第一章 アムリタの門
全ての生命で一番優れている生物がなにかと問われたら、人間以外の何物でもないだろう。
生命は生まれ、生き、そして息絶える。それが諸行無常の理であり、絶対摂理である。
その円環から、唯一完全に抜きん出ている存在、生まれ、そして死ぬことがない存在。
死を知らぬ人間という種こそ、この世で一番驕り高ぶった、生物。
***
腹が減った。
何かが決定的に足りない場合、人間の考えはそれに固執しそのことしか考えられなくなる。人、物、信条、信仰。なんでもいいが、今現在自分に足りないものは食べ物ただそれだった。
千年の都、ラージャグリハに近づくたびに緑は少なくなり砂漠は広がり人の気配はなくなった。幾度も荒野を越え、山脈を超え、嵐を超え、動物の死体を超え、心はとうの昔に枯れ果てていた。食べ物を求める朦朧とした頭だった。少なくとも数日は口の中はジャリジャリした砂の感触しか味わっていない。
ただひたすら食べたい物を夢想しては、妄想は雲ひとつ無い空に抜けてゆく。淡々と足を進める。それしか能がなくなってしまったかのように。
ふと、焼け付くような日射が何かに遮られた気がした。天を仰ぐと干し煉瓦でできた四角い建物が地面に影を作っている。
いつの間にかオアシスの街はずれに迷い込んでいたらしい。浮浪者らしい人間が路地にぽつりぽつりと座り込んでいる。そんなことまで気づかないとは僕の頭もついに狂ったか。狂ったとて、真っ当に死ねやしないのだけれど。
ああ、いつのまにか視界の先には、随分と大きな柱がある。天を突くような長い柱が。
持ち合わせは少なかったが、とりあえず酒場の看板が見えたのでそそくさと入る。その酒場は路地から一変して華やかな店内だった。強く香が炊かれた店内のカウンターには酒瓶が整然と並べられている。客もちらほらいて、儲かっていないわけではなさそうだ。都市はずれだというのに随分と羽振りがいいあたり、ある程度栄えた街であることは間違いなさそうである。
キャラバン隊に払ってしまった分でほぼ素寒貧になってしまった僕でも代金を払えるだろうか、と少し胃が縮んだが、お品書きに値段はごく庶民的なものだった。一安心したところで一番安価な物を選ぶ。ほぼ素のうどんが一番安いのは、この辺りではありきたりであるらしい。
やっとありつけたうどんは、疲れた体にこれでもかと染み渡る。程よく効いたスパイスは鼻孔をくすぐり、箸を進める手を止めることは不可能だった。とろみの付いたスープは辛く、ぺこぺこな腹をこれでもかと刺激する。
一心不乱にすすっていると、店主であろうか、恰幅のいい中年男性が話しかけてきた。
「お兄さん流しの侍だろ、サーグラタットは初めてかい?」
サーグラタット、僻地からやってきた田舎者の僕ですら聞いたことのある名前だった。たしか、王都ラージャグリハにほど近い、海運の主要都市ではなかったか。もうこんなところまで来ていたのか。
おもむろに窓の外を見ると、四角い家が急な斜面にへばりつくように立ち並んだその向こう、青い海が大手を拡げていた。
僕の返事を待たず、店主は喋りを続ける。
「その分じゃ、ここについたばかりだろう。探してるんだろ、仕事」
「ええ、まあ……」
「いい話がある」
ニヤついた店主は朗々と話し始める。このところ、サーグラタットの領主が直々に外からの傭兵を募集しているらしい。それに参加してみないか、と。
「聞いた話じゃ、俸禄が弾むだけじゃなく、滅多に手に入らないものも手に入るんだと」
胡散臭い話になってきた。対価を払わず得られる情報にろくなものはない。
「へえ、でも僕そんな興味……」
「軍功者には、ラージャグリハの通行権が与えられるらしい」
冷え切っていた心臓に、どくん、と血が流れる。
「それって」
千年の都、王城ラージャグリハ。
