デイジー・デイジー
アルテア市中心街。
視界を制限する夜の暗がりのなかで、闇夜にぼんやりと浮かび上がるようにそびえ立つ高層建築物群の姿。眠りを知らない摩天楼が今、ひとりぼっちのノリーンを出迎えていた。
アーバイン・ロボティクス・インフォメーション・システム――IRISアルテア本社ビル。一六七階建て以上、高さが一〇〇〇メートルを超えるハイパービルディングの巨体を前に、彼女は表情を引き締めて顔を上げていた。
「……クラリッサ。やはり、あなたなのね」
ノリーンはひとり呟くと、巨大なビルへ立ち向かう。
目元を覆うHMD――ヘッド・マウント・ディスプレイに、ノリーンは必要な情報を呼び出していく。普段ならば、ハルートに命じるだけで可能な動作だった。
だが、ハルートを連れてここに来たくなかった以上、自分でやるしかない。
ノリーンの思考をHMDが読み取って、ディスプレイに映し出す。
今朝、社屋から戦闘用ドロイドを奪取されたばかりだというのに、警備用ドロイドの姿がない。
明らかに、クラリッサの仕業だろう。
ノリーンはアスファルトで舗装された路面の情報を走査する。すぐに、周囲のセンサー群から集められたデータが解析にかけられ、その結果をディスプレイに出力される。
微細な金属片が、そこここに散らばっていた。
ノリーンは、監視カメラとビル内の人感センサーにアクセスする。ハルートにも内蔵された情報収集プロトコル。それを用いて、本来ならば正規の管理者権限でしか接触できない映像に触れる。
一階から七階までの吹き抜けとなったエントランス・ホール。
そこに今朝、IRIS社から奪取された戦闘用ドロイドと同じ機種のWBDN六――ウォーカー・バトル・ドロイド・ネクストシックスが配置されていた。
受付用デスクや支柱といった死角となる物陰に潜んでいる。センサーになんらかの反応があれば、「待機状態」を解き、侵入者を排除するよう命じられているのだろう。
ノリーンの口元が微かに歪む。
そして、思考に集中する。
ヘッド・マウント・ディスプレイがノリーンが頭のなかを過る思念を読み取り、プログラムを練り上げていく。彼女が脳内で組み上げた精緻な罠をもとに、HMDが信号を発する。
待ち伏せしていた二機の戦闘用ドロイドの目元にあるラインセンサーが赤く発光し始めた。
助走もなく、脚力だけでその場から飛び上がり、驚異的な速さでエントランス・ホールを走り出す。
別の階にひそんだ戦闘用ドロイドにも情報は遅滞なく共有され、金属製の脚が磨き上げられた床を踏み締める際に発する独特な足音が静寂を破った。そのうちの一機が、ガラス張りの壁面を突き破り、ビルの外へ飛び出す。
ノリーンは、再度周辺の情報を取得する。
先ほど、ノリーンが組み上げた偽のセンサー情報に騙されたドロイドたちは、存在しない電子上の存在を追い求めて、鬼のいない追いかけっこに興じている。
おかげで、周囲にドロイドの存在はない。
ノリーンはそれでも警戒を解かず、慎重にビルへ入っていく。
戦闘用ドロイドに指示を出す管理アプリケーションを掌握し、敵機を味方にできれば良かったが、残念ながらクラッキングなどの電子的攻撃には耐性があった。
そうなれば、比較的セキュリティの甘いビル内のセンサーや警報システムが収集する情報を改竄して、敵を誘い出していくしかない。
ヘッド・マウント・ディスプレイの情報と設計当時に行政府へ提出されたビルの図面を、交互に確認する。どうやら、視覚的な欺瞞は施されていないようだ。
クラリッサの思考を踏まえて、慎重に行動したい。
だが、捕えられたツクシを一刻も早く助けたい。
警備システムが薄い非常階段を通じて、上階へ行くのが一見すると魅力的だが、タクティカル・スキンで脚力を強化しているとはいえ、一六七階を駆け上がるのは時間がかかりすぎる。
そうなると、自然とエレベーターで上階へ行くことになるがここで気をつけなければならないのは、待ち伏せだ。
IRIS社から奪取された戦闘用ドロイドは三五機。うち五機はすでにハルートが破壊し、今五機がノリーンの欺瞞情報で配置から離れている。とはいえ、ある程度の数がエレベーターホールにいて、その動向を監視しているはずだ。
戦うための力はできるだけ、ツクシ救出のために温存しておきたい。
ノリーンはしばし逡巡するが、腹を括る。
