枯らせる少女
光の差す森の中を、一人の少女が走っている。
帰らずの森と謳われた、誰も入るはずのない場所だった。
少女が一歩進むごとに、触れた草花は枯れていく。
彼女は七つとまだ幼い。その姿は、立ち並ぶ木々の間で、ひどくちっぽけに見えた。
朝の森は、雫に濡れて静けさを保っていた。聞こえるのは小鳥のさえずりと、自分の足音だけだ。靴が泥で汚れるのも構わず、少女は走る。枯れていく花々から逃げるように、ひたすら前を見つめたまま。
飴色の髪が、木漏れ日を受けてオレンジに光った。
どこまで行こうか。どこまでだって行こう。
涙で視界を歪ませ、少女は唇を噛んだ。
何もかも忘れていたかった。このままでは、帰り際、道がわからなくなって困るだろう。いや、既に迷っているのだ。
今はそれで構わなかった。少女はただ、誰もいない遠くへ行きたかったのだ。
森には自分を咎める者はいない。
足元で花が萎れるのを感じながら、衝動のままに走り続けた。
緑は延々続くと思われたが、ある時突然、視界が開けた。
驚いて立ち止まれば、足元の草がたちどころに朽ち果てる。
しかし、彼女の目は既に別のものを映していた。木々が消え、ぽっかりあいた空き地に不思議な屋敷が現れたのだ。
それは少女の住んでいた建物とは全く異なっていた。あの孤児院は白く、ところどころ壁がひび割れていたが、こちらは赤い屋根に、上品な茶色のレンガ造りだ。壁にはツタが絡まり、所狭しとその葉を広げている。
何より目を引くのは、その屋敷を取り囲む、黒くて大きな鉄格子だった。鉄格子には美しい文様が掘られており、門の装飾も趣があったが、まるで牢屋のようだと少女は思った。
荘厳な屋敷は、誰もいないように静まり返っている。
あんなにツタが絡まっているんだもの、何年も放置されているに違いない。
少女は一人で納得した。
ここまでくると、恐れを通り越して、先に進みたいという気持ちがわいてくる。
七歳の少女には、持ち前の好奇心があった。
そしてまた、この屋敷が自分のために現れたのではないかとさえ思った。
一人ぼっちの少女は、居場所が欲しくてたまらなかったのだ。
意を決して門に手を伸ばす。すると鉄格子の扉は、不用心にも簡単に動いた。
少女が力をこめれば、ぎいい、と軋む音を立てて開く。
喜びと緊張に胸を染めながら、少女はそっと中へ入った。
その時だ。
ガシャン!と音を立て、鉄格子がひとりでに閉まったのだ。
少女はぞっとして立ち尽くす。
もう戻れないかもしれない。
確かめもしないうちにそんな考えがよぎったが、目の前の景色を見た途端、心配事は吹き飛んだ。
そこは、広い庭だった。
ありとあらゆる植物が生き生きと葉を広げていた。パンジーやチューリップが空を見上げるように咲き誇り、その間を縫って、スミレやシロツメクサが散りばめられたように咲いている。
ナンテンの実が赤く色づいているかと思えば、ヒマワリが黄金の花びらを広げ、ここには季節さえも存在しないようだった。
この景色を見ていると、心が和らいでいく。走っていた時の叫びたい衝動は、もう収まっていた。植物を枯らしてしまうのは、そんな風に感情に呑まれた時だけだ。もう心配はない。
なんだかほっとして、少女は歩みを進めた。
眩しい日の光に目を細めながら、静かに奥へと進んで行く。視界を遮るキンギョソウを掻き分けた時、向こうに誰かがいることに気が付いた。
そこに、少年は立っていた。
黒い髪は質素な白い服に映え、鳶色の瞳でこちらを見ている。その子どもは光の中で、どこか人間離れした雰囲気を纏っていた。
もしかしたら、森の精霊かもしれない。
どきりとして立ち竦んだ拍子に、足元にあったオドリコソウが、小さくゆれて葉を散らした。
「あ……」
少女は思わず声をあげた。これ以上、誰にも知られたくないと思っていたのに。
食い入るような少年の視線が、胸を突き刺すようだ。
蔑まれるのが嫌だから逃げて来たのに。
ここでも結局同じなのか。
自分の居場所はどこにもないのか。
逃げようかと考える少女の前で、不意に少年は言った。
「お前、誰?」
見事なまでの無表情だ。
ただその瞳にだけは、驚きと恐れが入り混じっている。
彼はやはり、何か近づきがたいものを放っていた。人間とは異なる、魔物のような気迫。
普通の人間ならば、少年に気付かないふりをするか、逃げ出しただろう。
けれど、少女は違った。
その気迫の中に自分と同じ、言葉にしがたい孤独を感じたからかもしれない。
なにより、話しかけられたのが嬉しかったのだ。
「……わたしはエレナ。あなたは?」
少年は僅かに身じろぎした。
「クリス」
名前を教えてくれた。
それだけで。
少女は今までにない程の希望が見えた気がした。
勇気を出して、一番恐ろしい問いを口にする。
「あの、わたしが、怖くないの?」
「怖い? なぜ」
「さっき見たでしょ……わたし、花を枯らせてしまうの」
少年は戸惑ったようにこちらを見た。
「お前こそ、俺が怖くないのか」
意味が分からず、少女は問い返した。
「怖いって、どうして?」
「俺は化け物なんだ」
真面目に答えた少年の顔は真剣そのもので、少女は思わず笑ってしまった。
「そんな風に見えないよ。全然怖くない」
確かに彼には近寄りがたい雰囲気があったが、それ以上に自分と通じるものを感じた。
少しだけ胸が温かくなって、少女は思わず手を差し出した。
握手だ。
少年は、その手と少女を見比べる。
無表情のままだが、困惑しているようだった。まるで、伸ばした手が振り払われるのを恐れるように。
けれど、少女が微笑むと、その目に光が灯った。
彼はゆっくり、けれどしっかりと、その手を握り返した。
それは二人が、初めての友達を得た瞬間だった。




