少女と籠の鳥
青い空の下、ハルシュトラールは賑やかな人々で溢れ返っていた。
城下では露店が立ち並び、広場では子ども達が駆け回っている。
仕事にいそしむ若者達は、今日も平和だとあくびをかみ殺した。
彼らのうち一人として、王女の姿を知る者はいない。
エレナが城に訪れてから、八年の年月が過ぎていた。
「ねえ、この服どう思う?やっぱり、いつも似たような色じゃ変かしら」
「いいえ。姫様は緑がよくお似合いですよ」
朝の広間で、二人が仲良く言葉を交わす。
それはもう、毎日のように繰り返されたやりとりだった。
シルヴィアは美しい姫に成長していた。豊かな金髪は高いところで一つに結ばれ、長く垂れ下げられている。青い瞳は宝石のようだ。
本当にきれいな人だ、とエレナは思う。
しかし、自身も騎士達の目を引いていることをエレナは知らない。
飴色の髪はいまや太陽のようにきらめき、若草色の瞳は森の息吹を思い起こさせた。話すたびに揺れる唇は、小さな花びらのようだ。
がらんとした広間は、二人がいるだけで一気に華やかになる。
静かな部屋に二人の楽しそうな声が響き渡った。
「前はね、ドレスの色なんて気にしなかったのよ。悩む楽しみが出来て嬉しいわ」
シルヴィアがエレナに微笑む。
彼女がそう言うのには、理由があった。
シルヴィアの周りには、当然のように侍女や給仕が仕えていた。しかし、彼らは王女の身の周りの世話をきちんとこなしながら、王女自身のことは、何一つ気に留めていなかったのだ。
必要なこと以外は何も関与しない。傍にもいない。
むしろ、嫌っているようにすら見えた。
エレナはここへ来たとき、それに気づいて不思議に思ったが、すぐにその謎は解けた。
エレナが訪れる以前、この国は前王ランドルフが治めていた。ランドルフは正妻カトリーナと長男のジェロームを大事にしていたが、死の二年前妾の子をつくった。
それがシルヴィアだったのだ。
どの国であっても、王が側室との間に子どもをつくることは珍しくない。しかし、ランドルフは側室を持たず、長年カトリーナと仲睦まじく暮らしていた。それこそ、国中で知られるほどの寵愛ぶりだったのだ。
だから誰が見ても、それは王の裏切りに思えた。
カトリーナは王子にとって優しい母親だったが、シルヴィアが生まれてからというもの、人が変わったように瞳に憎しみを宿らせ、ひきつった笑みをするようになった。
シルヴィアが生まれてまもなく、妾だった母は人知れず病死したが、それもカトリーナが毒を盛ったのではないかと噂された。
何にせよ、城の者達は皆、優しかった王妃を慕っていた。だからこそ、その変貌を哀れに思い、罪のない王女を疎むようになったのだ。
父王ですらシルヴィアの存在を面倒に思い、関わることはなかった。
幼いシルヴィアは子ども心に、自分が周りから嫌われているのを感じ取っていた。
侍女は毎日ドレスを着せ替え、世話をしてくれたが、その目は冷たかったのだ。
それに拍車をかけたのが離宮への移住だった。ランドルフが亡くなり、息子ジェロームが王位についた途端、カトリーナはシルヴィアを城のはずれ、東の寂しい部屋へ追いやった。
王の死後、カトリーナも後を追うように亡くなったが、ジェロームはやはり同じように、シルヴィアを嫌い、腫物を触るように扱った。
彼がシルヴィアと会うのはどうしても必要な時だけだ。王族だけの話し合いや儀式、そう言った時だけ、シルヴィアは本殿に呼ばれ、兄に会う事ができた。
エレナは付き添いが許されていないため、未だに王の顔は知らない。帰って来たシルヴィアにどんな方かと尋ねると、彼女は決まって「兄様は私のことを何とも思ってないのよ」と答えるのだった。
一国の王女は、美しい宝石や数多のドレスを持っていたが、愛してくれる人は誰一人いなかったのだ。
唯一の慰めと言えば、時たまふらりと立ち寄る行商人だけだった。
エレナは最初の数日間で、王女の立場を理解した。
シルヴィアはわがままを言いながら、時折寂しげな表情を見せたのだ。それはまるで、孤児院にいた頃の自分を見ているようだった。
