吹雪の慟哭
雪に足をとられているのは男達も同じで、文句を言いながら、走ってエレナを追いかけた。
四人もいれば、少女を捕まえるのは時間の問題だ。
彼女がどこに逃げようとも、足跡がついている。
獰猛な目つきをした男達は、ゆっくりと確実に距離を詰めていた。
言い知れぬ恐怖を覚え、エレナは夢中で雪を掻き分けた。
寒い。寒い。寒い。
ガチガチになった手足を必死に動かして進む。
言う事を聞かない体に、背後に迫る影。
確かに走っているのに、全然前に進んでいる気がしない。
体力は限界だった。
「うっ」
突然、視界が真っ白になる。
雪に溺れ、埋もれながら、息を切らして振り返った。
木の傍を通り過ぎた時、足が引っ掛かり転んでしまったのだ。
慌てて起き上がったものの、片足が雪に埋もれ、抜けなくなってしまった。どんなに動かそうとしても、びくともしない。
もう冷たさや痛さを通り越して、手足の感覚はなくなっていた。
完全に、動けなくなってしまったのだ。
エレナはただ、男達が近づいて来るのを、見ていることしかできなかった。
降りしきる雪の中で、黒く浮かび上がる三つの影。
「まったく、てこずらせやがって」
「俺たちはこういうのは専門じゃないんだよ。あの旦那も人使いが荒いよなあ」
「聞こえているぞ。口を慎め」
二人の御者と従者の老人だ。
御者が一人足りない。途中で諦めたのだろうか。
「よく見ろ、かわいい顔してるじゃねえか。売れば金になりそうだな」
御者の一人が言った。エレナは怯えた目で見上げる。
それを見てもうひとりが言った。
「売られるのは嫌か?俺が相手してやってもいいんだぜ?」
続いて下品な笑い声が降ってくる。
「やめんか」
従者の老人が怒鳴った。
「ダリウス様の命令だ。こいつは殺す」
言うなり、懐から銃を取り出した。
「おお、物騒だな」
男たちは面白そうに見ている。止める気配はなかった。
銃口がこちらに向けられる。
情の欠片もない瞳で、老人がおもむろに言った。
「金貨の意味が分からなかったのかね?」
エレナは喋ることもできなかった。それが寒さのせいなのか、恐怖のせいなのかも分からない。
ただ、黙って首を横に振った。
「そうか」
老人の目がぎらりと光る。
「あれはね、単なるお礼ではない」
エレナは唾を呑んだ。
「これ以上この件に関わるなと、そういう意味だったのだよ」
これで終わりだ。ぎゅっと目を閉じた。
銃声が轟いた。
恐ろしい音は辺りにこだまし、染みるようにして雪の中に吸い込まれていく。あたりはすぐに、何事もなかったように静まり返った。
恐る恐る目を開ける。
まだ、生きていた。
どこも痛くはなかったが、あまりの寒さに感覚がなくなっているのかもしれない。そう思ったが、すぐに違うと分かった。
目の前で、老人がゆっくりと倒れたのだ。
辺りを見回すと、弾丸が自分の横の木に穴を開けていた。
何が起こったのか分からない。
倒れた老人の後ろに、見知らぬ青年が立っていた。
どこから降ってわいたのだろう。背の高い男で、剣を握っている。
どうやら、その青年が老人を切ったらしかった。そのお陰で弾丸が外れたのだ。
死んだ老人を見て、エレナは息を呑んだ。
その姿が、どんどん変わっていくのだ。
ぎょろりとした目はさらに剥き出しになり、服からはみ出した手足は黒いカギ爪になった。もはや人間ではなかった。
老人はまぎれもない、魔物だったのだ。
「やっぱりね」
目の前の青年は動揺もせずに言った。
「君達、これを知ってて雇われたの?」
青年が顔をあげて御者達を見ると、二人はひいっと声をあげた。
御者達は死んだ老人の変化と、突然現れた青年の両方に、ひどく怯えているようだった。
二人は懐からナイフを取り出し、じりじりと後ずさる。
「なんなんだ、お前」
「邪魔するなら、容赦しないぞ」
青年はため息をつくと、剣を握り直した。
「君達も切られたいわけ?」
その時、エレナは足元に倒れている魔物が、わずかに動いたのに気付いた。
血を流しながら腕を持ち上げ、青年に銃を向けている。
黒いカギ爪は器用にも、引き金にかけられていた。
「だ、だめ」
叫んだ声は掠れてしまう。けれどその声が聞こえたのか、青年は素早く体をずらした。
再び銃声が轟く。
弾丸を避けた青年は、音もなく振り返った。
ぎろりとにらむ魔物に、にこりと微笑み返す。
「なんだ、まだ生きていたのか」
