あの子の手がかり、彼女の願い
ロレンツォは足が速い。エレナが追い付いたのは、彼が離宮の回廊を出る直前だった。
「ああ、君か」
追ってくる少女に気付き、男が足を止める。エレナは息を切らしながら彼を見上げた。
その様子を見て、ロレンツォは思い出したように懐に手を突っ込んだ。
エレナの目の前に、小さめの冊子が差し出される。
「何これ?」
疑問に思っていると、ロレンツォは真面目な顔で辺りを見回した。誰もいないことを確認してから、かがみこんで言う。
「ヴァーグの牢獄の囚人リストさ。ほら、ここ半年の分」
エレナは息を呑んだ。
ヴァーグとは「魔」を閉じ込める牢獄だ。国が捕縛した「魔」は、すべてヴァーグ送りになる。つまりは、クリスが入っているかもしれないのだ。
ロレンツォは未だにエレナとの約束を守り、ダリウスという名の貴族を探したり、こうして定期的に囚人リストを漁ったりしている。
「君の言った友人……確かクリスって言ったろ? クリフっていう奴がこの冊子に載っているんだ。もしかしたら、記載間違いってこともあるじゃないか」
ロレンツォはぱらぱらとめくりながら指さした。エレナがそこを見ると、確かに「クリフ」と名前が載っている。
ロレンツォはその横の欄を小さな声で読み上げた。
「捕縛した場所はブリュメールだ。南の町だな。特徴は、と……君の友達は、翼が生えているかい?」
エレナはびっくりして、首を振った。
「そうか。でも、いつもは隠していて、実はあるってことは……」
「前にも伝えたでしょ。クリスは人間と同じ姿をしているのよ」
エレナが言うと、ロレンツォは肩を竦めた。
「悪かったよ。少しでも可能性があれば、と思ったんでね」
そう言いながら冊子をしまい込む。エレナは慌てて付け足した。
「気を悪くしないで。わたしも悪かったわ、せっかく探してくれてるのに」
「いいんだよ。また時間ができたら、『魔』の出現情報を集めてくる」
再び歩き出そうとした彼は、ふと何かを思い出したように立ち止まった。
「そういえば君、以前マルクレーンの話をしていたよね」
「ええ」
エレナは頷く。
マルクレーンは――あの庭の主は、クリスの思い出と共にいつも頭をよぎっていく。
エレナが騙されたせいで、庭は見つかりクリスが攫われ、マルクレーンは殺された。
あの男は最後、居場所を教えたエレナを、なぜかかばったのだ。
抱きしめ、眼を見開いて、微笑んで倒れた魔法使い。
エレナは唇を噛んだ。朝焼け色のローブに染みる血を思い出すと、自分の胸が刺されたような気分になる。
彼の正体を、今は知っているのだ。
この城に住むようになってから、どこからともなく聞くこととなった。
有名な裏切り者。魔法に魅せられ、「人」でなくなった男の話を。
「魔」の定義は「魔力を持ち、魔法を使うもの」だ。
魔法は国中で禁じられている。そもそも人間は本来、そんな力を手にできない。
しかし、自然に根差す魔力を、あらゆる手を使って得ようとする人間が極たまに現れる。そんな人間は、英雄アシオンを裏切ったにも等しい。
アシオンは害をなす「魔」を追い払い、「人」に勝利を与えたのだから。
つまり、魔法を使うことは、アシオンの血を引く国王――ひいては国を裏切る行為であった。
裏切り者を、人々はもう「人」とは呼ばない。けれど、魔物とも違うそれをこう呼んだ。
「魔法使い」と。
マルクレーンは裏切り者。おぞましく、欲望にまみれた、「人」の恥。
城の人々がそう嘲笑するのを、何度耳にしたことだろう。
彼がどういう人間なのかは分からないが、自分を助けてくれたのだ。
城で悪口の限りを尽くされているのが、どうしても腑に落ちなかった。
「なんて顔をしてるんだ。あの魔法使いに、ひどいことでもされたのか?」
「その逆よ。あの人はわたしを守ってくれたの」
ロレンツォが珍しく動揺していた。
「彼が君を助けたって?――それは初耳だ」
「ええと、まだ言ってなかった?」
彼の言葉に、エレナも少なからず驚いていた。
クリスに関することは彼にはほとんど話してある。少しでも情報を多く知って、捜索の手がかりにしてもらうためだ。
そこまで考え、はっとした。
彼に話すとき、自分はクリスを攫ったダリウスのことばかり考え、マルクレーンのことはあまり重きを置いていなかったのだ。
