彼が罪人になった訳2
薄暗い木立の中、赤子の産声が響き渡る。
恐ろしい逃亡の途中だった。
「人」の騎士を撒くことはできた。
だが「魔」の王はどこまでも追って来たのだ。
彼は闇に住んでいる。どこに隠れたところで、見つかるのは時間の問題だった。
逃げるにしても、長く同じところに留まれない。そんな中で、子どもは無事に生まれて来た。
「人」と「魔」の血を受けた、可愛らしい女の子だった。
「エルマローゼ、見ろ、お前と同じ目だ」
傷だらけの魔法使いは、赤子を見つめる。その傍で、妖精も笑った。
「あら、あなたにも似てるわよ」
「……そう、かな」
赤子は、魔法使いの髪の色を受け継いでいた。
けれど、当の父親は寂しそうに眺めるだけだ。
彼は幾度も魔物に応戦し、勇猛果敢に戦ったが、繰り返される恐怖にさらされ、今ではほとんど白髪になっていた。
髪はもう元の面影もなく、赤子と同じ色ではない。
それでも妖精は、優しく男を見つめるのだ。
「ええ。あなたとそっくり。何もかも」
その言葉に、魔法使いは微笑んだ。
「そうか……そうだな、目尻が似ているかもしれん」
「あと眉毛もね」
ふふ、と微笑む妖精の横で、様子を見ていた精霊はそっと尋ねた。
「私も触れていいか?」
今や、逃亡者達の間に「人」と「魔」の壁はなくなっていた。
精霊と魔法使いも、確かに友人になっていたのだ。
「いいとも」
マルクレーンが笑った。
「落とさないよう、気を付けてくれよ」
実のところ、リューシルは心配していた。その体は風のように透明で、魔力のあるもの以外、触れることもできないのだ。
ゆっくりと赤子の頬に触れると、そこには確かに感触があり、温もりがあった。
声をあげて赤子が笑う。
「抱いてあげて」
嬉しそうに言うエルマローゼに、リューシルは戸惑った。
「もしすり抜けて落としてしまったら、大変だ」
けれど、妖精は首を振る。
「この子はわたしの魔力を受け継いだみたいだわ。あなたが触れることができるんだもの。抱いてあげてよ」
リューシルは恐る恐る、赤子を抱き上げた。
赤子は落ちることもなく、透明な腕の中に納まり、まじまじと見つめて来た。
ふっと、精霊の顔にも笑みがこぼれる。
マルクレーンが、少しだけ眉をひそめた。
「気に入られたみたいだ。……妬いてしまうな」
「あら、妬くことなんてないじゃない。この子の父親はあなたなのよ」
微笑み合う二人をよそに、リューシルは声をあげた。
「見てくれ、笑ってる」
その言葉に、父親と母親が覗き込む。
夜空には星が散りばめられ、音もなく煌めいている。
そこに吸い込まれるように、幾つもの笑い声が重なり合った。
*
「裏切ったからには、相応の覚悟ができているんだろう」
森の中に、黒い風が吹き荒れる。
リューシルは目を凝らした。
風のように見えたそれは、良く見れば闇そのものだった。
降り立った「魔」の王は黒々としていて、おぞましい感情に塗れていた。
どっしりと構えたその姿を見て、リューシルは違和感を覚える。
自分は「魔」だ。だからこの王は、自分の王だ。
けれどリューシルには、どうしてもそれが納得いかなかった。
もしかしたら自分は、人間に近くなってしまったのかもしれない。
「リューシル! 逃げないと!」
妖精が叫んだ。
彼女を後ろに庇い、マルクレーンも叫ぶ。
「そいつの相手をするのは無理だ! こっちへ来い!」
リューシルは振り返らなかった。
「私が彼を足止めする」
静かに王を見据えれば、冷たい瞳が面白そうに吊り上がった。
「ほう?」
「マルクレーン、彼女を連れて逃げろ」
息を吐くように言うと、後ろから戸惑いが伝わって来る。
「リューシル、私は」
