「七日間、私が預かろう」
魔法使いは赤子をしばらく眺め、それからそっと、リューシルに手渡した。
リューシルはまたもや、すりぬけるのではないかと心配になったが、赤子はやはり、腕の中にきちんと納まった。
「七日後に、もう一度ここに来ればいいか?」
「ああ」
寂しそうに踵を返す魔法使い。リューシルは腕の中の赤子を見て、はっとした。
はじかれたように顔をあげ、思わず叫んだ。
「マルクレーン! この子の名は?」
驚いたように、魔法使いが振り返る。
恐ろしい逃亡を続けるあまり、彼らは赤子の名を付け忘れていたのだ。
けれど、それはエルマローゼが生きていた頃の話だ。彼女は娘を「赤ちゃん」と呼んで、大層可愛がっていた。
あれから時間は経っているのに、赤子は未だ名を持っていない。
妖精がいなくなった後、名を付ける機会ならいくらでもあった。
けれど、どちらとも言い出さなかったのだ。
名付けるべき母親が死に、無意識にそのことを避けていたのかもしれなかった。
魔法使いが戻ってきて、困ったように微笑んだ。
「まったく、私も駄目な父親だな。いつまでも名を付けられないなんて」
リューシルはまた、小さな胸の痛みを覚えた。
思わず抱きしめる腕に力を込めると、赤子がこちらをじっと見つめた。
「すまない、力が強すぎたか?」
けれど、それには答えず赤子は笑った。それだけで、痛みを溶かすように、温かい気持ちが溢れて行く。
「エレナ」
リューシルは思わず呟いていた。
「エレナ――光という意味だ。どうだろう?」
妖精がいなくなって、精霊も魔法使いも、本当は寂しくてたまらなかった。太陽が永遠に沈んだように、長く深い夜を彷徨った。
手探りでお互いに向き合い、前へ進もうと必死だったのだ。
その中で、この子の存在は、いつも一筋の光だった。
「良い名だ」
マルクレーンは微笑んだ。
「それではお前が、名付け親という訳だな」
その言葉に、リューシルは目を丸くする。
「名づけ――親?」
「驚いたな、お前がそんな顔をするとは……。言っておくが、勘違いするなよ。本当の親は私だ」
文句を言いながら、魔法使いはやはり、笑みを浮かべていた。
「でもお前も、家族にしてやってもいい」
精霊は驚き、ゆっくりと微笑みを浮かべた。
なぜか胸がいっぱいになる。
エルマローゼが言った意味が、分かりかけた気がした。
家族を持つのは、こんなにも嬉しいことなのだ。
「私も家族になっていいのか? 本当に?」
赤子を抱きしめたまま魔法使いに詰め寄ると、彼は気圧されたようにこちらを見た。
「ああ本当だ、――顔が近い」
精霊は慌てて離れ、けれど抱きしめる腕に力を込めた。はちきれんばかりの笑顔で、マルクレーンを見つめる。
「ありがとう、マルクレーン」
魔法使いは呆れたような、どこか困ったようなため息をついた。
「こんなに単純な奴だとは思わなかった。……なんでもいいが、その子――エレナだけは守れよ」
「分かっている」
どこか嬉しそうに、けれど真面目にリューシルは頷く。
魔法使いは精霊に近づくと、その腕の中の赤子を覗き込んだ。
「エレナ――私のエレナ、どうか元気で」
優しく撫でると、赤子は笑い声をあげた。
マルクレーンは、少しだけ泣きそうな顔になる。
けれど、すぐに表情を引き締め、リューシルを見つめた。
「七日後だ。七日経ったら、その子を連れて、戻ってきてくれ」
その声に、リューシルも真面目な顔になり、しっかりと頷いた。
「分かった。約束だ」
マルクレーンは踵を返し、今度こそ森の奥へと歩いて行った。
金の光の満ちる森に、朝焼け色のローブが映える。
時折舞い降りる落ち葉も、日の光を反射して、黄金に煌めいている。
遠くなっていく後ろ姿を眺めながら、リューシルはそっと、抱きしめる腕に力を込めた。
*
魔法使いと別れた後、彼が必ずそうしていたように、精霊はいつも、その腕に赤子を抱えていた。
誰にも見つからないよう、森の奥深くで世話をした。
