いつだって君は、
もうすぐゴールデンウィークが始まろうとしている、四月終わりの木曜日。
「んっ……」
布団の中で、わたしはいつになく重苦しい気分で目覚めた。鈍い頭痛が、わたしの意識を眠気から無理矢理引き上げていく。
布団をかぶったまま、重い身体を起こして時計を見る。デジタル時計は、朝の八時を示していた。
今日は一限目からの講義だ。もう起きて、準備をしなければならない。ゆっくりしている余裕は、あまりないのだ。
そうは思っても、焦りの気持ちが一向にわいてこない。むしろこのままもう一度目を閉じて、意識がドロドロになるくらいにまで、思いっきり眠ってしまいたいと思うほどに。
この気怠い感じは、半年ほど前から何度かあった。それゆえにわたしは、ここの所ひと月に一度ほど大学を休んでしまっている。
色んな人に心配や迷惑をかけてしまっていることも、わかっている。それでもどうしても、出かける気にはなれなかった。
どうして自分は、こんなにも弱いのだろう。今年は……一番、頑張らなければならないはずの年なのに。いつまでも、このままじゃいけないのに。
どうしてわたしは、また……。
「んぅ……もう、頑張るのは……嫌だよ……」
誰にも届かない――誰にも伝えていない本音が、口をついて出る。それは一人っきりの狭い部屋の中に、空しく響くだけだ。
「……今日も、休もう」
次に鳴る予定だった目覚まし時計を鳴らないように設定し終えると、わたしはもう一度布団を頭まで深くかぶり直した。
次に目覚めたのは、昼前。携帯電話の着信音の音が、波のようにたゆたう意識を一気に現実へと引き戻していった。
布団から手だけ出して、枕元に置いてあった携帯電話を手に取る。ボタンを押して、耳に当てた。
「……もしもし、」
『凛、どうしたの? 大学内で全然見かけないし、心配したよ。風邪でも引いた?』
受話器の向こうからは、同じ大学に通う友人の心配そうな、いたわるような声が聞こえてくる。
また……わたしは、他人に余計な心配をかけている。こんなわたしのことなんて、放っておいてくれて構わないのに。
「ちょっと……調子が良くないだけ」
ずきずきと痛む頭に顔をしかめながら、笑って答える。電話口でよかった、と思った。今のわたしは、きっとうまく笑えていない。誰かと顔を合わせて、平気でいられる自信なんてなかった。
『大丈夫? すごく調子悪そうだけど……お見舞いに行こうか?』
「いい、大丈夫」
友人の厚意にも、甘えられるような状態じゃない。正直、誰にも会いたいとは思わなかった。きっと……口を滑らせて、変なことを言ってしまう。
「ごめん……明日も、もしかしたら休むかもしれない」
ぼうっとしながらうわ言のように告げると、これ以上話しているのはわたしの負担になるとでも思ったのか、『そっか、わかった。お大事にね』とだけ言って電話を切った。声からにじみ出てくる労りがありがたいと同時に、すごく申し訳なかった。
電話を切ると、もう一度布団をかぶり直す。
自己嫌悪がわたしを襲う。
もう、何も考えたくはなかった。ただ言葉もなく目を閉じて、眠りの波に意識を浮かべてしまいたかった。
ずっと、眠っていたいと思った。現実にはもう……戻りたくない。
それが叶わない願いだっていうことは、わかっているけれど。
◆◆◆
「――渡辺、」
不意に名前を呼ばれる。
声の主が誰だかは、なんとなくわかっていた。わたしを名字で呼ぶ同性の人間など、彼女ぐらいしかいない。
振り向けば、予想通りの人物が立っていた。わたしは微笑みながら、その人物の名を呼ぶ。
「常盤」
あどけない顔立ちをした彼女――常盤紗幸は、昔懐かしい中学の制服を着ている。見れば、わたし自身も同じ中学の制服を身に纏っていた。
――そこで、ようやく気づく。
あぁ、これはわたしが今見ている夢なのだ、と。
今ではもう遠い昔となってしまった、過去の思い出の一片なのだ、と。
常盤紗幸とわたしは、保育園の時に知り合った、いわゆる幼馴染という関係だ。
わたし自身はその出会いを全く覚えていないのだが、彼女いわく『一人で遊んでいた渡辺に、わたしが声を掛けた』ということらしい。その頃のわたしは――まぁ、若干現在もその片鱗は残っているのだが――かなり人見知りの激しい性格で、あまり自分から誰かに近づくことなどなかったというから、きっとそれで正解なのだろう。
幼い頃のわたしたちは、いつも一緒だった。大人たちいわく、『いつも手を繋ぎながら行動していた』とのことだ。実際、その頃の写真に写っているのはほとんどわたしと常盤が二人でいる場面だった。
