わたしが王女
「なるほど、あなたが姫君ですか。――――それでは少し、お時間を」
頂けますかな、と言いながらトラヴィスはその手を伸ばした。
笑みを浮かべる男に、体が固まる。
一瞬ひるんだ隙に、ぐいと引き寄せられ、腕の中に閉じ込められてしまった。
シルヴィアが驚いて叫ぶ。
「や、やめて、その子を離して!」
「うるさい、黙れ」
トラヴィスはシルヴィアを睨み、懐からナイフを取り出した。
「護身用に持っていたが、正解だったよ」
そのままエレナの首に突き付ける。
シルヴィアがひっ、と声をあげた。
「大丈夫です。わたしは大丈夫だから」
エレナは落ち着いた風を装って、なんとかシルヴィアに微笑みかけた。
――――良かった。咄嗟に嘘をついてしまったけど、これで姫様を守れそうだ。
心臓がどくどくと鳴っている。底知れぬ恐怖を、顔に出してはならない。
きちんと笑って見えますようにと、エレナは願った。
離れたところから、レイモンドが鋭く叫ぶ。
「トラヴィス! 大人しく諦めて王女を離せ! 穴を探しているのだろうが、地下通路の先は包囲してある。大体その娘は本当に王女なのか?」
彼は目を凝らした。暗闇でエレナの顔がよく見えないのだ。
「それなら見せてやる。いいかお前たち、一歩も動くんじゃないぞ」
穴を探すのは諦めたようだ。トラヴィスはそう宣言すると、エレナをつれたまま壁沿いに移動し始める。
彼はそのまま階段をあがり、ゆっくりと舞台の中央へ立った。
舞台にいた役者達は、恐ろしげに身をひそめる。
「見ろ、これがシルヴィア姫だ」
その場にいた全員が息を呑んだ。
あれは姫じゃない、と思う騎士達と、事情を察したトニーとアンセルモ。
その他の者達は姫の顔を見たこともなく、姫が捕まったものだと思い込んでいる。
「ふははは、どうだ。形成逆転だな」
トラヴィスが機嫌よく笑った。
「いいか、言う通りにすれば姫は返してやろう。だが、いう事を聞かなければ」
ヒュッ
ナイフが喉元まで突き付けられる。
エレナは恐怖で固まった。
ははははは、という笑い声が降ってくる。
――――ああ、こんなこと、前にもあったな。
こんな時なのに、エレナは冷静に過去のことを思い出していた。
あの日、雪山で銃を突き付けられた時、自分は何を思っただろうか。
クリスを助けられず、自分も信じられず、死に直面したあの時。
何も思い出せない。いや、何も思わなかったのかもしれない。
だけど今は違う、とエレナは思った。
どうしても、シルヴィアを守りたかった。
どうにかして、彼女を無事に逃がさなければならない。
そのために、今この瞬間、自分は王女であり続けねばならないのだ。
どんな痛みだって耐えよう。
こんどこそ、後悔はしたくない。
「……分かった。どうすればいい」
長い沈黙の後、真っ先に声をあげたのは騎士団長のレイモンドだった。
トラヴィスが見下すように言う。
「私が通れるよう、道を開けるんだ。それから馬車を用意しろ。三日分の食料を積み、屋敷の前に置け。劇団員はもういい、くれてやる。だが王女は連れて行くぞ。人質だ」
「くそっ……」
レイモンドが考えあぐねている。例え王女でなくとも、見ず知らずの少女を見殺しにするつもりはないようだった。
だが、エレナは密かに思う。
今は騎士団にとって、エレナの命を尊重する余裕がある。
しかしそれも今だけだ。この状態が続けば、この男を捕まえるために、ひいては王女を守るために、見捨てられる可能性は高い。
そこまで考えて、静かに目を閉じた。
それなら、その運命を受け入れようと思った。
シルヴィアを守れるなら、それも本望だ。
けれど、階段を駆け上ってくる足音が聞こてくる。
「その子を離して!」
シルヴィアが、息を切らしながら言い放った。
――――姫様、なぜ来たのです。
エレナは黙って彼女を睨んだ。
「お前は侍女だな?姫君と、ずいぶんと仲がいいご様子だ」
――――逃げて。
「そうよ、その子は私の大事な友達なの」
シルヴィアが震える足でトラヴィスに近づく。
「お願いだから、その子を離して!」
今にも泣きだしそうな顔だった。
ああ、この人を守らなければ。
エレナは勇気を奮い立たせた。
シルヴィアが震える唇を開く。真実を紡ごうとしているのだ。
「その子は違うの。本当は……」
駄目だ。言わせてはならない。
「黙りなさい!」
エレナは叫んだ。
