ヴァーグの牢獄
洞窟の中は長い一本道で、真っ暗だった。唯一、一定の間隔ごとに壁に揺れる蝋燭が頼りだ。
――――あれが突然、全部消えたらどうしよう。
暗闇の中では、怖いことを考えてしまう。
エレナは騎士団の後に続きながら、身を固くして歩いていた。
洞窟に入ってからずっと、様々な生き物の鳴き声が聞こえてくるのだ。
オオカミのような遠吠えから、しくしくと小さく響く鳴き声。それならまだいいが、一度聞こえた恐ろしい叫び声には耳を塞ぎたくなった。
時折すれ違う兵士に、騎士達に倣って会釈をし、なんとか奥まで進んでいく。
少し歩くと、道の両側が檻になった。
中に入っているのは、すべて「魔」だ。
人間にそっくりなものから、おぞましい姿のものまでいた。
騎士団を見かけると、鉄格子に近づいて、檻ごしに何かをわめいてくる。
ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる声や、泣きわめく声が追いかけてくる。
騎士達は恐怖に顔をひきつらせている者や、黙れ!と怒鳴りつけている者など様々だ。
エレナは肩を縮めながら、目を合わせないようにして歩いていく。
それでも騎士団から目を離せば、歩幅の違いからか、すぐに距離が空いてしまう。
洞窟は入り組んでいて、ちょっとした迷路のようになっているのだ。迷子になったらと思うとぞっとする。
エレナは何度か遅れかけて、慌てて後を追いかけた。最後尾にいた行商人が、見かねて声をかけた。
「手をつないであげようか?」
エレナは驚いて顔をあげた。見下ろす彼の瞳は、迷子を心配するものだ。
「へ、平気よ。もう子どもじゃないわ」
理由はそれだけじゃない。シルヴィアに悪いと思ったのだ。
抱きしめられておいてなんだが、この男と初めて手をつなぐ女性は、シルヴィアであってほしいと思った。
ロレンツォは訝しげな顔をしたが、結局そのまま騎士団の後ろについて行った。
その時だ。
――――エレナ。エレナ。
透き通った声が、頭に響く。
思わず立ち止まれば、再び聞こえて来た。
――――エレナ。エレナ。私の光。
ふらふらと、声のする方へ向かった。誰かが、自分を呼んでいる。
確かにエレナと呼んでいるのだ。
行商人の声が自分を呼んだ気がしたが、今行きたいのは彼の元ではない。
身に覚えのない、けれど懐かしい声に、エレナは会いたくてたまらなくなった。
声の聞こえた方を辿り、迷路のような牢獄を進んで行く。
暗闇の中でも、その声だけははっきり聞こえ、吸い寄せられるように走った。
気がついた時には一人になっていた。
「ロレンツォ……?」
声を見失った途端、自分の置かれた状況に気付いた。
辺りはどこまでも暗く、オレンジの蝋燭が、牢屋やその中の「魔」を不気味に照らしている。エレナは牢屋に囲まれた通路で、震える声を出した。
「ロレンツォ……、レイモンド……」
と、突然、一匹の「魔」が声をかけた。
「お嬢さん、お嬢さん、あけておくれよ」
小人のような生き物が、鉄格子の隙間から手を伸ばしている。
「もう暗いのはいやなんだ。出してくれよう」
エレナはびっくりして叫んだ。
「だめよ、あっちへ行って」
急いで通り過ぎると、ケチ!と罵声が飛んできた。
周りをみないようにして歩いていると、誰かに足を引っ掛けられた。
派手にこけて振り返れば、鉄格子の間から、根っこのようなものが伸びている。
目を凝らすと、暗がりの中に、木のような形をした化け物がいた。顔もないのに、エレナを見て笑っている。
きゃははははは、と響く声。
隣の檻にいた小さな竜が、心配そうにこちらを見ていた。
エレナと目があったが、恐ろしそうに身をひそめ、後ろを向いてしまう。
そのうち、一匹の笑いにつられて、他の「魔」たちも一斉に騒ぎ出した。
きゃははははは、あははははは。
重なり響く笑い声。真っ暗な洞窟の中、エレナは耳を塞ぎたくなった。
そんな中でも、別の何かが聞こえてくる。
――――エレナ。エレナ。
またあの声だ。
掻き消されそうになりながら、それでも途絶えず呼んでいる。
エレナは歯を食いしばって、懸命に立ち上がった。
恐怖に呑まれそうになりながら、暗がりの中を歩き出す。
――――エレナ。エレナ。私の光。
恐ろしい騒音の中を、ただその声を頼りに奥へと進む。それは暗闇の牢獄の中で、一筋の光のように思えた。
長い洞窟を歩き、角を曲がったところで、一つの檻がぼうっと光っていた。
――――あそこだわ。
なぜだかすぐに声の主だと分かり、その檻へ駆け寄った。
中にいたのは、美しい精霊だった。
長い髪を揺らし、鉄格子に近づいてくる。
「エレナ、よく来たね」
澄んだ声でそう言うと、精霊はふっと微笑んだ。
それはこの牢獄で見た恐ろしいものを、すべて吹き消すくらいの美しさだった。