「エルマローゼを守るのではなかったのか。――早く行くんだ!」
少しの沈黙の後、分かった、と静かな声がした。
妖精が何やら叫んでいる。けれどその声も遠くなり、彼らが立ち去ったのが分かった。
風が唸りをあげている。
そこには王と、精霊だけが残されていた。
漆黒を身に纏った魔物を見て、リューシルは思い出す。
この魔物は、「黒の王」とも呼ばれていた。
ゆっくりと、馬鹿にするように、黒の王が口を開く。
「裏切り者の味方をするということは、お前も同胞という訳だ」
「ああ、私は彼らの友人だ。お前を先へは行かせない」
リューシルが即座に答えれば、黒の王は鼻で笑った。
「自分の立場が分かっていないようだな。あのおぞましい『人』に何を吹き込まれた?」
「何も吹き込まれてなどいない」
豪風に木々が揺れている。
リューシルはただ、静かに答えた。
「私が自分で、こうしようと決めたのだ」
なぜなのか、自分でも分からない。
あの人間に、そこまで肩入れする理由はなかった。
リューシルは魔法使いを友人だと認めていた。
けれど本当は、まだ好きになれなかったのだ。
「精霊よ、彼らと手を切れ」
黒の王が感情のない声で言った。
「『魔』は『人』と関わってはならない。関ったところで、いいことは一つもない」
言い聞かせるように、何かに思いを馳せるように。
「『人』の味方をするなら、お前を殺さなくてはならない」
リューシルは王の目を見た。
冷たいようで、狂っているような瞳。
こんなものに、彼女達を奪われてはならない。
何かが分かりかけて来た。
自分はあの魔法使いを、好きになれない。
けれど失いたくないのだ。
エルマローゼを守るために、「人」の世界を捨てた男。
血を流しながら、希望を失わない魔法使い。
彼になら、幸せになる権利がある気がした。
それを作ってやりたいと、そう思えた。
黒の王を見据え、音もなく銀の光を放つ。
魔法を使うなど、何十年ぶりだろう。ましてや、誰かを傷つける魔法など。
「お前は私の王ではない」
地面を割って、蔓が生えてくる。青々とした蔓は、うねりながら太く伸び続ける。
次の瞬間、轟音を立てて王に襲いかかった。
「精霊ごときが!」
銀の光が飛び散り、蔓を打ち砕いた。
勝てないことは知っている。相手は魔物の王だ。敵う訳がない。
それでも、少しでも長く足止めしたかった。
リューシルは息を吐き、再び地面に意識を送る。
真っ青な蔓が地を裂き、空を裂き、王を貫こうと襲い掛かった。
黒の王は逃げもしない。
つまらなそうに一瞥を寄越すと、それだけで蔓はぐにゃりと枯れた。
「精霊よ、諦めろ。まだ続けるのなら容赦はできない」
その声はやはり、感情がない。
リューシルは体が震えるのが分かった。
恐れを感じているのだと、ゆっくりと理解した。
――――殺される。それも確実に。
初めて覚える感情に、戸惑い、逃げ出したくなる。
けれど、どうしても逃げ出せなかった。
歯を食いしばるようにして感情を抑え、黒の王を見据える。
地響きが鳴り、幾つもの蔓が地を蹴破って現れた。
「哀れな奴だ」
黒の王は同情するように言った。
「『人』に出会わなければ、お前は苦しみも知らない、ただの精霊でいられたのに」
王が手を挙げた瞬間、世界がチカチカと光った。
銀の光が襲いかかり、視界が一転する。
体が吹き飛ばされ、次の瞬間には鋭い衝撃が走った。
「ぐっ……」
地に這いつくばり、リューシルはようやく息を吐いた。
痛い。体中が痛い。
涙が出そうになる。こんな痛みは初めてだ。
「死ななかったか。まあいい、お前に関わっているのは時間の無駄だ」
黒の王はつまらなそうに告げた。
「精霊よ、これ以上『人』に近づくな。仲間のところへ帰るがいい。……それがお前にとって、一番良いことだ」
