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ハルシュトラールの夜の果て  作者: 星乃晴香
第三章 ザンクトの討伐
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大切な日々


 輝く光の中に、少女がいた。

 あたりには緑が生い茂り、時折小鳥のさえずりが聞こえてくる。

 無造作に立ち並ぶ木々と、その間に川の流れのように咲く小さな花々。

 その間を縫って、少女はこちらへかけてくる。


 木陰に座っていた老人は小さな足音を聞きつけ、ゆっくりと顔をあげた。その顔には幾重もの皺が、時を記す年輪のように刻まれている。

 節くれだった手が、長く白いあごひげを撫で、その乾いた唇から小さな声が漏れた。

「リース」


 幾重にも差し込む光の中、少女は長い髪を揺らして走って来る。それは光に反射して、金にも銀にも輝いて見えた。

「おじいちゃん!」

 両手を伸ばし、息を切らして、少女は輝く瞳で笑う。

「あのね! あっちにアディスの花が咲いてたんだよ。一緒に見に行こうよ!」

 まだ整わない呼吸のまま、老人の腕を引っ張った。ため息をつくように老人は答える。

「リース、何度も言っているだろう。私はお前の祖父ではない」

「いいじゃない! わたしもあなたも一人ぼっちなんだから、一緒にいるのに理由なんかいらないよ」

 真面目な顔で返すと、少女は再び笑う。

「でも、お父さんになるにはあなたはちょっと年寄りだから、おじいちゃんね!」

「またそういうことを言う」

 老人は眉をひそめたが、その目元はかすかに和らいでいた。

「何とも失礼な孫娘だな」


 少女は明るい笑い声をあげ、老人の腕を引いた。

「こっち! アディスの花畑があるの! あの白くてきれいな花よ!」

「この辺でそんなものを見た覚えはない。どうせ距離があるんだろう、一人で行ってくるといい」

「それじゃ意味ないの! 一緒に来て」

 腕を離そうとしない少女に、老人はとうとう重たい腰をあげた。

「分かったから、そう急かすのはよしてくれ」


 ゆっくりと歩み始めた老人は、繋がれた腕の先にある、小さな少女の顔を見た。

「……まったく、お前は毎日、なぜ飽きもせずに私のところに来るのかね」

「家族のところに来ちゃいけない?」

「また屁理屈を言う」

 老人が音もなく微笑むと、幾つもの皺が一緒になって、くしゃりと歪んだ。



 そんな時間を幾度繰り返したろう。思い出を数え切れぬ程抱えたまま、老人はその日も、少女と手を繋いで歩いていたのだ。

 風のように閃く剣が、静かで優しい世界を断ち切るまでは。


「おじいちゃん!」


 現れた男達は、青い服を着ていた。

 王宮に仕える騎士達に、少女の存在は目障りだった。


「いや! 離して!」


 例え敵意を振りかざしたのが、一握りの人間だけだとしても。

 老人がそれを知る術はない。


「小娘、(ちまた)で騒ぎを起こしてるのは、お前の仲間だろう!」

「知らないわ!」

「さんざん町の人間を困らせておいて、それか? ――笑わせるなっ」

「やめろ……!」


 どうしたら良かったのか。


「おじいちゃ、おじいちゃん……! たすけて」


 赤い血。

 届かない手。

 散ってゆく叫び声。


 舞い上がる花びらさえ鮮血に染まり。

 少女は紅を身に纏ったまま。


「リース」


 しわがれた声は、吐息のようにか細く。

 見開いた瞳に映るその子は。


「息を……、リース……!」


 老人は少女を掻き抱く。

 けれど小さな肩に、顔をうずめることも叶わずに。

 動かないその体が、閉じられた瞳が、風と共に揺らいで消えた。



 何もかもが溶けていく。

 まるで絵画が水に滲むように。

 思い出の場所は、もう形を変えてしまった。

 時は止まり、すべてが闇に包まれて行く。


 そうして世界は、色を失った。






 はっとして眼を見開けば、老人は一人、暗い部屋にいた。

 肘掛(ひじかけ)椅子(いす)の上で、疲れたように息を吐く。

「夢、か……」


 灯りもついていない暗い部屋。窓から差してくる光は白く、家具を音もなく浮かび上がらせている。

 窓の外に目をやれば、ごうごうと砂煙が舞っていた。

 向こうに竜巻のようなものが見え、うなり声をあげながら人家を巻き上げている。


 風の音に混じって聞こえる悲鳴。

 吹き飛ばされるのは、家々だけでなく、哀れな家畜や人々だ。

 助けを求める叫び声を聞きながら、老人はぼうっと砂嵐を見ていた。

 ゆっくりと背もたれに頭を寄せれば、古びた木の椅子は、きいっと小さな声をあげた。





 