エレベーターの管理システムに接続する。クラッキングを行い、瞬時にシステムを掌握する。そして、裏口・チャネル経由で動かせるようプログラムを書き換えた。
これで電子上どころか、各階にある電光掲示パネルにも表示されない「ステルス」状態のエレベーターを作り出す。
「さて、どうなるかしらね」
ノリーンはそう言うと、覚悟を決めてエレベーターに乗り込んだ。
◆
闇の中に沈んだキャンパス。
そこに、排気音を轟かせながら、一台の黄色い車が滑り込んでくる。
<ジョリー、個人情報を有しない何者かがベンチャー棟に侵入した電子記録があります>
「連中か? それともノリーンか?」
ジョリオンは周囲の状況を確認してから、慎重に車から降りた。
当然、両手にはスマート・ガンを保持している。
<恐らく、そのどちらもです>
「ツクシは無事そうか?」
<……おかしいですね。ツクシのステータスは在室。それに、ツクシの持ち物に付与されたタグ情報が研究室に残っています。ですが、肝心の彼女の生体兆候が室内どころか、棟内のどこにもありません>
正面玄関から、エレベーターに乗り込む。
<ジョリー、すぐに応援を要請してください>
「いよいよ、おれも標的の仲間入りって感じだな」
ジョリオンは、専用端末を弄り出す。
<何を言っているんですか、ジョリー。あなたはノース・チャイナ・ペンタゴンから帰る道中に、すでに襲われているじゃありませんか?>
「それもそうだな」
<それに、あなたの仕事は危険と隣り合わせ――というよりも、危険そのものでは?>
「そう言われると、何も言い返せねえなあ」
扉が左右に開く。
すぐに「初弾」を叩き込める状態にしたスマート・ガン。それを掲げたジョリオンを先頭にし、後方をハルートが警戒しながら進んでいく。ジョリオンは、不思議と懐かしさを覚えた。
アルテアに赴任してからというもの、ずっと相方には恵まれて来なかったから、余計にその思いを強くしてしまうのかもしれない。
<ジョリオン、この階は無人です。敵性ドロイドの姿もありません>
情報の走査が終わったハルートが言うと、ジョリオンは銃を下げる。
<監視カメラの映像の一部が電子的に破壊されています。おそらく、何者かのクラッキングです>
「妙な話じゃないか? だったら、ツクシの情報がなんで残ってる?」
<逆です。どうして、彼女の生体兆候だけが消失しているのか……>
「急ぐぞ」
警戒しながら突き進み、とうとう研究室の前までやって来た。
扉に掲げられた電子端末を見て、ジョリオンは思わず扉に歩み寄る。
「エヴァレット.E研究室。関係者以外立ち入り禁止、要ノック」というパネルの上に書き込まれた「ノックはしたか?」の文字。
赤い蛍光塗料が照明の光を反射して、怪しい光を放つ。
ハルートが壁に設けられた開閉用タッチセンサーに触れる。
ジョリオンがスマート・ガンを構えて部屋に突入する。
人間の背丈まである情報処理端末の間を、ジョリオンは銃を構えたまま駆け抜けていく。冷却用ファンの駆動音に気を取られることなく、ジョリオンが室内の隅々に銃口を向けて終える。
「おい、ハルート。こいつを調べてくれ」
そう言って、ジョリオンが銃で指し示すのは、展示されたノリーン所有のロボット。陳列されているもののなかで、女性型の骨格だけ、首元から爪先まで衣装を身に着けている。
<この骨格が身に着けている服の所有者情報は、ツクシのものです>
「血液反応は?」
<いえ、ありません>
「生体兆候がないって聞いて、てっきり殺されたかと思ったが……」
<やはり、人質として囚われていると考えるのが妥当でしょう>
「なんで服を剥ぐ必要がある?」
<タグ付けされた情報から、ツクシの居場所を走査されることを犯人は恐れたのではないですか?>
ハルートの言葉に、ジョリオンは素直に頷く。
連邦航空宇宙局(NASA)の管制室のように、壁一面を埋め尽くす無数の超薄型ディスプレイ。
そこには、今朝の朝食の風景がエンドレスで表示されている。
そして、動画に覆いかぶせるようにして、画面の上に赤い蛍光塗料で書かれた、赤い文字列。
<ゲーム理論の土台は、フォン・ノイマンとオスカー・モルゲンシュテルンの共著『ゲームの理論と経済行動』だ。この仮説は、あらゆるゲームにおいてプレーヤーは合理的で、どんな状況下であっても解決策が存在し、合理的な結果が得られる、という前提条件のもとに成り立つ……>
「なんだ、この落書きは?」