泉の水を飲ませ、森の木の実を潰して与えた。
人間は毒に弱いという。リューシルは細心の注意を払い、絶対に安全な木の実だけを選んだ。
初めてのことに戸惑いながら、それでもリューシルは幸せだった。
赤子との日々は輝いていて、時間は飛ぶように過ぎていく。刻一刻と時は経ち、約束の日まで後一日となった。
六日目の夜、リューシルは寂しさを覚えながら、それでも確かに安堵していた。
自分だけでは、やはり心もとない。
精霊は戦いに向いていないのだ。赤子を守るには、やはりマルクレーンが傍にいるのが一番だと思った。
赤子を抱いて木陰に隠れ、明日が来るのを待ち望んだ。
月夜の光に照らされると、リューシルは遠い森を思い出す。
仲間たちは今頃、草木の陰で眠りについているだろうか。それとも日が昇るまで、踊り続けているだろうか。
きのこに囲まれた輪の中で舞い、水の上を滑っては笑い声をあげた日々。
似たような毎日の繰り返しが、懐かしくてたまらない。
けれど今は、帰りたいとは思えなかった。
この赤子がいるからか、それとも別の理由があるからか。
リューシルには分からなかった。
精霊は眠る赤子を見つめる。
静かな寝息を立てる赤子は、あまりに小さくて、潰してしまわないかと心配になる。
それでいて、驚く程温かいのだ。
熱いと思えるほどの体温。それを感じるたび、リューシルはどうしようもないほど、胸がいっぱいになるのだった。
「エルマローゼ……お前の子は温かいね」
懐かしい妖精を思い出し、リューシルはそっと呟いた。
彼女がいなくなっても、この子が確かに生きている。
「エレナ……エレナ――私の光」
穏やかな寝顔を眺めると、思わず笑みが浮かんだ。
それが精霊と赤子の、最後の時間だった。
次の日、精霊は今までにない速度で飛んでいた。
森の木々が異変に気づき、ごうごうと唸りをあげる。
茂みを掻き分けて、何かがしつこく追いかけてくる。
それは黒の王の手下の、名もなき魔物達だった。五匹ほどの魔物は、カギ爪を振り上げ、牙を剥き出して走って来る。
腕に赤子を抱きしめ、リューシルは木々の間を縫うように飛んだ。
早く、早く、父親のところへ連れて行かなければ。
最初は追い払おうと魔法を使った。
けれどリューシルができるのは植物を操ることぐらいだ。行く手を阻む蔓も枝も、魔物達は容赦なく切り裂いた。
戦って勝てる相手ではないのだ。
あのカギ爪で赤子に触れられたらと思うと、リューシルは恐ろしさに呑まれそうになった。
「大人しく子どもを寄越せ!」
「黒の王に抗った、『人』の血を引く娘!」
「醜い人間の血が流れているんだ!」
精霊は長い髪を乱し、必死になって逃げ惑った。
木々を見上げて息を吸い、喉から声を絞り出した。
「森の木々よ、お願いだ。
彼らの道を閉ざしておくれ」
空を見上げ、泣きそうになりながら、謳うように叫んだ。
「森の小鳥よ、お願いだ。
彼らの行く手を阻んでおくれ」
その途端、木々がざわざわと蠢き、その枝の一本一本が、細長く伸びて絡み合った。枝葉でできた緑の壁は、精霊と赤子を覆い、魔物の目から姿を隠した。
「くそ! この向こうか!」
やって来た魔物が、枝葉の壁を見て怒鳴り散らす。
そこに小鳥の群れがやって来て、魔物の黒い身体や、カエルのような眼玉を、一斉につつき始めた。
「ぎゃあ! 痛い! いたい!」
「俺の目が! うぐあっ!」
「ちくしょう! 悪知恵の働く精霊め!」
緑が張り巡らされた壁の中、リューシルは震えながら、赤子を抱きしめていた。
「大丈夫だよ、エレナ」
恐怖を抑え込んで、必死に赤子に微笑みかけた。
人間が得意とする、偽物の笑みだ。あれだけ嫌っていたというのに、精霊はどうしても、赤子に笑顔だけを見せていたかった。
「エレナ。エレナ。私が守ってあげるから」
「くそっ! この小鳥が!」
「こうしてやる!」
魔物の叫び声とともに、ぐしゃりと何かをえぐる音。
