大切な日々
輝く光の中に、少女がいた。
あたりには緑が生い茂り、時折小鳥のさえずりが聞こえてくる。
無造作に立ち並ぶ木々と、その間に川の流れのように咲く小さな花々。
その間を縫って、少女はこちらへかけてくる。
木陰に座っていた老人は小さな足音を聞きつけ、ゆっくりと顔をあげた。その顔には幾重もの皺が、時を記す年輪のように刻まれている。
節くれだった手が、長く白いあごひげを撫で、その乾いた唇から小さな声が漏れた。
「リース」
幾重にも差し込む光の中、少女は長い髪を揺らして走って来る。それは光に反射して、金にも銀にも輝いて見えた。
「おじいちゃん!」
両手を伸ばし、息を切らして、少女は輝く瞳で笑う。
「あのね! あっちにアディスの花が咲いてたんだよ。一緒に見に行こうよ!」
まだ整わない呼吸のまま、老人の腕を引っ張った。ため息をつくように老人は答える。
「リース、何度も言っているだろう。私はお前の祖父ではない」
「いいじゃない! わたしもあなたも一人ぼっちなんだから、一緒にいるのに理由なんかいらないよ」
真面目な顔で返すと、少女は再び笑う。
「でも、お父さんになるにはあなたはちょっと年寄りだから、おじいちゃんね!」
「またそういうことを言う」
老人は眉をひそめたが、その目元はかすかに和らいでいた。
「何とも失礼な孫娘だな」
少女は明るい笑い声をあげ、老人の腕を引いた。
「こっち! アディスの花畑があるの! あの白くてきれいな花よ!」
「この辺でそんなものを見た覚えはない。どうせ距離があるんだろう、一人で行ってくるといい」
「それじゃ意味ないの! 一緒に来て」
腕を離そうとしない少女に、老人はとうとう重たい腰をあげた。
「分かったから、そう急かすのはよしてくれ」
ゆっくりと歩み始めた老人は、繋がれた腕の先にある、小さな少女の顔を見た。
「……まったく、お前は毎日、なぜ飽きもせずに私のところに来るのかね」
「家族のところに来ちゃいけない?」
「また屁理屈を言う」
老人が音もなく微笑むと、幾つもの皺が一緒になって、くしゃりと歪んだ。
そんな時間を幾度繰り返したろう。思い出を数え切れぬ程抱えたまま、老人はその日も、少女と手を繋いで歩いていたのだ。
風のように閃く剣が、静かで優しい世界を断ち切るまでは。
「おじいちゃん!」
現れた男達は、青い服を着ていた。
王宮に仕える騎士達に、少女の存在は目障りだった。
「いや! 離して!」
例え敵意を振りかざしたのが、一握りの人間だけだとしても。
老人がそれを知る術はない。
「小娘、巷で騒ぎを起こしてるのは、お前の仲間だろう!」
「知らないわ!」
「さんざん町の人間を困らせておいて、それか? ――笑わせるなっ」
「やめろ……!」
どうしたら良かったのか。
「おじいちゃ、おじいちゃん……! たすけて」
赤い血。
届かない手。
散ってゆく叫び声。
舞い上がる花びらさえ鮮血に染まり。
少女は紅を身に纏ったまま。
「リース」
しわがれた声は、吐息のようにか細く。
見開いた瞳に映るその子は。
「息を……、リース……!」
老人は少女を掻き抱く。
けれど小さな肩に、顔をうずめることも叶わずに。
動かないその体が、閉じられた瞳が、風と共に揺らいで消えた。
何もかもが溶けていく。
まるで絵画が水に滲むように。
思い出の場所は、もう形を変えてしまった。
時は止まり、すべてが闇に包まれて行く。
そうして世界は、色を失った。
はっとして眼を見開けば、老人は一人、暗い部屋にいた。
肘掛椅子の上で、疲れたように息を吐く。
「夢、か……」
灯りもついていない暗い部屋。窓から差してくる光は白く、家具を音もなく浮かび上がらせている。
窓の外に目をやれば、ごうごうと砂煙が舞っていた。
向こうに竜巻のようなものが見え、うなり声をあげながら人家を巻き上げている。