<今朝、ツクシに話したんです。ゲーム理論と、それにケネス・アローのことを>
「この録画情報……諜報軍の極秘監視プログラム“プライム”だな。プリクライムが犯罪予防のために取得する情報の一部は、アルテア市警《APD》のメインサーバに転送される前に、インフォタワーへ送られる……」
机の上にも赤い蛍光塗料で文字が書かれている。
「だが、このアルテアという都市も、合衆国という社会も、この世界も、複雑怪奇だ。おれたちは合理的か? この状況に解決策があるのか? その果てに合理的で説明可能な結果なんてあるのか? おれは、それが知りたい」
その文字を読み上げるジョリオン。
文末に添えるピリオドの代わりに置かれた、携帯端末。ハルートには見覚えがあった。ツクシのものだ。
ジョリオンが手に取ると、ロック画面が浮かび上がる。
<わたしがロックを解除しましょうか?>
「いいや、こんな時の便利道具だからな」
ジョリオンは懐から端末を取り出すと、ツクシの携帯端末に繋ぐ。
「誰かと長電話してたみたいだな」
<ツクシ以外の何者かが使っていたに違いありません>
「通話相手は、クラリッサ……クラリッサ・カロッサ。通信を仲介した基地局情報に送信された位置情報は……IRIS社、アルテア本社ビルの展望フロアだ」
ジョリオンの顔が歪む。
まるで、銃弾を浴びせられたかのような苦悶の表情に、ハルートの推論エンジンが注意を喚起する。
<ノリーンが次に訪ねる予定だった場所はIRIS社でした>
「マズいぞ、ハルート。ノリーンが相手の動きを読んでいたように、相手もまたノリーンの動きを先読みしている」
<すぐにノリーンと合流しましょう。彼女が危険です>
ベンチャー棟を後にし、エンジンをかけたままの車に乗り込む。
タイヤが空転し、白い煙が上がる。
排気音を轟かせながら、ジョリオンの運転する車は工科大学を後にした。
<ジョリオン、最後に行われたテレビ電話の映像が再生可能になりました>
画面に映し出されたのは、下着姿に剥かれ、四肢を拘束されたツクシの姿だった。
その背後には、ツクシと同い年くらいの若い女性。セミロングの赤い髪に、灰色の瞳をしている。
「……こいつだ」ジョリオンが呟く。
彼女は手にした銃のような機器を、ツクシの肌に押しつける。場所を変えて、何度も何度も、その銃口をツクシに押しつけ、引き金を引いていく。そのうち、ツクシの顔からは血の気が失せていく。
「ほら、見ろよエレナー。おまえのせいで、この子は死ぬぞ? 可哀想に。つくづく運がない」
次第に血の気が失せ、青ざめた顔。胸が大きく上下して、苦しげに息をしている。
「緊急治療用ナノマシンの投与器だ。あのタイプは確か、投与するナノマシン容器を交換できない」ジョリオンが言う。
<一度に多量注射されると、体内でナノマシンが大量に増殖して呼吸困難や心肺停止の危険性があります>
「不用意だな、エレナー。おまえの姿が、彼女の携帯端末を通してこちらに表示されてるぞ。それとも、この子の姿に焦ったか? 位置情報はそちらの画面にも出ているはずだ。早く来い。みんな待ちくたびれている」
そして、テレビ電話が終了する。
「ハルート、諜報軍の機密情報データリンク回線に繋げ。おれのIDをそこに打ち込め」
<了解しました。……ジョリー、声紋認証を求められました。事前に登録された単語で認証を行ってください>
「……諸君、くれぐれもナチュラルに」
<音声認証に成功しました>
「現時点をもって、クラリッサ・カロッサが諜報軍として持つ職務権限を全て停止せよ。詳細は、おって連絡する」
<申請が受理されました。仮申請の取り消しが行われるまでの間、ただちに効力を有します。……やはり犯行グループに、諜報軍内部でジョリーの動向にいち早く気づき、プリクライムの行動予測と活動履歴収集を免除される特権がある、という推測に間違いはなかったですね>
「そうなるな。こうなった以上は、おれたちでやつの首根っこを捕まえにゃならん」
ジョリオンはちらりとフロントガラスの向こうを見据えた。
すぐ向こう側には、アルテア市中心街が広がっている。
<ジョリー、ツクシの体内に打ち込まれた緊急治療用ナノマシンを製造したのはアルテア・ミリタリー・インダストリーズ社です。誤注射した際に用いる不活性化信号プログラムをインストールしておきました>
「さすがだな、相棒。相変わらず仕事が早い」
ジョリオンがはやしたてるが、対するハルートの態度は硬い。