「わたしは王女です! 口答えは許しません!」
シルヴィアが驚いて後ずさる。
その目から、涙が流れた。
「ふ、ふふ、ははははははは!」
馬鹿にしたような醜悪な笑い声。
「そうだ、姫の命が惜しければ、そこで黙って見ているがいい!」
動けなくなったシルヴィアに、トラヴィスは意地悪く笑いかける。そのまま舞台の下を見下ろした。
「お前たちもだ。変な気を起こしたら、ただじゃおかないぞ!」
騎士達が困ったように顔を見合わせる。これ以上打つ手がないようだ。
再び、トラヴィスは笑った。その声は勝ち誇ったように、高らかに響き渡る。
「まったくいい眺めだ。まるで主役になった気分だな。」
にんまりと笑みを浮かべる。
「だが、お芝居もこれまでだ。」
首に、冷たい刃が当たるのが分かった。
「馬車を用意しろ! 三日分の食料を積むんだ! さっさと言う通りにしないか!」
レイモンドが仕方なく騎士達に命じた。
「馬車を用意しろ」
「で、ですが……」
騎士達は困ったようにレイモンドを見る。
「あの男を逃がせば、きっと別の国に隠れて、また同じことをするでしょう」
「では、あの娘を見殺しにしろと言うのか。ここは泳がせて、再びしっぽをつかむしかあるまい」
エレナは動けないまま、それを聞いていた。
騎士団長は、自分の命を重んじてくれているのだ。意外と情に厚い人らしい。
しかし自分が捕まれば、また同じことが繰り返されるのだ。
再び新たな役者が買われたり、攫われたりするのだろう。
そんなの、絶対嫌だ。
なんとか隙を作りたい。そう思いながら、男の手を穴が空くほど眺めた。
いちかばちかだ。
口を大きく開ける。
目の前にある手を、力の限り噛んだ。
首に切れるような痛みが走ったが、噛むことだけに集中する。
「うあっ」
トラヴィスがナイフを取り落とす。
「く、くそ」
慌てて拾おうとかがむ彼に、舞台にいた一人が、突然殴りかかった。
「ぐっ、あがっ」
トラヴィスが腕の力を抜いた瞬間に、エレナはそこから抜け出す。力の抜けた足を無理やり引きずって、這うようにその場を離れた。
「き、貴様!」
言いながらトラヴィスが振り返る。立っていたのは、詩人の役をしていたライアンだった。
「トラヴィス様、俺が間違っていたようです。ずっと我慢してきましたが、やっぱりあなたにはお仕えできません」
「こ、の……!」
つかみかかろうとするトラヴィスの腹を、思い切り蹴り上げた。
「ぐっ」
「今までの、お返しです」
トラヴィスの目が恐怖に染まる。
逃げようと後ずさるが、ライアンは容赦しない。
「これは、アンセルモの分だ」
顔面を力の限り、殴り飛ばした。
「はっ……」
「これは、俺達やダイアの分」
拳は寸分の違いもなく、続けざまに撃ち込まれる。
鼻と口から流れる血を見て、エレナは息を呑んだ。
「それから、その女の子の分だ!」
顎が打ち砕かれる音がした。
派手な音を立て、トラヴィスは床に打ち付けられる。
倒れまま、とうとう動かなくなった。
騎士達がぱらぱらと集まって来る。
トラヴィスは成すすべもなく、捕えられ、引っ立てられて行った。
エレナは急に気が抜けて、座り込んだ。
視界の端にシルヴィアの姿が映る。彼女はすぐに駆け寄って来ようとしたが、騎士達になだめられ、一緒に連れて行かれてしまった。
茫然とするエレナの上に、一つの陰が落ちた。
見上げると、詩人役の男が眉をひそめている。
「ライアン……さん?」
「ああ。お前、けがはないか?」
エレナはなんとか立ち上がると、急いでお辞儀をした。
「はい。助けていただいて、ありがとうございます」
「いや、助けてもらったのはこっちだよ」
ライアンが困ったように笑う。
「お前みたいに勇気がある娘、初めて見たよ。姫君の身代わりをしてたんだろう?」
「えっ、気付いてたんですか」
思わず声をあげてしまった。
「ああ、俺は伊達に役者やってるわけじゃないからな。でも堂々としてて、いい演技だった」
そう言ってにやりと笑う。
「俺は今まであいつに逆らえず、ずっとふざけた芝居をやらされていた。でもさっきの演技を見てたら、勇気が湧いたんだ。お前がいなきゃ、あいつを殴り飛ばすなんざ出来なかったよ」
そんな風に言われると照れてしまう。
「ありがとうございます」
エレナはちょっぴり赤くなった。
「こちらこそ、ありがとう」
そう答えたライアンは、とてもすがすがしい笑顔をしていた。




