死にたがりの女
【プロローグ】
最初に転がったのは、黒で統一された砂時計。
【彼女と終わりも始まりもない場所と】
どれだけ生きれば終わりが見えるのか。
彼女はそれだけを知りたがっていた。
何もない。
正しく言い直すなら、其処には空も海もない。
つまりは、地平線がない。
それは、終わりがないという事だ。
終わりがないのだから、当然始まりもない。
ただその空間には、広大な黒とたったひとつの橙があった。
いつの間にこんな場所に来たのだろう。
彼女はぼんやりとその空間に存在していた。
自分が立っているのか、それとも座っているのか。
目は、耳は、正常に機能しているのか。
そもそも。
自分とは何であったのか。
何もかもがあやふやなその黒に、ただ漂う事だけしか、その時の彼女には許されなかった。
「案内人さま。砂時計が落ちました」
その声に、ふとひとつの影が動きを止めた。
「あぁ、分かっておりますとも愛しいわたくしの案山子。お客さまがいらしたのですよ」
黒の中に、異物があった。
闇色の燕尾服を身に纏い、闇色のシルクハットを頭に乗せたその異物は、柔らかな笑みを浮かべたまま『ひとり』呟く。
「この誰彼時の海に迷い込まれたお客さま。 今度のお客さまはどの様な曲を御所望になるのでしょうね」
闇色 ―案内人と呼ばれたそれは、何処から取り出したのだろう手に木製の楽器を携えていた。
ある世界ではチェロと呼ばれる身の丈半分ほどのその楽器は、闇色が唯一手放さないものだ。
「案内人さま。お客さまがお着きですよ」
黒の世界から響く声に、闇色は肩を竦めながらも笑みを絶やす事はなかった。
「大丈夫ですよ、愛しい案山子」
そこまで口にして、闇色はくるりと体を反転させる。
いつの間に其処にあったのだろう木製の押し戸。
黒のノブが、音もたてずに回される。
現れた影に、闇色は右手を胸に、左手を背に、恭しく頭を下げる。
「ようこそ『時計屋』へ。お客さま」
闇色の前には、扉を開いた張本人。
ひとりの女がぼんやりと立ち尽くしていた。
自分以外の声に、彼女はようやく視線を一点に集中させた。
黒の世界に溶け込む事もなく佇む闇色。
映画や本でしかお目にかかれない様な、燕尾服とシルクハットの出で立ち。
恭しく一礼した闇色は、柔和な笑みを浮かべたままに再度口を開いた。
「ようこそ、時計屋へ。お客さまの御来店、大変喜ばしく又切なく思います」
「……とけいや?」
この不可思議な空間にやって来て初めて、彼女は声を発した。
「ええ。此処は時計屋。誰彼の海に迷い込まれたお客さま。貴方さまの願いのままに、この時計屋はあるのです」
生憎、あるものはわたくしとランタン、そして相棒がふたつだけですが。
笑みを浮かべているはずの闇色だが、その雰囲気は優しさとはかけ離れた。
―まるで、同情している様。
「此処は何処なの?貴方は誰?時計屋ってなに?」
その表情に苛立ちを感じながら、彼女は矢継ぎ早に問い掛ける。
その問い掛けに、闇色は表情を変えずにひとつずつ答えていく。
「此処は誰彼時の海。『たそがれ』は『終わり』と『始まり』の時。全ての終わりであり始まりである場所。お客さまの願いのまま、お客さまの為に現れた場所に御座います」
彼女には分かり辛い説明だが、闇色はこれ以上の説明はないと笑う。
「そして『時計屋』とは、誰彼時の海にいらっしゃったお客さまの為の店。お客さまの為に『過去仮定(If)』をご提供する店」
そして、と。
芝居がかった動作で深く頭をさげながら、問い掛けの最後を答えた。
「わたくしは、お客さまをご案内する『案内人』に御座います」
「過去仮定を『売る』?意味が分からないわ」
彼女の言葉に、闇色はいつの間に何処から取り出したのかも分からない、身の丈半分ほどもある木製の楽器を手に取っていた。
「宜しければお客さま。お好きな曲を奏でましょう。何を御所望ですか?」
何処にも椅子はないというのに、闇色はまるで其処に椅子があるかの様に、当然の様に其処に腰掛ける。
両足の間にチェロを置き、左手を弦に、右手に弓を構えながら彼女へと視線を戻した。
「曲は如何しましょう」
促されて、彼女は唐突に頭に浮かんだ曲名を告げる。
「夢のあとに」
「畏まりました」
黒の世界に、チェロの低音が響き渡った。
演奏が終わる頃には、彼女の脳から『此処は何処なのか』『眼前の闇色は誰なのか』という疑問が消え去っていた。
「お客さまの望まれる『過去仮定』は、此方です」
いつの間にかまた消え去った楽器の代わりに、闇色の手に置かれていたのは、黒で統一されたひとつの砂時計。
何で出来ているのか分からない外装に、中が見える程度に透けた黒い硝子。
そして、落ちきった黒い砂。
「変わった砂時計ね」
その言葉に、闇色は笑みを浮かべたまま頷く。
「お客さまの望まれる過去仮定。この砂時計はそれを具現化しているのです」
「私の、望み……」
黒く、全て砂が落ちきった砂時計。
時を刻み終えて役目をも終えたそれを差し出されて、彼女は僅かに躊躇いをみせた。
「これをどうなさるかはお客さま次第。どうぞご入り用ならばお受け取り下さい」
「受け取って、どうすればいいの」
「それはお客さま次第で御座います。過去仮定を動かすも壊すもお客さまのご自由に」
闇色の表情は変わらない。
黒の世界に溶け込む事のない闇色の手に、確かな存在として其処にある砂時計。
迷い、躊躇い。
それでも願いを捨てる事も出来ず。
甘美な毒に侵される様な錯覚を覚えながら。
彼女は震える指先で砂時計を受け取り、それを反転させた。
「どうぞ、よい夢を」
最後に聞こえた闇色の声が、泡の様に浮かんで、消えた。
【独白】
望みがあった。
願いがあった。
それに気付かないフリは出来なかった。
逆戻る。
私の願いが叶う、その時まで。
逆戻る。
戻る、戻る。
(あぁ、だけど)
願いが叶ったその時。
私はどうなっているのだろう。
(そう。 願いは何時だって)
【過去仮定の彼女】
「……!いい加減起きなさい!遅刻するわよ!」
誰かが大声で誰かを呼んでいる。
「うるっさいなぁ~。今起きるよ!」
呼ばれた誰かが声を張り上げて。
(あれ?)
