拾った黒猫は、憧れの天才魔術師でした
「……ふざけるな」
そう言ったつもりだった。だが、
「にゃあ」
出てきたのは、ひどく間の抜けた鳴き声だった。
王国魔術団に史上最年少で入団し、数々の難解な術式を解き明かして、若くして名声をほしいままにしてきた天才魔術師、ノアール・アルヴェール。十八歳の彼は今、自分の前足を呆然と見つめていた。
黒い毛に覆われた、小さな前足。その裏には、柔らかな肉球がある。
……いや、肉球を確かめてる場合じゃない。
「何で俺が猫になってるんだよ!」 「にゃああっ!」
研究室に響いたのは、やはり猫の声だった。奥歯を噛みしめようとして、慣れない牙の感触にますます腹が立つ。
原因は分かっている。遺跡から回収された、古い銀色の腕輪だ。
大型の魔獣を小さな獣の姿に封じ、運搬しやすくするための魔道具。欠損した術式を調べるために魔力を流したところ、内側に隠れていた仕掛けが起動した。どうやら、人間の魔力まで捕獲対象として認識するらしい。そこで魔力をぶつけて抑え込もうとしたのが、まずかった。対象自身の魔力を利用して封印を強める構造だったのだ。
……よくできてるじゃないか。腹立つな。
首を曲げると、視界の端に細い黒の輪が見えた。あの腕輪が縮み、首に巻きついている。外から正しい手順で封印の核を取り外せば、元に戻れるはずだ。解除に必要な道具も、研究室の引き出しにある。
ノアールは机を見上げた。高い。さっきまで自分の腰ほどの位置にあった引き出しが、今では遥か頭上にある。試しに前足を持ち上げると、ふに、と肉球が開いた。
これでどうしろって?
魔法で引き出しを開けるか。ただし、封印そのものに魔力を流すのは厳禁だ。慎重に力を加減し、まずは机の上の紙を一枚浮かせてみる。羊皮紙がふわりと持ち上がった次の瞬間、ノアールは床へへたり込んだ。
「……にゃ……」
紙一枚だぞ。
普段なら、研究室に積み上げた書類をまとめて宙へ浮かせることさえ造作もない。それが今では、この有様だ。封印の外へ出せる魔力は、ほんのわずからしい。しかも、仮に道具を取り出せたところで、自分の首元を見ながら細かな作業ができるわけではない。
……誰かに頼むしかない、か。
なんとも認めたくない結論だった。ちょうどそのとき、廊下から足音が近づいてきた。
「ノアール? いるか?」
聞き慣れた同僚の声だった。ノアールは反射的に、机の下へ飛び込んだ。
違う。今は駄目だ。こんな間抜けな姿を見られたら、今後何を言われ続けるか分からない。あと十分考えれば、もっとましな方法があるはずだ。
「……あれ。いないのか?」
扉が開き、同僚が室内を覗き込む。その足元を、一匹の黒猫が音もなく駆け抜けた。
ひとまず、人の来ない裏階段へ行こう。そこで考え直せばいい。
そう思ったのも、束の間だった。
◇
「おや、猫?」
裏階段には、人がいた。箒を持った清掃係の女性が、踊り場で立ち止まった黒猫を見下ろしている。
「どこから入り込んだんだい。ここは動物を入れちゃ駄目なんだよ」
知っている。研究棟の入口にも書いてある。
「にゃあ!」 「はいはい。外へ行こうね」
ひょい、と抱き上げられた。
待て。おい、待てと言っている!
女性は慣れた足取りで階段を下りる。暴れようとしても、しっかり抱え直されるだけだった。そのまま裏口が開かれ、庭へ下ろされる。
「もう入ってきちゃ駄目だよ」
ぱたん、と扉が閉まった。
ノアールは目の前の扉を前足で押した。もう一度押してみたが、当然ながら動かない。
……俺、今、自分の研究棟から追い出された?
◇
午後には、同僚に頼る決心がついていた。中へ入れば、魔力の癖から自分だと気づく者もいるだろう。だが、正門へ向かったところで衛兵に追い払われた。
「こら、猫は入っちゃ駄目だ!」
……またそれかよ!
「にゃあっ!」 「はいはい、あっちへ行こうね」
大きな靴が近づき、ノアールは思わず後ずさった。魔法もろくに使えない身体では、どうすることもできない。結局、すごすごと引き返すしかなかった。
……覚えてろよ。
夕方には、雨まで降り始めた。
軒下を借りようとすれば追い払われ、別の家の庭へ入れば犬に吠えられる。濡れた毛は重く、足は泥だらけで、腹も減っていた。十八年の人生で、これほど情けない一日はなかった。
住宅街の奥まで来たところで、低い柵の向こうに小さな木造の小屋が見えた。屋根がある。今は、それだけで十分だった。
柵をくぐり、扉の前までたどり着く。すると、中から人の動く気配がした。
……面倒だな。
引き返そうとした、そのとき。ぎい、と扉が開いた。
「……あれ?」
栗色の髪を後ろで束ねた少女が立っていた。まくった袖口にインクの染みがあり、片手には書き込みだらけのノートを持っている。
「猫……? ずっと雨の中にいたの?」
違う、と言う気力もなかった。少女がしゃがみ込み、そっと手を伸ばしてくる。逃げようとしたが、足に力が入らない。
「わ、冷たい。ちょっと待ってね」
抱き上げられ、屋内へ運ばれる。少女は棚の瓶をいくつか移動させ、空いた場所に乾いた布を重ねた。
「ここなら、風も入らないよ」
下ろされた布は古く、少しごわごわしていた。研究室の寝椅子に比べれば、話にならない。けれど、乾いていた。
「お母さんに聞いてくるから、待っててね」
扉が閉まり、雨が屋根を叩く音だけが残る。冷たい風は、ここまでは入ってこなかった。
ノアールはゆっくり身体を丸めた。
……少しだけだ。休んだら、戻る方法を考える。
ここに長居するつもりなどない。そう思いながら目を閉じると、猫になってから初めて、安心して眠れそうだった。
◇
「しばらくここにいてもいいって!」
戻ってきた少女は、水と魚の入った皿、それから新しい布を運んできた。
「私、クロエっていうの。あなたのお名前は?」
ノアール・アルヴェールだ。
「うーん。真っ黒だから……クロ!」
……安直すぎる。
顔を背けると、クロエが首を傾げた。
「あれ? 気に入らない? うーん、じゃあ……ノアは?」
耳が、ぴんと立った。
「ノア!」
待て。何で、その名前が出てくる。
「ふふ、こっちは気に入った? あなたを見てたら、私の憧れの人を思い出しちゃったの。王国魔術団のノアール・アルヴェール様。知ってる?」
俺だ。
「魔術団に史上最年少で入った、すっごい天才魔術師なんだよ。まだ十八歳で、私より二つ上なだけなのに、難しい魔法をたくさん研究して、魔獣まで倒しちゃうんだって!」
知っている。俺だからな。
「黒い髪に、金色の瞳なんだって。あなたとお揃いでしょう? だから、お名前をちょっとお借りしちゃった。よろしくね、ノア!」
まさか、自分の名前を猫の名前としてつけられる日が来るとは。ノアールは小さく息を吐いた。けれど、もう一度「ノア」と呼ばれると、尻尾の先が勝手にぴくりと動いた。
◇
翌日の放課後、クロエは困り果てていた。
「ノア、お魚は嫌い?」
水は飲んだが、魚には口をつけていない。ノアールは毛布の上で丸くなり、鼻を鳴らした。
嫌いというか、そういう問題ではない。猫として床の皿へ顔を突っ込むのは、何か最後の一線を越えるような気がした。
……腹は減ったけど。猛烈に。
「どこか具合が悪いのかな。もう少ししても食べなかったら、診てもらおうね」
クロエは心配そうに言い、学校の鞄を机の脇へ置いた。その口から、小さな包みが覗いている。
ふわりと香ばしい匂いがして、ノアールは鼻先を上げた。焼き菓子だ。
気づけば毛布を抜け出し、鞄の前まで来ていた。別に食べたいわけではない。ただ、匂いを確かめているだけだ。
「……あれ? これが気になるの?」
クロエが包みを取り出すと、ノアールの目もついていった。
「でも、猫にお菓子をあげていいかは分からないなあ」
包みが閉じた。
……あ。
「お腹はすいてるんだね。ちょっと待ってて!」
小屋を飛び出したクロエは、しばらくすると別の小皿を持って戻ってきた。
「味をつける前の鶏肉を分けてもらったの。これならどうかな?」
よく冷ました一片が、指先に載せて差し出される。ノアールは匂いを嗅いでから、そっと口に入れた。
……うまい。
「あっ、食べた!」
皿を置かれると、今度はためらわず近づいた。一口、もう一口。柔らかい肉を飲み込むうち、食べる勢いが増していく。最後の一線は、鶏肉の前にあっさり消えた。
「よかったあ……! ずっと食べないから、どうしようかと思ったんだよ」
少女が、心底ほっとしたように笑う。
「最初から、こっちを持ってくればよかったね。ごめんね」
ノアールは顔を上げた。
何でお前が謝るんだよ。勝手に拾った猫が、勝手に食べなかっただけだろう。
「明日も用意してもらうね。ちゃんと食べて、元気になってね」
クロエは満足そうに頷くと、机へ戻った。そこには書き込みだらけのノートと、いくつかの小瓶が並んでいる。
「さて、昨日の続きもやらなくちゃ」
少女はノートをめくり、瓶の中身を確かめ始めた。ノアールは空になった皿を見下ろし、それから少女の背中を見た。
……明日も? なんなんだ、こいつ。
◇
それからクロエは毎日、学校から帰ると小屋へ来た。食事を用意し、水を替え、寝床を整える。ノアールが眠っていれば足音まで小さくなった。それが済むと、決まってあのノートを開くのだった。
「さて、今日は昨日の続き!」
机には小瓶や石、乾かした葉が並んでいる。どうやら、魔道具に使われる素材の性質を調べているらしい。魔法を使う様子はなく、葉や水の分量を変えては、結果をノートに書き留めていた。
もっとも、手元のノートは間違いだらけだった。魔法陣の線はつながっていないし、魔力の流れを示す記号も逆になっている。
……そこを閉じたら、魔力が循環しないだろ。
「昨日は濁っちゃったから、今日は水を少なくしてみるの」
いや、たぶん葉の処理が先だと思うけど。
案の定、瓶の中身はまた濁った。
「うーん、駄目かあ」
だろうな。
ところがクロエは、昨日の瓶と並べて色を確かめ、ノートに結果を書き込んだ。
「じゃあ、明日は葉っぱの方を変えてみよう」
……へえ。
ノアールは少しだけ首を伸ばした。手際は悪いが、失敗した理由を考えずに同じことを繰り返しているわけではないらしい。
「ノアも見る?」
クロエは嬉しそうにノートを広げた。
「この小屋だとね、途中のものを片づけなくていいんだよ。帰ってきたら、すぐ続きができるの」
少女は並んだ小瓶を眺め、それから、ふと思いついたように顔を上げた。
「あっ、そうだ! ノアも今日から私の研究助手ね!」
……は?
