彼が罪人になった訳1
――――エレナ。
誰かが呼んでいる。
――――目を覚まして、小さなエレナ。
ああ、やっと会えた。
「クリス……!!」
ハッとして、瞬きをする。
目の前にあったのは、精霊の美しい顔だ。
「クリス!! クリスはどこ……!?」
「クリス? そんな生き物は、ここにはいないよ」
リューシル・ヴィエータは美しい声で言った。
その声は嘘も偽りもなく、ただ事実だけを述べている。
エレナはがっかりして肩を落とし、ため息をついた。
「――でも見たのよ。クリスがわたしを運んでいたの」
「お前は確かにここにいた。だが、たった一人で眠っていたのだ」
「眠って……?」
エレナはそこで、ようやく自分の置かれた状況に気づいた。
「そういえば、ここどこ?」
見回せば、草の上に座っていた。辺りは木が無秩序に立ち並び、はるか上で葉が重なり合っている。
その隙間から、ちらちらと青い空が覗いていた。
「ここは名もなき森だ。ヴァーグのすぐ隣にあるが、『魔』の住処と言われ、人間が足を踏み入れることはほとんどない」
風が吹いた。
木々は一つの方向にうねり、ざわざわとなびいていく。
その様子を見ながら、エレナは考えていた。
――――きっと、クリスが助けてくれたんだ。彼はこういう場所を見つけるのが得意そうだもの。
例え自分に都合のいい解釈だったとしても、構わなかった。
夢だったと言われればそれまでだ。でも、それで終わらせたくなかった。
目が覚めて別の場所にいたのが、何よりの証拠だ。
クリスのことは自分だけの秘密にしよう。エレナはそう決め、鳶色の瞳をそっと思い出した。
「どうかしたのか? お前は嬉しそうだ」
不意に精霊が言った。
「そ、そうかな?」
「わたしにはそう見える。口角がつりあがっているし、えくぼと呼ばれるしわもある。目は細められて、弧を描いているし……」
リューシルが真面目に説明し始める。エレナは恥ずかしくなって慌てて止めた。
「わ、分かった。それ以上言わなくていい」
「そうか。とにかく、お前が嬉しそうなのは、私も嬉しい」
精霊の長く美しい髪が風に揺れ、ゆらゆらと踊った。
彼の表情に、大きな変化はない。
けれどエレナは、彼がかすかに微笑んでいるのが分かった。
半分透明な髪に見とれながら、エレナは尋ねる。
「あの洞窟はどうなったの? 中に兵士や、『魔』達がいたでしょ?」
「崩れたよ。お前は見ていないだろうけど、どういう訳か、器用に檻を破壊しながら崩れていった。私も含め、『魔』達はすべて自由になったのだよ。あれは誰かが手引きしたのだ。強大な魔力を持つ者の気配がした」
「姿は見たの?」
「いいや。だが、彼らは我々に呼びかけていた。復讐を望む者は共に来いと。多くの『魔』が、彼らについて行った」
「あなたは行かなかったのね」
「私は復讐には興味がない。それに、お前を探したかった」
淡々とした口調だが、その目は優しかった。
半透明な腕が伸び、そっとエレナの頭に置かれた。
不思議な感触だった。透き通るようで、カーテンの布地のような、ふわふわした感覚。
なぜか懐かしい気持ちになって見上げると、青い瞳が細められた。
「エレナ、再び会えると信じていたよ」
ゆっくりと、いたわるように撫でられる。
「あなたは……どうしてわたしを知っているの?」
言いながら、緊張がほどけて行くのが分かった。
今まで気づかなかったが、牢獄にいる間、ひどく気を張っていたらしい。
あの暗闇を進むうちに、確かに恐怖を感じていた。
突然の地響きに、足が竦みそうになった。
けれどそのことも、今はあやふやになっていく。
この精霊といると、なぜか穏やかな気分になるのだ。
安堵と同時に、ひどい疲れが押し寄せてくる。
「リューシル……わたし」
「疲れているのだろう。ゆっくり休め」
優しい手が、行ったり来たり頭を撫でる。
「まだ、聞きたい、ことが……」
