さらわれた女優
あれから三日後、二人は何とか城を脱出することに成功した。
王族なら部屋を抜け出すのも難しいことだが、今回は側近たちの無関心が幸を成したと言える。彼らは主人を好んでおらず、必要な時以外はあまり傍についていなかったのだ。
部屋の見張りが交代する隙をつけば、変装した二人が城を出るのは、難しいことではなかった。
見たことのないような人の群れ。店主のかけ声に、酒場から漏れる笑い声。
侍女の服を着て、ローブに身を包んだ二人は、手をつないで城下町を歩いていた。
エレナは時々ここで買い物をすることはあったが、シルヴィアは全く外に出たことはなかった。エレナの手を握りしめ、こわごわと辺りの様子を伺っている。
「そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ。この町は優しい人がほとんどですから」
エレナはそう返しながら、実のところ、不安でいっぱいだった。一人の時は不安も抱かず町を回れるが、今は一国の姫を連れているのだ。
「まあ、あれ見て! かぼちゃって、あんなに大きいものもあるのね」
その目線の先には、馬車の車輪程のかぼちゃが、とんでもない値段で売られていた。
シルヴィアが楽しそうに笑う。エレナはその横顔を見るたび、罪悪感とともに連れてきて良かったという気持ちが沸き起こり、何とも言えない気分になるのだった。
「エレナ?どうしたの?」
黙ったままのエレナに、シルヴィアが顔を曇らせる。
「やっぱり、無理を言ってしまったかしら」
「そんなことはありません!」
慌ててエレナは答える。
そうだ、自分はこの人を楽しませたいと思って連れてきたのだ。彼女に心配されては意味がない。
道行く人に聞き込んで、なんとか音楽一座の居場所をつきとめると、シルヴィアを連れてその場所へ向かった。
教えられたのは町の広場だった。石畳が円形に敷きつめられ、中央では英雄アシオンの像が、金の弓矢をつがえて立っている。
その向こうに、確かに劇団の舞台があり、幕が張られていた。
しかし楽しげな様子はなく、見物人もいなければ音楽が流れる気配もない。
舞台の脇に三人の男が集まって、沈んだ顔で話し込んでいた。
今日はやっていないのかもしれない。
エレナはそう思ったが、ここまで来たんだから、とシルヴィアの手を引いて、その人達に近づいた。
「すみません、今日はこの劇団お休みですか?」
声をかけると、三人が顔をあげた。一番若い男が、不機嫌そうに答える。
「ああそうだ。公演はお休みだよ」
二人は顔を見合わせてがっかりする。それでもエレナは、諦めずに尋ねた。
「それなら、次の公演はいつですか?」
シルヴィアに、何としてでも見せてやりたかったのだ。
ところが、返ってきたのは怒鳴り声だった。
「知るか! ダイアがいない限り、俺たちは公演できないんだから!」
二人はびっくりして縮こまった。
「よせよアンセルモ。お嬢さん達が怖がってるじゃねえか」
「そうだよ、この子たちに当たり散らすのはよくないぜ」
彼の両脇にいた太った男とのっぽの男が、それぞれ取り押さえ、なだめ始める。
少女たちは茫然と、その光景を見ていた。
「悪いね。こいつ今、ちょっと荒れてて」
太った男が言う。
エレナは静かに男達を見た。
何かあったんだろうか。
と、突然声があがった。
「お察しの通りさ! 問題が発生したんだよ。こんなふざけたこと一体誰が!」
答えたのはアンセルモと呼ばれた男だった。燃えるような黒髪に、怒りに満ちた目をしている。エレナはそれを見て、ふとクリスを思い出した。
目の色が違う、と思いながら密かにがっかりする。
そんなエレナをよそに、アンセルモは怒鳴り続ける。
「ダイアは人気のある女優だった! みんな彼女に憧れて、みんな彼女が好きだった! あの子は誰かに攫われたんだ! 彼女がいなければ、舞台は完成しないのに!」
それだけ言うと、息をついて項垂れた。
「こいつの言う通りだよ」
隣ののっぽが言った。
「ダイアはいつだって、このエイブル・ホーリエの花形スターだった。身内で言うのもなんだが、あの子の演じるエマニエルは、大陸一だと思うよ。