彼は悪い人間ではないと思っていたのに、それを伝えなかったのは自分ではないか。
「ごめんなさい、きちんと言えば良かった。マルクレーンがクリスを追いかけて殺されたことは話したわね。でもあの人、最後にわたしをかばったの」
「知らなかった……なぜ君をかばったんだ?」
「あの人は本当はクリスのことを大事に思っていたから……その友達のわたしも、一度は記憶を消そうとしたけど――――結局守ろうとしてくれたのかもしれない」
ロレンツォは神妙な面持ちだ。
「それが手がかりになるか、と言われれば微妙なところだけど……あの魔法使いに関して、もう少し調べる必要はあるかもしれないね」
考えを改めたように一つ頷くと、視界を本殿の方へ向けた。
「書庫に彼の遺した書物があったはずだ。見に行こう」
エレナは驚きを隠せないまま顔をあげた。
「書庫は国の機密文書もあるって聞いたわ。国王陛下の許可がなきゃ、入れないんじゃないの?」
「大丈夫。僕はこれでも顔が広いんだ」
彼はそう言ったまま、すたすたと歩き出した。
エレナは意味が分からなかったが、男は歩みを止めるつもりはなさそうだ。慌ててその後を追うしかなかった。
書庫の扉を守っていた兵士は、首を振った。
「『マルクレーンの書』ですか? あれは今、ありませんよ」
その言葉に、やってきた二人は顔を見合わせる。
「どういうことだ? ここに所蔵されているはずだが」
尋ねるロレンツォに、エレナも急いで続けた。
「もしかして、どこかに移動したんですか?」
兵士の視線はエレナの上を滑り、行商人を訝しげに睨んだ。
ロレンツォはなぜか、王の通行許可証を持っていたのだ。
エレナも驚いたが、兵士もそれが腑に落ちないのか、得体の知れない行商人のことを良く思っていないようだ。
「盗まれたんですよ。上にはとっくに報告してあります」
表情一つ変えない兵士に、エレナは思わず声をあげた。
「盗まれたってどういうことですか?」
「三年ぐらい前のことでしたかね、盗難にあったんですよ。――ロレンツォさん、あなたはその時ガーデングールに行ってましたから、ご存じないでしょう。盗難届はずっと前に出しています。一時期は騒ぎになりましたがね、すぐ収まりましたよ」
ロレンツォは納得できないらしく、兵士を見た。
「なぜ?」
「なぜって……私も少し、中を見せてもらったことはありますけどね。あの本、半分しか書かれていませんでしたよ。魔法の使い方が記してあったようですが……なんだか難しそうでした。読む者なんてまずいないでしょう。あれが盗まれたところで、心配するだけ無駄です」
ため息をつくようにロレンツォが言った。
「盗んだのが『魔』だったらどうするつもりだ?」
確かにこの兵士は、考えが少し甘いかもしれない。
「君の名は? 盗難届はどこにある?」
兵士は困り顔でロレンツォを見る。
「私はザック。でも、盗難届を出したのは別の者です。通常であれば、宰相殿に提出していると思いますが」
「ルーバス宰相か……。あの人は魔法に厳しいから、大騒ぎしそうだけど」
変だな、と彼が呟くのが聞こえた。
エレナは宰相のことはよく知らない。遠目から見たことはあるが、目のつりあがった初老の宰相は、怖そうだという印象しか受けなかった。
「他には何か?」
ザックがため息をつきながら言う。
「私も明後日にはここをやめるんです。これ以上は他の人間に当たって下さい」
その言葉に、エレナは少なからず驚いた。
「明後日にはやめる? どうしてですか」
王宮勤めは良い職だと聞く。彼はまだ若そうだし、仕事もこれからという時ではないのだろうか。
「給金が入る当てができたんですよ。王宮勤めって想像以上に疲れるし……後は田舎で暮らします」
彼は疲れたように目を細めた。あまり考えられないが、他にいい仕事を見つけたのかもしれない
「まあとにかく、気になるなら本があったところまでご案内しましょうか? ご自分の目で確かめれば分かるでしょう」
「そうしてくれ」
ロレンツォの一言で、ザックは書庫の扉を開けた。
薄暗い部屋の中は、信じられないほど多くの本で埋め尽くされている。
