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ハルシュトラールの夜の果て  作者: 星乃晴香
第四章 精霊はささやく
36/85

彼が罪人になった訳2


 薄暗い木立の中、赤子の産声が響き渡る。

 恐ろしい逃亡の途中だった。


 「(ミッド)」の騎士を()くことはできた。

 だが「(ノヴル)」の王はどこまでも追って来たのだ。

 彼は闇に住んでいる。どこに隠れたところで、見つかるのは時間の問題だった。

 逃げるにしても、長く同じところに留まれない。そんな中で、子どもは無事に生まれて来た。

 「(ミッド)」と「(ノヴル)」の血を受けた、可愛らしい女の子だった。


「エルマローゼ、見ろ、お前と同じ目だ」

 傷だらけの魔法使いは、赤子を見つめる。その傍で、妖精も笑った。

「あら、あなたにも似てるわよ」

「……そう、かな」

 赤子は、魔法使いの髪の色を受け継いでいた。

 けれど、当の父親は寂しそうに眺めるだけだ。

 彼は幾度も魔物に応戦し、勇猛果敢に戦ったが、繰り返される恐怖にさらされ、今ではほとんど白髪になっていた。

 髪はもう元の面影もなく、赤子と同じ色ではない。


 それでも妖精は、優しく男を見つめるのだ。

「ええ。あなたとそっくり。何もかも」

 その言葉に、魔法使いは微笑んだ。

「そうか……そうだな、目尻が似ているかもしれん」

「あと眉毛もね」

 ふふ、と微笑む妖精の横で、様子を見ていた精霊はそっと尋ねた。

「私も触れていいか?」


 今や、逃亡者達の間に「(ミッド)」と「(ノヴル)」の壁はなくなっていた。

 精霊と魔法使いも、確かに友人になっていたのだ。

「いいとも」

 マルクレーンが笑った。

「落とさないよう、気を付けてくれよ」


 実のところ、リューシルは心配していた。その体は風のように透明で、魔力のあるもの以外、触れることもできないのだ。

 ゆっくりと赤子の頬に触れると、そこには確かに感触があり、温もりがあった。

 声をあげて赤子が笑う。

「抱いてあげて」

 嬉しそうに言うエルマローゼに、リューシルは戸惑った。

「もしすり抜けて落としてしまったら、大変だ」

 けれど、妖精は首を振る。

「この子はわたしの魔力を受け継いだみたいだわ。あなたが触れることができるんだもの。抱いてあげてよ」

 リューシルは恐る恐る、赤子を抱き上げた。

 赤子は落ちることもなく、透明な腕の中に納まり、まじまじと見つめて来た。

 ふっと、精霊の顔にも笑みがこぼれる。


 マルクレーンが、少しだけ眉をひそめた。

「気に入られたみたいだ。……妬いてしまうな」

「あら、妬くことなんてないじゃない。この子の父親はあなたなのよ」

 微笑み合う二人をよそに、リューシルは声をあげた。

「見てくれ、笑ってる」

 その言葉に、父親と母親が覗き込む。


 夜空には星が散りばめられ、音もなく煌めいている。

 そこに吸い込まれるように、幾つもの笑い声が重なり合った。







「裏切ったからには、相応の覚悟ができているんだろう」

 森の中に、黒い風が吹き荒れる。

 リューシルは目を凝らした。

 風のように見えたそれは、良く見れば闇そのものだった。


 降り立った「(ノヴル)」の王は黒々としていて、おぞましい感情に(まみ)れていた。

 どっしりと構えたその姿を見て、リューシルは違和感を覚える。

 自分は「(ノヴル)」だ。だからこの王は、自分の王だ。

 けれどリューシルには、どうしてもそれが納得いかなかった。


 もしかしたら自分は、人間に近くなってしまったのかもしれない。


「リューシル! 逃げないと!」

 妖精が叫んだ。

 彼女を後ろに庇い、マルクレーンも叫ぶ。

「そいつの相手をするのは無理だ! こっちへ来い!」


 リューシルは振り返らなかった。

「私が彼を足止めする」

 静かに王を見据えれば、冷たい瞳が面白そうに吊り上がった。

「ほう?」

「マルクレーン、彼女を連れて逃げろ」

 息を吐くように言うと、後ろから戸惑いが伝わって来る。

「リューシル、私は」

「エルマローゼを守るのではなかったのか。――早く行くんだ!」

 少しの沈黙の後、分かった、と静かな声がした。

 妖精が何やら叫んでいる。けれどその声も遠くなり、彼らが立ち去ったのが分かった。



 風が唸りをあげている。

 そこには王と、精霊だけが残されていた。

 漆黒を身に(まと)った魔物を見て、リューシルは思い出す。

 この魔物は、「黒の王」とも呼ばれていた。


 ゆっくりと、馬鹿にするように、黒の王が口を開く。

「裏切り者の味方をするということは、お前も同胞という訳だ」

「ああ、私は彼らの友人だ。お前を先へは行かせない」

 リューシルが即座に答えれば、黒の王は鼻で笑った。

「自分の立場が分かっていないようだな。あのおぞましい『(ミッド)』に何を吹き込まれた?」

「何も吹き込まれてなどいない」

 豪風に木々が揺れている。

 リューシルはただ、静かに答えた。

「私が自分で、こうしようと決めたのだ」


 なぜなのか、自分でも分からない。

 あの人間に、そこまで肩入れする理由はなかった。

 リューシルは魔法使いを友人だと認めていた。

 けれど本当は、まだ好きになれなかったのだ。


「精霊よ、彼らと手を切れ」

 黒の王が感情のない声で言った。

「『(ノヴル)』は『(ミッド)』と関わってはならない。関ったところで、いいことは一つもない」

 言い聞かせるように、何かに思いを馳せるように。

「『(ミッド)』の味方をするなら、お前を殺さなくてはならない」


 リューシルは王の目を見た。

 冷たいようで、狂っているような瞳。

 こんなものに、彼女達を奪われてはならない。

 