その成立は古く、一説によると千年どころか書物の存在しない時代からそこに存在したという王都。王都は特権階級であるバラモンしか出入りできないようになっており、僕や店主のような平民は近づくことすらできない憧れの都であった。世の中のすべてのものはこの王都にあり、全ての幸福は王都で完結するという、桃源郷。
僕は、なんとしてでも行かなければならなかった。千年の都に。全ての呪いを断ち切るために。
「つまり、通行権さえもらえりゃ、俺たちでもバラモンの仲間入りだぜ?」
「……そんなこと風来坊の僕に話して、どうするつもりです」
店主はわかってないなあ、といった顔で。
「ハナから期待なんてしてねえよ、こんな街の端まで情報が伝わっているんだ。もうサーグラタットのどこいったってこの話は聞ける。でもまだ募集しているってことはさ。つまり、かなり選抜が厳しいってことだ。そもそも……」
店主は僕の身なりを一瞥する。
「お兄さん、刀持ってるだけで、弱そうだし」
そう思うのも無理はない。痩せて骨が見え透いた体に、雑巾のような襤褸をまとっているだけなのだから。
「情報料で、ちょっと手持ちが潤ったらなんて思ったりしただけだ」
よくあることだ。この酒場、そうやって小銭稼ぎしているらしい。
汁を最後まできれいに飲み干すと、丼を台の上に丁寧に置く。
「ごちそうさまです」
「お兄さん、もう行くのかい」
「すみません。選抜の件、僕ではお役に立てそうにないです。腕に自信がある方ではなくて」
「そうかい」
札を一枚、丼の隣に置く。
「釣り銭は要りません、ありがとうございました」
店を出る。まだ陽は高い。
遠くにそびえ立つ塔を睨む。領主主催の選抜会場があるとしたら、間違いなくあの方向であろう。ここまで旅した経験から、領主の館というのは得てしてリンガの麓に建てられるものだと理解している。
リンガ、別名は豊穣の柱。
どこにでもある柱。見た目は大理石の柱であり、民家一軒位の太さのものから街一個入るようなものまで大小様々だが、共通するのは、柱は空の上まで続いており、終わりが見えないということ。そして、柱を中心にして森が広がり動物が住み着くということ。大抵は柱の近くに街が作られ人間が暮らす。逆に言えば、柱のない場所はほとんど人が住めない砂漠や荒野である。
リンガへと足を向ける。
ようやくここまで来たのだ。目の前にぶら下げられた好機を、逃すつもりはなかった。
***
予想したとおり、傭兵の選抜はリンガの麓ほど近く、領主の邸宅で開かれていた。邸宅は街一番の高台に構えてあり、その広大な塀を囲むようにして兵士が立っている。門の前の衛兵に要件を伝えると、手荷物を回収され、白亜の屋敷の中に案内された。庭園に面した廊下で待たされる。庭園には大きな噴水を囲むようにして多種多様な植物が植えられており、領主が持つ富と財産をこれでもかと明示している。
「次」
ぞんざいに呼ばれて、部屋に入る。
扉をくぐった先は、だだっ広い闘技場だった。熱さを逃がすため、土を敷いた闘技場の三面は窓になっている。天窓にも薄い羅紗が日除けで張られているだけなので、ほぼ外と言っても変わりはなかった。柱の一本に至るまで細かな細工が施しているあたり、この邸宅を預かる領主が派手好きであるのは間違いない。
海から吹く熱風が、乾いた髪を巻き上げていく。
「君、名前は?」
闘技場の中心には、長身の男が立っている。
男の他には誰もいないようだった。男は木刀を二振り握っていた。腰まで垂らした黒い長髪を後ろで一つに括っている。この部屋と同じく、男が身につけている着物も装飾品も全て、職人が趣向を凝らした一級品だということは、世間に疎い僕でもわかる。
「……よも、四方です」
吹けば飛ぶような名。元々特に名前を与えられていなかった僕が、なんとなしに付けた名だった。これといった意味はなかった。ただ、実家……と呼ぶのも億劫だが……で呼ばれていた番号を拝借しただけ。
男は一度目を見開いた後、苦笑した。
「覇気がないな」
「……はあ」