「ふふ。よろしくね、ノア助手!」
誰が助手だ! この俺を助手扱いする奴がどこにいる!
「じゃあ、助手さん。明日はどっちの葉っぱから試そうか?」
……だから勝手に決めるなって。
不機嫌に尻尾を振っても、クロエは楽しそうに笑うだけだった。けれど結局、少女が実験を終えるまで、ノアールは机のそばを離れなかった。
◇
ある日は、図書館から大きな本を借りて帰ってきた。
「ねえ、ノア。これ見て!」
開かれた頁には、夜空いっぱいに光の粒が降り注ぐ光景が描かれていた。
「星降らしの魔法だって。本当に、星が落ちてくるみたい!」
光を散らす術式か。見た目は派手だが、仕組み自体はそれほど複雑ではない。ノアールは自分の前足を見下ろした。今の魔力では、とても無理だが。
「いつか見てみたいなあ……」
クロエはしばらく挿絵を眺めていたが、やがて次の頁をめくった。
「あっ、ノアール様!」
黒い耳が動く。そこには紺色の外套をまとい、魔獣と向き合う青年の姿があった。
「村を襲った魔獣を、一人で倒したんだって。すごいねえ」
ああ、霧の谷の件か。あれは少々厄介だった。大型の魔獣が三体。周囲に住民が残っていたため、広範囲の術式も使えなかった。だがまあ、俺にかかればあの程度だ。褒められるのも当然だろう。
尻尾が少し上がった。
「怖がってる子どもたちに、『もう大丈夫。僕が君たちを守るよ』って、優しく微笑んだんだって!」
尻尾が止まった。
……誰が?
言ったとすれば「危ないから下がってろ」だ。そもそも子どもたちを誘導したのは衛兵で、自分は魔獣の相手に忙しかった。
「誰にでも礼儀正しくて、穏やかな人なんだって。素敵だよねえ」
それは一体、どこの誰だ。
クロエは本を胸に抱き、少し照れくさそうに笑った。
「私の研究ノートも、見てもらえたらいいな。一度でいいから、魔法のお話をしてみたい」
ノアールは机の上へ目を向けた。あの間違いだらけのノートを見せられたら、少なくとも、優しく微笑む自信はない。
それにしても、ずいぶん好き勝手に書かれたものだ。本人が読んだらどう思うか、少しは考えてほしい。
「……にゃあ」
「あれ、ノア? 構ってほしいの?」
違う。
「ふふ。大丈夫。ノアール様も大好きだけど、ノアのことも大好きだよ」
ひょいと抱き上げられ、膝に乗せられた。
「ノアとは毎日、一緒に研究してるもんね」
頭を撫でる手が降りてくる。
……悪くない。
そう思ってから、ノアールは我に返った。いや、悪くないって何だ。
「ノア? 難しい顔してるね。お腹すいた?」
違うって。
「そっか。眠いのね」
だから違うと言っている!
少女は楽しそうに笑い、黒猫を抱き直した。どうせ何を言っても鳴き声にしかならないので、ノアールは抗議を諦めた。
◇
帰ってきても、研究をしない日もあった。
「今日ね、学校で、魔道具を作る仕事をしてみたいって話したの。そしたら、魔力もないのに無理じゃないって」
クロエは机の前で、石を指先で転がしていた。
「まあ、そう思うよね。私、今やってることだって、全然うまくいってないし」
そいつ、作る工程と、使う工程を混同してるな。魔力がなくても、加工や素材の研究でできることはある。そもそも、初歩を教わってもいない相手に、何が分かるというのだ。
そこまで考えて、ノアールは思考を止めた。
……何で俺が腹立ててるんだ?
「……でも、やっぱり好きなんだよね」
クロエが、閉じたままのノートへ手を置いた。
「光ったり、浮かんだり、遠くにいる人と話せたり。どうしてそんなことができるのか、知りたいんだ。分からないまま、やめたくない」
ノアールは棚に置かれた小瓶を見た。昨日、処理を変えた葉はどうなったのだろう。
……だったら、さっさと続きをやればいい。
椅子へ飛び乗り、クロエの膝に座った。
「……ノア?」
少女の指が、そっと背中を撫でる。しばらく、その手だけが動いていた。
「ありがと。もう少しだけ、こうしてて」
……仕方ないな。
その日は、何も光らせなかった。クロエが自分でノートを開くまで、ノアールは膝から下りなかった。
◇
数日後、窓辺の花が折れた。
留守の間に強い風で鉢が倒れたらしい。ようやくついた蕾が、茎の途中から垂れ下がっていた。
「……もう少しで、咲きそうだったのに」
クロエは折れた部分を支え、添え木を当てた。それでも蕾はうつむいたままだった。机へ戻ってからも、時々窓辺へ目を向けている。
ノアールは毛布の上で寝返りを打った。
花くらい、また育てればいい。泣いているわけでもないし、明日になれば、いつもの調子で妙な実験を始めるだろう。
それなのに、さっきの少し寂しそうな顔が頭から離れない。
……ああ、もう。
ノアールは窓辺の鉢を睨んだ。
俺には関係ないだろ。
◇
「ノア! 見て、お花が咲いてる!」
翌朝、クロエの声で目が覚めた。窓辺には、淡い紫色の花が一輪咲いていた。昨日折れたはずの茎が、朝の光の中でまっすぐ伸びている。
「すごい! 昨日まで、あんなに元気なかったのに!」
知ってる。俺が直したんだから。
「よかったあ……!」
クロエは鉢の前にしゃがみ込んだ。花を覗き込んでは笑い、角度を変えて、また眺める。
ノアールは、その顔を見つめた。たった一輪の花だ。難しい術式を完成させたわけでも、手強い魔獣を倒したわけでもない。それでも、クロエは嬉しそうに笑っている。
……悪くない。
小さく欠伸をする。まったく、たった一輪でこんなに疲れるとは。
「ノアも見て。ほら、綺麗でしょう?」
抱き上げられると、嬉しそうな顔がすぐ近くにあった。
分かったから、少し寝かせろ。
そう思いながらも、もう一度花を見上げるクロエを、何となく目で追ってしまった。
◇
花が咲いてから数日後、ノアールは窓際で日なたを探しながら、ふと我に返った。
……俺、何日ここにいるんだ?