ピイっと甲高い悲鳴が響き、空気の震えを、リューシルは感じた。
「へっ、こんな鳥、どうってことねえよ」
「子どもはそこか!?」
ミシリ、ミシリ、枝葉の壁が音を立てる。
魔物がカギ爪を振るうたび、枝は折れ、葉が飛び散った。魔法で出した蔓と同じように、木々が裂かれて行くのが分かる。
自分のせいで、森が傷ついている。
リューシルには耐えられなかった。
「やめてくれ! もう守らなくていい!」
そう叫ぶと、木々は萎れたように、おずおずと絡めた枝葉を引っ込めた。
申し訳なさそうに、緑の壁がなくなっていく。
「見つけたぞ!」
「やっぱりそこだ!」
リューシルは迷わず、森の外へと向かった。
「エレナ、お前は私が守る」
これ以上、森を傷つけさせるわけにはいかなかった。
木々や小鳥の力ではなく、自分で守らなければいけない。
透き通る精霊にだって、限界はある。
疲れた体に鞭打って、赤子を抱きしめたまま、リューシルは飛び続けた。もう、マルクレーンの元へ向かう余裕もなかった。
今はただ、魔物達を振り切ることだけを考えていたのだ。
そしてそれは、叶えられた。
森のはずれに辿り着いた時、あのしつこい足音が聞こえなくなったのだ。茂みを掻き分ける音も、恐ろしい怒鳴り声も。
リューシルは用心深く様子を見たが、もう、誰も追ってくる様子はなかった。
確かに、振り切ったのだ。
赤子を抱え直し、乱れた髪の間から、深いため息と微笑みを零した。
その時だ。
「見ろ! 精霊だ!」
数人の人間が、驚いたようにこちらを見ていた。
「赤ん坊を持ってるぞ!」
「盗んだのか!?」
リューシルは失念していた。
魔物達が、追わない理由があることを。
森の外に、もう一つの世界があることを。
「『人』……」
呟いた瞬間に、人間達は襲い掛かって来た。
「この『魔』め!」
「どこから赤子を攫って来た!」
鍬を、鋤を掲げ、男達はやってくる。
その中には青い服の男も数人混じっていて、煌めく剣を抜き放った。たまたま視察に来ていた王宮の騎士達だったが、リューシルにそんなことが分かるはずもない。
騎士は精霊を見て、思い出したように笑みを浮かべた。
「そういえば、念のために魔力封じを持ってきたんだ」
「あの縄か! 使えるぞ!」
リューシルは訳が分からなかった。
この子は盗んだ訳ではない。れっきとした妖精の子どもだ。
人間達を見つめ返し、腕の中の赤子を、強く抱きしめた。
「絶対に、渡すものか」
素早く飛び立ち、森の中へ戻ろうとする。
けれど、その寸前、何かが体に絡みついた。
「……っ!」
身動きが取れない。
必死に見下ろせば、金色の縄が巻き付いていた。騎士達の投げた、魔力封じの縄だった。
動けないどころか、ひどく苦しい。
騎士達が嬉々として縄を引っ張る。それに引きずられるようにして、リューシルは地に降りた。
「さあ、寄越すんだ!」
知らない手が、赤子を奪い取っていく。
取り返そうと伸ばした手に、更に縄がかけられる。
「なんだこいつ? 透明で縄でしか触れないぞ?」
「縛れるんだからなんでもいい。――縄を持っていて良かったよ。危うく赤ん坊が一人、喰われちまうところだった」
信じられなかった。
この男達は、自分を何だと思っているのだろう。
思わず反論しようとしたリューシルは、息を呑んだ。男達の目は明らかな敵意に染まり、侮蔑すら浮かんでいた。
「お前はヴァーグ送りだ」
不意に男の一人が言った。
「知ってるか? 『魔』専用の牢獄だよ。お前は死ぬまで、永遠にあの暗闇で暮らすんだ」
リューシルは喉をつまらせた。逃げようともがいてみるが、縄は緩む気配もない。
混乱しながら、男達を見上げた。
「でも私は、何も悪いことはしていない」
どっと笑い声が起こる。その中には、密かな怒りが混じっていた。
「良く聞くんだ。お前は『人』の領域に踏み込んだ。大昔にアシオンが決めた理だ。その上、人間の子どもを盗んだ。――まだ言い逃れをするのか?」
