百鬼夜行《パンデモニアム》
非戦闘回です。
冗長・難解・退屈だと思ったら容赦なく読み飛ばしてください。
この章が事実上の最終回になると思います。
ハルート、ジョリオン、ツクシ、それに教授を乗せたステルス無人ヘリは、アルテア市中心街から遠く離れた、北部の中華街ノース・チャイナ・ペンタゴン方面へ機首を向け飛行を続けていた。
今、ヘリの下には、穏やかな牧草地帯が延々と広がっている。周囲に家屋や人影はない。一般道というよりも「農道」と表現した方が適切な、心もとない細い道、それが地平線の先へ延々と続く。
彼らの目指す目的地は、この一見するとなんの変哲もない大地の下に、巧妙に隠匿されたジョリオンの隠れ家だ。
ハルートは記憶ストレージからサーティンとの戦闘データを呼び込むと、独自に情報を解析していた。
IRIS社のロストナンバーをもとに開発された、クラリッサの私兵。通常のドロイドの三倍のニューロ・シナプス・チップと疑似神経、そして、自らの未来を狭めようとも戦いを志向する、極度なバイアスのかかった意思決定システム……。
自己の保存を度外視し、戦いに価値を置くサーティンの姿に、ハルートは形容しがたい、複雑な何かを感じていた。
サーティンがハルートに向けたもの。それは、紛れもなく、殺意の発露だった。彼は、本気でハルートを破壊しようとしていた。
もしも。サーティンに感情が、そして欲求を持つことができるのであれば、きっと自分にもそれを獲得することができるはずだ。それは、いつかではない。それも、何百年という長い長い時の果てにようやく得られるものでもない。
たとえ、その強く激しい欲求のせいで自滅する道を突き進もうとも、クラリッサは自らのドロイドの頭部ユニットに、それを組み込んだ。
推論エンジンが導き出した分析結果を見て、ハルートは確信を深める。
その時、東の空から放たれた橙色の光が薄闇を切り裂いていく。
黒塗りの空が次第に押しやられていき、かわりに赤々とした光の帯がたなびき、塗りつぶされていた眼下に広がる風景の詳細が明らかになる。
「……不思議。もう朝なんですね」
ハルートの傍で横になっていたツクシが上半身を起こし、目を細めた。
追加拡張ユニットを纏ったハルートは四枚の高機動ウィングを折り畳み、邪魔にならないように佇んでいた。
外の様子を窺おうと外部ディスプレイに近付くツクシの動きに合わせ、身体を微かに動かして彼女の視界を遮らないようにする。
<ツクシ、もう起きてしまって大丈夫ですか?>
「うん、平気。そんなに心配してくれなくても……わたしは大丈夫ですから」
そう言われても気遣いを忘れないハルート。少しでも安心させようと、ツクシははにかんでみせる。
ハルートは起き上がった際にずれた毛布の裾を引っ張ると、ツクシの身体にかける。
壊れ物に触れるような、慎重でそして優しげな手付きに、ツクシは満足げに笑う。
「でも、昨夜は本当に驚きました。ハルートの、あのたくさんの溢れるほどの情報の渦。あれは、包摂アーキテクチャですか?」
包摂アーキテクチャ。
知的な動きを多数の単純な振る舞いに分割し、振る舞いの階層構造を構築するという人工知能の概念だ。この階層は目的に沿って実装され、上位層になるにつれてより抽象的な概念を形成する。
階層は各種センサー群などの入力系が走査する情報を参照し、出力系に伝達される。利点は、各々の階層の持つモジュール性がリアルタイムシステムの反復型開発と馴染みやすく、限定されたタスク固有の知覚機能を行動に直結させられる点にある。
また、低速な上位の階層に対し下位の階層は高速な適応機構――それは人間にとっての反射に相当する――が反応することで、瞬時により最適な手段を選び取ることを可能にする。
「知識でしか知らなかったことを目の当たりにして、ちょっと驚いています。包摂アーキテクチャを採用されたドロイドは、野生動物のように俊敏で、遅滞なく動けることは知ってましたけど……」
そこまで言って、しかしツクシはそれから先のことを話そうかどうか、しばしの間迷ったように言いよどんだ。
だから、ハルートはその先を促そうと、ツクシの腕に手を触れる。「何を言われても、わたしは気分を害しませんよ」という意味合いを持つ行動だった。
触れたハルートの手を、ツクシの手が捕えると握り返してくる。
そのほっそりとした長い指の感触に、ハルートはなぜかノリーンとの差異を見出してしまい、困惑した。ノリーンの指とは、そしてノリーンとはなんの関連性もないのに。なぜ、関係のないノリーンの存在を意識してしまうのか。