「眠るがいい。起きたらすべてを話してあげよう」
だからおやすみ、小さなエレナ。
消えて行く意識の中で、懐かしい声がそうささやいた。
リューシル・ヴィエータは思い出していた。
少女に話すべき、鮮明な真実を。
その記憶はおぞましく、けれど愛しいものだった。
*
それは遠い昔の事。
精霊は森で暮らしていた。朝日と共に目覚め、木々のざわめきに挨拶を返した。
緑の中を飛び回り、生きていることに疑問も葛藤も持たなかった。
仲間の誰もがそれ以上を望まなかったが、とある妖精だけは例外だった。
「リューシル、あの人また来てるわ」
真紅の妖精は、その名をエルマローゼと言った。
薔薇色の長い髪に、夏の青葉のように透き通った瞳。
人と何ら変わりないように見えて、けれど人間にはない美しさを持った娘。
好奇心旺盛な妖精は、敵とされている「人」に興味を持っていた。
「エルマローゼ、人間は危ない生き物だ」
「大丈夫。ただちょっと見るだけよ」
彼女は森から出ようとしたことはなかった。問題は森へ入って来る人間の方だ。
「魔」の息づく森にわざわざ踏み込む「人」の気持ちが、リューシルには理解できない。
その上やって来る人間はいつも同じ男で、毎日同じ時間に、似たような場所に現れるのだ。
朝焼け色のローブを纏った男は、どう見ても怪しかった。
「あの男、何をしに来てるんだ? もし我々が目的なら……」
「違うわ。ほら見て、植物を集めているだけよ」
エルマローゼは茂みの隙間を覗きながら、わくわくした様子で言った。
「植物を採るくらいならあなたも怒れないでしょ? 鹿やウサギと同じだもの。――あら、石も集めるのね。あの横に積み重ねているのは何?」
リューシルは溜息をつく。
「エルマローゼ」
「あ、開いた! あの塊、中が見られるんだわ。それに、何か書いてある」
精霊の言葉など気にもせず、妖精は身を乗り出した。
「あれは人間の文字かしら?」
「危険だ、それ以上乗り出すな」
「待ってよ、もう少しで見えるわ」
前のめりになって、必死に目を凝らす。
「あとちょっと……きゃあ!」
「エルマローゼ!」
がざざっと音を立て、葉が舞い散った。
妖精は茂みから転がり出てしまったのだ。
「あ……」
彼女が見上げた先には、「人」の男の顔があった。
目を見開き、空いた口がふさがらないというように、呆然と妖精を見つめている。
気を取り直した妖精は、どきどきしながら手を差し出した。
「こんにちは。あなた人間よね?」
「わ、う……うわっ」
男は慌てて後ずさり、岩に積み重ねてあった分厚い塊に激突した。
ばさばさと音を立て、塊が崩れ落ちる。
妖精は一瞬呆気にとられたが、次の瞬間、顔を綻ばせた。
「ふ……ふふっ」
悪気はない。男があまりに取り乱すので、つい笑みがこぼれてしまったのだ。
物音がしないので顔をあげると、男は黙ったまま、まじまじとこちらを見つめていた。
妖精には、人間の礼儀が分からない。もしかしたら嫌な思いをさせたのかもしれなかった。
エルマローゼは急いで謝る。
「ごめんなさい、笑ってしまって」
「あ……いや、あの」
言い淀む男をよそに、妖精は既に別のものに興味を惹かれていた。その目線の先には、散らばった塊がある。
「ねえ、これは何?」
「え、えーと、それは本だ」
「ほん?」
男は近くに落ちていた物を一つ拾い上げると、少し落ち着いたらしく、ゆっくりと開いてみせた。
「ここに文字が書いてあるだろう。……これを読むんだ」
妖精は彼に倣って一つ手に取り、開いてみる。だが、同じようにめくったつもりが、ビリッと音がしただけだった。
「ああ、だめだめ! そうじゃない、こうするんだ」
男は急いで傍に寄ると、妖精の前で、再びページをめくってみせた。
取り上げられてしまうかも、と思っていた妖精は、嬉しさと申し訳なさに胸がいっぱいになった。