毎日食事は出てくるし、寝床もある。クロエは学校から帰れば真っ先に様子を確かめに来る。最初は不本意だった猫暮らしも、最近はそれほど悪くない気がしてきた。
だが、魔術団は今頃どうなっているのだろう。期待の若手魔術師が突然姿を消したのだ。さすがに大騒ぎに違いない。
……セヴェリンも、慌ててるだろうな。
いつも澄ました顔で、会議だの報告書だのと言ってくる魔術団長。その男が青い顔で右往左往するところを想像すると、少し笑える。尻尾が機嫌よく揺れた。
いやいや、笑ってる場合じゃないだろ!
封印は、休んで魔力を回復させたところで解けない。必要なのは道具と、人の手だ。誰かに事情を伝えなくては、いつまでも猫のままである。しかし、今さら同僚の前に出ていくことを考えると、ますます気が重かった。
『お前、今まで何やってたんだ?』
そんな声が聞こえてきそうだ。少女に拾われ、研究助手に任命されましたとでも答えろというのか。
頭を抱えようとしたが、前足ではうまく抱えられなかった。こんなときまで腹立たしい。
◇
「ノア、ちょっとお留守番しててね。今日は、これからお友達とデートなの!」
休日の朝。ノアールは、毛布の上で顔を上げた。
クロエは淡い水色のワンピースを着ていた。髪も綺麗に結い直し、小さなリボンまでつけている。
……デート?
「新しくできたお菓子屋さんと、本屋さんに行くんだ。夕方には帰るから、いい子にしててね」
本屋。それはいい。だが、問題はそこではない。
誰と行くんだって聞いてるんだけど。
「ふふ、お留守番は寂しい?」
違う!
クロエはしゃがみ込んで頭を撫でた。
「大丈夫。明日はずっと一緒にいられるからね。……あ、お水を替えておかなきゃ」
少女が皿を持って小屋を出ていく。ノアールは閉まりかけた扉を見つめ、それから毛布へ戻ろうとした。
誰と出かけようが、自分には関係ない。むしろ静かになって好都合だ。今日は一日、元に戻る方法を考えられる。
そのとき、机の脇に置かれた籠が目に入った。中には買い物用の袋と、柔らかな布。自分が入れそうな隙間もある。
……いや、別に。ただ、街へ出れば手がかりが見つかるかもしれない。ついでに、クロエが誰と会うのか確かめておくのも、まあ、悪くないだろう。
ノアールは籠へ飛び込み、布の下へ潜った。ほどなくして足音が戻ってくる。
「お待たせ、ノア! ……あれ?」
小屋の中を見回す気配がした。普段から、ノアールは棚の陰や窓の外を気まぐれに移動している。クロエは一度窓辺を覗くと、新しい水を置いた。
「またお散歩かな。じゃあ、行ってくるね」
籠が持ち上がる。一瞬傾いたが、少女は腕に掛け直して歩き始めた。
◇
「クロエー!」 「エマ!」
広場で明るい声がした。布の隙間から覗くと、クロエと同じくらいの年頃の少女が手を振っている。
ノアールは、思わず力が抜けた。
……なんだ。友達って、そっちかよ。
いや、男だろうが女だろうが、どうでもいいのだ。
「まず本屋さんでいい?」 「もちろん。クロエ、また魔法の本を見るんでしょう?」 「分かっちゃった?」 「先週も、ずっとその話してたじゃない」
二人が笑い合う。ノアールは籠の奥へ引っ込んだ。
まったく、人騒がせな奴だ。
◇
本屋でクロエが最初に手に取ったのは、『初歩の魔道具製作』だった。ノアールにも覚えのある、まともな入門書だ。だが、クロエは値札を見て、しばらく迷った末に棚へ戻した。
「今日は実験ノートを買わなきゃ。また今度だね」 「えっ、また? この前も買ってなかった?」 「失敗したことも全部書いてるから、すぐ埋まっちゃうの」 「これで何冊目?」 「ええと、六冊目!」
ノアールは顔を上げた。小屋の机にあったものが、最初の一冊だと思っていた。
……そんなに続けてたのか。
クロエは紙の厚さを確かめながら、新しいノートを選んだ。そのまま別の棚へ向かい、ぱっと声を弾ませる。
「エマ、見て! ノアール様の新しい本!」
表紙には、花束を抱えた青年が描かれていた。黒髪に金色の瞳、白い外套。そして、やたらと優しげな微笑み。
『若き英雄ノアール・アルヴェール 知られざる優しき素顔』
俺も知らない素顔だな。
「今度は、魔獣討伐のお話がもっと詳しく載ってるんだって」
クロエは頁をめくり、うっとりと息をついた。
「怪我をした村人の手を取って、『君の痛みは僕が引き受けよう』……だって。かっこいい……!」
言ってない!
治療したのは同行の治癒師だ。こっちは三体の魔獣を片づけたあと、崩れた橋まで直していた。勝手に仕事を増やすな。
「本当にこんな人いるのかなあ」 「いるよ。ノアール様だもん!」
いるけど、そんな奴じゃないんだって!
クロエが名残惜しそうに本を戻す。その手が、隣の雑誌棚の前で止まった。
「……あれ?」
『極秘情報! 魔術団の若き天才、突如消息不明!?』
……
「ノアール様が行方不明!?」
記事には、数日前から姿を見せず、魔術団は詳細を公表していないとあった。あとは極秘任務だの誘拐だの、勝手な推測ばかりだ。
「どうしよう、エマ。何かあったのかな」 「この雑誌、先月は秘密の婚約者がいるって書いてたよ。また本当かどうか分からないって」
クロエは少し安心したようだったが、もう一度見出しを見つめた。
「でも、本当だったら心配だな。……無事だといいね」
大丈夫だ。本人は今、お前の籠にいる。
「にゃあ!」
二人が同時に下を向いた。しまった、と思ったときには、もう布がめくられていた。
「……ノア!?」 「えっ、猫? この子が、この前話してた?」
エマの声に店主まで振り返る。クロエは真っ赤になって頭を下げ、急いでノートの代金を払って店を出た。
◇
「わあ、真っ黒! 目が金色! すっごく綺麗!」
店を出るなり、エマに抱き上げられた。その評価には異論はないが、両手で頬を包まれたところで嫌な予感がした。
「ほっぺ、ふわふわ!」
むにっ。
……おい。
「可愛いー!」
むにむに、と頬が揉まれる。
やめろ! 顔が伸びる!
前足を突っ張ると、クロエが慌てて手を伸ばした。
「エマ、びっくりしてるから。もうおしまい」 「あっ、ごめん! 可愛くて、つい」
ようやく頬が解放され、いつもの腕へ抱き直された。腰を支える手の位置が同じで、ほっと息が漏れる。
「もう、ノアったら。お留守番って言ったでしょう? いつの間に入ったの?」
いろいろ事情があるんだよ。
「ねえ、クロエ。この子、クロエに抱っこされると急におとなしくなるね」 「そう?」 「うん。さっきまで暴れてたのに」
クロエは腕の中を覗き込み、少し嬉しそうに笑った。
「ノア、私のこと好きなの?」
ノアールは顔を背けた。エマがもう一度手を伸ばすと、素早くクロエの肘の内側へ顔を潜らせる。
「ほら、もう嫌だって」
そう。ちゃんと言ってやれ。
「クロエにだけ甘えるなんて、ずるいなあ」
別に、甘えているわけではない。それでも、もう一度エマに抱き上げられる気にはならなかった。
◇
菓子店に寄り、エマと別れた帰り道でも、ノアールはクロエの腕の中にいた。
「今日は楽しかったね。ノアがついてくるとは思わなかったけど」
俺だって予定外だった。
新しいノートと、焼き菓子の包み。少女は楽しそうに歩いている。研究中にはあんなに真剣な顔をするくせに、友達といるときは年相応によく笑う。あれだけ失敗しても、また新しいノートを買うのだから、次は何を試すつもりなのやら。
「……おや。ずいぶん綺麗な黒猫だね」
穏やかな声に顔を上げ、ノアールは固まった。
長い白髪を緩く束ねた男が、通りの向こうに立っている。若々しい顔立ちながら、不思議と年齢の読めないその男は、見間違えようもなかった。
セヴェリン!?
「こんにちは。その猫は、君の?」 「はい! ノアっていうんです」 「ノア、か。いい名前だね。少し、顔を見ても?」
ノアールは即座にクロエの腕へ顔を埋めた。
「あっ。この子、少し人見知りで……」 「そうみたいだね」
セヴェリンは無理に触れなかった。ただ、首元を一度だけ見て、わずかに目を細めた。
「賢そうな子だ。大事にしてあげてね」 「はい!」
男が去ってからも、ノアールはなかなか顔を上げられなかった。
……気づいたか?