 ハルシュトラールは、いつもと変わらない日々を迎えていた。

 劇団がつくりあげ、垣間見えた英雄は、再び過去の伝説に戻っている。


 音楽一座エイブル・ホーリエは、金色の伝説を披露した後、一夜の夢のように去って行ったのだ。

――――アシオンの地に祝福を。

 別れ際にそう告げながら。


 少女達は手を振って見送ったものの、そこには少しだけ寂しさが滲んでいた。

 三日経った今でも、その思いは変わることがない。 

 けれど(かげ)っていた瞳は、今再び輝いていた。




 がらんと広い姫の部屋。

 大きく敷かれた絨毯(じゅうたん)に、色とりどりの商品が並べられている。

 美しい髪飾りや、真珠の首かざり、小鳥をかたどったブローチ。

 所狭しと並ぶそれらを見て、二人の少女は歓声を上げた。その顔は、寂しさよりも好奇心に染められている。

 行商人は満足げに微笑んだ。彼は二人を元気づけようとやって来たのだ。

 品物を前に、慇懃(いんぎん)に口上を述べる。

「旅の途中、様々な地で手に入れたものです。お気に召して頂けたなら、お買い求めを」

 少女達はじっくりと商品を眺めては、うっとりとため息をついた。


 

 ロレンツォが王女お抱えの行商人になったのは、もう遠い昔のことだ。

 エレナが城に来る以前、ハルシュトラールの王女は、いつも一人ぼっちだった。話し相手もおらず、離宮で寂しく暮らす毎日。

 しかし、ある時珍しく、兄であるジェロームが行商人をよこしたのだ。

 気に入らなかった行商人を、妹のところへ回した。それだけだと側近達は言い合い、いつものような冷ややかな目を向けた。


 けれど、出会った行商人は、にこりと微笑んで言ったのだ。

――――初めまして。小さな姫君。


 人から微笑んでもらったことなど久しくなかった。だからこそ、王女はその存在を大切に思い、再び失うことが怖くなってしまったのだ。

 彼女は行商人の帰り際、自分に仕えてほしいと頼んだ。それが駄目だと分かると、自分の専属になるよう言いつけ、再び外へ送らせた。


 それからというもの、彼はこの城に立ち寄るようになったのだ。商品を持ってくる日もあれば、手ぶらで現れ、ただ姫と話をして去って行くこともあった。それは仕事というより、遊びに来ているように見えた。どだい、王宮に出入りするにしては、商品の値段はべらぼうに安かったのだ。