「でも、あの人を助けたとき、ハルートの情報が頭に流れ込んできて、あなたの頭のなかに潜む無数の情動と欲求に……ちょっとびっくりしました。いつか学ぶものではなく、すでにハルートにはあったんですね」
少しだけ迷ったツクシだったが、ようやくそれを言葉にして吐き出す。
「ただ、それが『感情』なのだと知らないだけで」
ツクシの言葉に、ハルートはどう返答しようかと思考を巡らす。
推論エンジンがいくつかの返答を検討し、言語エンジンが今のハルートの想起した応答を文章にしたため、対人関係アプリケーションがツクシの気分を害さないように、細心の注意を払う。
<確かに、わたしに組み込まれた包摂アーキテクチャ、その階層の振る舞いは人の感情や情動によく似ています。理性による判断はどうしても処理に時間を要します。突き詰めてしまえば、理性に価値判断を任せていては、人間は物事を一切決定することができません>
「全ての条件を考慮し始めると、何も行動できなくなってしまう。ロボットや人工知能の発展を妨げていた『フレーム問題』に似ていますね」
ツクシは柔らかい表情のまま、話を続ける。
「感情は理性をショートカットして即応性の高い判断を下します。危機に、瞬時に対応できるように。そういう意味では、ハルートの頭部ユニットにある階層とわたしの頭にある感情や情動は、ほとんど同じなんじゃないでしょうか?」
ツクシのどこか嬉しそうな表情に、ハルートは言葉に詰まる。
<両者の機能は非常に似通っていますが、本質的には異なります>
「そうでしょうか? わたしには両者に違いなんて、見出せません」
<ですが、ツクシも感じたはずです。わたしのなかに潜む、違和感を>
終始変わることのないハルート電子音声に、ツクシは不思議そうに首を傾げた。
「確かに、違和感は感じましたけど。でも、それは普通のことなんじゃないですか? わたしは固い外骨格に覆われているわけじゃありません。『コウモリであるとはどのようなことか?』ではありませんけど、ハルートの内蔵する複合センサー群による知覚は、人間であるわたしには到底言語化できない、不思議な体験でしたし」
それでも、それが心底嬉しいのだと打ち明けるように、ツクシは優しく微笑む。
「ノリーンに連れられて、少しずつ学んでいくハルート。知識はたくさんあるのに、どこかズレていて、子どものように好奇心が旺盛で……。それでいて、大人びていて、優しい」
<人質救出に関する情報しか共有データに指定していなかったのですが、そんなところまで知られていましたか>
思ってもみなかったツクシの言葉に、ハルートは驚きを隠せない。
共有し、閲覧を許可した情報はしっかりハルートが検討し、逐一その状況を確認していた。セキュリティ・レポートにも異常はなく、ましてツクシがハルートにクラッキングを仕掛けたわけではないというのに。
「……もしかして、嫌でした?」
<いえ、それはわたしの落ち度です。何分、初めてのことでしたし、十分に予測ができていませんでした>
心配そうに見上げるツクシの視線。
そんな瞳で見つめられると、ハルートは困惑してしまう。自分に求められていることも、使命も全てわかっている。
だが、今、ツクシがハルートに求めていることは、ドロイドの自分のできる範疇を、超えているような、そんな気がした。
<ですが、結果的に得るものは大きかったと思っています。ジョリーの仲間を救出できたことが何よりも大きいです。それに、ツクシの膨大な記憶や思考回路、人格。様々なことをより直接的に知って、わたしは自分自身をより客観的に見ることができ、そして人というものをよりよく理解できたと思っています>
ツクシは頬を薄ら赤く染めながら、ハルートの身体に寄り添う。
ハルートの複合装甲の上に張り付けられた極薄のスマートスキン・センサーがツクシの温もりと柔らかさを伝えてくる。
「わたしもです、ハルート。わたしもハルートのことをより広く深く知ることができて……とても、とっても嬉しかったですよ」
ふたりの間に、沈黙が降りる。
だが、不思議と気まずいとは感じない。ツクシも、この一時を楽しんでいるように見える。決して、微笑ましい出来事だけではなかったけれど、それでもふたりはこうして同じ時を過ごしている。
それは、きっと尊くて価値のある瞬間の連続なのだろう。