恐る恐る振り返ったときには、白い髪は人混みに紛れていた。
◇
角を曲がると、セヴェリンは足を止めた。
失踪したノアールの研究室には、獣封じの腕輪の図と、解析途中の記録が残されていた。肝心の腕輪は見つかっていない。そして、先ほどの黒猫の首には、細い輪があった。
「……まさかね」
黒い毛並みに金色の瞳。それだけなら珍しくもないが、こちらを見た途端の、あの顔の隠し方はどうだろう。
確認すべきことが一つ増えた。セヴェリンは、魔術団の研究棟へ足を向けた。
◇
小屋へ戻ると、クロエは早速、新しいノートを開いた。
「よーし。昨日の実験、もう一回やってみようっと」
あれだけ歩き回ったあとだというのに、元気なものだ。ノアールは椅子を足場に机へ上がった。クロエが、その端へ小さな布を敷く。
「一緒に見てる? ここなら邪魔にならないよ」
布の上に座ると、ちょうど手元がよく見えた。クロエは材料を並べかけ、ふと手を止める。
「……あれ。この順番、前にも試した?」
古いノートをめくり、見つからないと棚から別の一冊を持ってくる。しばらく調べてから、小さく頷いた。
「あった。じゃあ、今日は温度を確かめよう」
……やっと、そこまで来たか。
手際は悪い。だが、分からないところを飛ばして進むことはしないらしい。ノアールは、机に広げられたノートを見つめた。
封印を解くのに魔力はいらない。正しい手順を覚え、慎重に道具を扱える相手がいればいい。
封印のことなど何も知らない、間違いだらけの研究をしている少女に、頼めることなどないと思っていた。
けれど、こいつなら。教えれば、できるかもしれない。
「ノア? どうしたの?」
クロエが顔を近づける。
「ふふ。今日も一緒にいてくれて、ありがとう」
その前に、どうやって伝えるか。それが問題だった。
ノアールが考える隣で、鉛筆が軽い音を立てていた。
◇
「ノア! 昨日と同じ色になった!」
翌日の放課後、クロエは小瓶を掲げた。中には、薄紫色の液体が入っている。
魔法が発動したわけではない。ただ、混ぜ合わせた素材が反応しただけだ。それでも、前回と同じ条件で同じ結果が出たことには意味がある。
ノアールが机の端から身を乗り出すと、クロエは得意げに笑った。
「これが、クロエ先生の最新の研究です!」
先生って誰だよ。
「まだ何に使えるか分からないけど!」
そこが一番大事だろ。
尻尾で机を叩くと、少女が声を上げて笑った。
「ノアも気になる? もう少し調べたら、ちゃんと教えてあげるね」
教えるのは、たぶんこっちだ。
そう思いながら、ノアールは少女の手元を眺めた。クロエは記録を書き終えると、小瓶を棚へ戻そうと立ち上がった。
かちん。
床に、小さな金具が落ちた。
ノアールの耳が動く。古い収納棚と壁をつないでいた、留め金だった。棚の上部が傾き、重い道具箱が手前へ滑った。
「……え?」
クロエが見上げる。手から小瓶が滑り落ちた。
――まずい!
「にゃあっ!」
避けろ、と叫んだつもりだった。だが、出てきたのは猫の声だけだ。少女がこちらを向く。その頭上へ、棚の影が落ちた。
考えるより先に、魔力が動いていた。
金色の光がノアールの足元から走り、小屋を横切った。倒れかけた棚が、ぴたりと止まる。棚から滑ったガラス瓶も、クロエが落とした小瓶も、宙に浮かんでいた。
ほんの一瞬、小屋の中だけ時が止まったようだった。
「……えっ?」
クロエが目を見開く。光の粒が、薄いガラス越しの景色のように揺れていた。
見とれてる場合か!
「にゃあっ!」
もう一度、声を振り絞る。前足が震えた。机に爪を立てても、身体を支えきれない。
普段なら、この程度の棚を持ち上げるくらい何でもない。だが、今の身体では、もう長くは保たなかった。
早く、どけ!
クロエの視線が、ノアールの足元へ落ちた。震える前足を見て、はっとしたように身をかがめる。
少女が棚の下から飛び出した、その瞬間。金色の光が弾けた。
がしゃあんっ!
棚が倒れ、ガラス瓶が砕け散った。土と水が床へ広がる。
クロエは壁際にしゃがみ込み、頭を抱えていた。破片は届いていない。
……よし。
確かめた途端、ノアールの足から力が抜けた。
◇
「ノア……?」
机の上で、黒猫が倒れていた。
クロエは破片を避けて駆け寄り、そっと抱き上げた。身体は温かい。胸元へ耳を寄せると、小さな鼓動も聞こえる。
「ノア、起きて」
呼んでも、目は開かなかった。
クロエは母を呼んだ。母はまず娘に怪我がないことを確かめ、それからノアを家の中へ運んでくれた。
動物を診てくれる治療師のところへも連れていったが、外傷はなく、ひどく消耗しているようだという。安静にさせ、様子が変わったらすぐ知らせることにして帰った。
それでも、クロエは何度も寝床を覗かずにはいられなかった。
昼間の光景が、頭から離れない。
宙で止まった棚と、震えていた黒い前足。逃げろと言うように、自分へ向かって鳴いていたノア。
まさか、あれは。
聞いてみたいことはいくらでもあった。あんなに大きな棚が、どうして宙に止まったのか。
でも、今はそんなことより、目を開けてほしかった。
「……また一緒に、研究しようよ」
小さな背中を、そっと撫でた。黒猫は静かに眠っていた。
◇
翌朝もノアは目を覚まさず、クロエが学校にいる間、母がもう一度治療師に様子を見てもらった。消耗は回復しつつあると聞いて、少しだけ安心した。
倒れた棚は大人たちが片づけ、危なくないことを確かめてくれた。帰宅したクロエは、ノアの寝床をいつもの窓際へ戻し、そのそばに座った。
ノートを開いても、鉛筆は進まない。机の端には、小さな布だけがある。
そういえば、花が咲いた日も。ノアは、一日中眠っていなかっただろうか。
クロエが振り返ると、黒い尻尾がぴくりと動いた。
「……ノア?」
金色の目が、ゆっくりと開く。
「ノア!」
◇
……近い。
目を覚ました途端、クロエの顔があった。
身体はひどく重く、頭もぼんやりしている。どれくらい眠ったのだろう。確か、棚が倒れて――。
「よかったあ……!」
そっと抱き上げられる。少女の指が、背中を何度も確かめていた。
「全然起きないし、ごはんも食べないし、どうしようかと思ったんだから」
ノアールはクロエを見上げた。目元が少し赤い。だが、頬にも腕にも傷はなく、いつものように喋っている。
……よかった。
ようやく身体の力を抜くと、クロエが少しためらいながら口を開いた。
「ねえ、ノア。変なこと聞くけど……私の言ってること、分かる?」
ノアールは動きを止めた。
「分かるなら、一回頷いてみて」
少女の目は真剣だった。
机には、昨日まで眺めていた研究ノートがある。分からなければ調べ直し、何度でも続きを始める少女。少なくとも、話を聞かずに放り出すような相手ではない。
ノアールは、ゆっくり首を縦に動かした。
「……もう一回」
もう一度頷くと、クロエが息を呑んだ。
「本当に、分かるんだ……!」
少女の目が、みるみる輝いていく。しばらく黒猫を見つめてから、思い出したように声を落とした。
「じゃあ、昨日、棚を止めてくれたのもノア?」
ああ。
頷くと、クロエは窓辺へ視線を向けた。
「もしかして、この前のお花も?」
ノアールは、ぴたりと動きを止めた。
……そっちまで気づいたのかよ。
少し迷い、顔を背ける。それでもクロエが待っているので、最後には小さく頷いた。
「そうだったんだ! すごい、本当に魔法だったんだね!」
少女の顔がぱっと明るくなる。けれど、すぐに背中を撫でる手が止まった。
「……魔法を使ったから、こんなに疲れちゃったの?」
ノアールが頷くと、クロエは唇を結んだ。それから、小さな身体を胸元へ抱き寄せる。
「助けてくれて、ありがとう。でも、もう無理しないでね」
顔を上げると、少女は真剣な顔をしていた。
「魔法はすっごく見たいし、いろんなことを聞いてみたいけど……ノアがまた起きなくなっちゃったら、嫌だもん」
少し震えた声だった。
ノアールは何も言えなかった。いや、もともと言葉は出ないのだが、何か返す代わりに、前足を伸ばしてクロエの手に触れた。
ぽん。
「……お返事してくれた」
少女がようやく笑う。その顔を見て、ノアールは少しだけ目を細めた。
◇
食事を終えてから、ノアールは机の上へ下ろされた。
「はいだったら頷いて、いいえだったら首を横に振る。それでお話できるね!」
クロエは嬉しそうに両手を合わせた。
「じゃあ、まず……ノアって、普通の猫じゃないよね?」
こくり。
「やっぱり!」
よし。いよいよ、自分が誰で、どうすれば元に戻れるのかを説明する機会が来た。
ノアールは前足を揃え、背筋を伸ばした。
「もしかして、ノアって……魔法の国から来た、特別な猫さんなの!?」
期待に満ちた目が、きらきらと輝いている。
ノアールは、ゆっくり目を閉じた。
……先は長そうだな。
◇
魔法の国の猫でも、魔術師の使い魔でも、魔法を覚えた野良猫でもない。
何度か首を横に振った末、クロエはようやく別の可能性に思い至った。
「そもそも、ノアって最初から猫だったの?」
勢いよく首を振ると、少女が目を丸くする。
「じゃあ……もともとは、人間?」
こくこくこく!