それはある程度成長しても、ほとんど変わらなくて……小中高と、クラスがずっと一緒だったとかそういうわけではないけど、わたしの隣には気づけば常に常盤がいたし、わたしも心のどこかでそれを当たり前だと思っていたところがあった。
多分常盤も、同じように思っていたと思う。
『小さい頃の渡辺は、鬱陶しいぐらいわたしの後をつけていたよね』
まぁ、今でもあまり変わらないか。
そんなことを、いつだったか常盤が言っていた気がする。
その時は悔しさのあまり『自惚れるな馬鹿』と言って、軽く流したけれど……今思えば、それも必然だったのかもしれない。
きっとあの頃からずっとわたしは、常盤を追いかけ続けている。成長して、身体的な接触をほとんど行わなくなっても。互いに高校を卒業して、こうして別々の道を歩むようになっても。それでも、精神はずっと……。
決して常盤のことを、憧れの存在と見ていたわけじゃない。常盤よりも立派で、尊敬すべき相手は他にもたくさんいる。はっきり言って、兄の方がずっと頼れるし、優しい。
それでも常盤の一挙一動が、紡ぐ言葉が、わたしに何らかの影響を与えていたのは事実だった。
親友……というのとは、ちょっと違う気がする。
確かに幼い頃は、それこそ一番の親友と言っても過言ではないような関係性だっただろう。けれど成長していくにつれ、それはなんか違うんじゃないかという気持ちが湧き上がってきていた。そもそも親友という定義がどういうものかがよくわからないから、はっきりどうとは言えないのだけれど……。
成長していくうちに、わたしたちの関係は少しずつ変わった。呼び方だって昔は『凛ちゃん』『紗幸ちゃん』と呼びあっていたというのに、今では互いに名字の呼び捨てだ。女子同士でこれをやると、まるで互いを快く思っていないような印象を受けるかもしれない。現に、他の友人には『紗幸のこと、嫌いなの?』と問われたことがある。
別に、嫌いというわけではない。ただ……長い付き合いだからなのか、昔より心なしか淡白になっているだけ。親に日頃の感謝を述べるのが照れくさいとか、そういう気持ちと同じ。
多分きっと、そういうことなのだ。
「昨日、学校を休んでいたね」
夢の中で、常盤がわたしに語りかけてくる。その声は、傍からは淡々としているようにしか聞こえないかもしれないが、付き合いの長いわたしには分かる。心底、わたしを心配している声だ。表情も、わずかに曇っている。
夢の中のわたしは、身体の自由を聞かせることができない。実態がないからなのか、どこかふわふわとしているような気分だ。
自分の意志などとは全く関係なく、わたしは口を開いた。
「もう、知っているんでしょう。昨日は――……」
正直、うんざりしていた。
昨日までわたしの身に何が起こっていたのかは、既に周知のことだった。だからこそ周りの人はみんな、わたしを同情の目で見る。母親を亡くしたわたしを、憐れんでいるのだ。
憐れまれるのは嫌なのに。同情されるのは、大っ嫌いなのに。
常盤は、わたしと母親の間にあった亀裂のことを知っている。だからこそ、この話には触れないでいてくれると、思ったのに。
なのにどうして常盤まで、そんなことを。どうして、わざわざわたしの傷をえぐるようなことを――……。
立っていられなくなって、わたしはその場に崩れ落ちた。常盤はそんなわたしの傍らに跪いた。無表情が、うつむくわたしの顔を覗き込む。
「まだ、何も言ってない」
「言わなくてもわかってるよ。お母さんが……」
「後悔、してるの?」
「してるに決まってるじゃない!」
気づけば、頬を大粒の涙がいくつも伝っていた。滴がわたしの頬を離れ、至近距離にある常盤の顔までも濡らす。
常盤は、それを拭おうとはしなかった。だからといって、流れ落ちるわたしの涙を止めようともしなかった。
ただ淡々と、言った。
「今更でも、あんたにはお母さんの想いがちゃんと伝わった。それだけでお母さんには十分だったんじゃないの」
「どういう、こと」
「だから」
そこで言葉を切ると、常盤は手を伸ばしてわたしの頬に触れた。流れ落ちた涙が、常盤のまだ成熟しきっていない小さな手をいくつも伝っていく。
常盤はまるで自身の子供に言い聞かせるかのように、囁いた。
「この世を離れる前に、大事な子供に――あんたに、愛しているという証を残すことができて。お母さんはきっと、満足だったんじゃないかな」
まぁ、これはあくまで部外者の憶測――そうであってほしいという、わたしの勝手な願望なのかもしれないけど。
付け加えられた言葉に、わたしはフッ、と笑った。
「常盤……もしかして、慰めてくれているの?」
「どうかな」