「ごめんなさい、壊してしまって……わたしさっきから、謝ってばかりね」
「――まあ、いいよ。壊したってほどでもないし。ほら、もう一度めくってごらん」
優しい声を聞きながら、妖精は言う通りにしていいものか戸惑った。
それでもやってみたいという衝動には抗えない。
気をつけてめくれば、もうビリッと音がすることもなかった。
「できたわ。――まあ、綺麗ね!」
次のページに描かれていたのは大きなリンゴの木と、その下で遊ぶ子ども達の絵だった。
それは人間の目から見れば大した絵ではなかったが、エルマローゼには、とても美しく思えたのだ。
「これは絵だ。見るのは初めてかい?」
「ええ。とても素敵」
笑いかけると、男は不意に視線をそらし、別の本を拾い上げた。
「――それならこれも見てみなよ。君の好きそうなのが載っている」
そう言って広げたページには、麦の穂を持った、美しい女性の絵が描かれていた。
「わあ……」
うっとりと見つめると、男は小さく微笑んだ。
「これはすべて私の私物なんだ。まだ城にもたくさんある。もしよければ、明日もっと良いのを持ってくるよ」
「ほんとに?」
瞳を輝かせて見上げれば、へたくそな微笑みが返って来た。
「約束だ」
精霊はすべてを見ていた。
「人」は危険だ。近づいてはならない。
優しい顔をして騙す可能性だってある。早く仲間を助けなければ。
けれど、二人の楽しそうな様子に、とうとう声をかけられず、音もなくその場を立ち去った。
次の日も、その次の日も男はやってきた。
彼の名はマルクレーンと言い、訪れるたびにエルマローゼとたわいない話をした。
ひょろひょろと細身な上に、口下手な男は何とも頼りなさげだったが、それでも精霊――リューシル・ヴィエータは、その「人」へ警戒を怠らなかった。
人間は残酷で狡猾だ。長年生きて来たリューシルは知っている。
騙された仲間を何度か見て来た。「人」は仮面をかぶるのがうまい。
歌うように嘘を流し、微笑みながら刃物をふるう。
「『人』は危険だと言っているだろう。彼に関わってはならない」
「平気よ。あなたも話してみればいいわ。マルクレーンは良い人よ」
繰り返し諭せば、繰り返し同じ答えが返って来た。
説得するつもりが説得され、リューシルはとうとう人間の前に姿を見せた。
マルクレーンは、確かに無害な男だった。
けれどこちらの敵意が伝わったのか、相手が半ば諦めていたのか。
新たな友情が芽生えるはずもなく、精霊の中には何の変化も訪れなかった。
一方で変化が訪れたのは、エルマローゼだった。
彼女に何が起こったかなど、誰の目にも明らかだった。
木々がざわめく。
お前はあいつが好きなのか、と。
「ええ、そうよ!」
花がささやく。
相手は危険な人間よ、と。
「いいえ、彼は優しいわ!」
頬を薔薇色に染め上げて、薔薇そのもののような妖精は、どこか夢見るように言った。
誰も止めることなどできなかったのだ。
木々が緑から紅に変わるにつれて、人間と妖精は恋に落ちた。
そうしてエルマローゼは、とうとうリューシルからも逃れたのだ。
森すら眠る月夜の晩、恋人達は手を取り合って、緑の奥へと駆けて行った。
「エルマローゼ」
リューシルは一心にその名を呼んだ。
行かせてはいけない。
取り返しのつかないことになる。
夜鳴きウグイスが寂しげに謳い、霧はすべてを覆い隠した。
「エルマローゼ」
道に迷った幼子のように、リューシルは仲間の姿を見失った。
遠くから聞こえてくる、無邪気な妖精の笑い声。
それすらもいつか、闇夜に消えてなくなった。
リューシルにも、もう間に合わないことは分かっていた。
その夜、人間と妖精は愛を誓いあった。
そうすることで、「人」と「魔」を裏切ったのだ。
*
森は妖精を追い出したりはしなかった。
木々も花も、エルマローゼを愛していたから。
けれど風の噂に乗って、裏切りが「魔」の王にばれた。