「そっかあ。ノア、人間だったんだ! ……えっ、人間!?」
今、自分で言っただろ!
クロエは椅子から立ちかけ、座り直した。黒猫の顔をまじまじと見つめ、今度はゆっくり尋ねる。
「魔法で猫になっちゃったの? 元に戻れる?」
どちらにも頷くと、ほっとしたように息をついた。
「よかった。じゃあ、どうしたらいいの?」 「にゃあ」
二人の間に、沈黙が落ちた。
「……そっか。お話はできないんだね」
そこなんだよ。
クロエは少し考え、机の上の紙へ目を向けた。
「文字を指すのはどう? 私が表にして書くから、それを順番に教えてもらえば!」
ノアールは大きく頷いた。自分一人では作れなかった文字表も、クロエに頼めるなら話は別だ。
さっそく紙の上に文字が並べられ、机の中央へ置かれた。
まずは名前だ。ノアールは前足を伸ばした。
「ノ……ア……ええと、今のは、どっち?」
前足を上げると、肉球の下から二文字が現れた。
……くそ。この手、何に使えるんだよ。
「ごめんね、小さすぎたね。もっと離して書く!」
クロエは大きな紙に書き直した。今度は隣の文字を隠さずに示せる。
ノ、ア、ー、ル。一文字ずつ指し、そのあとに姓を続ける。書き留めていたクロエの鉛筆が、途中で止まった。
「……ノアール・アルヴェール? あの、魔術団の天才魔術師様?」
ノアールは胸を張って頷いた。
クロエは黒猫を見て、それからもう一度、紙に書かれた名前を見た。
「……本当に?」
こくり。
しばらく、間があった。
……何だよ、その顔。
「そっかあ。教えてくれてありがとう、ノア」
反応が薄い。もっと驚くとか、感激するとか、何かあるだろう。
こいつ、まさか信じてないのか……?
そう思ったが、クロエがそっと頭を撫でてきたので、とりあえず黙っておくことにした。
◇
そこから数日間、小屋は小さな教室になった。
文字を一つずつ指すのは時間がかかったが、クロエは聞き取ったことをこまめに書き留めた。首輪の模様を写し、留め具の位置を図にし、分からないところは何度でも聞き直す。
「つまり、この首輪は、古い魔獣捕獲用の魔道具なんだね。魔法で外そうとすると、逆に封印が強くなるの?」
頷く。
「だから、魔法を使わずに、この内側の部品を外す……」
クロエの理解が追いつくにつれて、文字表を叩く回数も少しずつ減っていった。
必要なのは、魔力を通さない特殊な鑷子だった。普通の金属では封印を流れる魔力を拾い、術式を刺激するおそれがある。専用の道具なら、核だけを安全に取り外せる。
「その道具は、魔術団の研究棟にある?」
こくり。
「置いてある場所も知ってるの?」
もう一度頷くと、クロエは黒猫をじっと見つめた。
「……ノアって、本当にいろんなこと知ってるんだね」
当たり前だろ。
得意げに座り直したところで、少女が首を傾げた。
「じゃあ、道具があれば、自分でも外せたんじゃない?」
ノアールは無言で前足を持ち上げた。柔らかな肉球を見て、クロエが口元を押さえる。
「そ、そっか。猫の手だもんね」
笑うな。
「ごめん。でも、戻る方法が分かってよかった。あとは、私ができるようになればいいんだね!」
少女は笑うのをやめ、もう一度図へ向き直った。
◇
練習には、家にあった針金と小さな金具、それから普通の鑷子を使った。
本物の首輪は触らず、クロエが図を見ながら模型を組む。部品の配置を確かめ、動かす順番をノートへ書き込んだ。
留め具をずらし、内側の小さな部品を持ち上げる。正しい道具で、正しく扱えば、それほど難しい作業ではない。
そのはずだった。
「あっ!」
かちん、と金属片が机を跳ねた。
だから、力を入れすぎなんだって。
クロエは部品を拾い、最初からやり直した。二度目も飛んだ。三度目は、持ち上げる途中で落とした。
ノアールは、だんだん苛立ってきた。どうしてこんな単純な作業ができないのだ。自分なら、目をつぶっていても――。
そこで、少女の手元が目に入った。
鑷子の先に近いところを、ぎゅっと握り込んでいる。
……持ち方。
どこを動かすかは伝えた。だが、道具そのものの持ち方は、一度も教えていなかった。
ノアールは文字表へ前足を伸ばした。
「もつ、ところ……?」
頷き、鑷子の少し後ろを示す。クロエが握り直した。
「ここ? それから、力を抜く……」
今度は、金属片が飛ばなかった。
「あ、つかめた!」
そのまま。ゆっくり。
机を叩きかけた前足を下ろし、クロエが自分で角度を確かめるのを待つ。少女は唇を結び、慎重に手を動かした。
かちり。
「……できた!」
小さな部品が、無事に外れた。
クロエは顔を上げ、確かめるようにノアールを見た。
「今の、合ってた?」
こくり。
「やったあ!」
少女が笑う。その顔を見ながら、ノアールは尻尾の先をゆっくり揺らした。
……やればできるじゃん。
◇
翌日も、クロエは模型を取り出した。
「昨日はノアが教えてくれたからできたけど、一人でもできるようになりたいの。本番では、ノアは動けないでしょう?」
確かに、そのとおりだった。
ノアールは机の端に座り、少女の手元を見守った。留め具をずらし、部品を挟み、傾きを確かめる。昨日つまずいたところでも、今日は迷わなかった。
かちり。
「できた。じゃあ、もう一回!」
……まだやるのかよ。
そう思ったが、止めなかった。三回続けて成功するまで、クロエは手を止めなかった。
そのあとも、分かったことをノートへまとめ、図を描き直していた。母親が様子を見に来た頃には、窓際の長椅子で眠ってしまっていた。
膝の上には、ノアールがいる。寝るなら下ろせと言おうとしたときには、背中へ腕が回っていた。
「あらあら。また夢中になっちゃったのね」
起こされても、クロエは眠そうに返事をするばかりだった。母親は毛布を掛け、あとでまた来ると言って家へ戻った。
ノアールは少女の腕を見た。起こすほどのことでもないかと、ひとまず目を閉じる。
◇
「あとは、研究棟に行くだけだね」
翌日の夕方、クロエはノートを閉じた。
「入口の人にお願いしてみる? それか、知り合いの魔術師さんに助けてもらうとか」
ノアールは勢いよく首を横に振った。クロエは目を丸くしてから、少し考え込んだ。
「もしかして……猫になったこと、知られたくないの?」
動きが止まる。
「恥ずかしい?」
ノアールは顔を背けた。クロエの肩が、小さく揺れる。
……笑うなよ。
「ごめん。ノアでも、そういうの気にするんだなって。分かった、二人だけの秘密だね」
そうだ。絶対に。
「でも、それだと……こっそり入るしかないんじゃ……」
頷くと、クロエの顔から笑みが消えた。
「本気?」
もちろんだ。あそこは自分の研究棟だ。正確には王国の施設だが、自分の研究室へ戻るだけではないか。
一方、クロエは籠とノートを交互に見ていた。王国魔術団の研究棟に、普通の町娘が勝手に入ればどうなるか。考えるだけで、喉がきゅっとなった。
しばらく迷って、黒猫の首元へ目を落とす。細い輪は、まだそこにあった。
あの日、自分を守ってくれた金色の光。丸一日眠ったままだった小さな身体。そして、毎日一緒に練習してきたこと。
「ノア。本当に、元に戻りたいんだよね?」
こくり。
クロエは、その金色の目をしばらく見つめていた。それから、ぱん、と両手で頬を挟む。
「……よし。行こう!」
ノアールが顔を上げた。
「まずは近くまで行って、様子を見ようね。無理そうだったら、別の方法を考えるから」
分かった。
「本当に捕まりそうになったら、逃げるからね!」
大丈夫だって。
ノアールは頷き、少女の手に前足を置いた。クロエが、ようやく少し笑った。
「頑張ろうね、ノア」
見回した小屋には、針金の模型と大きな文字表、何度も書き直したノートがあった。机の端には、自分のための小さな布。
ようやく、この姿から解放されるかもしれない。ずっと待ち望んでいたことなのに、なぜか少しだけ妙な気分になった。
ノアールは、その布へもう一度座り直した。
◇
翌日の放課後、クロエは小屋で出発の準備をしていた。鞄には研究ノートと文字表、筆記具、それから練習用の模型。何度も確認したはずなのに、また持ち物を数えてしまう。
