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ハルシュトラールの夜の果て  作者: 星乃晴香
第四章 精霊はささやく
35/85

彼が罪人になった訳1



――――エレナ。

 誰かが呼んでいる。

――――目を覚まして、小さなエレナ。


 ああ、やっと会えた。


「クリス……!!」

 ハッとして、瞬きをする。

 目の前にあったのは、精霊の美しい顔だ。


「クリス!! クリスはどこ……!?」

「クリス? そんな生き物は、ここにはいないよ」

 リューシル・ヴィエータは美しい声で言った。

 その声は嘘も偽りもなく、ただ事実だけを述べている。

 エレナはがっかりして肩を落とし、ため息をついた。


「――でも見たのよ。クリスがわたしを運んでいたの」

「お前は確かにここにいた。だが、たった一人で眠っていたのだ」

「眠って……?」

 エレナはそこで、ようやく自分の置かれた状況に気づいた。

「そういえば、ここどこ?」

 見回せば、草の上に座っていた。辺りは木が無秩序に立ち並び、はるか上で葉が重なり合っている。

 その隙間から、ちらちらと青い空が覗いていた。

「ここは名もなき森だ。ヴァーグのすぐ隣にあるが、『(ノヴル)』の住処と言われ、人間が足を踏み入れることはほとんどない」

 風が吹いた。

 木々は一つの方向にうねり、ざわざわとなびいていく。

 その様子を見ながら、エレナは考えていた。


――――きっと、クリスが助けてくれたんだ。彼はこういう場所を見つけるのが得意そうだもの。


 例え自分に都合のいい解釈だったとしても、構わなかった。

 夢だったと言われればそれまでだ。でも、それで終わらせたくなかった。

 目が覚めて別の場所にいたのが、何よりの証拠だ。


 クリスのことは自分だけの秘密にしよう。エレナはそう決め、鳶色の瞳をそっと思い出した。


「どうかしたのか? お前は嬉しそうだ」

 不意に精霊が言った。

「そ、そうかな?」

「わたしにはそう見える。口角がつりあがっているし、えくぼと呼ばれるしわもある。目は細められて、()を描いているし……」

 リューシルが真面目に説明し始める。エレナは恥ずかしくなって慌てて止めた。

「わ、分かった。それ以上言わなくていい」

「そうか。とにかく、お前が嬉しそうなのは、私も嬉しい」

 精霊の長く美しい髪が風に揺れ、ゆらゆらと踊った。

 彼の表情に、大きな変化はない。

 けれどエレナは、彼がかすかに微笑んでいるのが分かった。


 半分透明な髪に見とれながら、エレナは尋ねる。

「あの洞窟はどうなったの? 中に兵士や、『(ノヴル)』達がいたでしょ?」

「崩れたよ。お前は見ていないだろうけど、どういう訳か、器用に檻を破壊しながら崩れていった。私も含め、『(ノヴル)』達はすべて自由になったのだよ。あれは誰かが手引きしたのだ。強大な魔力を持つ者の気配がした」