そう言うと、ゆらゆらと黒く揺れ、忽然と姿を消した。
「っ……」
リューシルには分からない。
確かにあの「人」に会うまで、幸せだったはずだ。
何を想うこともなく、仲間たちと暮らしていた。悲しみも苦しみもなく、木々の間を飛び回っていた。
妖精や精霊は、生まれてから死ぬまで、そうして生きて行くものなのだ。
それなのに、どうして自分は今、こんな地面で転がっているのだろう。
体中の痛みは、どういう訳か胸の奥にまで広がっているようだった。
黒の王に勝てなかった。
ただの精霊が、勝てると思う方がおかしいのだ。
それでもあの王を、通してはならなかった。
行かせてはならなかったのに。
苦しい。胸が痛い。
どうしたらこれを取り除けるだろう。
地面から体を起こし、リューシルは木々の向こうを見つめた。
今すぐ痛みを消したいが、今はそんな余裕もなかった。
早く行かなければ、取り返しのつかないことになる。
いや、もう間に合わないかもしれない。
それでもゆっくりと浮かび上がる。
森の奥を見つめながら、音もなく彼らの行方を追った。
*
「エルマローゼ! エルマローゼ!」
苦しそうな叫び声。
リューシルは茫然と立ち尽くした。
長い間森を彷徨った挙句、茂みを抜けた先で見つけたのは、倒れた妖精と、そこに寄り添う魔法使いだった。
黒の王はもう去ったのだろう。辺りの木々は静まり返り、殺気立った空気だけが残っている。
エルマローゼは腹から血を流し、かすかな息をしながら、マルクレーンを見つめていた。
「わたし、きっと死ぬのね」
弱々しく微笑む妖精は、どこか死を受け入れつつあった。
それはとても、妖精らしくなかった。
マルクレーンは一瞬言葉を失くし、それから深く頭を垂れた。
「すまない、こんな思いをさせて。私が無力なばかりに――」
「いいえ、あなたが謝ることないわ」
妖精は優しく笑う。
様子を見ていたリューシルは、とうとう我慢ができなくなった。
今胸の中に燃えている炎が、怒りというものだと気づいていた。
「マルクレーン」
茂みから出て、男を見つめた。
「お前は彼女を守ると言った。あれは出まかせだったのか」
これこそ裏切りだと思った。
腹の底から、嫌な感情がせりあがってくる。
あの王が纏っていたような、どす黒い何か。
許せない。
守るとのたまった無責任な男も、彼に仲間を任せた自分も。
怒りは憎悪も交え、殺意となって地面からせりあがった。
蔓が唸るように伸び、マルクレーンを取り囲む。
「やめてっ」
掠れた声で、妖精が叫ぶ。
「彼を責めないで! マルクレーンは、黒の王を追い払ってくれたの……! わたしはけがをしたけど……その子を守ってくれたわ!」
リューシルは不意に蔓を止めた。
妖精の視線の先を追えば、マルクレーンの腕の中に、小さな赤子がいた。
赤子は傷一つなく、リューシルを不思議そうに見ている。
よく見ると、赤子を抱えている男の腕も、その体も、傷だらけで血に濡れていた。
蔓がひゅるひゅると縮んでいく。
地面に戻ると、ひび割れを残して、跡形もなく消え去った。
少しの沈黙の後、マルクレーンが静かに言った。
「リューシル、すまなかった」
精霊は胸を抑えた。もうあの炎は消えている。
「――もういい、私も怒りすぎたようだ」
怒りをぶつけたところで、何かが変わる訳ではない。
静かに顔をあげると、男と共に妖精の傍に寄り添った。
エルマローゼはこちらを見上げ、申し訳なさそうに笑みを漏らした。
「ごめんなさいね、リューシル。あなたまで巻き込んでしまって」
優しい瞳を見ていると、なぜか喉がつまり、言葉が出て来ない。
