夢を食う病 前
さぁ、幕は上がった。
【侵食する病】
誰彼時の海にぽかりと浮かぶ様に存在する『時計屋夢本舗』
そこの店主は、もう随分長い間店に戻って来ていない。
嘗て店主が奏でていたであろう、美しい曲線を描く木製の弦楽器には、この空間に相応しくも黒い砂が積もっている。
物音ひとつ立てずに寄せて返す波。
際に立てども飛沫を浴びる事も出来ない海。
主を失った黒の世界は、正しく『無』そのものであった。
【漆黒】
其処は暗闇をも取り込まんとする、漆黒。
「これは困りましたね」
漆黒の世界に浮かぶのは、闇色の燕尾服とシルクハットを身につけた影。
影の主に名はない。
ただ、影が常から呼ばれる呼び名ならばひとつある。
案内人。
それが影の呼び名だ。
闇色が黒一色の世界―闇色曰く誰彼時の海以外に現れる事は稀だ。
何よりも闇色があの空間から他の空間へと『自身の都合』で渡る事などあり得ない。
だからこそ、と言うべきか。
闇色は珍しく困惑の色を滲ませた声で、ポツリと呟いた。
「案山子に何も告げずにやって来てしまいましたね……。チェロの手入れを頼み損ねましたが、大丈夫でしょうか」
声色こそ戸惑えども、闇色の立ち居振舞いや表情は、普段と何一つ変わる事がなかった。
ゆらりふらりと漂っていた闇色の前に、突然カラフルな影が現れた。
黄金色の髪を緩かに波立たせ、空色のワンピースを身に纏った小さな少女が一人。
そしてその側に、溶け込みそうな漆黒のウサギ型ぬいぐるみ。
現れたそれに、闇色はそっと近付いた。
「ごきげんよう、小さなお嬢さま」
シルクハットを脱いで一礼した闇色を見上げた深緑の瞳は、決壊したダムの様だった。
白磁の肌を滑り落ちる涙をそのままに、少女は呟く。
「あなた、だぁれ?」
問われて闇色は微笑みを浮かべながら。
「残念ですがお嬢さま。わたくしはこの世界で名を持ちません。宜しければお嬢さまの好きな様にお呼び下さい」
脱いだシルクハットを頭に戻し告げた闇色を見つめたまま、少女が再び口を開いた。
「なまえがないの。ならわたしとおんなじね、ななしさん」
「……お嬢さまにも名がないのですか?」
闇色の問いに、頷いて少女は側にあるぬいぐるみを抱き上げた。
「このこが、ぜんぶたべちゃったのよ」
刹那。
闇色の瞳に剣呑な光が宿る。
やおら右の人差し指で勢い良くウサギを指した。
「あぁ、何という!この空間の意味、たった今理解致しました。お嬢さまが名を無くされた理由も得心しました」
指先と鋭い視線、そして辛辣な口調。
全てを以て攻撃を加えんとばかりに、闇色は言葉を続ける。
「漆黒の道化、悪い夢、招かれざる魔。貴方さまの仕業ですね。 道化師」
ウサギが、笑った。
【笑い兎】
それは不気味な光景とも言えた。
「やぁ創砂者!ごきげんよう!そしてようこそボクの世界へ!」
闇色の膝下程の丈だというのに、漆黒のウサギが醸し出す雰囲気は誰よりも大きかった。
闇色を『(()創砂者』と呼んだウサギは、にたりと笑いながら手を振ってみせる。
あからさまに顔を歪めて、闇色はぬいぐるみを抱いた少女をねめつけた。
「その呼び方でわたくしを呼ばないで頂きたい。気分が酷く悪くなります」
闇色の攻撃的な視線を受けて、少女の瞳にまた涙が浮かぶ。
怖がる少女に抱き締められて、ウサギは笑みを深めた。
「おお怖い。キミのせいでこの子が泣いてるよ」
「『食夢病』の患者さまに同情は不要。先程までとは事情が違うのですから、対応も変わります」
眇めた視線で少女とぬいぐるみを見やりながら、闇色は言葉を続ける。
「けれどそうですね、お嬢さま。ひとつだけ忠告させて頂きましょう」
眉を吊り上げたまま、器用に唇の片方だけを引き上げる。
「夢は見るもので御座います。それが例え、道化師に歪められたものであったとしても」
闇色のその言葉に、漆黒のウサギが声を上げて笑った。
―夢を食う病― 前
休曲