「姿は見たの?」

「いいや。だが、彼らは我々に呼びかけていた。復讐を望む者は共に来いと。多くの『(ノヴル)』が、彼らについて行った」

「あなたは行かなかったのね」

「私は復讐には興味がない。それに、お前を探したかった」

 淡々とした口調だが、その目は優しかった。


 半透明な腕が伸び、そっとエレナの頭に置かれた。

 不思議な感触だった。透き通るようで、カーテンの布地のような、ふわふわした感覚。

 なぜか懐かしい気持ちになって見上げると、青い瞳が細められた。

「エレナ、再び会えると信じていたよ」

 ゆっくりと、いたわるように撫でられる。

「あなたは……どうしてわたしを知っているの?」

 言いながら、緊張がほどけて行くのが分かった。

 今まで気づかなかったが、牢獄にいる間、ひどく気を張っていたらしい。


 あの暗闇を進むうちに、確かに恐怖を感じていた。

 突然の地響きに、足が竦みそうになった。

 けれどそのことも、今はあやふやになっていく。


 この精霊といると、なぜか穏やかな気分になるのだ。

 安堵と同時に、ひどい疲れが押し寄せてくる。


「リューシル……わたし」

「疲れているのだろう。ゆっくり休め」

 優しい手が、行ったり来たり頭を撫でる。

「まだ、聞きたい、ことが……」

「眠るがいい。起きたらすべてを話してあげよう」


 だからおやすみ、小さなエレナ。


 消えて行く意識の中で、懐かしい声がそうささやいた。






 リューシル・ヴィエータは思い出していた。

 少女に話すべき、鮮明な真実を。

 その記憶はおぞましく、けれど愛しいものだった。




 それは遠い昔の事。

 精霊は森で暮らしていた。朝日と共に目覚め、木々のざわめきに挨拶を返した。

 緑の中を飛び回り、生きていることに疑問も葛藤も持たなかった。

 仲間の誰もがそれ以上を望まなかったが、とある妖精だけは例外だった。


「リューシル、あの人また来てるわ」

 真紅の妖精は、その名をエルマローゼと言った。

 薔薇色の長い髪に、夏の青葉のように透き通った瞳。

 人と何ら変わりないように見えて、けれど人間にはない美しさを持った娘。

 好奇心旺盛な妖精は、敵とされている「(ミッド)」に興味を持っていた。



「エルマローゼ、人間は危ない生き物だ」

「大丈夫。ただちょっと見るだけよ」

 彼女は森から出ようとしたことはなかった。問題は森へ入って来る人間の方だ。

 「(ノヴル)」の息づく森にわざわざ踏み込む「(ミッド)」の気持ちが、リューシルには理解できない。

 その上やって来る人間はいつも同じ男で、毎日同じ時間に、似たような場所に現れるのだ。

 朝焼け色のローブを纏った男は、どう見ても怪しかった。



「あの男、何をしに来てるんだ? もし我々が目的なら……」

「違うわ。ほら見て、植物を集めているだけよ」

 エルマローゼは茂みの隙間を覗きながら、わくわくした様子で言った。

「植物を採るくらいならあなたも怒れないでしょ? 鹿やウサギと同じだもの。――あら、石も集めるのね。あの横に積み重ねているのは何?」

 リューシルは溜息をつく。

「エルマローゼ」

「あ、開いた! あの塊、中が見られるんだわ。それに、何か書いてある」

 精霊の言葉など気にもせず、妖精は身を乗り出した。

「あれは人間の文字かしら?」

「危険だ、それ以上乗り出すな」

「待ってよ、もう少しで見えるわ」

 前のめりになって、必死に目を凝らす。


「あとちょっと……きゃあ!」

「エルマローゼ!」


 がざざっと音を立て、葉が舞い散った。

 妖精は茂みから転がり出てしまったのだ。


「あ……」

 彼女が見上げた先には、「(ミッド)」の男の顔があった。

 目を見開き、空いた口がふさがらないというように、呆然と妖精を見つめている。


 気を取り直した妖精は、どきどきしながら手を差し出した。