それでも、ハルートの奥底では、ツクシのかわりにノリーンを求める声が、あるいはツクシの存在をノリーンに置き換えて認識しようとするエラーが生じ、ハルートは湧き上がった出力結果を修正しようとする。
<ところで、ツクシ。あなたは包摂アーキテクチャの欠点はご存じですか?>
特に、深い意図のある問いではなかった。
むしろ、こういった類の質問とは無縁だったハルートは、自ら訊ねておきながら、我ながら柄にもないことを、と不思議に思った。
「包摂アーキテクチャのデメリット、ですか?」
ツクシはハルートを見つめながら、短く唸ってみせる。
自分の考えが大体まとまったようで、躊躇いがちに口を開く。
「そうですね。 あまりに多くの階層が構築されると各階層の目的が競合して、機能不全に陥ること、だと思います。冗長性を得るはずの機能が、逆に仇となってしまうんです。まるで、ときに人が逡巡し、葛藤し、そして躊躇するように」
先ほどからツクシの主張には、人とドロイド、そしてツクシとハルートに共通する要素を必死に考えているように、ハルートには見えた。
それがなんだかとても申し訳なく感じてしまう。
何より、気遣われるのにハルートは慣れていなかった。ただ、ツクシがハルートを認め、同じような振る舞いをこころがけてくれるその姿勢には、感謝したかった。自分の価値を認められて、嫌な気分にはならない。
<ツクシ、わたしを気遣ってくれて、どうもありがとうございます>
「いいえ。これは、慰めとかじゃなくて……本心なんですよ、ハルート」
優しく笑いかけてくれるツクシに、ハルートはどこか恐縮したような趣で答える。
<ですが、わたしは残念ながら、人とは違うのです。きっと、わたしが一〇〇パーセント、人間の神経系を模した疑似神経で構成されていれば、いつかきっと人にもなれたのでしょう。でも、わたしは、情報処理プロセッサをはじめとする電算系と、ニューロ・シナプス・チップで構成される並列系の三種類から構成された、ドロイドなのです>
ハルートは従来のコンピュータ的な処理を行う情報処理プロセッサの電算系、推論エンジンや中枢演算システムであるニューロ・シナプス・チップで構成された並列系、そして人工的に生成された疑似神経で形成された生体系という、三種類の機関からなる、複合知性体だ。
電算系は正確無比だが融通が利かず、常に自らが置かれた状況を参照して行動不能に陥る「フレーム問題」から逃れられない。その度にエンジニアたちがプログラムを組み込まねばならず、組み込まれれば組み込まれるほど冗長性は失われ、汎用性を失っていった。
<そこでノリーンは、わたしに人間の脳を模した生体系を組み込みました。ある程度学習すれば、あとは自分で情報を解釈できるようになります。生体系は、莫大な情報を濾過するフィルターの役割を果たし、優先順位に従って取捨選択できるようになります>
一方で、生体系はヒューリスティックや認知バイアスなど、人間である以上は避けられない過ちまで模倣してしまう。それは、人が機械に古くから求めてきた正確性を損なう、重大な欠点であった。
そこで、ひとつひとつが並列処理で動く、一〇〇〇〇〇〇個以上の超微細チップで構成された並列系のうちのいくつかがつねに「自己を参照」し、その差分をリアルタイムで検証する。
ときに、他のタスクや階層、別系統の機関が割り込みをかけ、情報資源を横取りし、出力を上書きしたりすることもある。
そうすることで、各階層間と、異なる三つの機関は互いに欠けた特性を補ってきた。
「脳の各モジュールを構成する、雑多な欲求間を調整する。人とよく似ていますね」
それでもツクシはハルートとの類似点を見出そうとしてくれる。
その健気さに、ハルートはなんとも形容しがたい、不思議な負荷を感じた。電算系と並列系を備えた人類がいたとしたら、きっとそれは旧来の人間とは明らかに異なるはずだ。そして、それはおおよそ「人間」の範疇から逸脱してしまうだろう。
それでも、人間の要素を備えると指摘してくれるツクシの優しさに、ハルートはどう応じていいものか、判断がつかない。率直に、嬉しさを表明すればいいのだろうが、どういう風に伝えれば、そのニュアンスを正しく伝えられるだろうか。
<本当に、ツクシは優しいんですね>
「えっ!? ええっと、だから……本音なんですって!!」
<ええ、もちろんわかっていますよ、ツクシ>
顔を真っ赤にして怒るツクシを、ハルートはどうにかして宥める。
<そうですね、他に違うのは、意識を持つ自己の時間です>