びっしり並んだ背表紙には、面白そうなものから難しそうなものまで、様々な題名が書かれている。とりわけ、王族の歴史書や統治の指導書、アシオンの英雄伝説にまつわる物が多かった。
エレナは目を見張ったが、ザックが案内した本棚には、やはり目当ての本はなかったのだ。
結局がっくりと肩を落として帰ることとなった。
磨き上げられた廊下を戻りながら、エレナはロレンツォにため息を漏らした。
「『マルクレーンの書』、誰が盗んだのかしら」
「調べてみるよ。相手が『魔』だったら手に負えない。『人』であればいいんだけど」
「クリスのことが少しでも書いてあれば、手がかりになるわ」
「さあ、そこは分からないな。書いてあるのは魔法の使い方みたいだし。でも調べる価値はありそうだよね」
エレナは男を見上げた。彼の情報網はかなりのものだ。
きっとマルクレーンの本についても、在処は分からなくとも、その目処をつけることぐらいはできるだろう。
それでいて、彼が何年探してもクリスを見つけることはできていない。それはこの男が、クリス本人を知らないからかもしれなかった。
もし顔を知る者が加われば、捜査の手助けにはなるだろう。
そう思うと、エレナは居ても立ってもいられなくなった。
「ロレンツォ、わたしにもやらせて」
もう何度目か分からない。幾度断られただろう。
もどかしい気持ちを抑え、一心に彼に頼んだ。
「わたし、ずっと待っているだけなんてできない。自分の手で、クリスを探したい」
男は優しく、首を横に振った。
「駄目だと言っているだろう。約束したはずだ。君はこの件には関わらない、と」
こういう時、彼は決まって、同じことを繰り返すのだ。
「僕があの子を探す代わり、君は姫君のお傍にお仕えする。そういう取引だったはずだ」
そう言われると、エレナは何も言い返せなくなってしまう。
時々、この男は策士なんじゃないかと思うことがある。彼はこうなることを分かって、取引と言う形を使ったのだ。
そのすべてが、危険に飛び込もうとする少女と、一人ぼっちの王女のためだと、エレナは気づいていた。
王女は愛してくれる者がいなかった。だから彼は、少女の命を助けると共に、二人を傍に居させたのだ。
そこまでやっているのに、彼は王女から思われるのを良しとしない。
シルヴィアが手を伸ばすたび、逃げてばかりいる。
「それじゃあ、別の頼みを聞いて」
シルヴィアの項垂れた姿を思い出す。
「姫様を外に連れて行ってさしあげて。散歩だけでもいいから」
男は途端に、疲れたような様子になった。
「あの子はただの女の子じゃない、王女様だ。僕がとやかくできる訳がない。君もそれくらいの分別はあると思っていたが」
「お願い、一度だけでいいから」
「すまないが、他をあたってくれ」
他にあてがないから言っているのだ。そんなこと、彼も分かり切っているはずなのに。
エレナはむっとして男を見上げたが、返って来た眼差しは真剣で、何も言うことができなくなってしまった。
*
部屋に帰って事の顛末を伝えると、シルヴィアは機嫌を損ねたまま黙り込んでしまった。
彼女は本気で怒ると、平気で一日や二日そっぽを向いていることもある。
それが今回は、三日たっても機嫌を直してくれないのだ。
「姫様、料理長に頼んで、甘いお菓子を頂いてきましたよ」
茶菓子の乗ったお盆を見せるも、シルヴィアは興味を示さなかった。こういう時の彼女は、いくら慰めたところで意味はない。
けれどエレナは、シルヴィアが怒りよりも悲しみに侵されているのだと薄々感じていた。
姫は文句ばかり言っているが、その目は時折、どこかを見つめてはひどく悲しそうに揺れるのだ。
「意地悪」
突然の言葉に、エレナは盆を置こうとしていた手を止めた。
「何よ、散歩するのもだめなの?」
王女の口から、行き場を失った言葉達がこぼれる。
「ちょっとだけ、一座を見に行こうとしただけじゃない。どうして……」
シルヴィアが、ぽつりぽつりとこぼす。エレナはとうとう見ていられなくなった。
「わたしじゃ、だめですか」
いけないと分かっているが、止まらなかった。
「少しの間だけなら、きっとばれないでしょう」
唇が、言葉を紡ぐ。
「いいの!?」
シルヴィアの瞳が、輝きを取り戻していく。
ああ、だめだ。
そんな心の声とは裏腹に
「一緒に行きましょう、姫様」
エレナは姫に微笑んで見せた。