「ノア、本当に大丈夫だよね? 研究棟って、衛兵さんがいるでしょう?」
ノアールは文字表へ前足を伸ばした。
『いざとなったら魔法を使う』
鍵を開けたり、人の注意を逸らしたりする程度なら、今の魔力でも何とかなるだろう。多少無理をして倒れたとしても、あとはクロエに任せればいい。
「そんな! また倒れちゃったらどうするの?」
……だから、お前ならできるって。
「できるだけ魔法は使わないでね。約束だよ?」
ノアールは少しだけ迷い、それから頷いた。
「それから、知らない人がいたら絶対に鳴いちゃ駄目だよ。それと……」
前足で手をぽんと叩かれ、クロエは口を閉じた。籠の中の黒猫は、まっすぐこちらを見上げている。
小さく息を吐き、籠を抱え直した。
「……うん。落ち着かなきゃね」
◇
高い塀の向こうに、石造りの建物がいくつも並んでいた。正門には衛兵が二人。遠くから眺めたときよりも、ずっと大きく感じられる。
クロエはノートの見取り図を確かめ、塀に沿って歩き始めた。
「ねえ。私たち、すごく怪しくない?」
……確かに。
建物の周囲をうろうろしているのだから、声をかけられてもおかしくない。だが、緊張しているクロエに伝えられることもなく、ノアールは黙って進行方向を示した。
研究棟の裏手へ着くと、少女が足を止めた。
「……誰もいない」
ノアールも籠から顔を出した。普段なら衛兵がいる通用口に、人影がなかった。遠くで話し声がするだけだ。
妙だな。
クロエは周囲を確かめ、そっと扉へ近づいた。
「鍵は、かかってるよね……」
かちゃ。
取っ手が回り、扉が開いた。二人は顔を見合わせた。
「……開いてる」
開いてるな。
ノアールが廊下の奥へ前足を向けると、クロエは一度だけ深く息を吸い、隙間へ身体を滑り込ませた。
◇
研究棟の中は静かだった。
窓から夕方の光が差し込み、天井には淡く光る魔道灯が並んでいる。壁に刻まれた魔法陣を見て、クロエの歩みが遅くなった。
「……わあ。ねえ、ノア。あの部屋、古代術式資料室だって」
見れば分かる。
「一度でいいから、中を見てみたいなあ……」
見学に来たんじゃないぞ。
籠から手を叩くと、クロエは慌てて歩き出した。それでも扉の札を一枚ずつ目で追っているのだから、落ち着かない。
廊下を曲がり、突き当たりまで進んだところで、今度はぴたりと足が止まった。
『ノアール・アルヴェール 研究室』
金属板の名前を見てから、ゆっくりと籠を見下ろす。
「……ノア。本当に、ここ、なの?」
こくり。
クロエは何か言いかけ、結局、口を閉じた。取っ手に手をかけると、こちらも施錠されていなかった。
◇
「……すごい」
壁一面に本棚が並び、机には見慣れない魔道具が置かれていた。複雑な術式を描いた紙、色とりどりの魔石、用途も分からない金属製の器具。そして、机の隅には高く積まれた書類の山。
ノアールは顔をしかめた。留守にする前より増えている。
「本物の魔術師さんの研究室だ……!」
そりゃそうだろ。
籠から身を乗り出したところで、机の手前に小箱があることに気づいた。蓋は開いており、中には銀色の細長い器具が収められている。
表面に刻まれた、魔力を遮断するための細かな紋様。
あった。必要な鑷子だ。
だが、あれは引き出しの奥へしまっていたはずだった。誰かが捜索のために研究室を調べ、取り出したのだろうか。
気にはなったが、今はすぐ使える方がありがたい。
「これが、必要な道具?」
クロエが持ち上げると、ノアールは頷いた。それから机の広いところへ飛び乗り、前足を揃えて座った。
よし。やるぞ。
少女の顔から、見学に夢中だったときの笑みが消えた。
「……うん」
◇
まず、模型で一度だけ確かめた。
留め具をずらし、小さな部品を挟む。角度を変えずに持ち上げて、脇の小皿へ置く。
かちり。
「大丈夫。……じゃあ、やってみるね」
クロエは椅子に座り、首輪の高さに目を合わせた。
「痛かったら、すぐ教えてね。それから、動かないでね」
分かってるって。
頷いてから、ノアールはじっと動かずに待った。黒い毛を分ける指先が、少し震えている。だが、鑷子を握る位置は正しかった。
クロエは一度息を吐き、銀の先端を留め具へ近づけた。
かち。
輪の表面がわずかにずれ、内側に米粒ほどの金属片が現れた。封印の核だ。これを取り外せば、術式は維持できなくなる。
鑷子が金属片を挟む。少しだけ持ち上がったところで、端が引っかかった。
「……っ」
クロエの手が止まる。
力任せには引かなかった。一度少し下ろし、角度を確かめる。練習で何度もやり直した動きだった。
大丈夫だ。お前は、できてた。
ノアールは少女を見つめた。ここで自分が魔力を流せば、すべてやり直しになる。今、必要なのは自分の魔法ではない。
この少女の手だった。
……頼んだぞ、クロエ。
クロエが鑷子を持ち直す。ゆっくりと、金属片が持ち上がった。
かちり。
小さな音とともに、封印の核が外れた。
少女がそれを小皿へ移した瞬間、黒猫の首元で細い輪がほどけた。
金色の光が、ふわりと広がった。
「……え?」
クロエは手を引き、椅子ごと少し下がった。
机の上から光が溢れ、細かな粒が雪のように舞い上がる。眩しいのに、不思議と怖くはなかった。
光の中心で、小さな黒い影が変わっていく。長く伸びる手足。広がる肩。研究着の袖から覗く、人間の指。黒い髪が、さらりと揺れた。
やがて光が薄れ、机の上に立つ青年の姿が現れた。
青年は一瞬、自分の足元を見下ろした。それから、ひらりと床へ飛び降りる。
クロエは、息をするのも忘れた。
艶やかな黒髪。すっと通った鼻筋に、涼しげな目元。そして、まるで夕日を閉じ込めたような、鮮やかな金色の瞳。
本の挿絵とは違う。美しく描かれた肖像画よりも、ずっと近くで、目の前の人は息を呑むほど綺麗だった。
青年は自分の手を見下ろし、ゆっくり指を動かした。それから首元へ触れ、何もないことを確かめる。忌々しい輪は、机の上に落ちていた。
「……やっと戻った」
低すぎず、よく通る声だった。
青年が顔を上げた。金色の瞳が、まっすぐクロエを捉える。
「……おい。クロエ?」
その声で呼ばれただけで、胸が跳ねた。
「聞いてる?」 「……えっ。あ、あの……」 「何だよ」
少し不機嫌そうに眉を寄せる。その表情には、確かに見覚えがあった。
「……ノア?」 「他に誰がいるんだよ」
ふん、と鼻を鳴らす。その仕草まで、いつもと同じだった。
「ノアール、様……?」 「ああ。ノアール・アルヴェール。お前、信じてなかったんじゃねえの」
クロエは口を開き、閉じた。何を言えばいいのか、分からない。
「ほ、本当に……?」 「だから、そうだって言ってただろ。俺がどれだけ苦労して名前を伝えたと思ってるんだ」
呆れたような声だった。
クロエは両手で口元を覆った。
「本物の、ノアール様……!」 「……おい。まさか、本当に信じてなかった?」
答えられなかった。代わりに、頬がみるみる熱くなる。
王国魔術団に史上最年少で入団し、数々の功績を挙げてきた若き天才。王国中にその名を知られ、雑誌や本にも取り上げられる、ずっと憧れていた人。
そんな人を、自分は猫だと思って抱き上げ、頭を撫でていた。
『ノア、いい子ねえ』
つい昨日まで、そう言っていたのだ。
「……ど、どうしよう」 「何が?」
ノアールが少し身をかがめる。金色の瞳が近づいて、クロエは思わず顔を伏せた。
……かっこいい。
それどころではないと分かっているのに、頭の中に浮かんだのは、そんな言葉だった。
「お前、さっきから変だぞ。大丈夫か?」 「だ、大丈夫です!」
まったく大丈夫ではなかった。
ノアールは怪訝そうにしていたが、机へ目を向けると、ふと表情を変えた。小皿の上には、外れた核が収まっている。
「……最後、引っかかったとき」 「は、はいっ」 「無理に引かなかったな」
クロエは鑷子を握ったまま、自分の手を見下ろした。
「練習で、何度も飛ばしちゃったから……一度戻して、角度を確かめようって」 「ああ。ちゃんとできてた」
ノアールは、もう一度クロエを見た。
「まあ、俺が教えたんだから、このくらいできて当然だけどな」
