燃える瞳
やがて馬車は森を抜け、険しい山々の見える一本道に差し掛かった。
ダリウスや御者たちが声を張り、言葉を交わし始める。はっきりとは聞き取れないが、どうやらここで休憩をするらしかった。
突然馬車が止まる。
エレナは慌てて荷台から飛び降り、馬車の下に潜り込んだ。
「お前ら、今のうちに休んどけ」
御者がばしばしと馬の背を叩くのが見えた。
ダリウスも老人と共に降り、御者達に声をかける。
「これからザルメア街道だ。きちんと防寒着を来た方がいい」
「分かってますよ、旦那」
言いながら、御者は肩を竦めた。
「それより、行く先は本当にそこでいいんですかい? あんなとこ、ただ真っ暗なだけで、何もありませんぜ。そこまで送り届けたら、きちんと一千リグールいただけるんでしょうね」
リグールとは通貨の単位だ。この大陸には様々な町や国があるが、その通貨はほとんど一貫してリグールが使われていた。これはそれぞれの地の領主が、一人の王の支配下にあることを意味していた。
その関係は、アシオンの伝説に基づいたものだ。
かつてこの大陸には様々な国があったが、ほとんどが300年前、「魔」に滅ぼされてしまった。「魔」は大陸の端から、中心に集まるようにして「人」の国を襲った。
大陸の中心部であり、最後の標的となったのがハルシュトラールだ。
かの地の王であったアシオンは、傷を負いながら戦い続け、不可能と言われた勝利を手にした。彼は「魔」を大陸の端へ追放したものの、滅ぼされず残った地は、文字通りハルシュトラールだけだったのである。
他国の王族はすべて滅ぼされ、治安を失った民の間で悪事が横行する有様だった。
アシオンは自らの信頼に足りる部下を数名選出し、それぞれの地の領主としたのだ。
今でも、それぞれの国を治めているのは、アシオンとその部下の子孫である。
国という形はとっているものの、大陸で王であるのは、唯一アシオンの子孫だけだ。他の国を治める者は領主と名乗り、現在の王と上下の関係を築いている。
ハルシュトラールはすべての国――――つまりは大陸の頂点に立ち、支配権を握っていると言っても過言ではなかった。
七歳のエレナにはそんなことは分からないし、アシオンは伝説でしかない。
一千リグールの価値も分からなかったが、ただ、大層な金額なのだろうと思えた。
ダリウスの低い声が告げる。
「礼はするさ、約束はきちんと守る。だが、その話は無事にこいつを送り届けてからだ」
ごんごん、と鉄格子を叩く音。
「今日中にザルメア街道は抜ける、分かってるな?」
分かってますよ、御者がそう答える。
少しの休憩を挟んだのち、一行は再び出発した。
エレナは朝と同じように、荷馬車に飛び乗る。
少し疲れていたが、絶対に乗り遅れることはできなかった。
再び膝を抱え、馬車の後ろを向いて、殺風景になった一本道を眺め続ける。
カタカタと揺れる馬車は眠気を誘う。うつらうつらとしているうちに、エレナはすっかり眠ってしまった。
どれくらい経っただろう。
顔に冷たいものが当たり、ハッと目を覚ますと馬車はまだ進んでいた。
あたりは暗くなってきている。向こうに赤みの残った空が見えた。
――――もう、夜が来るんだ。
ふと、寒さにぶるっと体が震える。
寒い。とても寒かった。
空から、見たこともない白いものが降っている。
それが体にあたるたび、痛いような冷たさを残して、溶けていった。
雪だった。
エレナは訳が分からなかったが、とても美しい光景だったので、黙ってそれを見つめていた。
雪は音もなく、はらはらと舞い降りるばかりだった。
馬車はザルメア街道を走っていた。
ここは北山――別名「霜かぶりの山」の中腹にある関係で、年中雪が降り積もっているのだ。
四つの国や町をつなぐこの街道は、多くの人々の通り道であり、降り積もる雪とその寒さは、いつも旅人を困らせていた。
それゆえ、除雪作業は頻繁に行われ、かろうじて道は通れるようになっていた。しかし一歩そこを外れると、先に進むのが困難な程、雪が積もっているのだ。
エレナの着ているのは、長袖のブラウスに、質素なワンピースだ。それもボロボロで、とても今の気温に適したものとは言えなかった。