花を枯らせたせいで、皆に避けられ、悪口を投げつけられた日々。それでもなんとか言い返したが、本当は涙をこらえるのに必死だった。
この人の力になりたい。
そう思うのに時間はかからなかった。
そうして二人は、いつも一緒に過ごすようになったのだ。
「いい? あなたは私に似合う人間にならなくちゃだめよ」
シルヴィアはそう言ってエレナにきれいな服を着せた。勉強も一緒にさせた。
エレナはそれに応え、王女にふさわしい人間になれるよう、精一杯努力したのだ。
周りのもの達は、面倒なことになったと顔をしかめたが、もとより興味すら持っていない。
文句も言わず、ただ仕事をするだけだった。
二人は食事をするときも、習い事をする時も一緒だった。同じ寝室で寝ることは許されなかったが、それ以外は一日中、ほとんどの時間を共に過ごしたのだ。
今はもう、お互いの好きな色も、お気に入りの食べ物も、何もかも知り尽くしていた。
ただ、エレナは八年たった今でも、話せない秘密が二つあった。
一つはクリスのことだ。
彼の行方は未だに分からない。ただ、軽率に言いふらすこともできないのだ。
この国の伝説では、王族は「人」の英雄アシオンの子孫であり、「魔」はその敵とされている。
クリスは「魔」だ。彼と通じていれば、それだけで罪になる。シルヴィアのことは信用しているが、どこかで噂がもれ、利用する人間が現れるとも限らない。
エレナはそれが怖かった。
そしてもう一つは、まぎれもない自分の魔力のことだった。
「魔力を持ち、魔法を使うもの」、それが「魔」の定義だ。だとすれば、エレナもそれに当てはまる。だからと言って、自分が何者かは分からない。それが正直なところだ。
城は魔法を持つ者にとって、一番厳しい場所だ。自分が持っていることがばれたら、途端に捕まってしまうだろう。
時折、自分はなぜこんな危険な場所にいるのだろう、と思ってしまう。
行商人はこれを知っていたら、この城に連れてくることなどなかっただろう。
本当は伝えるべきだったのかもしれない。
けれどあの雪の日、そんなことは頭から抜け落ちていた。
心のどこかで疑問に思っていたが、クリスを追いかけるうち、そのことも忘れてしまっていたのだ。
はっきりと自覚したのは城に来てからだが、もう誰にも言えなかった。
捕まること以上に、これ以上誰かに嫌われるのが怖かったのだ。
「エレナ、どうしてそんな目をするの。あなた、時折どこか遠くを見てるようだわ」
「そんなことはありませんよ」
「本当に?」
「ええ。ですから姫様も、そんな顔をなさらないで下さい」
「……あなたがそう言うなら、仕方ないわね」
ここにいるのは結局、自分の責任だった。だからこそ、ここまで来たからには隠し通そうと、エレナは決心していた。
花に触れる時は慎重に心を落ち着かせ、どんな時でも枯らせなかった。極力魔法の話題は避け、誰にでも隠し通した。
そこまでしても城に残るのは、行商人との約束だけではなかった。
シルヴィアを愛し、彼女の傍が自分の居場所だと、心から思っていたからだ。
「お互いに、秘密はなしよ」
そう言ってシルヴィアがにっこり笑うたび、密かに胸が締め付けられた。
*
不意に、外からかすかな音楽が聞こえてきた。
「何かしら」
シルヴィアが窓に駆け寄った。ここからでは高い塀に阻まれ、何も見えないだろう。そう思いつつ、エレナもつい窓へと走ってしまう。
見えるのは高い城壁と木々だけだ。しかし、町までは幾分距離があるというのに、笛やアコーディオンの音色が流れてくるのが分かった。
「町でお祭りでもやっているのかしら」
シルヴィアがわくわくした様子で言った。
「音楽一座エイブル・ホーリエですよ」
いつの間にか、扉を開けて男が入ってきていた。そのまま、うやうやしく一礼する。
「お久しぶりです、姫君」
「ロレンツォ!」
シルヴィアが嬉しそうに叫んだ。
こういうところは、出会った時から変わらないな、とエレナは思う。
ロレンツォは行商人だ。雪の日に会った青年は、あの時よりもさらに背が伸びて、相変わらず枯葉色の服を纏っていた。
