少年の見つけたもの
少年は、ずっと一人ぼっちだった。
小さなころの記憶ははっきりしない。魔物として他のものとは違わず、闇の中で生まれてきた。異なるものと言えば、たまたま持ち得た、膨大なる魔力だった。
思い出せるのは、光のない世界で育てられ、外に出るのを禁じられていたことだ。
あの記憶を覚えていない訳ではない。ただ、誰にも知られたくなかった。
そばには黒い男がいて、絶えず「お前は私と同じだ」と繰り返していた。人間のような見た目だけではない。その男はクリスと同じ、いや、それ以上に強い魔力を持っていたのだ。
彼は手下の魔物をたくさん従え、いつも「人」を目の仇にして、襲うことに何の戸惑いもなかった。愛するものを殺されたから復讐をするのだ、これは道理だとそう言った。
彼にとって、クリスが手助けをすることは当然だったのだ。強い魔力に期待し、閉じ込めたまま少年を育て続けた。
けれど、初めての仕事の日、クリスは頷かなかった。
憎いのは「人」ではなく、自分を閉じ込める黒い男だったのだ。
――――俺はあなたを倒して、ここから出たい。阻むなら、他の魔物だって倒してみせる。
そういった日から、黒い男は本性を現した。愛情のようなものは消え失せ、今までのことを忘れたかのようにぞんざいに扱った。狂ったように「お前は化け物だ」と繰り返しながら。
彼の手下たちは人間のようで、どこかおかしい生き物ばかりだった。翼を持ったものや、角を生やしたもの。ぞっとするほど美しいもの。
同じ「魔」のはずなのに、近づこうとすれば、いつも怯えた目で逃げられるか、あるいは罵倒された。
彼らにとっても、自分は化け物になってしまったのだ。
醜い生き物はたくさんいた。その中でも、自分は特別に変なのだという。
だから、誰にも愛されない。
これはしょうがないことだ。
小さなクリスに、それは本能のように刻まれ、避けられるのは当然のこととなった。
けれど、ある時何者かが、自分達の闇に入って来たのだ。
「人」であるが故に「人」を裏切り、行き場をなくした魔法使い。
「一緒に来ないか」
初めて向けられた、真っ直ぐで食い入るような瞳。
その後のことは、はっきり覚えていない。
ただ、彼に手を握られ、頷いてしまったのは覚えている。あれが正解か間違いかなんて、今でも分からない。
そうして少年はさらわれ、庭に閉じ込められたのだ。
魔法使いはどんな時も、クリスに家族のように接した。
厳しく、それでいて優しく。
けれど、逃げ出そうとした途端罵倒され、外に出てはいけないのだと怒鳴られた。
もとより、庭に掛けられた魔法で、門が開くことさえなかったのだ。
「お前に自由などないのだ」
魔法使いはいつも、そう教えた。
「お前は恐ろしい魔力を持っている。庭ではその力を封じてあるが、外で暴走するようなことがあれば、村や町すら容易く破壊するだろう。
第一、お前は人間に似ているが、魔物なのだ。村人はお前を恐れるだろうし、ダリウスもお前を狙っている。ここに居るのが一番安全だ」
明るい庭を眺めながら、クリスは思った。
前と大して変わらない、と。
「外へ行ってくる。探し物だ」
魔法使いはいつも、昼間はどこかへ出かけていた。
「私にはかつて、愛する家族がいたのだよ。たった一人生き残ったあの子を、私は見つけねばならない。見つけたら、お前と共にここで暮らそう。三人で囲む食卓は、きっと楽しいものだろう。――――待っておいで、夕食までには帰って来るよ」
少年にはそんなこと、どうでも良かった。
魔法使いは毎日、あちこちの地を巡り、たった一人の家族を探し続けた。
時にはがっくり肩を落として、時には血だらけになりながら、必ず夕食までに戻って来た。
けれどクリスは、自分を閉じ込める男が許せなかったのだ。
二人で囲む食卓で、少年は一切口を利かなかった。
「クリス、ごめんな」
魔法使いはいつも、そう繰り返した。
「お前はきっと、いつまでもそんな目で私を見るのだろう。
ダリウスは、私の大切なものを皆奪っていったのだ。奪われるくらいなら、もう作らないと決めたのに、それなのに私は、またお前を見つけてしまった。
再び失うことを思うと、恐ろしくてたまらないのだ。閉じ込めるしかできない私を、許してくれとは言わない。だからどうか、傍にいてほしい」
少年はいつだって、無表情で見返すだけだった。
くだらない。
返事をする気にもなれなかった。
こんな男の事情なんか知らない。
どうして自分がこいつのために、庭で待っていなければならないのだ。
何も変わらぬまま、またこうして誰にも知られず、淡々と同じ日々を送っていくのだろう。そう思っていた。
彼女に会うまでは。
その日、少女は庭にやってきた。
飴色の髪はきらきらと輝き、太陽のようだった。
口には出さなかったが、その時は本当に妖精かと思ったのだ。
クリスを見て驚いた少女は、慌てて後ずさり、足元の草花を枯らしてしまった。あっと声をあげ、零れ落ちそうな瞳でこちらを見つめた。
この子も「魔」だろうか?