わたしから顔を離すと、ぶっきらぼうに答える。顔を上げれば、彼女はそっぽを向いていた。心なしか、照れているようにも見える。
その様子が不思議と母親の姿に重なって、わたしは思わず頬を緩めた。
「ありがとう、常盤」
これからも、よろしくね。
少し照れくさくなりながらも素直にそう告げると、常盤はそっぽを向いたまま小さな声で「言われなくても」と答えたのだった。
ねぇ、常盤。
どれだけわたしが苦しくても、必ずあんたはあんたなりの答えをくれる。真摯になって、わたしの言いたいことを聞いてくれるし、どれだけたどたどしくてもそれをちゃんと汲み取ってくれる。
あの時だって、そうだったんだよ。あんたがそう言ってくれたから、わたしの中に燻っていた母親への後悔とか、贖罪の気持ちが、ふわりと軽くなった気がしたの。母親に、許されたような気持になったの。
あんたはいつでも、わたしを救ってくれる。
だから――……。
◆◆◆
――ピピピピピッ、ピピピピピッ。
部屋に鳴り響く単調な音で、わたしは再び目覚めた。
重い体を起こし、時計を見る。それはいつの間にやら、金曜日の朝九時を指していた。
いったい、どれぐらいの時間眠っていたのだろう。寝すぎたせいか、頭がさっきよりも――といってもすでに昨日のことだが――さらにズキズキと痛みを訴えていた。
……いや、それよりも。
今までずいぶんと、長い夢を見ていたような気がする。懐かしい、ずっと昔の夢を見ていたような……。
曖昧な記憶を脳の端っこで巡らせながら、手元の携帯電話を見る。
メールが三件と、着信が四件。
メール三件と着信のうち三件は、大学の友人たちから。メールの文面や、残っていた留守電の声からは、大学を欠席したわたしに対する心配と気遣いがありありと伝わってきた。
まぁ、ありがちなことだ……とひねくれたことを考えながらも、その真意はともかくとして、わざわざこのようなものを残しておいてくれたことにわたしは感謝した。
そして、着信の残り一件は――……。
「常盤……?」
今起きてから初めて出す掠れた声は、自分でも滑稽だと思うほどの驚きと混乱の色を示していた。
今から電話して、常盤は出てくれるだろうか。それとも、メールだけ残しておくに留めた方がいいだろうか。
一瞬そんな迷いが脳裏をよぎったが、次の瞬間にそういえば……と、一つの事実に気が付く。
卒業してここに来てから、ただの一度だって常盤と顔を合わせていない。声すらも、聞いていない。連絡を全く取っていないというわけではないけれど、それでもたまに近況報告的なメールを、何通か交わすだけだ。
久しぶりに、常盤の声が聴きたいな……。
半ば本能的にそう思ったわたしは、常盤の着信履歴から、迷いのない手つきで通話ボタンを押していた。
数回のコール音の後、ブツリという耳障りな音が鳴る。それからすぐに、何年振りかに聞く、おおよそ女子らしくない低めの声が聞こえた。
『もしもし』
色々な感情が渦を巻いて、わたしの邪魔をする。思うように、声が出せない。返事をしなきゃ、と思うのに。
何も言えないまま口を開閉させていると、受話器の向こうから浅い息遣いと、口を開いた時に漏れるかすかな音が聞こえた。
『……渡辺?』
「とき、わ」
息苦しさを押さえながら、答えるように、ようやくそれだけを告げる。常盤は少し笑った。
『久しぶり』
「うん。……ごめんね、昨日電話出れなくて」
『別にいいよ、大した用事でもなかったし。……元気にしてた?』
「……まぁ、普通だよ。常盤は?」
『わたしもまぁ、普通かな。お互い元気そうでよかった』
気取らない、いつも通りの会話に涙が出そうになる。
もしかして常盤は、わかっていたのだろうか。わたしが最近どんな気持ちでいるのか、感づいていたのだろうか。だから昨日、電話を……。
ありえないことだと知りながらも、そう考えると、とたんに今まで誰にも言えなかった――ずっと溜めこんできた得体のしれない不安が、恐怖が、どんどん込み上げてくるのが分かった。
「――っ、常盤」
わたしを、助けて。
そう続けたいのに、言葉が喉に引っかかってうまく出てこない。
そのまま言葉を失ってしまったわたしを不審に思ったのか、常盤が不審そうな声を上げた。
『どうしたの、渡辺』
「常盤は今、何してる?」
ザザッ、というノイズ音がした。おそらく電話口で、常盤が笑ったのだろう。
『変な子だね。……今ちょうど、大学に向かっているところだよ。渡辺は?』
「わたしは……」
全部ぶちまけてしまいたい衝動に駆られているのに、何から言えばいいのか分からない。言葉が、見つからない。
今すぐ助けてほしい。救ってほしい。
――けれど、何から?