「もっとこう……ギラギラした人が多いんだよこういった場所は」
男は手に持った木刀を一本こちらに投げる。これを使えということだろう。
「俺は愛染だ。夜叉の一人で、サーグラタットの統治を任されている。お手合わせ願おうか、四方さん」
夜叉というのは、王の私兵のことだ。武芸と学問に優れた、選ばれたものだけが名乗ることを許される称号。正確なことは知らないが、この広い国なのに、十数人しかいないという話も聞いたことがある。そしてこの男は、その選ばれた者の一人。
愛染は不敵な笑みを浮かべると、木刀を構える。
その瞬間だった。一迅の風が、圧となって襲いかかった。
「……ッ!?」
見えなかった。木刀を振り上げる動作も、近づいてきたのも。これほどまでに速い居合はいままで体験したことがなかった。刀を横にして攻撃を防ぐのが精一杯だった。速さだけではない。その刀も、へし折られてしまうのではないかという力だった。これは技がどう、動きがどうという次元の話ではない。ただ単に、全てにおいて卓越した力量。
「お、やるね」
愛染は汗一つかいていない。その大きな図体のどこに、速さが隠されているのだろう。
しかし、相手が夜叉とはいえ、負けているわけにはいかない。二太刀目を浴びせんと襲い掛かる愛染の刀を右に流して逃げる。
そのまま、左脚を踏みしめる。地面を蹴る。
足を狙って刀身を滑らせる。
脛に木刀が当たる鈍い音。
図体が大きければ、その重さを利用して重心をずらせばいいだけだ。愛染は不意打ちに体勢を崩す。
好機。遠心力で空を切る木刀を流れるそのまま持ち替えて、身を翻す。
地面にうつ伏せになった愛染の首筋に、切っ先を向けた。
はあ、はあ。己の荒れた息づかいだけが、闘技場に響いている。速さに追いつくのがやっとだった。まだ愛染は全力を出していない。それもそのはずだ。一般の剣士が夜叉に勝てるはずがない。
「はは、面白い。刀を持つと人が変わる人種か」
愛染は悔しがる様子もなく、やはり不敵に笑う。
地面に広がる艶のある黒髪を引きずって、愛染は身を起こした。
「採用しよう。ようこそ四方さん、ここがこの国一の花街だよ」
差し出された手のひらを握る。きちんと藍色に塗られた爪とは裏腹に、豆だらけの硬い掌だった。
ふと、貴族の好む香油の匂いがした。
***
選抜が終わったその足で侍女たちに囲まれて、あれよあれよという間に湯に突っ込まれ身支度を整えさせられた。油が乗って触りたくもなかった頭皮がさっぱりして、砂だらけの体は本来の肌色を取り戻した。さぞ高級な絹織物なのだろう、すべすべした着物は着慣れなくてしっくりこない。
案内された部屋は、海が一望できるバルコニーを有していた。これでもかとランプが点され、暮れ落ちてきた空だというのに部屋の中は昼間のように明るかった。
愛染は長い髪をほどき、白く薄い浴衣に着替えて、部屋の中心の長椅子でゆったりと体を崩している。
下座には様々な楽器を持った侍女たちが控えており、その背後から、白い狐の耳と尾を持った若い女がこちらを睨んでいた。耳も尾も、先の方だけ微かに朱い。黒い肌をしているので、南の方の出身だろう。それにしても、賤民である獣人を従える夜叉とは珍しい。
愛染は自分の横に僕を座らせると、盃に酒を注ぐ。
「ほら、遠慮せず飲んでくれ。サータグラット西方の山脈で作られた酒だ」
「あ、はい。ありがとうございます」
注がれた酒は澄んだ透明で、青い切子にランプの光が反射してキラキラと光っている。一気にぐいと飲み干すと、甘い香りがふわりと広がる。美味しい。
「おお、いい飲みっぷりだな、俺も負けてられるか! おーい! 酒もっと持ってきてくれ! 沙羅ちゃん、一曲お願いできるかな」
「かしこまりました」
沙羅、と呼ばれた娘は琵琶の弦に指をかけた。それが合図だったかのように、楽団の侍女たちは音楽を奏で始める。ゆったりした曲調は、港の夕暮れにぴったりだった。
(あれ……)