「安すぎやしないか。そこらへんで手に入れた偽物なんじゃ」

「あの男、今も時折国王に取り入ってるって言うわよ。何を考えてるんだか」


 城の者達は、彼は胡散臭い男だと口々に言い合い、追い出そうとした。けれど姫も行商人も気に留めず、たわいないやり取りはエレナが来た後も続いた。

 この頃になると、側近たちは何も言わなくなった。受け入れたからではなく、この気ままな行商人を追い出すのは無理だと、気がつき始めたからであった。


 行商人が来るたび、シルヴィアは小さな小物や飾りを買った。エレナは遠慮して眺めているだけだったが、その金の出どころがどこなのか、いつも不思議に思っていたのだ。

 いつだったか、こっそりロレンツォに尋ねたことがある。しかし、彼は微笑んで首を振るばかりだった。


 エレナは今日も釈然とせず、二人のやりとりを眺めているだけだ。それでもいつしか、不思議と気持ちは満たされていった。

 そのことに気づいて、こっそり微笑む。

 自分を満たしているものが、姫と行商人の存在に他ならないと、知っていたからだ。


「ねえ、このブローチはどこで手に入れたの?」

 シルヴィアが(うるし)塗りの鳥をなでながらつぶやく。

「それはブリュメールの職人から貰ったものです」

 エレナは首をかしげた。

「貰った?」

「ええ。ちょっとした人助けのお礼に」

「何をしたの?」

 エレナが尋ねると、シルヴィアも身を乗り出した。

「わたしも知りたいわ。聞かせてちょうだい」


 行商人は語り始めた。国境を抜ける途中、オオカミに襲われている男に出くわしたこと。オオカミを追い払い、傷を負った男を手当てしてやったこと。

 二人が尋ねれば尋ねるほど、彼の口からは旅の話が流れ出した。

 いくつもの思い出は物語となって、二人の心を躍らせた。

 それはもう何年も続けられてきたやり取りだったが、彼が訪れるたび物語は新しく紡がれ、少女達を遠い世界へ(いざな)った。

 ある時は山賊との戦いに手に汗握り、ある時は遠い港町の夕日に焦がれた。

 二人はこのひと時が好きでたまらなかった。


 再びやって来たオオカミを撃墜(げきつい)したところまで聞いてから、エレナはほっと息をついた。

 そっと隣を見ると、シルヴィアは目を輝かせて話に聞き入っている。


「彼は漆塗(うるしぬ)りの職人だったのです。そこで、お礼に(うるし)の小鳥をくれたのですよ。ああ、そちらにあるリスも彼から貰ったものです。オークの樹脂から作った(うるし)だとか。お気に召しましたか?」

「ええ! だけどいいの? こんなものを買ってしまっても」

 言いながら、シルヴィアは嬉しそうだ。

「構いません。彼に商売に使う(むね)は伝えてありますから」

 楽しげな二人のやりとりを、エレナは静かに見つめた。


 あれでもないこれでもないと幸せな悩みに浸るシルヴィア。その光景を見て微笑んでいるロレンツォ。

 見ているだけで温かい気持ちになるのはなぜだろう。


――――ずっと、ここに居たい。


 密かにそう思った。

 この人達が好きだった。傍に居られることが幸せで、今でもふと、ここに居ることが夢のように思える時があった。

 ずっと、姫様のお傍にいたい。そうしてこれからもずっと、ロレンツォの紡ぐ数多(あまた)の物語を聞いていたい。


 けれど、それはだめだ、と自分のどこかで声がした。

 襲撃を知らせる鐘のように、頭の奥で鳴り響いた。


「お前なんか、信じない」

 思い出すのは、少年の燃えるような瞳。

 忘れてはだめだ。エレナは自分に言い聞かせる。幸せだからこそ、忘れていいわけがなかった。

 あの日、行商人の手を取った時、自分は確かに思ったのだ。

 彼と行けば、クリスに会えるチャンスが巡ってくるかもしれない。

 そのために、彼について行こう、と。


「決めたわ! この小鳥にする!」

 シルヴィアの声が響き渡る。エレナはハッと我に返った。

「お買い求め、ありがとうございます。」

 行商人はいつものようにうやうやしくお辞儀をする。見慣れたしぐさに目を奪われた、その時だ。


「失礼します! ここにロレンツォはいますか!?」

 ばん、と扉を開けて男が入って来た。

 驚いて見上げれば、短く刈りそろえた金髪が目に入った。騎士団長のレイモンドだ。

 いつもはきちんとした(たたず)まいなのだが、今は頬に汗が流れ、襟元はよれてしまっている。


 その姿を見ながら、シルヴィアが言い放った。

「なんなの、レイモンド? 扉を開ける際にはノックをするのが礼儀ではなくて?」

 ロレンツォとの時間を邪魔されたせいか、その口調はきつかった。

「王女、申し訳ありません。ですが、緊急の事態なのです」

「緊急?」

 シルヴィアは眉をひそめた。

 温かかった部屋の雰囲気が、一気に緊迫したものに変わる。

 エレナは嫌な予感がして、ロレンツォを盗み見た。

 彼は以前、一度騎士団と共に出かけたことがあった。その時は何かの調査だと言っていたが、ついに内容を教えてくれることはなかったのだ。

 ロレンツォが静かに尋ねる。

「何があった?」


 レイモンドは一呼吸おくと、言い放った。

「西のはずれ、ザンクトの村で、魔法が確認されました」

 エレナは一瞬にして、全身が強張るのが分かった。



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