王は裏切りを許さない。
彼が怒り狂っていると、小鳥たちが口々に伝えた。
結局森も精霊も、妖精の味方をすることにした。
彼女の姿を隠し、彼女の愛する「人」だけに道を開いた。
エルマローゼには、子どもが宿っていたのだ。
新しい命を、皆が密かに待ちわびていた。
だからこそ、王に見つかるわけにはいかない。
王を恐れて泣く妖精に、マルクレーンは言った。
「泣くんじゃない。『魔』の王を恐れるなら、私も魔法を手に入れよう。心配するな、必ず守ってやるから」
リューシルは知っていた。
魔法を手に入れることは、「人」の世界の禁忌だと。
それを当然のように行うマルクレーンに、目の覚める思いがした。
彼の愛に、嘘や偽りなど欠片もない。
今まで掲げていた敵意が、何の意味もなさないことに気づいた。
来た道を戻ってゆく彼に、そっと声をかければ、朝焼け色のローブが振り返った。
「リューシル、お前が来るのは珍しいな」
この頃になると、マルクレーンは何を見ても動じなくなっていた。その余裕さえなかったのだ。
彼は魔法を手に入れるために、ありとあらゆる手段に手を染めていた。
疲れ切った笑みを、リューシルは静かに見返す。
「お前のやっていることは『人』の王を裏切る行為だ。ばれた時どうするつもりだ」
「さあな」
マルクレーンは笑った。
「私は捕まり、殺されるかもしれない。だが、何らかの手段でエルマローゼだけは助ける。方法はいくらだってあるさ」
リューシルは目を細める。
そこにはもう、出会った頃の軟弱な男はいなかった。
*
そうしてとうとう、その日が来た。
「人」の王の騎士が、マルクレーンの後をつけていたのだ。
木々が行く手を塞ごうとしたが、鋭い剣で薙ぎ払われた。
妖精は見つかり、彼女を庇ったマルクレーンは捕まった。
「逃げろ!」
そう叫ぶ彼の声を背に、エルマローゼは泣きながら姿を消した。
ただの人間が妖精を追っても、まず見つけられないだろう。
騎士は罵りの言葉を吐きながら、マルクレーンを城へと引っ立てていった。抵抗しようと思えばできたのだ。けれど今は、妻と子を逃がすのが先だった。
独房へ放り込まれた男は、魔法使いの烙印を押された。
森の奥で知らせを聞いて、木々はうなだれた。
身を震わせて泣く妖精を横に、リューシルは息をついた。
仲間が悲しんでいるのを見るのは辛い。泣き止ませるのはあの男しかできないだろう。
頼みの綱は、もうすべて消えたのだ。
けれどいつしか緑の奥に、朝焼け色が混じって見えた。
「エルマローゼ!」
傷だらけの男は、息を切らしてやってきた。
妖精だけでない。精霊も木々も、振り返った。
男は一心に走って来る。
その身から血を流し、それでも希望に満ちた目で。
「逃げて来たんだ。心配したか?」
妖精が微笑んで、一筋の涙を流す。
笑い返した男の目に、迷いはなかった。
ざわざわと風が吹いた。
木々が唸るように揺れ、花々は怯えるように震えた。
――――王だ。
――――「魔」の王がやってくる。
森が揺れるたび、そのざわめきがリューシルの胸に広がった。
豪風に、長い髪が波立つ。
木々の向こうが黒く染まっていた。
別の空間が開き、闇が渦巻いている。
小さく震えるエルマローゼ。その両手を、マルクレーンが握りしめた。
「逃げよう。二つの王から隠れるんだ。二人で一緒に、遠くへ行こう」
妖精が頷くと、魔法使いとなった男は、その手を引いた。
「大丈夫。私が必ず、守ってみせる」
出て行こうとする二人の前に、リューシルは躍り出た。
妖精が声をあげる。
「リューシル、まだ止めるの?」
「いいや」
透き通る声で精霊は言った。
「逃げるのを手伝おう」
風は一層強く吹き荒れ、木々はしなって悲鳴をあげた。
荒れ狂う森の中に、馬のいななきが響き渡る。
蹄の音に追いつかれないよう、逃亡者達はひたすら走った。