「その子の母親は妖精だ。父親も、私の友人だった」
魔力が込められた縄は、動こうとするたびに締め付けるようだった。
「私は頼まれたんだ。その子を守ってくれと――」
掠れる声で、リューシルは初めて人間に頭を垂れた。
「お願いだ、返してくれ。私はエレナを、守らなくちゃならないんだ」
眺めていた男の一人が、用心深そうに近寄った。その腕に、奪った赤子を抱えている。
「おい精霊、嘘を言うな。その話が本当なら、こいつは『魔』の血を引いてるってことだ。お前と一緒に牢屋へ入れることになる。――嘘を言っても、良いことはないぞ」
リューシルは言葉を失った。
何を言っても無駄なのだ。それどころか、本当のことを言えばエレナは捕まってしまう。
『人』の世界では、『魔』というだけで罪なのだ。
その血を引いているだけで、罪人になってしまう。
それがやっと、リューシルにも分かった。
「そ、その子は私が盗んだ」
そう告げた声は、震えていた。
男達の勝ち誇った笑み。その光景が、どこか遠い夢のように思える。
その時、不意に赤子が泣き出した。
男達は驚いたものの、面倒くさそうに顔を見合わせ、赤子の行き先について話し始めた。
彼らの言葉はすべて、リューシルの耳をすり抜けて行く。
ただはっきり聞こえるのは、つんざくような泣き声だけだ。
傍に近寄って慰めたい。手も伸ばせないリューシルは、その声を聞いていることしかできない。
「――エレナ」
呟けば、男の一人が唸った。
「ふざけた精霊だ、まったく、どこから盗んだんだ」
彼らは当然のように見下ろしてくる。
「おい、どこから攫って来た。返す場所を教えろ」
盗んでなどいないのだ。だから、返す場所もない。
「忘れた」
「こいつ! いい加減にしろよ」
見かねたのか、騎士の一人が懐からナイフを取り出した。
金で出来たナイフに、リューシルはなぜか、寒気を覚えた。
「これはな、今回の視察のために、陛下がお貸し下さったんだ。ランドルフ陛下がな」
喉元に、ナイフが突きつけられる。
「これはどんな『魔』も殺せる。お前のような透明な奴でさえ」
その感触に、リューシルは少しずつ、事の重大さを理解した。なんとかすれば取り戻せる、そう考えていたが、違ったのだ。
彼らに逆らうことなど、不可能だ。
「おい、場所を忘れたなら、その子の名前を教えろ」
「エレナだ」
「それはお前が付けた名だろう。本当の名前は何だ?」
エレナ。それが本当の名前だ。
だけど男達は、この答えがまだ気に入らないらしい。
「早く言え。お前が付けた汚らわしい名前など、この子が可哀想だ。――母親が見つからなければ、最悪、別の名を付けることになる」
胸が苦しい。この痛みはやっぱり、好きじゃない。
けれどこの子と会えたことを想えば、それすら耐えられる気がした。
「それは、人間の母親が、付けた名だ」
何かが壊れて行く、音がした。
「そうか。この名前が本物か」
「エレナね。預けるなら近くの村だな。――役所に行けば、そこから母親を探せるだろう」
金に輝く森で、魔法使いは待っているだろう。
七日間の魔法を終わらせ、一つの世界を完成させて。
――――それじゃお前が、名付け親だな。
そう言って笑った、彼の顔を思い出した。
――――お前を家族にしてやってもいい。
「……私は、」
赤子は未だ泣きじゃくっている。
近づくことできないリューシルは、一人ぼっちのその子を、一心に見つめた。
「エレナ。エレナ」
男達の慰める声と、泣きわめく声が遠のいていく。
行ってしまう。
叫ぼうとすれば、ナイフがちりちりと喉に当たった。
この声すら、もう届かない。
いっそのこと、この場で刺し殺してほしかった。
自分のせいで、あの子は家族を失うのだ。
魔法使いが守ったすべてが、終わってしまう。
遠くなっていく泣き声を聞きながら、精霊は悟った。
マルクレーンとの約束を破ってしまった。
自分はもう、あの家族には戻れない。