―――――でも、彼女は二日前に攫われた。その日はここへ来て初めての公演だったんだ。成功を祝って俺たちの酒を買いに行くと言ってね、それっきりさ」
そう言って、悲しそうに目をふせた。
エレナの横からシルヴィアが顔を出す。
「どうして攫われたって分かるの? もしかしたら、熱を出して倒れているだけかもしれないわ」
「彼女が帰って来なくて、俺たちはあちこちを探し回ったんだよ。酒場のおかみは、確かに酒を売ったと言っていた。そして、少し離れた路地裏で、その瓶が割れていた。あの子は確かに連れ去られたんだよ」
のっぽの男はそれっきり、黙ってしまった。
「さあ、もう今日は帰った帰った」
ぱんぱん、と太った男が手を叩く。
「公演はしばらく中止だ」
二人は何か言いたかったが、結局口を噤み、しょんぼりと家路へ戻った。
劇場のあった広間を抜け、とぼとぼと通りを歩く。
シルヴィアは何も言わないものの、肩を落としていた。
その姿を見て、エレナは申し訳なくなる。
――――どうにか元気づけて差し上げなくちゃ。
何か食べ物でも買おうか、と辺りを見回すと、その拍子に強い視線を感じた。はっとして振り返れば、何かが素早く物陰に隠れた。心臓が早鐘を打ち始める。
エレナは平静を装い、シルヴィアにそっと告げた。
「姫様、もう少し急ぎましょう」
王女を怖がらせないよう、それだけ言って歩みを早める。
「どうかしたの?」
なんでもありません、と言いたかったが、立ち並ぶ屋台の陰を縫って、黒い影が見えた。
明らかに自分達を追っている。
焦りと恐怖がじわじわと這い上がって来る。エレナはもう、笑いかける余裕もなかった。
「姫様、私達誰かに追いかけられています」
「えっ」
「……走ってください!」
言うなり、シルヴィアの手を引いて駈け出した。
エレナは走りには自信があったが、シルヴィアは慣れてすらいない。全速力という訳には行かなかった。
人々の合間を縫って、二人は走る。
それを追うように、露店の後ろで動く影。
怖い。
エレナは歯を食いしばった。
怖いけれど、絶対にこの手だけは離せない。
二人は息を切らし、左の通路に逃げこもうとした。
ところがその時、行き交う人の間からにゅっと腕が伸びてきて、シルヴィアの手首をつかんだのだ。
「きゃあっ」
シルヴィアが悲鳴をあげる。
「姫様!」
エレナは思わず、空いた方の手でかばんを掴むと、腕の主をひっぱたいた。
「いってえ!」
捕まれた手首が、離される。
シルヴィアは慌ててエレナの後ろに隠れ、エレナは彼女をかばって立ちふさがった。
現れたのは、一人の少年だった。
少年と言っても、エレナと同じ年頃だ。日に焼けた肌に、そばかすを散りばめている。
その明るい色の瞳を、エレナは睨みつけた。
「あなた誰? この人に何するつもりだったの!?」
「そう睨まないでよ。驚かせたみたいで、ごめん」
少年はおずおずと言った。
「怖がらせるつもりはなかったんだ」
二人は顔を見合わせた。
エレナの後ろで、シルヴィアがこわごわと尋ねる。
「あなたは誰なの?」
「僕はトニー。音楽一座で裏方をやってるんだ」
「音楽一座ってさっきの?」
身を乗り出したシルヴィアを、エレナが制した。
「それで、どうしてこそこそ追いかけてたの?」
「ええっと、君達、さっきうちの劇団に来てただろう? 団長に追い返されてたけど力になってくれそうな気がして、ついこっそり後をつけたんだ。そしたらこんなことに……」
「そうだったのね」
エレナはほっとした。
「ごめん、きちんと最初から話しかければ良かった」
へらっと笑うトニーを見て、緊張がとけていくのが分かる。
シルヴィアも後ろからひょいと顔を出した。
「でも、力になるってどういうこと?」
その言葉を聞いて、トニーは突然真顔になった。
「実は僕、犯人を見たんだ」
*
トニーはあの夜、なかなか帰らないダイアを心配して、探しに出かけたのだそうだ。その途中、薄暗い通りで、馬車の近くで話す二人の男を見たという。
「間に合ったな。待ち合わせまであと少しだ」