「こんにちは。あなた人間よね?」

「わ、う……うわっ」

 男は慌てて後ずさり、岩に積み重ねてあった分厚い塊に激突した。

 ばさばさと音を立て、塊が崩れ落ちる。

 妖精は一瞬呆気にとられたが、次の瞬間、顔を綻ばせた。


「ふ……ふふっ」


 悪気はない。男があまりに取り乱すので、つい笑みがこぼれてしまったのだ。

 物音がしないので顔をあげると、男は黙ったまま、まじまじとこちらを見つめていた。


 妖精には、人間の礼儀が分からない。もしかしたら嫌な思いをさせたのかもしれなかった。

 エルマローゼは急いで謝る。

「ごめんなさい、笑ってしまって」

「あ……いや、あの」

 言い淀む男をよそに、妖精は既に別のものに興味を惹かれていた。その目線の先には、散らばった塊がある。

「ねえ、これは何?」

「え、えーと、それは本だ」

「ほん?」


 男は近くに落ちていた物を一つ拾い上げると、少し落ち着いたらしく、ゆっくりと開いてみせた。

「ここに文字が書いてあるだろう。……これを読むんだ」

 妖精は彼に(なら)って一つ手に取り、開いてみる。だが、同じようにめくったつもりが、ビリッと音がしただけだった。

「ああ、だめだめ! そうじゃない、こうするんだ」

 男は急いで傍に寄ると、妖精の前で、再びページをめくってみせた。

 取り上げられてしまうかも、と思っていた妖精は、嬉しさと申し訳なさに胸がいっぱいになった。

「ごめんなさい、壊してしまって……わたしさっきから、謝ってばかりね」

「――まあ、いいよ。壊したってほどでもないし。ほら、もう一度めくってごらん」

 優しい声を聞きながら、妖精は言う通りにしていいものか戸惑った。

 それでもやってみたいという衝動には抗えない。

 気をつけてめくれば、もうビリッと音がすることもなかった。

「できたわ。――まあ、綺麗ね!」

 次のページに描かれていたのは大きなリンゴの木と、その下で遊ぶ子ども達の絵だった。

 それは人間の目から見れば大した絵ではなかったが、エルマローゼには、とても美しく思えたのだ。

「これは絵だ。見るのは初めてかい?」

「ええ。とても素敵」

 笑いかけると、男は不意に視線をそらし、別の本を拾い上げた。

「――それならこれも見てみなよ。君の好きそうなのが載っている」

 そう言って広げたページには、麦の穂を持った、美しい女性の絵が描かれていた。

「わあ……」

 うっとりと見つめると、男は小さく微笑んだ。

「これはすべて私の私物なんだ。まだ城にもたくさんある。もしよければ、明日もっと良いのを持ってくるよ」

「ほんとに?」

 瞳を輝かせて見上げれば、へたくそな微笑みが返って来た。

「約束だ」



 精霊はすべてを見ていた。

(ミッド)」は危険だ。近づいてはならない。

 優しい顔をして騙す可能性だってある。早く仲間を助けなければ。

 けれど、二人の楽しそうな様子に、とうとう声をかけられず、音もなくその場を立ち去った。




 次の日も、その次の日も男はやってきた。

 彼の名はマルクレーンと言い、訪れるたびにエルマローゼとたわいない話をした。

 ひょろひょろと細身な上に、口下手な男は何とも頼りなさげだったが、それでも精霊――リューシル・ヴィエータは、その「(ミッド)」へ警戒を怠らなかった。


 人間は残酷で狡猾だ。長年生きて来たリューシルは知っている。

 騙された仲間を何度か見て来た。「(ミッド)」は仮面をかぶるのがうまい。

 歌うように嘘を流し、微笑みながら刃物をふるう。


「『(ミッド)』は危険だと言っているだろう。彼に関わってはならない」

「平気よ。あなたも話してみればいいわ。マルクレーンは良い人よ」

 繰り返し諭せば、繰り返し同じ答えが返って来た。

 説得するつもりが説得され、リューシルはとうとう人間の前に姿を見せた。

 