其処で彼女は異変に気付いた。
(呼ばれたのは、私なの?)
けれど、呼ばれた名は彼女のものではなかった。
呼んだのも、彼女の母ではない。
だというのに、何故声を張り上げて答えたのか。
「……。そろそろ自分で起きられる様になりなさいよ?来年からは高校生なんだから」
「分かってるってばもう!」
また、だ。
彼女の意思とは全く別の。
けれど彼女の意志のひとつとして紡がれる言葉。
彼女にとって全く知らない人を母と呼ぶ事にも、知らない名前で呼ばれる事にも、彼女の体は何の拒絶もおこさない。
(これは何?)
彼女が思いもしない行動と言葉が続く。
そもそも彼女は学生と呼ばれる年齢をはるかに超えている。
しかし何故か、今の彼女の体は学生と呼ばれるに相応しい体型だ。
(何なの。どういう事なの)
彼女には、少なくとも彼女の意志には、今の状況が理解出来なかった。
見知らぬ母に急き立てられて、彼女は学校へと登校し始めた。
「おはよう……!今日もギリギリだねぇ」
「それはお互い様でしょ!」
笑いながら彼女の口からは意図していない言葉逹が紡がれていく。
昨日テレビで見たドラマの話、好きな歌手の話、好きな人の話。
彼女の口が沢山の話を続けるうちに、彼女は徐々に。
(……あ、れ……?『私』って誰、だっけ……?)
……そうだ。
私は今中学三年で、来年には県立の高校に入学する。
朝、私を起こしてくれたのは私のお母さんだ。
何で不思議に思ったんだろう?
次の瞬間、先程まで戸惑っていた彼女の思考は、息を吹き掛けられた蝋燭の火の様に、掻き消えた。
【誰彼】
「案内人さま。先程のお客さまはどの様な夢を見ているのですか?」
黒の世界の中響いた声に、チェロを調弦していた闇色が動きを止めた。
「あのお客さまは、自身が願った世界で過ごされていますよ」
「意地悪な案内人さま。案山子はその世界を聞きたいのに」
不貞腐れた様な声に、闇色は小さく苦笑すると、また何処かへチェロを仕舞い込む。
次の瞬間、闇色の右手に現れたのは白磁のティーカップ。
琥珀色の液体を口に運びながら、ふと瞳を伏せた。
「お客さまの願いは『今の自身がなくなる事』でした。あの砂時計が時を刻みはじめたその瞬間から、あのお客さまは夢を見ている。願いが叶った世界の夢を」
「けれど案内人さま。何故か悲しそうに見えます」
響いた声に、闇色はポツリと呟いた。
「夢ほど悲しいものはないのですよ案山子。けれど、選ぶのはあのお客さま自身でしかない。わたくしは最後の問い掛けをする以外にないのですから」
何処かへ消え去ったティーカップを省みる事なく、闇色はゆったりと歩み始める。
それを確認して、案山子はひと言こう告げたのだった。
「いってらっしゃいませ案内人さま」
黒一色の世界から、闇色の異物が消えた。
人が見る夢を、儚いと呼ぶ。
【誰が見る夢】
学校帰りの彼女が見つけたのは、一言で言うなら変人だった。
夕焼けの空とアスファルトの道、コンクリートの電柱。
それらのどれにも同化する事なく存在する人物が身に纏うのは、今時本の中でしか見る事が出来ない燕尾服にシルクハット。
全て闇色で統一されたその人物が男性なのか、それとも女性なのか、彼女には判断出来なかった。
「其処のお嬢さま」
耳に心地よいアルトが響く。
呼び止められて彼女が足を止めれば、闇色は柔和な笑みを浮かべてみせる。
「砂時計は如何ですか?」
「……は?」
関わらなければよかったと後悔しても、既に彼女は足を止めてしまっている。
(逹の悪い訪問販売みたい)
彼女がそう思っても仕方がない。
そんな空気を、闇色はわざと選び抜いて醸し出している。
「夢が叶う砂時計。お嬢さまの夢が、望むまま、願うがままになる一品です」
その言葉に、彼女の思考は瞬間凍りついた。
何処かで、似た言葉を聞いた事がある気がしたのだ。
闇色の手のひらの中に収まっているのは、黒で統一された砂時計。
差し出されるそれにも、彼女は言い様もないデジャヴを感じた。
(何処かで)
此処ではない何処かで。
(私は、この闇色と)
出逢った、様な。