風の音に混じって聞こえる悲鳴。
吹き飛ばされるのは、家々だけでなく、哀れな家畜や人々だ。
助けを求める叫び声を聞きながら、老人はぼうっと砂嵐を見ていた。
ゆっくりと背もたれに頭を寄せれば、古びた木の椅子は、きいっと小さな声をあげた。
*
ハルシュトラールは、いつもと変わらない日々を迎えていた。
劇団がつくりあげ、垣間見えた英雄は、再び過去の伝説に戻っている。
音楽一座エイブル・ホーリエは、金色の伝説を披露した後、一夜の夢のように去って行ったのだ。
――――アシオンの地に祝福を。
別れ際にそう告げながら。
少女達は手を振って見送ったものの、そこには少しだけ寂しさが滲んでいた。
三日経った今でも、その思いは変わることがない。
けれど翳っていた瞳は、今再び輝いていた。
がらんと広い姫の部屋。
大きく敷かれた絨毯に、色とりどりの商品が並べられている。
美しい髪飾りや、真珠の首かざり、小鳥をかたどったブローチ。
所狭しと並ぶそれらを見て、二人の少女は歓声を上げた。その顔は、寂しさよりも好奇心に染められている。
行商人は満足げに微笑んだ。彼は二人を元気づけようとやって来たのだ。
品物を前に、慇懃に口上を述べる。
「旅の途中、様々な地で手に入れたものです。お気に召して頂けたなら、お買い求めを」
少女達はじっくりと商品を眺めては、うっとりとため息をついた。
ロレンツォが王女お抱えの行商人になったのは、もう遠い昔のことだ。
エレナが城に来る以前、ハルシュトラールの王女は、いつも一人ぼっちだった。話し相手もおらず、離宮で寂しく暮らす毎日。
しかし、ある時珍しく、兄であるジェロームが行商人をよこしたのだ。
気に入らなかった行商人を、妹のところへ回した。それだけだと側近達は言い合い、いつものような冷ややかな目を向けた。
けれど、出会った行商人は、にこりと微笑んで言ったのだ。
――――初めまして。小さな姫君。
人から微笑んでもらったことなど久しくなかった。だからこそ、王女はその存在を大切に思い、再び失うことが怖くなってしまったのだ。
彼女は行商人の帰り際、自分に仕えてほしいと頼んだ。それが駄目だと分かると、自分の専属になるよう言いつけ、再び外へ送らせた。
それからというもの、彼はこの城に立ち寄るようになったのだ。商品を持ってくる日もあれば、手ぶらで現れ、ただ姫と話をして去って行くこともあった。それは仕事というより、遊びに来ているように見えた。どだい、王宮に出入りするにしては、商品の値段はべらぼうに安かったのだ。
「安すぎやしないか。そこらへんで手に入れた偽物なんじゃ」
「あの男、今も時折国王に取り入ってるって言うわよ。何を考えてるんだか」
城の者達は、彼は胡散臭い男だと口々に言い合い、追い出そうとした。けれど姫も行商人も気に留めず、たわいないやり取りはエレナが来た後も続いた。
この頃になると、側近たちは何も言わなくなった。受け入れたからではなく、この気ままな行商人を追い出すのは無理だと、気がつき始めたからであった。
行商人が来るたび、シルヴィアは小さな小物や飾りを買った。エレナは遠慮して眺めているだけだったが、その金の出どころがどこなのか、いつも不思議に思っていたのだ。
いつだったか、こっそりロレンツォに尋ねたことがある。しかし、彼は微笑んで首を振るばかりだった。
エレナは今日も釈然とせず、二人のやりとりを眺めているだけだ。それでもいつしか、不思議と気持ちは満たされていった。
そのことに気づいて、こっそり微笑む。
自分を満たしているものが、姫と行商人の存在に他ならないと、知っていたからだ。
「ねえ、このブローチはどこで手に入れたの?」
シルヴィアが漆塗りの鳥をなでながらつぶやく。
「それはブリュメールの職人から貰ったものです」