相変わらず、少し偉そうな言い方だった。けれど、そのあとに一瞬だけ間があった。
「……よくやった」
クロエは目を丸くした。
初めて聞く声。初めて見る人間の姿。その人が、まっすぐ自分を見ていた。
何度も失敗した手元を、ずっと見守っていた金色の目だった。
「……できて、よかったです」
ようやく、指から力が抜けた。小さく笑うと、声が少し震えた。
ノアールは視線を逸らしかけ、それからもう一度向き直った。
「助かった。お前がいなかったら、もう少し面倒なことになってた」
そして、何でもないことのように言った。
「ありがとな」
ほんの短い言葉だった。けれど、クロエの胸の奥が、じんわりと温かくなった。
「……はい。どういたしまして!」
笑って答えると、ノアールも少しだけ口元を緩めた。
◇
「もう、魔法は普通に使えるんですか?」
鑷子を箱へ戻しながら尋ねると、ノアールは片手を上げた。
「ああ。封印が外れたからな」
指先に小さな金色の光が灯った。光の粒がゆっくり宙を舞い、指の動きに合わせて形を変える。
「……わあ!」
クロエは思わず身を乗り出した。小さな星が踊っているようだった。けれど、すぐにノアールの顔を確かめる。
「もう、疲れないんですか?」 「この程度じゃな。初歩の初歩だよ」 「でも、すごく綺麗です!」
ノアールは、光を見つめるクロエをちらりと見た。
「……そうかよ」
ふっと笑う。その自然な表情に、クロエの心臓がまた跳ねた。
本に書いてあったような、誰にでも向ける優雅な微笑みではない。少し得意げで、どこか照れくさそうな顔だった。
ノアールは光を消し、机に積まれた書類へ目を向けた。
「……ああ、くそ。面倒なことになってそうだ」
一枚手に取り、露骨に顔をしかめる。クロエは小さく笑ったが、やがてその笑いも静まった。
この人は、王国魔術団の天才魔術師なのだ。自分の家の庭で暮らしていた黒猫ではなく、本来はここにいる人。
明日も、明後日も、ここで仕事をするのだろう。
「……そっか」 「ん?」 「あっ、いえ。元に戻れて、よかったですね」
クロエは慌てて笑い、ノートを鞄にしまった。模型と文字表も入れ、空になった籠を持ち上げる。
「じゃあ、私、そろそろ帰りますね」 「ああ」
聞きたいことは、山ほどあった。
魔法のこと。研究のこと。それから、また会えるのかどうか。
けれど、ノアールはようやく元に戻れたばかりだ。机の上には、待っている仕事がたくさんある。
「お仕事、頑張ってください」
ノアールが、少しだけ目を丸くした。
「言われなくても」
いつものノアみたいだ。クロエは笑って、頭を下げた。
「それじゃあ、失礼します」
そのとき、ぱちん、と指を鳴らす音がした。
足元に金色の魔法陣が広がり、細かな光の粒が舞い上がる。クロエの髪が、ふわりと揺れた。
「わっ! これ、転移魔法!?」
本でしか読んだことのない魔法だ。複雑な文字と図形が、床の上を滑るように組み上がっていく。
「すごい……! 本物だ……!」
思わず顔を上げると、ノアールはそんな彼女を見て、少しだけ口元を緩めた。
「じゃあな」 「……あっ」 「ま、世話になったわ」
いつもの、少し偉そうな口調だった。けれど、その笑顔があまりにも自然で、クロエは一瞬、返す言葉を忘れた。
「の、ノアール様……!」
返事をするより早く、金色の光が視界いっぱいに広がった。
◇
次の瞬間、クロエは自宅の庭に立っていた。
目の前には、見慣れた小屋。手には鞄と籠。ついさっきまで、あの研究室にいたはずなのに。
「……本当に、転移しちゃった」
振り返っても、そこには誰もいない。黒髪の青年も、金色の瞳も、あの声も。
クロエはそっと胸に手を当てた。まだ、心臓がどきどきしていた。
「本当に、ノアール様だったんだ……」
小屋の窓を見る。いつもノアが眠っていた毛布の上には、誰もいなかった。研究するときに座っていた、机の端にも。
もう、あの黒猫はいないのだ。
「……そっか」
クロエは籠を抱え直し、少しだけ笑った。
「元に戻れて、よかったね。ノア」
◇
その夜、クロエは寝台の上で枕を抱きしめていた。
天井を見つめ、目を閉じる。それから、ぱっと目を開き、寝返りを打って枕へ顔を埋めた。
……どうしよう。
何度思い返しても、信じられなかった。
雨の日に拾った、金色の目をした黒猫。いつも偉そうで、ちょっと気難しくて、それなのに時々、自分から膝へ乗ってくる。
その正体が、ノアール・アルヴェール様だったなんて。
『ノア、いい子ねえ』
頭を撫でていた。
『ふふ、かわいい!』
頬ずりもした。
お腹まで撫でたし、研究に夢中になって小屋で眠ってしまった夜には、抱き込んだまま朝を迎えた。目が覚めて、腕の中の黒猫へ顔を寄せたことまで思い出してしまう。
……あの人に!
クロエは毛布を頭まで引き上げた。
「……む、無理……!」
誰も教えてくれなかった。いや、本人は教えてくれていた。それも文字を一つずつ指して、苦労して。
それなのに、自分は「そっかあ」と言って頭を撫でたのだ。
枕を抱く腕に、ますます力がこもる。
思い出すのは、研究室で見た姿だった。艶やかな黒髪と、金色の瞳。少し不機嫌そうなのに、笑うと驚くほど綺麗な顔。
『……よくやった』
「…………っ!」
もう一度、枕へ顔を埋めた。
かっこよすぎる。
本の挿絵だって十分素敵だった。けれど、本物は全然違った。あの声で自分の名前を呼ばれたことまで思い出すと、どうにも落ち着かない。
ひとしきり寝返りを打ってから、クロエは毛布の端を少しだけ下げた。
「……ノア」
いつもなら、その名前を呼ぶと黒い耳が動いた。不機嫌そうに鳴いたり、面倒くさそうに尻尾を揺らしたり。
でも、明日の朝、小屋へ行っても、もういない。
クロエはそっと目を閉じ、枕を抱え直した。
◇
「ただいま。ノア、今日はね――」
翌日の放課後、小屋の扉を開けたところで、言葉が止まった。
窓際の毛布にも、机の端にも、黒猫の姿はない。
「……そっか」
クロエは小さく笑い、鞄を下ろした。
机に向かって研究ノートを開く。大きな文字表が、頁の間から滑り出した。何度も黒い前足で叩かれた紙の端が、少しくたびれている。
そっと撫でてから、脇へ置いた。
今日の実験。葉の量、水の量、温度。
いつもの癖で机の端を見る。ノアなら、また呆れた顔をするだろうか。そんなことも分からないのかと言いたげに、尻尾を振って。
でも最後には、ちゃんと付き合ってくれた。
「……よし」
クロエは鉛筆を持ち直した。自分で考えなくちゃ。
新しい頁に日付を書き、小瓶を一つ手に取った。
◇
「クロエ! この前の記事、本当だったみたい!」
数日後、学校でエマが週刊誌を広げた。
『消息不明の天才魔術師、無事復帰!』
「ほら、本屋さんで見たやつ。私、また適当なこと書いてるんだと思ってたのに」
記事には、ノアールが何事もなかったように魔術団へ復帰したことが書かれていた。姿を消していた経緯について、魔術団は明らかにしていないという。
「極秘任務だったのかなあ」
猫になって、庭の小屋にいたんだよ。
そんなことを言っても、きっと誰も信じないだろう。
「でも、無事でよかったね!」 「……うん!」
クロエは頷き、記事の横に描かれた青年を見た。花束を抱えていた表紙の人よりも、ずっと本人らしい。
あのあと、ちゃんと仕事へ戻れたのだ。
同じ号には、以前から進めていた術式の解析や、新型防護結界の試験についても載っていた。どの記事にも、ノアールの名前があった。
魔術界の天才。王国魔術団史上、最年少の入団者。王国が誇る若き英雄。
やっぱり、すごい人なんだ。
そう思うと嬉しかった。けれど、小屋へ帰ると、少しだけ寂しくなる。
机の端に敷いた小さな布は、片づけようと思えばいつでも片づけられた。それでも、何となくそのままにしていた。
ノアール様は、きっと忙しい。王国中の人が、あの人の魔法を必要としている。
あんなすごい人が、自分の小さな研究小屋にいたことの方が、不思議なのだ。
クロエは窓辺の花に水をやり、ノートを開いた。昨日より少し濁りの減った瓶が、机の上で夕日を透かしていた。
◇
ノアールが戻ってから、一週間ほど経った夜。
