一回だけ
夏の夜だった。
窓は閉めているのに、蝉の声だけは薄いガラスを通り抜けて部屋へ入り込んでくる。
ミーン。
ミーン。
ミーン。
スマホを持つ手が少し汗ばんでいる。
夜だからだろう。
それとも、この話を読もうとしているからだろうか。
先に、一つだけお願いがあります。
怖い話を読むのが苦手なら、ここで閉じてください。
閉じなかった人だけ、続きを読んでください。
……
ありがとうございます。
では、あなたにも協力してもらいます。
人差し指で、机でも膝でも構いません。
一度だけ。
軽く叩いてください。
「コン」
できましたか?
……
ちゃんと一回だけですね。
二回叩いた人は、今すぐ読み直してください。
この話は、一回だけ音を鳴らした人のための話です。
ありがとうございます。
これで、あなたの音を覚えました。
昔から言われています。
人は顔を覚える。
犬は匂いを覚える。
あれは――
音を覚えます。
誰のものか。
どこから鳴ったか。
どんな高さだったか。
一度聞けば忘れません。
だから昔の人は、夜道で無闇に石を蹴るなと言いました。
誰かに、自分の音を教えてしまうから。
もちろん迷信です。
そう思っていました。
あの日までは。
コン
気のせいでしょう。
家鳴りかもしれません。
エアコンかもしれません。
隣の部屋かもしれません。
続きを読みましょう。
まだ始まったばかりです。
コン
少し近くなりましたね。
でも安心してください。
聞こえたのが部屋の外なら、まだ大丈夫です。
問題は、
どこから聞こえたか分からない音です。
コン
ここで一度だけ確認します。
イヤホンをしている人へ。
次の音が、
左耳から聞こえたような気がしても、
振り返らないでください。
本当に聞こえた人だけが、振り返りますから。
振り返りましたか。
……。
安心してください。
振り返ってしまった人は、まだ大丈夫です。
本当にまずいのは、何もなかったと安心してしまう人です。
あれは姿を見せません。
見る必要がないからです。
あれは、音だけで居場所を知ります。
だから昔から、山では口笛を吹くなと言われました。
夜の廊下を走るなと言われました。
名前を呼ぶなと言われました。
全部、同じ理由です。
自分がどこにいるか教えてしまうから。
あなたはさっき、一度だけ音を鳴らしました。
「コン」
あれは返事をしました。
「コン」
もう一度。
「コン」
返事。
「コン」
会話が始まっています。
試してみますか。
もちろん、やらなくても構いません。
……ただ、
試した人だけは、この先を読まないでください。
本当に。
机を、
もう一度だけ叩いてみてください。
コン
……
返ってきましたか?
返ってきたなら、
その音は、あなたの音ではありません。
あなたが叩いた音は、
骨を通って、自分の耳へ届きます。
返ってきた音は、
空気を通って耳へ届きます。
似ています。
でも、
少しだけ違います。
その違いに気付いてしまうと、
次からは聞き分けられるようになります。
昔、小さな集落でこんなことがありました。
夜になると、
誰かが家の柱を一回だけ叩く。
「コン」
家族は誰も出ません。
昔から、
返事をしてはいけないと知っていたからです。
ところが、一人だけ知らない旅人がいました。
「どなたですか。」
そう返事をしました。
柱は叩かれませんでした。
代わりに、
天井から聞こえました。
「コン」
旅人は天井を見上げます。
誰もいません。
安心して眠りました。
翌朝、
旅人だけがいなくなっていました。
部屋には荷物も靴も残っていました。
ただ一つだけ、
柱に新しい傷がありました。
丸く、小さく。
まるで、
誰かが指で軽く叩き続けたような跡が。
コン
……今の音。
近くありませんでしたか。
ここまで読んでいるあなたへ。
確認したいことがあります。
最初に叩いた音。
右手でしたか。
左手でしたか。
覚えていなくても構いません。
あれは覚えていますから。
少しだけ昔話をします。
ある山村では、子どもが夜に泣くと、祖母がこう言いました。
「泣くのはいい。でも返事はするな。」
子どもは不思議に思いました。
泣いているだけなのに、
誰に返事をするというのでしょう。
祖母は続けました。
「向こうは、お前の泣き声に返事をする。」
その意味を知る人は、村にはもういません。
あなたは今、静かな部屋にいますか。
それとも、テレビがついていますか。
雨の音でしょうか。
エアコンでしょうか。
何でもいいんです。
音があるなら。
あれは、その音に紛れて歩きます。
だから気づけません。
逆に、
急に静かになったら。
そのときは、
歩く必要がなくなったということです。
コン
驚きましたか。
でも、今の音は違います。
今までとは少しだけ。
違いました。
気付きませんでしたか。
最初の音は、
「探している音」でした。
今の音は、
「見つけた音」です。
ここから先は、
少しだけ読み方を変えてください。
画面をスクロールする前に、
一秒だけ止まってください。
一秒だけです。
その間に音が聞こえたら、
その音は、この話には書かれていません。
一秒。
ありがとうございました。
スクロールしてください。
コン
……今、