 何かが分かりかけて来た。

 自分はあの魔法使いを、好きになれない。

 けれど失いたくないのだ。

 エルマローゼを守るために、「(ミッド)」の世界を捨てた男。

 血を流しながら、希望を失わない魔法使い。

 彼になら、幸せになる権利がある気がした。

 それを作ってやりたいと、そう思えた。


 黒の王を見据え、音もなく銀の光を放つ。

 魔法を使うなど、何十年ぶりだろう。ましてや、誰かを傷つける魔法など。

「お前は私の王ではない」


 地面を割って、(つる)が生えてくる。青々とした蔓は、うねりながら太く伸び続ける。

 次の瞬間、轟音(ごうおん)を立てて王に襲いかかった。


「精霊ごときが!」

 銀の光が飛び散り、蔓を打ち砕いた。


 勝てないことは知っている。相手は魔物の王だ。(かな)う訳がない。

 それでも、少しでも長く足止めしたかった。


 リューシルは息を吐き、再び地面に意識を送る。

 真っ青な蔓が地を裂き、空を裂き、王を貫こうと襲い掛かった。

 黒の王は逃げもしない。

 つまらなそうに一瞥(いちべつ)を寄越すと、それだけで蔓はぐにゃりと枯れた。


「精霊よ、諦めろ。まだ続けるのなら容赦はできない」

 その声はやはり、感情がない。

 リューシルは体が震えるのが分かった。

 恐れを感じているのだと、ゆっくりと理解した。


――――殺される。それも確実に。


 初めて覚える感情に、戸惑い、逃げ出したくなる。

 けれど、どうしても逃げ出せなかった。

 歯を食いしばるようにして感情を抑え、黒の王を見据える。

 地響きが鳴り、幾つもの蔓が地を()破って現れた。


「哀れな奴だ」

 黒の王は同情するように言った。

「『(ミッド)』に出会わなければ、お前は苦しみも知らない、ただの精霊でいられたのに」


 王が手を挙げた瞬間、世界がチカチカと光った。

 銀の光が襲いかかり、視界が一転する。

 体が吹き飛ばされ、次の瞬間には鋭い衝撃が走った。


「ぐっ……」

 地に這いつくばり、リューシルはようやく息を吐いた。

 痛い。体中が痛い。

 涙が出そうになる。こんな痛みは初めてだ。


「死ななかったか。まあいい、お前に関わっているのは時間の無駄だ」

 黒の王はつまらなそうに告げた。

「精霊よ、これ以上『(ミッド)』に近づくな。仲間のところへ帰るがいい。……それがお前にとって、一番良いことだ」

そう言うと、ゆらゆらと黒く揺れ、忽然(こつぜん)と姿を消した。


「っ……」

 リューシルには分からない。

 確かにあの「(ミッド)」に会うまで、幸せだったはずだ。

 何を想うこともなく、仲間たちと暮らしていた。悲しみも苦しみもなく、木々の間を飛び回っていた。

 妖精や精霊は、生まれてから死ぬまで、そうして生きて行くものなのだ。


 それなのに、どうして自分は今、こんな地面で転がっているのだろう。

 体中の痛みは、どういう訳か胸の奥にまで広がっているようだった。


 黒の王に勝てなかった。

 ただの精霊が、勝てると思う方がおかしいのだ。

 それでもあの王を、通してはならなかった。

 行かせてはならなかったのに。


 苦しい。胸が痛い。

 どうしたらこれを取り除けるだろう。


 地面から体を起こし、リューシルは木々の向こうを見つめた。

 今すぐ痛みを消したいが、今はそんな余裕もなかった。

 早く行かなければ、取り返しのつかないことになる。