クロエは小屋の窓を開け、空を見上げた。雲ひとつない深い藍色の空に、小さな星が瞬いている。
机には今日も研究ノートが広がっていた。同じ分量で作ったはずなのに、二つの瓶は色が違う。
「……明日は、葉を乾かした時間もそろえてみようかな」
言ってから、机の端を見てしまった。
黒猫はいない。クロエは苦笑して、窓枠へ頬杖をついた。
「ノアだったら、何て言うかなあ」
きっと、そんなことにも気づいていなかったのか、と呆れるのだろう。けれど、そのあとには教えてくれる気がした。文字表を何度も叩きながら、こちらが分かるまで。
クロエはもう一度、夜空を見上げた。
その一角が、きらりと光った。
「……あれ?」
細い金の筋が、ゆっくりと流れていく。一本、また一本。
「流れ星……?」
けれど、光は消えなかった。
尾を引く筋は次々に増え、まるで夜空がほどけていくように、幾千もの小さな星が降り始めた。
クロエは息を呑み、椅子を離れた。
庭へ出ると、金色と銀色の光が、音もなく舞い降りてくる。花の上に、柵の上に、自分の髪にも。
花びらのようで、雪のようだった。
「……綺麗」
夢中で手を伸ばす。指先に触れた光が、淡く瞬いて消えた。
本で見た、あの挿絵。けれど、紙の上で想像したものよりもずっと近く、どこを見ても光で満ちている。
「すごい。本当に、星が降ってきたみたい……」
「見たいっつってただろ?」
「…………え?」
聞き覚えのある声だった。
クロエは、ゆっくりと振り返った。
金色の光が降る庭に、黒髪の青年が立っていた。片手を軽く上げ、少し得意げに笑っている。
「……ノアール様?」 「おう」
何でもないことのような返事だった。
クロエは、その場から動けなかった。あの日、小屋で本を見ながら言っただけなのに。
「覚えてたんですか……?」 「あれだけ嬉しそうに見てればな」
ノアールが、空へ目を向ける。つられて見上げると、また新しい光が長い尾を引いて流れてきた。
クロエは笑おうとして、うまく笑えなかった。胸がいっぱいで、何から言えばいいのか分からない。
「どうして、ここに……?」 「何だよ。来ちゃ悪いか?」 「違います! でも、もう会えないと思ってたから……!」
ノアールは一瞬黙り、それから眉を寄せた。
「何でだよ」 「だって、お仕事もたくさんあるでしょうし……」 「ああ、あるよ。山ほどな」
心底うんざりしたような声だった。
「もっと早く来るつもりだったんだけどさ。あのクソ団長が、次から次へと仕事押しつけてきやがって」
ノアールは苦々しく顔をしかめた。
通用口に衛兵がいなかったのも、研究室の扉が開いていたのも、鑷子が用意されていたのも、すべてセヴェリンの手回しだった。
街で出会ったあとに記録を調べて準備を整え、少女と黒猫が研究棟へ来たところで、二人の通る道から人を遠ざけたらしい。
しかも帰還早々、猫になって少女に拾われた経緯を詳しい報告書にするか、それとも溜まった仕事に加えて、いくつか追加の仕事を引き受けるかと、にこやかに迫られた。
選択肢など、あるわけがない。
あのクソ団長。絶対、楽しんでただろ。
「……どうかしました?」 「いや、何でもない。やっと片づいたと思ったら、また追加だぞ。ふざけんなっての」
クロエは目を丸くした。それから、とうとう笑ってしまった。
「ふふっ」 「何笑ってるんだよ」 「ごめんなさい。でも、ノアだなって」
本の中の英雄は、そんな顔をしない。けれど、クロエが知っている黒猫は、気に入らないことがあると、いつもこんな顔をしていた。
嬉しくなって一歩近づき、その分だけ顔を見上げなければならないことに、改めて気づいた。
いつもなら、腕を伸ばせば抱き上げられたのに。
「……あ」 「何だよ」
止まったクロエを、ノアールが不思議そうに見る。その金色の瞳を見て、寝台で思い出したあれこれが、一度に頭へ戻ってきた。
「あの、今さらなんですけど……猫だったときは、いろいろと失礼なことを……!」
ノアールの眉が、ぴくりと動いた。
「……おい」 「抱っこしたり、頬ずりしたり、その、一緒に寝ちゃったり……!」 「待て待て!」
クロエはびくりとした。ノアールは片手で顔を覆っている。
「いちいち思い出させんなって」 「……えっ」
黒髪の間から覗く耳が、少し赤かった。
クロエまで顔が熱くなる。自分ばかりが覚えていて恥ずかしいのだと思っていたのに。
「す、すみません」 「……謝ることじゃないだろ」
さっきより小さな声だった。
ノアールはちらりとクロエを見て、また視線を逸らした。
「別に、嫌だったわけじゃないし」
クロエは何も言えなくなった。
光の粒が二人の間を通り過ぎる。さっきまであんなに綺麗だった星を、今はまともに見る余裕がなかった。
「……それより」 「は、はいっ!」 「その『ノアール様』っての、やめろ。調子狂うんだよ」
顔を上げると、金色の瞳がこちらを見ていた。
「ノアでいい」 「でも、それは猫だったからで……」 「俺は俺だろ」
ノアールは少しだけ笑った。
「お前がつけた名前じゃん。今さら遠慮すんなよ」
ずっと憧れていた、遠い世界の人。本の中の英雄で、王国中の人が知っている天才魔術師。
その人が今、自分に向かって、ノアと呼べと言っている。
クロエは小さく息を吸った。
「……ノア」 「ああ」
青年の口元が、わずかに緩んだ。
何度も呼んできた名前なのに、今日は、呼ぶだけで胸がどきどきした。
差し出した手のひらに、小さな星が一瞬留まる。淡くほどけた光を見送って、クロエはようやく顔を上げた。
「すっごく綺麗。……見せてくれて、ありがとう」 「ま、俺にかかればこんなもんだ」
少し得意げな言い方がおかしくて、クロエはまた笑った。
見上げると、ノアールは空ではなく、こちらを見ていた。
「……そういや、俺の仕事はどうなった?」 「お仕事?」 「研究助手の」
クロエは目を丸くした。
ノアールが、少し意地悪そうに笑う。
「俺、お前の研究助手なんだろ?」 「で、でも! ノアは魔術団の天才魔術師で……!」 「何だよ。猫じゃなくなったらクビか?」 「違うよ!」 「じゃあ、助手がいなくなったら困るんじゃないのか?」
返事をしかけて、クロエは唇を結んだ。
机の端の、小さな布。誰もいない毛布。帰るたびに、呼びかけそうになった名前。
「……困ったよ」
ノアールの笑みが、少しだけ止まった。
クロエは顔を赤くしたまま、それでも今度は目を逸らさなかった。
「見てほしいものが、いっぱいあったんだから」
ノアールは一瞬黙り、それから、小屋の方へ視線を向けた。
「……じゃあ、見せろよ。あの実験、続きはどうなった?」
窓の向こうには、研究ノートと二つの小瓶が見えた。
「覚えててくれたの?」 「途中までしか見てないんだから、気になるだろ」
クロエは、しばらくその横顔を見つめていた。それから、顔いっぱいに笑みが広がる。
「あのね。ちょっとだけ進んだんだよ!」 「へえ」 「でも、今日は同じ分量なのに色が違って。葉を乾かした時間かなって思ってるんだけど」 「記録は?」 「もちろん、ある!」
小屋へ戻り、ノートを広げた。すぐ隣へノアールが来る。
机の端の小さな布を見て、二人とも少しだけ黙った。
「……今日は、椅子がいるね」
クロエが言うと、ノアールは笑った。
「さすがに、そこには座れないな」
もう一脚を引き寄せ、机の隣に座る。その肩は思っていたより近かった。頁を覗き込む黒髪が視界に入り、クロエはまた少しだけ落ち着かなくなる。
それでも、ノートを二人の真ん中へ置くと、話したかったことが次々に浮かんできた。
「まだ全然、完成してないんだけど」 「知ってるって」
ノアールが、書き込みでいっぱいの頁へ目を落とす。
「だから、続きやるんだろ?」 「……うん!」
窓辺では、紫色の花が静かに揺れていた。庭に残った星の光が、一つ、また一つと消えていく。
クロエは鉛筆を持ち、ふと隣を向いた。
「ノア」 「ん?」 「おかえり」
ノアールは少しだけ目を丸くした。それから、照れくさそうに笑った。
「……ただいま」
クロエも笑って、新しい頁を開いた。
おわり