再び剣を持ち上げると、エレナの目の前でとどめをさした。
黒い身体は貫かれ、したたるような血を流す。
魔物は悲鳴をあげることもなく、今度こそ息絶えた。
あまりの恐ろしさに、エレナは見ていることしかできない。
動けないエレナの前で、魔物はみるみる闇に同化していった。
絵の具が水に混ざるように、深い夜に溶け、音もなく消えた。
その時再び、ひっと声があがった。ようやく追いついた三人目の御者だ。
青年はそれを見て、淡々と続ける。
「もう一人いたんだ。それで、誰から相手をしてくれるの?」
三人は目配せをし合い、頷くと、一目散に逃げて行った。
後を追おうとした青年は、何かに気付いたように立ち止まった。男達と少女を見比べると、諦めたようにその場に留まる。
何をしてるの!? エレナはそう叫びたくなった。
早く追わなければ、クリスが行ってしまうのに。
木々の向こうに見える灯り。それがゆっくりと、動き始めた。馬車が出発したのだ。
叫ぼうにも声が出ないエレナは、見ていることしかできない。
もし青年が馬車を追えば、再びエレナを見つけるのは難しいだろう。辺りは一面雪を被り、同じような景色が続いているのだ。一度見失ったら最後、少女は誰にも見つけられず、眠りにつくに違いなかった。
それでもエレナは、クリスを追ってほしいと思った。
自分の事はどうでも良かった。生き延びたところで、彼を見失ったら何も意味はないのだ。
灯りが動くにつれ、木々の長い影も揺れた。御者達が叫び、鞭をふるう音も聞こえてくる。
追いかけなくちゃ。
腕に力を込めるが、びくともしない。
大好きな彼は、自分の事を誤解したままだと言うのに。
馬のいななきが遠ざかって行く。
凍った雪道を、車輪が派手な音で砕き続けたかと思うと、辺りはまた、何事もなかったような静けさを取り戻した。
馬車は行ってしまったのだ。
あまりのことに、エレナはただ、その先を呆然と見つめることしかできなかった。
「大丈夫かい?」
降りしきる雪の中、青年が初めてこちらを見た。ハッとして見返すと、剣についた血を振り払うところだった。
くせのある茶髪の男は、枯葉色の外套を纏い、行商人のような装いをしている。
端整な顔には血が飛び散り、エレナは心底恐ろしいと思った。
「ごめん、怖がらせてしまったね。いつもこういう訳ではないんだ」
優しい笑みは、恐怖と胡散臭さを倍増させるだけだ。
「僕はちょっとした仕事でね、『魔』を追跡していたんだ」
青年が足元を眺める。老人だった生き物は、もう影も形もない。
代わりに、周りの雪は血が染みて赤く染まっていた。エレナは思わず目をそむける。
それにも構わず、青年は一人でしゃべり続けた。
「『魔』には『人』に近いものもいるけど、こいつはご覧の通りさ。姿を変えて、悪事を繰り返していたんだ。僕はこういった『魔』を捕まえるよう、命令を受けていたんだよ」
男は剣をしまいながら続ける。
「もちろん、悪事を働くなら『人』も同じように罰せられるべきだ。本当はさっきの男達も捕まえて罪に問いたかったんだけど、追いかけていたら、君はここで凍え死んでしまうだろう?」
エレナは初めて青年を見た。
「『魔』はすぐに闇に隠れ、姿を消してしまう。でもあの男達は人間だ。再び情報を集めれば、捕まえることだってできる」
青年の目は真剣だった。
「さっき、他の奴らの前でこいつにとどめを刺したのは、怖がらせるためだ。彼らと剣を交えたところで良いことは何もない。結果的に逃げられてしまったけれど、君を守ることはできたんだ」
そう言って、エレナの目を覗き込む。
「このままここにいれば、いずれ凍えて死んでしまうよ」
優しく手を差し出した。
「僕と一緒に、おいで」
エレナは黙って、首を横に振った。
確かにこの男はいい人なのかもしれない。
どことなく怪しいが、それでも瞳には真剣な光が宿っている。
しかし、エレナはもう誰も信じられなかったのだ。
クリスを助けたかった。
そのためにダリウスに救いを求め、裏切られた。
必ず助けると決心しておきながら、あの子を救えなかったのだ。
エレナはもう、自分自身を信じることさえ、できなかった。
「ふう……」
青年が息を吐いた。
「一方的に助けるっていうから不安なのかい?それじゃあ、こうしよう」
仕切り直したように、彼は言った。