「ああ。トラヴィス様も礼金ははずむって言ってたし、終わったら毎日酒場びたりだ。」
そう言って、大きな荷物を、馬車に運びこんでいたのだ。
――――でかいなあ。まるで人間みたいだ。
薄気味悪くなって、別の道を探そうかと考え始め時、
「そこにいるのは誰だ!」
男達が怒鳴った。
びっくりして見上げると、彼らはこちらに走ってくるところだった。
トニーは怖くなって逃げてしまったのだという。
「あれはきっとダイアだったんだ。僕がちゃんと気付いてやれば……」
トニーは苦しそうに言った。
「でも、トラヴィスって名前を聞いたんでしょ? さっきの団員の人たちなら、きっとすぐに連れ戻せるわ」
体格の良い三人を思い出し、エレナが元気づける。
「それが駄目なんだ。団長やニール…あの背の高い人に伝えたんだけど、『アンセルモには黙ってろ』って言われちゃった」
「どういうこと?」
トニーは目を伏せて続けた。
「トラヴィスは一度うちの劇団にも来たんだよ。ダイアを専属の歌姫にしたいから、引き取らせてくれってね。
高い礼金を差し出されたけど、もちろんウチは断った。だから無理やり、奪いに来たんだろう。団長達もそれは分かってるんだ」
思い出すように遠くを見ながら、トニーは続ける。
「だけど団長もニールも黙認するつもりだ。トラヴィスって、この国の有名な貴族らしいんだよ。この町の権力も彼が握ってるし、反抗したら目の敵にされて、公演の停止命令も出さるだろうって。
そんなことになるくらいなら、ダイアは諦めて、新しい女優を探すべきだって言うんだ」
「そんなのおかしいわ!」
シルヴィアが叫んだ。
「この国はお兄様が治め…」
最後まで言う事はできなかった。エレナが慌ててその口をふさいだからだ。
「駄目ですよ。黙って城を抜け出してきてるんですから」
シルヴィアだけに聞こえるよう、小声で話す。
「わたしはともかく、姫様は正体がばれちゃまずいんです」
こくこくとシルヴィアが頷く。エレナはほっとして手を離した。
「そういえば、君たち、名前は?」
やりとりを見ていたトニーが、不思議そうに聞いた。二人は固まる。
なんとかエレナが口を開いた。
「私はエレナ。こちらは、シルヴィ……シルヴィって言うの!」
「ふーん」
まじまじと二人を見る。
「さっき、敬語使ってなかった?」
「え、ええと」
エレナは目を泳がせた。
敬語をやめるのは難しい。だとすると、どう嘘をつけばいいのだろうか。
「ひめさ…シルヴィ様は、私の主人で、貴族のご令嬢なの。それで、今日は町に見物に来ていたの」
混乱して嘘と本当が混じってしまった。こんなので誤魔化せただろうか、とエレナは心配になる。
「へえ……貴族のご令嬢かあ。道理で走るのが遅いと思ったよ」
どうやら納得してくれたようだ。ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、今度はシルヴィアが食って掛かった。
「走るのが遅いですって? 私、あなたみたいに口が悪い人は初めて見たわ!」
トニーは面倒くさそうにシルヴィアを見返す。
「何だよ、ずいぶん偉いところの奴みたいだな。僕は貴族が嫌いなんだ。お前だって、どうせトラヴィスの味方なんだろ。」
彼は貴族と知った途端、目つきを変えて言った。
「手伝ってくれなくて結構だよ。貴族と知ってたら頼んだりしなかったさ」
怒っているというよりも、寂しそうな目だ。
じゃあね、と彼は立ち去ろうとした。
「待って」
凛とした声が響く。シルヴィアだった。
「言い過ぎたわ、ごめんなさい。……でも、私はそんな人と同じじゃないわ。貴族だけど、誰かを動かすこともできないし、お兄様 だってきっと助けてくれない。だけど、あなたを手伝いたいの」
シルヴィアがじっと、エレナを見た。
――――お願い、このまま連れて帰らないで。
その目はそう言っていた。
エレナがすべきことは、この王女を連れて帰ることだ。危険なことには巻き込むべきではない。
しかし、それとは裏腹に、彼女の望みをかなえてあげたいと思った。自分でも、この人が誤解されたままなのは嫌だったのだ。