エレナは首をかしげた。
「貰った?」
「ええ。ちょっとした人助けのお礼に」
「何をしたの?」
エレナが尋ねると、シルヴィアも身を乗り出した。
「わたしも知りたいわ。聞かせてちょうだい」
行商人は語り始めた。国境を抜ける途中、オオカミに襲われている男に出くわしたこと。オオカミを追い払い、傷を負った男を手当てしてやったこと。
二人が尋ねれば尋ねるほど、彼の口からは旅の話が流れ出した。
いくつもの思い出は物語となって、二人の心を躍らせた。
それはもう何年も続けられてきたやり取りだったが、彼が訪れるたび物語は新しく紡がれ、少女達を遠い世界へ誘った。
ある時は山賊との戦いに手に汗握り、ある時は遠い港町の夕日に焦がれた。
二人はこのひと時が好きでたまらなかった。
再びやって来たオオカミを撃墜したところまで聞いてから、エレナはほっと息をついた。
そっと隣を見ると、シルヴィアは目を輝かせて話に聞き入っている。
「彼は漆塗りの職人だったのです。そこで、お礼に漆の小鳥をくれたのですよ。ああ、そちらにあるリスも彼から貰ったものです。オークの樹脂から作った漆だとか。お気に召しましたか?」
「ええ! だけどいいの? こんなものを買ってしまっても」
言いながら、シルヴィアは嬉しそうだ。
「構いません。彼に商売に使う旨は伝えてありますから」
楽しげな二人のやりとりを、エレナは静かに見つめた。
あれでもないこれでもないと幸せな悩みに浸るシルヴィア。その光景を見て微笑んでいるロレンツォ。
見ているだけで温かい気持ちになるのはなぜだろう。
――――ずっと、ここに居たい。
密かにそう思った。
この人達が好きだった。傍に居られることが幸せで、今でもふと、ここに居ることが夢のように思える時があった。
ずっと、姫様のお傍にいたい。そうしてこれからもずっと、ロレンツォの紡ぐ数多の物語を聞いていたい。
けれど、それはだめだ、と自分のどこかで声がした。
襲撃を知らせる鐘のように、頭の奥で鳴り響いた。
「お前なんか、信じない」
思い出すのは、少年の燃えるような瞳。
忘れてはだめだ。エレナは自分に言い聞かせる。幸せだからこそ、忘れていいわけがなかった。
あの日、行商人の手を取った時、自分は確かに思ったのだ。
彼と行けば、クリスに会えるチャンスが巡ってくるかもしれない。
そのために、彼について行こう、と。
「決めたわ! この小鳥にする!」
シルヴィアの声が響き渡る。エレナはハッと我に返った。
「お買い求め、ありがとうございます。」
行商人はいつものようにうやうやしくお辞儀をする。見慣れたしぐさに目を奪われた、その時だ。
「失礼します! ここにロレンツォはいますか!?」
ばん、と扉を開けて男が入って来た。
驚いて見上げれば、短く刈りそろえた金髪が目に入った。騎士団長のレイモンドだ。
いつもはきちんとした佇まいなのだが、今は頬に汗が流れ、襟元はよれてしまっている。
その姿を見ながら、シルヴィアが言い放った。
「なんなの、レイモンド? 扉を開ける際にはノックをするのが礼儀ではなくて?」
ロレンツォとの時間を邪魔されたせいか、その口調はきつかった。
「王女、申し訳ありません。ですが、緊急の事態なのです」
「緊急?」
シルヴィアは眉をひそめた。
温かかった部屋の雰囲気が、一気に緊迫したものに変わる。
エレナは嫌な予感がして、ロレンツォを盗み見た。
彼は以前、一度騎士団と共に出かけたことがあった。その時は何かの調査だと言っていたが、ついに内容を教えてくれることはなかったのだ。
ロレンツォが静かに尋ねる。
「何があった?」
レイモンドは一呼吸おくと、言い放った。
「西のはずれ、ザンクトの村で、魔法が確認されました」
エレナは一瞬にして、全身が強張るのが分かった。