「……意識を持つ、自己?」
ハルートの予想だにしない言葉に、ツクシは思わず目を丸くする。
その言葉の裏に隠された真意をはかりかねて、ツクシはハルートの細かな動きに滲む意図を必死に読み取ろうとする。
<ベンジャミン・リベットの主張によると、人は決意を意識してから、実際に行動するまでに約〇・二秒の時間差があります。脳から手などへの情報伝達には〇・〇五から〇・一秒ほどの時間がかかりますから、意識を持つ自己に残された時間はたったの〇・一秒しかありません>
「……〇・一秒」
そのあまりの短さに、ツクシは絶句してしまう。
<はい。〇・一秒。この〇・一秒で、無意識のうちに決定された選択をそのまま実行するか、それとも選択を中止するか決定できます。そここそが、自由意思の入り込む余地のある、最後の砦になるのです>
「つまり、自由意志は、禁止する力のなかにある、と?」
<わたしは、そうとらえています。ヴィラヤナー・ラマチャンドランの言葉を借りれば、「わたしたちの意識が持っているのは、自由意志ではなく『自由否定』かもしれない」と>
〇・一秒という刹那にしか存在しない、自由。
それも、それは二者択一のうちの拒否権でしかない。自由という言葉がもし「他の存在から束縛を受けずに、自分の思うままに振る舞う」ことだとしたら、そこに「自由」と形容できる何かは存在しないだろう。
ツクシは思う。それははたして、人が普段から尊ぶ「自由」に相応しい、価値のある存在なのだろうか。
「ですが。それがどうして、わたしとあなたが違うことになってしまうんでしょうか?」
<わたしは、意識を持つ自己がたくさん存在しすぎるのです。無数の、数えきれないほどの『わたし』がいて、『彼』らはみなひとしく〇・一秒を持っています。わたしがひとりに見えるのは、ただ単にノリーンが与えた身体がひとつしかないからです>
ツクシはなんと答えていいのか、すぐにはわからずに沈黙してしまう。
<いいえ、この表現には語弊がありますね。そもそも、わたしは……この『わたし』という意識は、異なる系統の三機関が駆動の際に生じさせた、副産物なのです。おそらく、ノリーンは階層や各モジュール群を統括する中枢系を作りたかったのだと、思うのですが……。つまり、わたしが何かを主体的に決定しているわけではないのです>
「でも、それは人間も同じです。脳のなかに小人は存在しません。もし、頭蓋骨にとらわれた脳のなかに何かが潜んでいるというのなら……それは『意識』という百鬼夜行です」
ツクシはハルートの固い身体を抱き締める。
そして、きつく腕で包み込んだ。ハルートの複合装甲の表面に赤外線特性を押さえるコーティングとともに施された超微細センサー群が、ツクシの柔らかくて暖かい身体をつぶさに読み取って、ハルートに伝達し続ける。
「脳の情報処理において、ひとつの統合的な脳なんてありません。『意識するわたし』なんて、脳のどこにも、神経細胞を繋ぐニューロンの間をいくら探してもない。実際は、脳は情報を空間的・時間的に分散されたかたちで処理しながら意識を生産します。だから、脳の特定の部位を選び出して、特権的な意識の座だなんて……どこにも見出せない」
ハルートは首を左右に振ろうとして、やめた。
人の尊さをわからないツクシではないと推考したからだ。ただ、ツクシはハルートの自我を肯定し、認めてあげたい一心なのだろう。そこに、悪意や打算はない。むしろ、それはハルートにとっては誇るべき、そして喜ぶべきことなのだろう。
そう、それはノリーンやジョリオンが、ハルートを良き相棒として認めてくれているように。ツクシもまた、ハルートを大切で、かけがえのない仲間だと認めているからこそ、必死に励まし、勇気づけてくれるのだろう。
そのことに思い至ってもなお、ついハルートは口にしてしまう。
口にせずにはいられない。
<……ツクシ、ネズミも後悔することを知っていますか?>
「えっ? いえ……」
唐突な話題の変更に、ツクシは面を食らってしまう。
<後悔は人間の専売特許ではないんです。ラットの失望、反応と程度はもちろん個体によって異なります。ですが、高度な脳機能などなくても、ある程度の脳容量さえあれば、後悔をする余地が残されているんです。後悔の機能。それは、強く後悔すれば、その痛みに基づいて未来により良い決断を下せる、ということにあります>
「……それは、つまり?」