沙羅の目には、白い布が一括り巻かれている。布には儀礼で使う符のような文様が、朱い染料で描かれている。
「沙羅ちゃんは盲目なんだ。道端で琵琶を弾いているところを、俺が拾ってきた。それ以降、妾として努めてくれているよ」
「へえ……」
権力者はやっぱり何人も妾を持つんだなあとぼうっと考えていると、俺を睨んでいた狐耳の女が、愛染の方を一層険しい目つきで見た。
「愛染、いつまで飲んでいるつもりだ」
女は低い声で言う。愛染は怖がる様子もなく、磊落とした笑みを崩さない。
「ごめんごめん。さて、本題に入ろうか。もうすぐ新年祭だろう? サータグラットの新年祭は、この地域でも有名でね。特に商業地区や花街なんかは身動きがとれないほどの賑わいを見せるんだよ」
新年祭はディワリともいい、一年で一番大きい祭である。秋も深まるこの季節、都市はともかく、田舎でだって豊穣を祈って盛大に開かれる。特にサータグラットのような貿易都市では、一番の稼ぎ時として、大きな祭典になるのは想像に難くない。
愛染は一枚の紙切れを取り出す。
「これ、見てくれるかな」
なんの変哲もない紙だった。折りたたまれたそれを開くと、印判で文字が押されている。
『新年祭の宵山、アムリタを盗みに参上する。』
「犯行予告……?」
「差出人不明。市井でも広く流通している判で印字されているものだから、筆跡も不明。これが、俺の執務机に置いてあった。普段なら別に気にもとめないんだが、新年祭の、特に宵山では、主な兵は街の治安維持に回さなければいけなくて、警備も薄くなるからね。いつも以上に用心しなきゃいけない」
「……アムリタって、あのアムリタですか」
アムリタといえば、神話に出てくる万病を治す薬である。王が遣わせてくださった薬壺に入った白濁色の薬を患部に塗るだけで、どんな傷もたちまち再生するとされている。
「ああ、そうだ。確かに、俺は万能薬の管理を任されている」
「それを知っているのって、内部の人だけですよね。じゃあ、内部での犯行じゃないんですか」
僕の推測に、じっと会話を聞いていた狐耳の女が返す。
「そうとも限らない。アムリタがここサータグラットのリンガに関係があることを知っている人はそれなりにいるからな。それに、こいつの性格上、毎日宴会だの謁見だので誰かしら客人が出入りしている。執務机に紙を置くなど、少し潜入に心得がある者なら造作もないだろう。全く、警戒心がないのも大概にしてほしい」
狐耳の女は愛染をじろりと睨む。愛染は眉を困ったように八の字にする。なぜか口を緩ませながら、荼鬼ちゃんはきついな~、とこぼす。
「そういうことで、四方さんには、この犯行予告を置いた犯人探しをしてもらいたいんだ。もし、三日後の新年祭までに見つからなかった場合は、屋敷の警備をお願いしたい」
「あの……自分で言うのもなんですけど、僕を信用してしまってもいいんですか」
「四方さんを雇ったのは、そうしなければならないからだ。花街は王公認の盛り場ではあるが、実際のところ、昔から連綿と続くやくざ者たちが仕切っている。いくら血統正しいとはいえ、新参者の役人でしかない俺が邪魔な人間など、それこそ星の数ほどいるだろう。その意味では、誰も信用できやしない」
愛染は静かに盃をテーブルに置いた。
「失礼だが、四方さんの素性も調べさせてもらった。周辺の関所の通行歴を見るに、この街に関係が無いのは明確だったよ。その上、剣の腕も、人柄も申し分ない。だから君を採用した。しばらく暮らせる分の俸禄は用意する。改めて、引き受けてもらえるかな、四方さん」
愛染はこちらをじっと見つめてくる。深い藍色の瞳は、鷹揚な人柄と反対に、光の届かない深海を思わせる。
「一つ、お聞きしたいんですが」
「ああ、どうぞ」
「ラージャグリハの通行権がもらえるというのは、本当でしょうか」
「もちろん」
愛染は、間髪入れず答えた。
「……わかりました、協力しましょう」
***
どこからか、囃子の音が聞こえる。