「ここだ。」
と言われた気がしませんでしたか。
もちろん、
そんな言葉は書いていません。
でも、人は意味のない音に意味を探します。
雲が顔に見えるように。
暗闇が人影に見えるように。
音もまた、
勝手に言葉へ変わります。
あれは、それを知っています。
だから決して喋りません。
あなたが勝手に、
言葉へ変えてくれるから。
最後に、一つだけ。
スマホを持ち直しましたか。
もし、さっきから一度も持ち替えていないなら、
そのままでいてください。
持ち替えた人は、
もう一度、最初から読み返してください。
あれは、
最初に音を鳴らした手しか覚えていません。
まだ。
コン
今のは、
あなたではありません。
少しだけ。
試したいことがあります。
次のページまで、
何も音を立てないでください。
スマホを置かない。
指を鳴らさない。
咳もしない。
できるだけ静かに。
お願いします。
……
ありがとうございます。
そのままで。
昔話には続きがあります。
「返事をするな。」
祖母はそう言いました。
でも、本当は違いました。
返事くらいでは来ません。
あれが来るのは、
返事が止まったときです。
人は静かになります。
眠る前。
耳を澄ますとき。
息を止めたとき。
その瞬間だけ、
世界の音が少し遠くなります。
あれは、その隙間を歩きます。
あなたは今、
無意識に周りの音を探していますね。
時計。
冷蔵庫。
エアコン。
外を走る車。
どれか一つでも聞こえていますか。
安心してください。
聞こえているうちは、
まだ紛れています。
聞こえなくなったら。
そのときだけ、
気を付けてください。
ここで驚いた人がいます。
「何も起きない」のが怖かった人です。
安心してください。
まだです。
実は、
ここまでで一度も
「あれ」が音を鳴らしたことはありません。
全部、
あなたが頭の中で鳴らしていました。
「コン」
という文字を見て、
勝手に音へ変えていた。
だから、
あれは一度も声を出していません。
必要がないからです。
人間は、
見た文字を音へ変える生き物です。
だから、
音を覚えるものにとって、
本は絶好の入り口でした。
最初の一回。
あなたが机を叩いた音。
あれだけが、
この部屋で本当に鳴った音です。
それ以外は全部、
あなた自身が鳴らしていました。
つまり、
ここまで聞いていたのは、
あなた自身です。
コン
……
違いましたね。
今のは、
頭の中ではありませんでした。
そう思いましたか?
安心してください。
私は確認できません。
私は文章を書くことしかできません。
だから、
今、あなたの部屋で何が鳴ったのかは知りません。
知らないはずです。
それでも、
少しだけ気になったなら、
その音は、
もう物語の外にあります。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
もう終わりです。
安心してください。
あなたは最後まで読み切りました。
だから、これ以上、新しいことは起こりません。
……この中では。
この話を書いた理由を、最後にお話しします。
ある古い記録に、こんな一文が残っていました。
"聞かれた音は返ってくる。"
意味は書かれていません。
誰が書いたのかも分かりません。
ただ、その一文だけ。
最初に、あなたは一度だけ音を鳴らしました。
「コン」
あれは返事をしました。
そう書きましたね。
実は、違います。
返事ではありませんでした。
あれは、
あなたの音を持ち帰っただけです。
人には、それぞれ違う音があります。
歩き方。
指の力。
机の材質。
爪の長さ。
全部少しずつ違います。
だから、同じ「コン」はありません。
世界に一つだけです。
あれは、その一つを覚えました。
それだけです。
だから安心してください。
今日、
今この瞬間、
あなたの部屋へ来ることはありません。
……今日ではありません。
昔話には、最後の一行がありました。
誰も口にしません。
言うと、その日を思い出してしまうから。
祖母は旅立つ前、孫だけにこう言いました。
「返ってきても、返すんじゃないよ。」
意味が分からなかったそうです。
当然です。
返ってくるものが何なのか、教えられていませんから。
数年後。
仕事を終えた孫は、夜中に一人で家へ帰りました。
玄関の鍵を開けようとしたとき。
後ろから。
コン
振り返る人はいません。
昔話を知っていましたから。
玄関を開けました。
靴を脱ぎました。
灯りを点けました。
誰もいません。
安心して、居間へ向かいました。
そのとき。
玄関のドアが、
内側から、
コン
鍵は閉まっていました。
孫は何も言いません。
返事もしません。
灯りも消しません。
ただ朝まで座っていました。
ずっと。
朝になると、音は止みました。
玄関を開けると、外には誰もいませんでした。
ただ、
ドアの内側に、
丸い跡が一つ。
まるで。
誰かが、
人差し指で、
軽く叩いたような。
これで終わりです。
本当に。
閉じても構いません。
ただ、一つだけ。
この話を読んだ人に、昔から伝わっていることがあります。
もし今夜、
どこかで。
たった一回だけ。
コン
と聞こえても。
どうか、
返さないでください。