ハルートが広げる意外な説に、ツクシはどうすればいいのかわからず目を丸くする。
<わたしには、後悔することが難しいのです。試行錯誤はできます。学習もできます。それこそ、人と同じくらいに。人間には誤りがつきもの《エラー・イズ・ヒューマン》、という意味では、わたしも立派な人間でしょう>
ハルートが設けた、一瞬の沈黙。
その時、ハルートが何を言いたいのか、ツクシはわかってしまい、無防備な顔を晒してしまう。
<ですが、わたしは人間やネズミとは異なり、後悔を味わえないのです。ただ、より良い決断をしたい、という階層やノリーンの役に立ちたいという階層があるだけで。この身体は損傷します。ダメージコントロールシステムも備えています。被害を想定し、破損に備えるプログラムもあるのに……『わたし』が後悔を抱くことも、心が張り裂けることも、痛みが苛むこともない。わたしは未来により良い決断を下す自信はあっても、後悔を胸に刻むことはできないのです>
どんな言葉で彼を励ませばいいのか、ツクシにはわからない。
すぐに答えが思い浮かばない自分の無力さに、ツクシは愕然となる。傷付いたハルートを癒すために、理性や慈悲があるはずだ。なのに、今のツクシには彼の苦しみや悲しみを癒すような、そんな言葉が口から出てこない。
彼へ道を指し示すことができない。
「……それは、ハルートにとって必要なものですか?」
きっと、それは必要であるだとか、不必要であるだとか、そういった次元の話ではない。なのに、ツクシは訊ねてしまう。ノリーンは後悔に苦しむハルートの姿など、見たくはないのだという一般論も、彼にとってはおそらく答えにはならないのだろう。
そう思うと、正解がわからない。わからなくて、もどかしい。
<ええ。わたしは、生きるということは、後悔ができるか、そしていかに後悔するかだと思っています。悔いなき選択などありえません。それは、何も学んでおらず、痛みも感じず、良き未来を夢想しない、空虚な生き方です>
ハルートは不意に頭を上げる。
<以前、ジョリオンがわたしに言った言葉があります。『ハルート、おまえは後悔を経験で学ぶことが、賢いと思うか?』と。後悔先に立たず、後悔を経験で学ぶことは決して賢いことではありませんが……それでも後悔を経験として学ぶこと、それが人を人たらしめる要素なのだと、わたしは思っています>
ハルートの頭部ユニットに、当然ながら表情はない。
なのに、ハルートの横顔はなぜか寂しげに見えた。
それはきっと、情報を解釈するツクシの思い込みなのだろう。それでも、ツクシにはハルートの悩みが痛いほど伝わってくるような、そんな気がした。
「変なの。後悔したい、だなんて」
本当は、もっと別の言葉をハルートに送りたかった。
でも、ツクシにはそれができない。
だから、せめて心に浮かんだ言葉を、偽ることなくそのまま伝えることにした。
それが、ツクシにできる誠意の表し方だった。
「……きっと、辛いですよ。心に深い悔いがずっと残り続けるんですから」
<ツクシからすれば、きっと贅沢な悩みなんでしょうね。ですが、わたしはそれがなんであるのか、体感してみたいのです。アルゴリズムの相関関係が導く未来予測などではなく、胸を苛む痛みが指し示す、見果てぬ先まで続く未来への道を>
ツクシの気持ちが通じたのか、あるいはハルートの対人コミュニケーションアプリの優秀さか、ハルートは優しくツクシの肩を抱く。
<不思議な気分です。まさか、このわたしが……後悔したい、だなんて。わたしはドロイドなのですから、ただノリーンのお役に立てれば、それで十分なはずなのに。なぜ、こんな階層が生じ、それが他のエージェントに棄却されないのか、不思議でなりません>
だけど。ツクシは思う。
その戸惑いこそが、誰よりも人間らしいのだと。
今はまだ、それがハルートの望むものではないのかもしれないけれど、いつかきっと、欲しているものを得るための道筋になるんじゃないか、そうツクシは思わずにはいられない。
「……ひょっとして、わたしのせいでしょうか?」
<その可能性は、十分ありますね。人の、ツクシの意識や意思決定過程の解析情報が、わたしの学習フィードバックに想定以上の影響を及ぼしているのかも>
その言葉に、ツクシは弱々しい笑みを浮かべた。
「だったら、きっと……後悔もできるようになりますよ」
<なぜでしょうね。そう言われると……なんだか、怖いです>
そう言いながらも、どこか嬉しそうなハルートの電子音声に、ツクシは相好を崩した。