 マルクレーンは、確かに無害な男だった。

 けれどこちらの敵意が伝わったのか、相手が半ば諦めていたのか。

 新たな友情が芽生えるはずもなく、精霊の中には何の変化も訪れなかった。




 一方で変化が訪れたのは、エルマローゼだった。

 彼女に何が起こったかなど、誰の目にも明らかだった。


 木々がざわめく。

 お前はあいつが好きなのか、と。


「ええ、そうよ!」


 花がささやく。

 相手は危険な人間よ、と。


「いいえ、彼は優しいわ!」


 頬を薔薇色に染め上げて、薔薇そのもののような妖精は、どこか夢見るように言った。



 誰も止めることなどできなかったのだ。


 木々が緑から紅に変わるにつれて、人間と妖精は恋に落ちた。

 そうしてエルマローゼは、とうとうリューシルからも逃れたのだ。

 森すら眠る月夜の晩、恋人達は手を取り合って、緑の奥へと駆けて行った。


「エルマローゼ」

 リューシルは一心にその名を呼んだ。

 行かせてはいけない。

 取り返しのつかないことになる。


 夜鳴きウグイスが寂しげに謳い、霧はすべてを覆い隠した。

「エルマローゼ」

 道に迷った幼子のように、リューシルは仲間の姿を見失った。

 遠くから聞こえてくる、無邪気な妖精の笑い声。

 それすらもいつか、闇夜に消えてなくなった。


 リューシルにも、もう間に合わないことは分かっていた。




 その夜、人間と妖精は愛を誓いあった。

 そうすることで、「(ミッド)」と「(ノヴル)」を裏切ったのだ。






 森は妖精を追い出したりはしなかった。

 木々も花も、エルマローゼを愛していたから。


 けれど風の噂に乗って、裏切りが「(ノヴル)」の王にばれた。

 王は裏切りを許さない。

 彼が怒り狂っていると、小鳥たちが口々に伝えた。


 結局森も精霊も、妖精の味方をすることにした。

 彼女の姿を隠し、彼女の愛する「(ミッド)」だけに道を開いた。


 エルマローゼには、子どもが宿っていたのだ。

 新しい命を、皆が密かに待ちわびていた。

 だからこそ、王に見つかるわけにはいかない。

 王を恐れて泣く妖精に、マルクレーンは言った。

「泣くんじゃない。『(ノヴル)』の王を恐れるなら、私も魔法を手に入れよう。心配するな、必ず守ってやるから」


 リューシルは知っていた。

 魔法を手に入れることは、「(ミッド)」の世界の禁忌だと。

 それを当然のように行うマルクレーンに、目の覚める思いがした。

 彼の愛に、嘘や偽りなど欠片もない。

 今まで掲げていた敵意が、何の意味もなさないことに気づいた。



 来た道を戻ってゆく彼に、そっと声をかければ、朝焼け色のローブが振り返った。

「リューシル、お前が来るのは珍しいな」

 この頃になると、マルクレーンは何を見ても動じなくなっていた。その余裕さえなかったのだ。

 彼は魔法を手に入れるために、ありとあらゆる手段に手を染めていた。

 

 疲れ切った笑みを、リューシルは静かに見返す。

「お前のやっていることは『(ミッド)』の王を裏切る行為だ。ばれた時どうするつもりだ」

「さあな」

 マルクレーンは笑った。

「私は捕まり、殺されるかもしれない。だが、何らかの手段でエルマローゼだけは助ける。方法はいくらだってあるさ」

 リューシルは目を細める。

 そこにはもう、出会った頃の軟弱な男はいなかった。





 そうしてとうとう、その日が来た。

 「(ミッド)」の王の騎士が、マルクレーンの後をつけていたのだ。

 木々が行く手を塞ごうとしたが、鋭い剣で()ぎ払われた。

 妖精は見つかり、彼女を(かば)ったマルクレーンは捕まった。

「逃げろ!」

 そう叫ぶ彼の声を背に、エルマローゼは泣きながら姿を消した。


 ただの人間が妖精を追っても、まず見つけられないだろう。

 騎士は罵りの言葉を吐きながら、マルクレーンを城へと引っ立てていった。抵抗しようと思えばできたのだ。けれど今は、妻と子を逃がすのが先だった。

 独房へ放り込まれた男は、魔法使いの烙印を押された。





 森の奥で知らせを聞いて、木々はうなだれた。

 身を震わせて泣く妖精を横に、リューシルは息をついた。

 仲間が悲しんでいるのを見るのは辛い。泣き止ませるのはあの男しかできないだろう。

 頼みの綱は、もうすべて消えたのだ。



 けれどいつしか緑の奥に、朝焼け色が混じって見えた。

「エルマローゼ!」

 傷だらけの男は、息を切らしてやってきた。


 妖精だけでない。精霊も木々も、振り返った。

 男は一心に走って来る。

 その身から血を流し、それでも希望に満ちた目で。

「逃げて来たんだ。心配したか?」

 妖精が微笑んで、一筋の涙を流す。

 笑い返した男の目に、迷いはなかった。




 ざわざわと風が吹いた。

 木々が唸るように揺れ、花々は怯えるように震えた。


――――王だ。

――――「(ノヴル)」の王がやってくる。


 森が揺れるたび、そのざわめきがリューシルの胸に広がった。

 豪風に、長い髪が波立つ。


 木々の向こうが黒く染まっていた。

 別の空間が開き、闇が渦巻いている。


 小さく震えるエルマローゼ。その両手を、マルクレーンが握りしめた。

「逃げよう。二つの王から隠れるんだ。二人で一緒に、遠くへ行こう」


 妖精が頷くと、魔法使いとなった男は、その手を引いた。

「大丈夫。私が必ず、守ってみせる」



 出て行こうとする二人の前に、リューシルは躍り出た。

 妖精が声をあげる。

「リューシル、まだ止めるの?」

「いいや」

 透き通る声で精霊は言った。

「逃げるのを手伝おう」




 風は一層強く吹き荒れ、木々はしなって悲鳴をあげた。

 荒れ狂う森の中に、馬のいななきが響き渡る。

 (ひづめ)の音に追いつかれないよう、逃亡者達はひたすら走った。




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