「砂時計は如何ですか?……お客さま」
頭が、視界が、黒く塗り潰された。
「これが、私の夢?」
呟いた彼女に、闇色は小さく口許を引き上げてゆっくりと肯定の仕草を見せた。
「お嬢さまが『お客さま』であった頃の夢。それが今のこの時で御座います」
闇色の言葉が、砂漠に撒かれた水の様に吸い込まれていく。
(私が、違う)
何かが狂っていく音がする。
「私は……よ。人違いじゃないの?」
必死に守ろうとして口に出す自分の名前が、上手く聞き取れない。
「それを望まれるのならば、強制は致しません。お客さまがお嬢さまとして、この夢の中で生きられる事を選択されるのであれば、わたくしは即刻立ち去りましょう」
「だって。私は……だもの。夢とか願いとか、そんな」
まただ。
また自分の名前が聞こえない。
繰り返し口に出しても、名前だけがどうしても。
「お客さま。夢は見るもので御座います。例えそれが夢の中であっても」
反転。
彼女の記憶は、其処で途切れた。
【夢のあとに】
「安っぽい夢だったのね。私の夢って」
自嘲気味に呟いた彼女に、闇色は片手を背に回した体勢で微笑んだ。
「どなたの夢も同じ価値で御座います。お客さまの夢もまた、他のどなたとも同じなのです」
「同じなんて簡単に言ってくれるわね」
表情を曇らせた彼女を、闇色は笑みを浮かべたまま頭を下げる。
「どなたも同じ。それは当然の事ではないでしょうか?」
闇色が呟く。
「喩え話を致しましょう。地面に小銭が落ちていたとして、果たして何人がそれを拾いあげるでしょうか?」
「そりゃ、何人かは拾うんじゃないの?」
「そう。『何人かは拾う』でしょう。ですがそれは返せば『何人かは拾わない』という事実になりましょう」
まるで子供の言い訳の様な言葉に、彼女は眉をひそめた。
そんな彼女からふいに視線を外し、闇色は静かに口を閉じた。
「消えたかったのよ。生きる事が辛かったから」
突然、何の前触れもなく彼女は語り始めた。
「生まれた時からずっと完璧を求められて、求められるままに完璧であろうとした。息苦しくてたまらなかった」
だから。
だからこそ、と彼女は俯きながら大きく息を吐き出した。
「別の生き方があれば。別人ならこんな辛くはないって思うのはいけない事?」
「いいえお客さま。本当にいけない事など、この世に然程御座いません」
闇色がふいに右手に何かを持つ仕草を見せる。
其処に現れたのは、再び時を止めた黒一色の砂時計。
「お客さまは『躊躇った』。それだけが事実として残された。躊躇いは人が生きる上で最も重要な分岐点なのです。そして」
ふ、と。
其処で初めて、闇色の笑みが大きく変わった。
それは、本当の意味で優しい笑み。
「お客さまは躊躇われた。それは返せば、お客さまはまだ『生きていたい』と、乞い願われている、その確固たる事実で御座いますから」
彼女の瞳が、見開かれた。
そんな彼女を確認すると、闇色は微笑を浮かべたまま、優雅な仕草で深く頭を下げる。
いつの間に脱いだのか、シルクハットを持った右手を胸に。
左手を後ろに回して腰に。
宛ら、歌劇の歌い手の様に。
「此処は誰彼時の海。時計屋夢本舗。わたくしは案内人。お客さまの時が素晴らしく輝くものであります様に」
どうぞ、良い時間を。
彼女が目覚めた時、其処は当然そうであるべき自分の部屋だった。
自分の右手に違和感を覚えて、ゆっくりと視線を移せば。
其処には昨晩まで自分の部屋にはなかった、あるものが握られていた。
「何、これ。これじゃ何の役にも立たないじゃない。どうしてこんなもの、私が持ってるのかしら……」
不思議に思いながらも、何故か捨てる気にもなれずに、仕方なくベッドサイドの小さな棚にそれを置いた。
横には、正しく動くデジタル。
「さて、嫌だけど仕事に行かなくちゃね」
ベッドから抜け出して、クローゼットへと向かう。
何時もと変わらない彼女の朝を、ひとつのものが映していた。
黒一色のそれには、肝心なものがひとつ抜けている。
時を刻むための砂。
砂を失った砂時計だけが、彼女を見守っていた。
―死にたがりの女―
終曲