「僕の名はロレンツォ。行商人であり、情報屋なんだ。つまり、取引を生業としてる。僕と取引をしてくれないかい?」
慇懃に振る舞う青年を、エレナはじっと見つめる。どう見ても怪しかった。
黙ったままの少女に、彼はなおも続ける。
「君を助ける代わりに、ある人に仕えてほしいんだよ。今は素性を教えることはできないが、その人は僕の主人でもあるんだ。――――ただ、僕はいつもあの人の傍にいられるわけじゃないから」
主人のことを教えてくれないのは、後ろ暗いところがあるからかもしれない。
いくら優しい言葉を投げかけてくる相手でも、人買いの可能性もあるのだ。
しかし、それでもエレナは希望が見えた気がした。
彼は剣の腕が立つ。現に、魔物を倒してしまったのだ。この人のいう事を聞けば、こちらの望みをきいてくれるかもしれない。
クリスを助けてもらえるかもしれないのだ。
それは自分の命よりも、重要なことのような気がした。
雪に埋もれた体は冷たく、言葉を発するのさえやっとだった。
エレナは寒さで凍りそうな喉から、なんとか声を絞り出す。
「分かった。取引、受けるわ」
「良かった。それじゃあ君をここから……」
しかし、彼が言い終わるよりも早く、エレナは青年の服にしがみついた。
「なんでも、いう事を、聞く。なんでも、する。だから」
青年の目が見開かれる。エレナは叫ぶように言った。
「だから、あの子を、助けて……っ」
雪が降り続いている。
青年は白い吐息を漏らしながら言った。
「あの子? 友達が残っているのか?」
「捕まってるの。わたしは、いいから、あの子を」
青年はこちらを見た。
「それはできない」
「な、ぜ?」
服を握りしめる手に力が入る。青年の服は、しわだらけだ。
「僕はある人の命令で動いているけれど、僕自身は平民だ。貴族に手を出したところで、君と一緒に牢獄行きだ。そもそも、相手が人間じゃない可能性だってある」
エレナはそれでも諦めきれなかった。
「なんでも、する。嘘じゃないわ。どんな仕打ちでも、受ける」
請うように、青年にすがった。
「お願い、お願いよ。なんでも、するから……っ」
がしっと、小さな肩が捕まれる。
青年はかがみこんで、まっすぐにエレナの目を見た。
「君の友達は、今無理やり奪い返すことは不可能だ。貴族ならまだいい。だけどきっと、相手は――――『魔』だ」
エレナは息もできずに聞いていた。
「この従者は魔物だった。きっと主人もそうだろう。彼らの住処は闇の中だ。僕はあらゆる情報を持っているけど、『魔』が相手なら、再び見つけるのに何年かかるか分からない」
青年は冷静を装っていたが、その顔は今にも泣き出しそうだった。
「分かってくれるね? 今はだめなんだ。でもいつか、僕が必ず見つける。だからそれまで待っていてほしい」
エレナは頷くことができなかった。青年の腕に力がこもる。
「君はまだ小さい。一人で動くには危険すぎる。友達は僕が探すから、一緒に来るんだ。これ以上この件に関わらないと約束してくれ」
それは説得というよりは、懇願しているかのようだった。
エレナはまっすぐに、彼の目を見つめた。
「約束を、守れば……あなたと行けば……彼を、助けてくれるの?」
「そうだ」
青年は再び、手を差し出した。
「一緒に、おいで」
雪はどんどん降り積もっていた。
この申し出を断ったところで、のたれ死ぬだけだ。
何年かかるか知れないが、彼は少年を助けてくれると言っているのだ。
クリスに会うためには、取引を受けるしかない。
それだけが、エレナを動かした。
寒さで痛みすら感じる手を、なんとか伸ばす。彼女は黙って、青年の手を取った。
安堵したように息をつく男を、エレナは食い入るように見上げる。
「騙して、ないよね」
「僕はそんなことはしない」
エレナは青年にすがりつく。
「約束だからね」
叫ぶように言うと、突然涙がこぼれた。
「わたし、なんだってするから」
熱い涙は、ぽろぽろと頬を転がり落ちる。
「絶対に、絶対にあの子を助けてね」
青年は歯を食いしばるように、エレナを抱きしめた。
凍えた体に、人の温もりが染みる。
それは体だけでなく、心まで、じわりじわりと広がっていった。
――――ああ。温かい。
恐怖や悲しみ、すべてが溶けていくようだ。
あまりの温かさに、視界が滲む。
しんしんと雪が降っている。
その真っ白な世界に、少女の泣き声が響き渡った。