 いや、もう間に合わないかもしれない。


 それでもゆっくりと浮かび上がる。

 森の奥を見つめながら、音もなく彼らの行方を追った。







「エルマローゼ! エルマローゼ!」

 苦しそうな叫び声。


 リューシルは茫然と立ち尽くした。

 長い間森を彷徨(さまよ)った挙句、茂みを抜けた先で見つけたのは、倒れた妖精と、そこに寄り添う魔法使いだった。

 黒の王はもう去ったのだろう。辺りの木々は静まり返り、殺気立った空気だけが残っている。


 エルマローゼは腹から血を流し、かすかな息をしながら、マルクレーンを見つめていた。

「わたし、きっと死ぬのね」

 弱々しく微笑む妖精は、どこか死を受け入れつつあった。

 それはとても、妖精らしくなかった。

 マルクレーンは一瞬言葉を失くし、それから深く頭を垂れた。

「すまない、こんな思いをさせて。私が無力なばかりに――」

「いいえ、あなたが謝ることないわ」

 妖精は優しく笑う。



 様子を見ていたリューシルは、とうとう我慢ができなくなった。

 今胸の中に燃えている炎が、怒りというものだと気づいていた。

「マルクレーン」

 茂みから出て、男を見つめた。

「お前は彼女を守ると言った。あれは出まかせだったのか」

 これこそ裏切りだと思った。

 腹の底から、嫌な感情がせりあがってくる。

 あの王が(まと)っていたような、どす黒い何か。

 許せない。

 守るとのたまった無責任な男も、彼に仲間を任せた自分も。


 怒りは憎悪も交え、殺意となって地面からせりあがった。

 蔓が唸るように伸び、マルクレーンを取り囲む。


「やめてっ」

 (かす)れた声で、妖精が叫ぶ。

「彼を責めないで! マルクレーンは、黒の王を追い払ってくれたの……! わたしはけがをしたけど……その子を守ってくれたわ!」

 リューシルは不意に蔓を止めた。

 妖精の視線の先を追えば、マルクレーンの腕の中に、小さな赤子がいた。

 赤子は傷一つなく、リューシルを不思議そうに見ている。

 よく見ると、赤子を抱えている男の腕も、その体も、傷だらけで血に濡れていた。


 蔓がひゅるひゅると縮んでいく。

 地面に戻ると、ひび割れを残して、跡形もなく消え去った。


 少しの沈黙の後、マルクレーンが静かに言った。

「リューシル、すまなかった」

 精霊は胸を抑えた。もうあの炎は消えている。

「――もういい、私も怒りすぎたようだ」

 怒りをぶつけたところで、何かが変わる訳ではない。

 静かに顔をあげると、男と共に妖精の傍に寄り添った。



 エルマローゼはこちらを見上げ、申し訳なさそうに笑みを漏らした。

「ごめんなさいね、リューシル。あなたまで巻き込んでしまって」

 優しい瞳を見ていると、なぜか喉がつまり、言葉が出て来ない。

「わたし、皆に妖精らしくないって言われたし、あなたに心配ばかりさせてしまった。……あなたは優しいから、こうなったことを悔やんでるかもしれない」

 でもね、と妖精は笑う。

「わたしはこれで良かったと思えるの」

 夢見るように、妖精は言った。

「わたしは幸せだわ。恋をして、子どももできて。それって家族が出来たってことなのよ」

 リューシルは何も言えなかった。

「『(ノヴル)』に家族なんて存在しない。でもね、わたしは持てたの。とても素敵なことだと思わない?」

「分からない」

 掠れた声で、リューシルは言った。