彼は時たまふらりとやってきて、二人に商品を売ったり、旅の話をしてくれたりする。
ただ、現れる時も去る時も唐突なのだ。
一週間おきに現れることもあれば、半年姿を見せなかったこともある。
エレナは八年という長い付き合いの中で、彼は一見怪しいが、本当は信頼できる人だと理解していた。
ロレンツォは困ったときに現れて、適格な助言をくれる。
雪の中で助けてもらった時は信じることができなかったが、今なら、取引も何もかも、彼の優しさだったのだと分かる。
しかし、それでも飄々(ひょうひょう)としていて、何を考えているのか分からない時があった。
「姫君、お元気でしたか?」
「わたしは元気よ。それより、音楽一座って言ったわね。それは何?」
ロレンツォは一つ頷くと、説明を始める。
「エイブル・ホーリエは、いわゆる移動式の劇団ですよ。あちこちの国で歌や踊りを披露して日銭を稼いでいる連中です」
「まあ!素敵ね!」
「わたしも初めて聞いたわ。一度、見てみたい」
二人が口々に言うが、ロレンツォは首を振った。
「あれは庶民の見る物ですよ。城に呼ぶなんて前例がありません」
「分かってるわ、兄様はきっと許して下さらない」
シルヴィアは肩を落としたが、その目は諦めていなかった。
「ねえロレンツォ、内緒で連れてってくれない?」
シルヴィアは、こうして頼み事をする時がよくある。エレナは黙って見守ることにした。
「ロレンツォ、お願いよ」
「だめですよ。姫君は外出も禁じられているでしょう? 大体あれは、我々庶民の娯楽です。姫君がお気になさる必要はありません」
あくまで冷静に、ロレンツォが答える。シルヴィアはむっとしたように言い放った。
「それでは命令よ。わたしを連れて行きなさい」
とんだ横暴である。しかし行商人も負けていない。
「そうですか。姫君は僕の首がとんでもいいと、そう思ってらっしゃるんですね?」
「そ、そんなことは……」
「でしたら、どうぞお見逃しください」
そう言いつつ扉へ向かう足取りは、本当に逃げているかのようだ。
「待って、ロレンツォ!」
やはりその声も虚しく、扉がばたんと閉められる。
「馬鹿……」
姫君らしからぬ言葉を発して、姫君が項垂れた。
最後の言葉は聞かなかったことにしよう。
そう思いつつ、エレナはシルヴィアに駆け寄る。
「姫様、元気を出してください」
シルヴィアはエレナを睨む。
「どうやって、出せというの」
機嫌がいいときは可愛らしいのになぁ。エレナはなんとか姫の瞳を見返した。
「ロレンツォにも、立場ってものがあるんですよ」
「分かってるわよ。そんなこと」
棘のある言い方だったが、その目はやはり寂しそうで、エレナは胸が締め付けられた。
八年間、傍で見ていれば分かる。
シルヴィアは、ロレンツォが好きなのだ。
彼女の仕草からも、表情からも、それは明らかだった。
年の差は十歳以上あるだろう。身分だって全く違う。
ただ、彼女に優しくしてくれた男性は、この行商人だけだったのだ。
小さいころの憧れが、成長に従い恋心に変わったとしても、なんの不思議もなかった。
シルヴィアだって自分の立場はわきまえているし、彼に本当の気持ちを伝えるつもりはないらしかった。
だからエレナも、このことを口に出すことはなかった。
シルヴィアを応援したくてたまらなかったが、そもそも、二人が結ばれることはないのだ。
思いを伝えられない代わり、姫は今のように、一緒に出かけてほしいとか、もう少し滞在時間を延ばしてほしいとか、ささいな願いをすることはあった。
しかしロレンツォはそういう時、決まってはぐらかし、するりと逃げてしまうのだ。
エレナは閉ざされた扉を見つめた。
「わたし、もう一度彼に頼んでみます」
俯いていたシルヴィアが疲れたように言った。
「どうせ無理よ。あんな男、放っておきなさい」
そういいつつ目を逸らすのは、本心と逆のことを言っているからだろう。彼女は少しだけ期待しているのだ。
エレナは微笑んだ。
「姫様、お時間を頂きます。待ってて下さいね」
そう言うと、急いで姫の部屋を後にした。