何より、エレナの心で、遠い記憶が蘇っていた。
鉄格子の中、燃えるような目をしていた少年。
「お前なんか、信じない」
彼の言葉は深く心に突き刺さり、消えることはなかった。
自分は彼を助けられなかった。あの言葉の通りになってしまったのだ。
今になっても、自分で探すことは許されていない。
エレナは、シルヴィアの目を見つめた。
昼食までに帰れば間に合うだろう。少し手伝うことに、何も問題はない。
「……分かりました。探すのを、手伝いましょう」
身勝手だと思いながら、そう答えずにはいられなかった。
シルヴィアが嬉しそうに頷く。
後ろでトニーが、そっと微笑むのが見えた。
*
三人はまず、事件に関わりのある場所を調べてみることにした。はっきりした証拠もなしに、トラヴィスの屋敷へ乗り込むのは賢明ではない。
とりあえず、トニーが馬車を見た通りで手がかりを探すことになった。
通りに向かう途中、エレナはふと声をあげた。
「あれって一座の人じゃない?」
路地裏に、一人の男が力なく座っている。項垂れた姿は、遠くから見ると石像のようだ。
「アンセルモ!」
トニーが叫んで、駈け出した。
石像が、ちらりとこちらを見る。その目は絶望に沈んでいた。
「トニー」
「こんなところで、何してるの?」
「決まってるだろう。手がかりを探してるんだ」
その声は驚くほど低く、憎しみと悲しみに染まっている。
「残念だけど、ここには何もない」
言いながら、アンセルモの口調は鋭くなっていく。
「だけど俺は諦めないぞ。エイブル・ホーリエにはダイアが必要なんだ。団長は別の人間を雇うって言ってるけど、冗談じゃねえ。俺は認めない」
「僕もだよ」
トニーは、追いついた二人に目配せした。
二人は頷いて見守る。
「アンセルモ。実は僕、犯人を知ってるんだ」
男の目が、刃のように光った。
*
「そうか、ここに馬車が止まっていたんだな? そこに彼女がいたと」
ダイアを探す仲間は、今や四人になっていた。
トニーが頷いて、目を伏せる。
「ごめんねアンセルモ。僕があの時気付いていたら、助けられたかもしれないのに」
「いいんだよ。お前は団長に止められたのに、その話を教えてくれた」
アンセルモはトニーの頭を撫でた。その瞳は翳るどころか、光が宿っていた。
「団長達が止める気持ちは分かる。でも相手が誰であろうと、彼女を見過ごすのは納得できないんだ。手がかりが見つかっただけで、十分だよ」
エレナは二人のやりとりを見ていた。アンセルモは初めて会った時よりも、ずっと表情が柔らいでいる。あの時は怖い人だと思っていたが、普段はきっと、優しい人なのだ。
この人をあんなに変えてしまうなんて、ダイアはよほど大きな存在なのだな、と密かに思った。
「ちょっと! これを見て!」
不意に高い声が聞こえた。後ろで地面を見ていたシルヴィアだ。
「ひめ、シルヴィ様、何か見つけたのですか?」
「手袋があったの。あの柱の陰に落ちていたんだけど、ここを見て」
シルヴィアは絹で出来た茶色い手袋を差し出した。アンセルモとトニーもやってきて、後ろから覗き込む。
手袋には、小さい文字でトラヴィスと書いてあった。
「これは……」
アンセルモが声をあげる。
トニーも嬉々として叫んだ。
「言ったでしょ? やっぱりあの人が犯人だったんだ!」
それは紛れもなく、トラヴィスを問い詰められる証拠だった。
三人が騒ぎ立てる横で、エレナはそっとシルヴィアを見た。
シルヴィアは今までと違う種類の笑顔を見せていた。きっと誰かの役に立てたのが嬉しいのだろう。
これで彼女も満足できただろうか。
そろそろ昼食の時間だ。もうすぐ侍女が食事を持ってくるだろう。それまでに帰らなければ。
そう考えていた時、ふいにぽんぽんと頭を叩かれた。
見上げれば、アンセルモが不敵に笑っている。
「俺達はトラヴィスの屋敷に行くけど、おたくらもついて来るか?」
さすがに駄目だ。これ以上遅れては――――
そう答える前に、シルヴィアが威勢よく返事をする。
「もちろんよ!」
エレナは頭を抱えたくなった。