そんな疑問がよぎったが、走り出しそうな彼女を見て、いつもの諦めに掻き消された。
どうせまた、逃げられるんだろう。
それなのに。
「お前、誰?」
少年は、話しかけずにはいられなかった。
「……わたしはエレナ。あなたは?」
答えた少女に戸惑ったが、なんとか言葉を紡ぐ。
「クリス」
「あの、わたしが、怖くないの?」
少女が怯えたように聞く。その意味が分からなかった。
「怖い? なぜ」
「さっき見たでしょ……わたし、花を枯らせてしまうの」
なぜ怖がる必要があるのだろう。そんな「魔」はいくらでもいる。
小さな魔力しか持たず、それすら使えない弱い「魔」。
この少女も、人間に似たなりをしているが、魔物か妖精か、それとも別の何かだろう。
「お前こそ、俺が怖くないのか」
そう問えば、今度は少女が疑問を返した。
「怖いって、どうして?」
残酷な子だ、と思った。
分かり切ったことを聞く少女に、少年はきちんと教えてやる。
「俺は化け物なんだ」
少女が笑う。
むっとしたものの、それが馬鹿にしたものではないと分かった時、少年は初めて動揺した。
ちっぽけな少女を前にして、どうしたらいいか全く分からなくなってしまったのだ。
それには気づかず、彼女は優しくこちらを見た。
そう、優しくという言い方が一番正しかった。
「そんな風に見えないよ。全然怖くない」
そうして、無邪気にも手を差し出したのだ。
分からなかった。本当に、この手を取っていいのか分からない。
半ば恐れるようにして見ていると、彼女が小さく微笑んだ。
それだけで理解できた。
答えなど、最初から一つしかなかったのだ。
その時、今まで知らなかった気持ちが、心にあふれていくのが分かった。
その気持ちの名前は知らない。どう伝えたらいいのかも、誰も教えてくれなかったのだ。
ただ、しっかりと少女の手を握り返した。
クリスは、いつになく幸せだった。
だから、黒い男に少女の話を聞いた時、信じられなかったのだ。
彼の言葉は残酷に、胸をえぐるように響いた。
「オレンジの髪をした、孤児院の子どもだった。森に迷い込んで、たまたまあの庭を見つけたとか。金貨と引き換えに居場所を教えてくれたよ」
「それって」
声が震えた。
「お前は、その子に売られたのさ」
信じていたものが、崩れ落ちていく気がした。
大切な思い出はすべて闇に消えた。
あれはあったことで、なかったことだ。
少女は元からこちらのことなど、なんとも思っていなかったのだ。
すべてが絶望に包まれていく気がした。
けれど、彼女はやってきた。
「クリス」
馬車の外から声をかけられた時は、聞き間違いじゃないかと思った。
そこには確かに、少女がいた。
飴色の髪は乱れ、顔は土に汚れ、服はボロボロだった。
ここまで追いかけてきたのだろうか。
それこそ、信じられなかった。
「エレナ」
思わず名前を呼んだ。
「ごめんなさい、全部わたしのせいなの」
少女は口を開くなり、言葉が止まらないようだった。
「あの男があなたのお父さんだと思って、居場所を教えてしまった。こんなの言い訳だって分かってる。でも」
お願だから、そう少女は続ける。
「信じて。わたしはあなたを裏切ったりしてない」
――――ああそうだ。
胸に光が灯っていくのが分かった。
ずっと求めていた、この光。
――――エレナが裏切る訳ない。
これがうぬぼれだとしても、かまわない。
彼女を信じられること、それだけが希望だった。
クリスは思い出していた。
再び灯った希望が、どんなに大切なものか。
どんなに辛いことがあっても、それさえあれば、生きていける気がした。
彼女はここまで来てくれた。この光を与えてくれた。
それだけで十分だ。
「クリス」
少女が鉄格子を握りしめた。
彼女だけは守りたい。そう思った。
縄は魔力を封じ込め、力を発揮することも出来なかった。
ならば、逃げてもらうしかない。
こんな無力な男は置いて、さっさと逃げればいいのだ。
それなのに。
「絶対に助けるから」
少女の言葉はとても優しい。
「そしたら二人で遠くへ――――」
「帰れよ」
なんとか、その言葉をさえ切った。