光り輝く不思議な存在には、確かに顔や体があったが、それは半分透き通っていた。腰から下はほとんど見えず、足があるのかも分からない程だ。
流れるような長い髪は、中性的な顔を彩っている。
二つの瞳は深い青で、森のどこかにあるという湖を思い起こさせた。
「あなたは、誰?」
「私はリューシル・ヴィエータ。芽吹きと共に生まれた精霊だ」
「リュ……?」
「リューシル・ヴィエータ。人間には発音しにくいだろう。好きなように呼ぶといい」
「リューシル。そう呼ぶわ」
この精霊が男か女かも分からなかったが、低めの声からして、男なのだろうとエレナは思った。
囁くような声を聴いていると、不思議な感覚に包まれる。
大樹に抱かれているような、やさしく温かい気持ちが広がっていく。
「わたしを呼んだのはあなたね? なぜ名前を知ってるの?」
「話せば長くなる。お前こそ、どうして私のところへ来たのだ」
エレナは鉄格子を掴んだ。
「友達を探してるの。黒い髪の、男の子よ」
「ここでそんな者を見た覚えはない」
首を振る精霊に、エレナは言い募った。
「マルクレーンと一緒に、森に住んでいたの。その後から行方が分からないのよ。どんな些細なことでもいいの。彼を知らない?」
精霊は悲しげに微笑んだ。
「分からないな。けれどマルクレーンの事なら知っている。私はそれを、お前に話さなくてはならない」
青い目が伏せられる。エレナは彼がなぜそんな事を言うのか分からなかったが、黙って続きを促した。
クリスのことはこれ以上聞いても無駄だろう。
がっかりする一方で、マルクレーンの事も知りたいと感じていた。
『マルクレーンの書』を読んだ時、決めたのだ。
自分が騙されたせいでマルクレーンは死んだ。だからこそ、彼の願いだけは叶えたいと。
エレナが真っ直ぐな瞳で見つめると、それに気づいたように精霊が顔をあげた。静かな目で、どこか嬉しそうに続ける。
「聞いてくれるのだね。皆に嫌われていた、あの魔法使いの話を。――彼は今、どこにいるのだろう」
遠くを見るような目に、エレナの胸は締め付けられた。
「もういないわ。死んだもの」
呟くように言うと、精霊は驚いたようにこちらを見た。
「死んだ?……あの男が?」
「ええ、わたしのせいで。だからわたしが、彼の願いを叶えなきゃ」
エレナはリューシルを見た。
「あの人の日記を読んだの。彼は妖精を守ろうと……」
突然、轟音が轟いた。
何か固いものが割れる音。地面が揺れ始める。
天井に亀裂が走り、あたりに銀色の光が飛び交った。
「魔法だわ……! 誰がこんな……!!」
精霊を見つめると首を振った。彼は驚いているらしいが、瞳は静かだ。どうやら、感情が表に出にくい生き物らしい。
「私ではない。この檻は魔力を封じ込めているのだ。透明な私ですら出ることも出来ない。魔法を使えるとしたら、それは外の者だ」
リューシルが流暢に喋っている間にも、天井がガラガラと崩れ始めた。
兵士たちが大声で言葉を交わすのが聞こえる。
何が起きてるんだ! 奴らが責めて来た!
魔物たちはこぞって恐ろしい叫び声をあげた。それが歓喜の笑い声なのか、恐怖の泣き声なのか、エレナには分からない。
――――どうしよう! 今から出口まで走っても、間に合わない!
凄まじい音を立て、あらゆるものが崩れていく。
「行きなさい。愛しい子よ」
リューシルが言った。
「こんなところで死んではならない」
その瞳は悲しんでいるように見えた。
この精霊が誰なのかは分からない。
けれどきっと、自分にとって大切な存在に違いなかった。
エレナは檻に駆け寄る。
「一緒に行こう! ここから出るのよ!」
近くの天井が崩れた。
バキバキと、ヒビが伝わっていく。
それは二人の真上まで走って来た。
「逃げなさい。エレナ」
「だめよ! まだ話が――――」
がらがらと恐ろしい音がした。
体めがけて、天井が落ちてくる。
迫りくる大きな岩盤。
そして、すべてが真っ暗になった。
誰かが、歩いている。
自分を運んで、歩いている。
その人が歩くたび、エレナの体も揺れる。なんだか眠くなりそうだ。
たゆたうような意識の中で彷徨っていると、突然辺りが明るくなった。
目は閉じているはずなのに、ひどく眩しく感じる。きっと日の光が降り注いでいるのだ。
余りの眩しさに瞳をあければ、鳶色の瞳がこちらを見た。
「来て、くれたの……」
続きを言おうとしたが、何も出てこなかった。
もう一度会えたなら、話そうと思っていたことが山ほどあるのだ。
それなのに、頭がくらくらして、何も考えられない。
それでも会えたことが嬉しくて、ただ微笑んだ。
大好きな彼が、すぐ傍にいるのだ。
もう少し、もう少しだけ見ていたい。
そう思ったけれど、光と共に、彼は遠ざかっていく。
そうして、すべては再び、闇に閉ざされた。