ふぅ、という小さな吐息が、受話器の向こうから漏れた。同時に聞こえるノイズの音が耳触りで、思わず目を固く閉じる。
『渡辺は、頑張りすぎてるんだよ』
唐突にそう言われて、わたしはぱちりと目を開けた。
「何言ってるの」
そんなこと、ない。
わたしは、やらなければいけないことを……自分の役割を、全部放棄しようとしている。今まさに、現実から逃げようとしている。
まだまだ頑張らなくてはいけないのに、どうしたらいいのかわからない。
そんなわたしが、頑張っているだなんて……今わたしがこうしている間にも、身を削って頑張っている人たちがいるのに。その人たちに対して、失礼というものだ。
『昔から渡辺には、そういうところがある。頑張らなくちゃって言って自分をどんどん追いつめて、自分から抱える重荷を増やしちゃうようなところが』
それは今まで、自分では意識したことなどないことだった。けれど長い付き合いの常盤が言うのだから、きっとそうなのだろう。
『たまには、息抜きでもしておいでよ。思い切って誰かに、好き放題わがまま言ってみなよ』
「……わがまま?」
掠れる声で、絞り出すように尋ねる。
『そう』
常盤は即答した。
『これまでの小さなものじゃない、何か大きなものを』
大きなわがまま、か……。
もちろん、今まで言ったことがないわけではない。常盤が言うように、小さなわがままならば何度も言っていると思う。それでさぞやいろんな人を――特に兄のことを――困らせてきたのだろう、という自覚もある。
大きなわがまま……思い切った、何かを言ってみる。それでもしかしたら、この鬱屈した気分から救われるかもしれない。
じゃあ……。
「ねぇ、常盤」
『何?』
「あんたに、わがままを言ってもいいかな」
常盤は少し言葉を止め――……やがてフッ、と笑った。
『構わないよ。わたしも、これまで何度もあんたにわがままを叶えてもらってきたからね』
「ありがとう。じゃあ……」
これまで何度もわたしを救ってくれたあなたに、とびっきりの――きっと人生最大の、大きなわがままを。
「これから、わたしに会いに来てよ」
常盤が固まったのが、空気で分かった。
一瞬まずいことを言ったかもしれないと後悔したが、それから間もなく、あははははっ、という真の抜けた笑い声がかなりの声量で聞こえてきた。
『かなり無茶を言うなぁ。……まぁいいや』
わがままを聞いてあげるっていう、約束だったもんね。
『これから大学をすっぽかして、あんたの所に行くよ。距離が距離だから、時間はかかるかもしれないけれど……必ず行くから、待っておいで』
常盤がいるのは、四国地方。わたしがいるこの場所は北陸だから、かなりの時間と費用を要するだろう。
つまりわたしは、それほどの無茶を言ったわけだ。
けれどそれでも、わたしの願いを叶えてくれようとする常盤に、心の底から感謝した。素直な気持ちで、それをすぐさま言葉に変換する。
「ありがとう、常盤」
『……どういたしまして』
常盤は少し照れくさそうに、言葉を上ずらせながら答えた。
『明日からゴールデンウィークだから、ちょっとした旅行を兼ねてもいいね』
「そうだね。泊まっていく?」
『うん。せっかくだし、三日ぐらい泊めてもらおうかな』
「わかった。用意しておくね」
『ありがとう。……じゃあ、またあとでね』
「うん、じゃあね」
電話が切れてから、わたしはどこかすっきりとした気分で布団から起き上がった。先ほどまでの怠さが、まるで嘘のようだ。
あぁ、これでは完全なるサボりではないか。常盤にも同じことをさせてしまうことに、多少の申し訳なさを感じる。
けど……たまにはいいか。
久しぶりの友人との再会に心を躍らせながら、わたしはかなり早めの支度を始めたのだった。
何かまた、よくわかんないことになりました…。やっぱり夜中のテンションで書いちゃダメですね。
あぁ、外が明るくなってきたなぁ(午前5時現在←)
一応、このシリーズなので実話をもとにしてます。これまで家族ものだったので、ちょっとずれた感じではありますが…まぁ、いいよね。
常盤紗幸さんにも、もちろんモデルがいます。彼女にはもっといろいろ語らせたいことがあったんですけど…また別に短編書いてもいいかなぁ。
そんな感じです。
ここまで読んでいただきありがとうございました。