彼女のやさしさに触れると、離れられなくなりそうだった。一緒に行きたいと願ってしまいそうだった。
そんなことは許されない。
自分と関わりさえしなければ、彼女は安全なのだ。
クリスは精一杯、声を絞り出す。
「今さら、謝ってすむと思ってるのか?」
もう関わらないでほしい。
幸せでいてほしいから。
「どうせ助けたあと、また別の貴族に売るんだろう」
遠くへ逃げてほしい。
どうしても、失いたくないから。
「お前なんか、信じない」
なぜ動かない。
憎しみのこもった目で少女を見た。
どうして逃げないんだ。
こんなにひどいことを言っているのに。
こんなにお前を、愛しているのに。
「誰だ!」
男たちの声に、恐怖が襲う。
カンテラが、少女の顔を照らし出した。
「殺せ!」
ダリウスの声に血の気が引いていく。
少女が駈け出した。
逃げて。とクリスは声にならない声をあげた。
逃げて。逃げて。逃げて。
心の中で叫ぶことしかできないまま、長い時間が過ぎた。
帰ってきた御者たちは、口々に知らない男が現れた、と言った。
ダリウスが怒鳴り、御者達と口論を始める。
それを聞きながら、老人が殺されたこと、少女が逃げ延びたことを知った。
――――助かったんだ。
――――ああ、良かった。
クリスは心から思った。
馬車がまた、ガラガラと道を動き出す。
クリスはぼうっと、流れる景色を見ていた。
彼女は誰かに助けられたようだった。これで安全なところへ連れて行ってもらえるだろう。
ここへはきっと、二度と戻って来ない。
もう誰かに狙われることもなく、幸せに暮らすはずだ。
クリスは嬉しくて嬉しくて、なぜだか涙が止まらなかった。
三日後、馬車が着いた。山々の奥深く、霧がかった闇の中。
御者達は違和感に気づいて逃げようとしたが、悲鳴をあげる間もなく、殺された。
クリスは『魔』達に囲まれ、再び外に出ることを禁じられた。
前と同じ日々が始まったのだ。
「お前は化け物なのだ」
暗示のようにダリウスは繰り返した。
「お前のことを、誰も愛さない。けれど、私は必要としてやろう」
クリスは元の無表情に戻り、虚ろな目で黒い男を見上げた。
けれどその心には、情熱が燃えていた。
彼女を守ろう。そう思った。
自分が愛していることを知れば、この男はそれを利用するだろう。
少女を捕まえ、盾にして、こちらに命令するに違いない。
だから隠し通すのだ。彼女には、今後二度と近づかない。
あの子が誰を愛し、結婚することになっても、心の中で祝福しよう。
「よおクリス、お前ご主人と仲直りしたんだって?」
「仲直りじゃない。仕えさせてもらってるんだ」
「ひゃはは、今度は寝返ったってことか? 『人』と暮らしてたってのに呆れるぜ」
魔物たちは毎日、不気味な笑い声をあげ、からかいながら去って行く。
どんな相手でも、クリスは決して本心を見せなかった。
自分は誰にも愛されず、愛していない振りをしよう。
言葉にも、顔にも出さず、その素振りすら見せないで、ひたすら忠誠を誓うのだ。
反抗すれば、心に灯る光に気付かれてしまう。
ならばどんな命令でも、きちんとこなしてみせよう。
そうすればきっと、あの子を守れるから。
「お前は今日も、無表情だな」
黒い男が冷たく笑った。
闇の中に放り込まれ、三か月がたっていた。
クリスはその間、完璧に演技をこなしていた。
「何か御用でしょうか」
いつもと同じように、静かに尋ねる。
「ああ、お前の力が必要になった」
黒い男はそう言うと、指で円を描く。円は鏡のように輝き出し、一人の人間の姿を映した。
クリスは、この人間の名前も知らなかった。たった一つ分かることは、この人間が黒い男にとって、不利益な相手らしいということだけだ。男は飲み物を頼むような口調で言った。
「こいつを、殺して来い」
クリスの瞳が、わずかに揺れる。殺しを命じられたのは初めてだった。
「どうした? いつものように、『はい』と答えればいいのだ」
黒い男が面倒臭そうに言う。
クリスは無表情に戻り、いつものように答えた。
「はい」
その顔は、少し、歪んでいた。