まもなくエレナは寒さに耐えきれなくなり、膝を抱える腕に力を込め、縮こまった。
雪を見ている場合ではなかった。
あまりに寒い。
ガチガチと歯を震わせながら息を吐くと、それは白くなり、ゆらりと消えていった。
手足に息を吹きかけ、温めるものの、すぐに体は冷えてしまう。
凍えそうになりながら身を縮めていると、ふと、かばんにパンがしまってあったのを思い出した。
取り出してかじったものの、かちこちに冷たくなっている。これではクリスにも渡せないだろう。
もらった時はあんなにおいしそうだったのに。そう思いながらかじり続けた。
昨日から何も食べていない。
食べないよりは、ましだった。
――――そういえば、今日中にここを抜けるとか言ってたっけ。
夜通しこの雪の中を走るのか。エレナは気が遠くなる。
その時突然、がくんと体が揺れた。
馬車が急に止まったのだ。
驚いて立ち上がりかけたが、寒さですぐには体が動かない。
ーーーー見つかってしまう。
そう思ったが、御者がこちらに来る様子はなかった。
「なんだって?聞こえないぞ!」
「もう一度言ってくれ!」
「道が! ふさがってるんだよ! 前の馬車が、滑って雪に突っ込んだらしい!」
三人の御者の間で、そんな声が飛び交っている。
「乗ってるのは誰だ!」
「知らねえよ! どっかの貴族様だ! 道に戻すのを手伝えって言ってる!」
チッと三台目の御者が舌を打つ。そのまま馬車から降りたので、エレナはびくっと縮こまった。
御者が凍った道を歩き、じゃりじゃりと音を立てる。その足音が遠ざかると、エレナはほっとして荷台から顔を出し、前方の様子を伺った。
一台目の馬車から、ダリウスと従者も降りて来た。二人で話しているが、内容までは分からない。ただ、彼らも様子を見に行くようだ。
御者達と言葉を交わした後、三人と連れ立って行ってしまった。
今や、三台の馬車には少女と少年が残された。
チャンスだ。
エレナは素早く飛び降りると、足を滑らせないようにして二台目の馬車に走った。
近づき中を覗きこめば、鉄格子の向こう側に、うなだれたように少年が座っていた。
「クリス」
びくり、と少年の体が動いた。
顔をあげ、少女の姿を見つけると、信じられないというように目を見開く。
「エレナ」
彼の瞳を見た途端、エレナの中の緊張がほどけた。
「ごめんなさい、全部わたしのせいなの」
口を開いた途端に、堰を切ったように言葉があふれ出す。
「あの男があなたのお父さんだと思って、居場所を教えてしまった。こんなの言い訳だって分かってる。でも」
――――お願いだから
エレナは続ける。
「信じて。わたしはあなたを裏切ったりしてない」
少年は黙ったままだった。
「クリス」
そう呼んでも答えはない。エレナは鉄格子を握りしめた。
「絶対に助けるから。そしたら二人で遠くへ――――」
「帰れよ」
突然、彼は遮った。
「今さら謝ってすむと思ってるのか?」
エレナは動けなかった。
信じていた何かが、崩れていく音がする。
とても、とても怖かった。
「どうせ助けたあと、また別の貴族に売るんだろう」
目の前の光景が信じられなかった。
――――そんな訳ない。
そう言いたかったのに、声すら出ない。
少年は憎しみに燃えた目で、こちらを見つめた。
「お前なんか、信じない」
その言葉は尖ったナイフのように、少女の心臓を貫いた。
「誰だ!」
向こうから、声が聞こえた。
「そこで何をしてる!」
エレナはハッとして振り返る。
男達が、こちらを見つめていた。
カンテラに照らされた、黒いシルエットが五つ。
ダリウスの声が叫んだ。
「殺せ!」
老人が、御者達がいっせいに走ってくる。
エレナはクリスに声をかけることもできず、急いで駈け出した。
街道を外れ、周りの雪道に入っていく。細い木々が雪を被って立ち並んでいた。その間を、縫うように走って行く。
雪に足をとられて思うように進めない。何度も転びながら立ち上がり、奥へ奥へと必死に逃げた。
助けを呼ぼうにも、寒さに震える唇からは、小さな吐息が漏れるだけだ。
呼吸さえ億劫な銀世界で、エレナはひたすら雪を掻いた。
白く化粧をした森は、夜の闇に構えている。木々は手を差し伸べることもできず、ただ黙って見ているだけだった。