「私には分からない。でもお前がそう思うなら、それはきっと、素敵なことなんだろう」

 エルマローゼは嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとうリューシル、わたしのわがままに付き合ってくれて……とても、嬉しかったわ」

 そう言うと、静かに魔法使いを見あげた。

「マルクレーン、あなたにも謝らなくちゃ。……一緒に行けなくて、ごめんなさい」

 魔法使いは黙ったまま、片腕に赤子を抱え、もう片方の手で、妖精の手を握りしめた。

 その顔は、どこか泣き出しそうだった。

 それを妖精が、不服そうに眺める。

「やめてちょうだい、その顔。赤ちゃんが困ってるわ」

 魔法使いは戸惑い、赤子と妖精を交互に見て、真剣に眉根を寄せた。

「ふむ、どうしたものか」

 それを見て、妖精がまた笑った。

「あなたって、そういうところは、出会った時から変わらないわね」

「失礼だなお前は」

 魔法使いは悲しげに笑い返した。

「でも、こんな時にはお前の笑顔が一番だ」

「じゃあ、笑うわ」

 ふふ、と笑みを浮かべる妖精は、本当に幸せそうだった。

 リューシルは目を背けたくなり、けれどどうしても、それができなかった。



 彼らはしばらく手を握り合っていたが、不意に妖精が言った。

「マルクレーン……最後にお願い」

「なんだ?」

「その子を守ってほしいの」

 魔法使いの目は、守れなかった妖精を見て、揺らいだ。

 けれど握る手に力を込め、へたくそな笑みを返した。

「ああ、守ってやる。今度こそ、私の命に代えても」

「……ありがとう」

 妖精は(にじ)んだ瞳で魔法使いを見た。

 そうして、彼の腕にいる赤子に手を伸ばした。

「元気でね」

 頭を撫でると、赤子はまじまじと妖精を見つめ、笑い声をあげた。

「大好きよ、」

 妖精の目には涙が溢れていた。彼女の視界はもう、滲んで見えなくなっているだろう。けれどその顔は、幸せそうな微笑みを浮かべていた。

「大好きよ、大好き、だいすき……」


 そうして、妖精は動かなくなった。

 命を成していた魔力が揺らぎ、元の形へ戻って行く。

 血に濡れた体は花びらのように、風に吹かれて散っていった。



 静かな森に、魔法使いの慟哭が響く。

 リューシルはそれを、黙って聞いていた。


 まだ、分からない。

 彼女はこれで良かったと言った。

 けれど自分は、分からない。

 平穏な暮らしを捨てて、知らなかった感情に身を投じて。

 それが幸せなのだろうか。


 胸が痛い。

 こんな思いをするくらいなら、この人間を殺してしまえば良かったのか。

 いいや、違う。

 彼女は確かに幸せだった。家族を持つのが素敵なことだと言った。

 いつか自分にも、それが分かる時が来るのかもしれない。

 この感情を知って、良かったと思う日が来るのかもしれない。


 それでも、今は無理だと思った。

 胸の痛みが、あまりに強すぎて。

 誰かにすがりたい。助けを請いたい。

 衝動は後から後から溢れてきて、押しとどめるので精いっぱいだ。

 息を吐きながら胸を抑え、目の前の魔法使いを見る。

 きっと今、彼は同じ思いを抱えているのだ。



 泣き叫ぶ声を聞きながら、精霊は生まれて初めて、一筋の涙をこぼした。




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