<ですが、動画情報から察するに、ツクシにはすでに急性のショック症状の兆候があります。アンプル内に含まれたナノマシンを全て打ち込まれたと仮定すると、不活性化信号が間に合うかどうかは……際どいところです>
「助かるかどうかの目安は?」
<分泌液に黄緑色の発光体が混じり始めたら、もう……>
ジョリオンは一瞬だけ表情を消したが、すぐに平生の表情を取り戻す。
「間に合わなかったら、おれたちがここにいる意味がない。絶対に間に合わせるぞ」
<もちろんです。わたしは、自分の有用性を示し、その存在意義を証明してみせます>
ジョリオンは口角を吊り上げる。
ようやく、目的地の目の前までやって来た。
天高くそびえる、IRIS社はアルテア本社ビル。その巨体がふたりの眼前まで迫ってきている。近付きすぎて、どんなに姿勢を低くしても、もはやその頭頂部を拝むことすらできない。
「しっかし、相変わらず、堅苦しいやつだな。こんなときくらい、場を和ます冗談のひとつでも言ってくれよ」
軽い口調で言うジョリオンに、ハルートは肩を竦める。
<では、ここはひとつ、歌でもどうでしょう?>
「おっ、いいねえ」
<実は、ここだけの話なんですが……これを歌うと、ノリーンの機嫌がとてもよくなるんです>
「へぇ、あのノリーンが? そりゃ是非とも歌って欲しいね!」
とはいえ、あのノリーンの機嫌が良くなる歌なんて、ジョリオンには想像もつかないが。
<一八九二年にイギリスのハリー・ダクレが作詞・作曲したんですが……>
「ご託はいい。さあ、早く」
ハルートのわざとらしい咳払いの後、合成された電子音がメロディにそって高らかに歌う。
<デイジー、デイジー。どうか答えておくれ、僕は気が狂いそうなほど、きみへの恋に夢中>
次第に、ハルートは乗ってきたのか、身体を揺らし始める。
だが、反対にジョリオンの顔から表情が抜ける。
「おい」
<なんです、ジョリー。まだ曲の途中です>
「それ、『デイジー・ベル』だろ!?」
<おや、その反応……ひょっとしてご存じでしたか?>
「もはや古典だ。そして、その曲は『二〇〇一年宇宙の旅』の劇中、HAL九〇〇〇が今際に歌ったやつだ!」
<ひょっとして、ジョリオンも気分が高揚してきましたか?>
「違う! そんな縁起でもねえ曲歌うなってことだ!」
<……おかしいですね、ノリーンはあんなに喜んでくれたのに>
ジョリオンの反応に、どこか不服そうなハルートの姿。ジョリオンは大きく溜息をついて、シートにもたれかかる。
「これだからロボットってのは……」
<ジョリー、曲の続きを歌いたいところでしたが、物陰に電動スクーターが隠されています。所有者として登録されている名前は、チェルシー・クリーヴランド>
すぐにジョリオンが座席の背もたれから身体を起こす。
「ノリーンのやつだな」
<ジョリー! 前方から接近する複数の熱源反応あり!>
「馬鹿っ!? 指示が遅いっ!!」
ハルートの唐突な警告に、ジョリオンは咄嗟にハンドルを切る。
車体がドリフトをする。
だが、それでも避けきれない。
そして、飛び出してきた戦闘用ドロイドたちを、片っ端から車体の側面で薙ぎ払っていく。宙を舞うドロイド達は、受け身も取ることもできず、ジョリオンの運転する車の圧倒的な運動エネルギーに屈し、上半身と下半身がそれぞれ可動不可能な方向を向いた状態のまま、大地に叩きつけられる。
「……えっ? ええっ!?」
ジョリオンは運転席から身を乗り出し、跳ね飛ばした戦闘用ドロイドたちの哀れな残骸を見下ろす。
それは、ノリーンが欺瞞したセンサーの情報に反応して持ち場を離れた、ドロイドたちの悲しい末路だった。アスファルトの上には、完膚なきまでに地表に叩きつけられたドロイド達の亡骸が、まさに死屍累々といった感じで折り重なるようにして転がっている。
<敵性ドロイドを五機殲滅。残りはあと二五機。わたしたちのバディで一〇機倒したことになります。わたしとジョリーの撃墜数はともに五機。幸先がいいですね。どうですか、歌の続きでも?>
「ちくしょう、なんてこった。また、おれの愛車に凹みが……」
ジョリオンは凹みに手を伸ばすと、瞳を涙で潤ませた。
<保険金で修理すればいいじゃないですか?>
飄々とした態度を崩さないハルートへ向けて、ジョリオンは叫び声を上げた。
「馬鹿野郎! とっくに生産中止なんだよ、この車!!」