「わたし、皆に妖精らしくないって言われたし、あなたに心配ばかりさせてしまった。……あなたは優しいから、こうなったことを悔やんでるかもしれない」
でもね、と妖精は笑う。
「わたしはこれで良かったと思えるの」
夢見るように、妖精は言った。
「わたしは幸せだわ。恋をして、子どももできて。それって家族が出来たってことなのよ」
リューシルは何も言えなかった。
「『魔』に家族なんて存在しない。でもね、わたしは持てたの。とても素敵なことだと思わない?」
「分からない」
掠れた声で、リューシルは言った。
「私には分からない。でもお前がそう思うなら、それはきっと、素敵なことなんだろう」
エルマローゼは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうリューシル、わたしのわがままに付き合ってくれて……とても、嬉しかったわ」
そう言うと、静かに魔法使いを見あげた。
「マルクレーン、あなたにも謝らなくちゃ。……一緒に行けなくて、ごめんなさい」
魔法使いは黙ったまま、片腕に赤子を抱え、もう片方の手で、妖精の手を握りしめた。
その顔は、どこか泣き出しそうだった。
それを妖精が、不服そうに眺める。
「やめてちょうだい、その顔。赤ちゃんが困ってるわ」
魔法使いは戸惑い、赤子と妖精を交互に見て、真剣に眉根を寄せた。
「ふむ、どうしたものか」
それを見て、妖精がまた笑った。
「あなたって、そういうところは、出会った時から変わらないわね」
「失礼だなお前は」
魔法使いは悲しげに笑い返した。
「でも、こんな時にはお前の笑顔が一番だ」
「じゃあ、笑うわ」
ふふ、と笑みを浮かべる妖精は、本当に幸せそうだった。
リューシルは目を背けたくなり、けれどどうしても、それができなかった。
彼らはしばらく手を握り合っていたが、不意に妖精が言った。
「マルクレーン……最後にお願い」
「なんだ?」
「その子を守ってほしいの」
魔法使いの目は、守れなかった妖精を見て、揺らいだ。
けれど握る手に力を込め、へたくそな笑みを返した。
「ああ、守ってやる。今度こそ、私の命に代えても」
「……ありがとう」
妖精は滲んだ瞳で魔法使いを見た。
そうして、彼の腕にいる赤子に手を伸ばした。
「元気でね」
頭を撫でると、赤子はまじまじと妖精を見つめ、笑い声をあげた。
「大好きよ、」
妖精の目には涙が溢れていた。彼女の視界はもう、滲んで見えなくなっているだろう。けれどその顔は、幸せそうな微笑みを浮かべていた。
「大好きよ、大好き、だいすき……」
そうして、妖精は動かなくなった。
命を成していた魔力が揺らぎ、元の形へ戻って行く。
血に濡れた体は花びらのように、風に吹かれて散っていった。
静かな森に、魔法使いの慟哭が響く。
リューシルはそれを、黙って聞いていた。
まだ、分からない。
彼女はこれで良かったと言った。
けれど自分は、分からない。
平穏な暮らしを捨てて、知らなかった感情に身を投じて。
それが幸せなのだろうか。
胸が痛い。
こんな思いをするくらいなら、この人間を殺してしまえば良かったのか。
いいや、違う。
彼女は確かに幸せだった。家族を持つのが素敵なことだと言った。
いつか自分にも、それが分かる時が来るのかもしれない。
この感情を知って、良かったと思う日が来るのかもしれない。
それでも、今は無理だと思った。
胸の痛みが、あまりに強すぎて。
誰かにすがりたい。助けを請いたい。
衝動は後から後から溢れてきて、押しとどめるので精いっぱいだ。
息を吐きながら胸を抑え、目の前の魔法使いを見る。
きっと今、彼は同じ思いを抱えているのだ。
泣き叫ぶ声を聞きながら、精霊は生まれて初めて、一筋の涙をこぼした。