歓楽の街は熱気で包まれていた。派手な外見をした人間たちが、楽しげに通りを練り歩いている。海を臨む花街は、斜面に沿うように入り組んだ道が作られ、道の両側には露天がひしめき合っている。煎餅屋、ランプ屋、宝石屋、水タバコの店まで、ここに来ればなんでも揃ってしまうだろう。露天の後ろにある建物には、酒場や雀荘の看板が見える。
「王は遊興に寛容でな。ある程度の賭博や売春は、特区内なら許されている。ここは、その中でも最大の花街だ」
荼鬼が言う。こちらを見向きもせず、人混みを先導する。
昨日の話し合いで、愛染の仲間である狐耳の女、荼鬼と行動する事になった。荼鬼は愛染の私兵ではなく、夜叉の一人だそうだが、本人曰く腐れ縁で愛染に手を貸しているらしい。
「花街なんて、初めて入りました……」
「生真面目な奴だな。別に素敵な場所ではないが、この店の焼鳥は絶品だ。すまない、ふたつもらえるか」
老舗なのだろうか、年季の入った焼鳥の屋台の前で立ち止まると、荼鬼は小銭を取り出して店主に渡した。クミンの香る焼き鳥が目の前に突き出される。
「あ、ありがとうございます……おいしい!」
口の中に入れた瞬間に、肉汁が溢れ出した。皮はカリカリとして、身はこれでもかと言うほど柔らかい。塩と香辛料だけのチープな味付けだが、癖になる美味しさだった。
「私は、やくざ者の本拠地を探る。お前は……交渉事は無理だろう」
焼き鳥を頬張りながら荼鬼がこぼす。昨日は愛染のことが嫌いだから機嫌が悪かったのかと思ったが、そうではなく誰に対しても容赦がないらしい。
「あはは……返す言葉もありません」
「お前は怪しい人物がいないか、街を巡回してくれ。夕方になったら、愛染の屋敷で落ち合おう」
荼鬼は特に何の感慨もないと言った風で、食べ終わった串を店頭の串壺に入れた。
「了解しました」
返事をするかしないかと言う間に、もう荼鬼は人混みの中に姿を消した。
さてどうしようか、と今朝愛染に渡された花街の地図を見る。地図はかなり詳細に書き込まれており、地下にまで店舗が続いているのがわかる。ただでさえ広大で入り組んでいるというのにこれでは、調査は早速難航しそうだった。かといってここで立ち止まっていても埒が明かない。調査以前に、今日は花街の地図を暗記することに努めよう。
同じような道を何往復もして、僕の見た限りでは何も異変がなかった。そもそもまだ昼間ということもあるだろうが、街の住人たちは皆新年祭の準備に追われているようで、なんとなく場が浮足立っている他は、あえて犯罪に手を染めようという雰囲気はなかった。
坂の中腹の甘味茶屋に入り、窓際の席で海を見ながら団子を食べていると、ちょうどすぐ下の坂道を見知った人影が通っていくのが見えた。
昨日宴会の席で琵琶を弾いていた若い女……確か、沙羅と言ったか。大きな荷物を背負って、どこかに急いでいるようだった。服こそ朱金で、花街にいる人間たちと派手さではあまり変わらなかったが、大きな荷物を背負って足早に移動しているあたり、あからさまに怪しかった。なにより彼女は愛染に近い人間だ。不審な行動が見られる以上、追ったほうがいいのは確実だった。
団子の代金を手早く払うと、大通りに飛び出す。小さな彼女の人影はまだ路地の奥には消えていなかった。急いで後をつける。彼女はこちらに気づいているのか、時折撒くように方向を変えるが、こちらも用心棒で生計を立てている以上、尾行は慣れている。
沙羅は路地を縫い、人気のない方向へと歩いていく。気づけば地図にも載っていない道だった。来た道を完全に覚えているわけではない。帰れるのだろうか、と不安になったその時、建物の裏に囲まれた袋小路で沙羅の足が止まった。
「足音で気づいてた。あんた、愛染様の新しい用心棒だろ。足を引きずって歩く癖ですぐわかったよ」
沙羅はこちらを向いて、目を覆っている布を取り払った。
美しい金色の瞳だった。意思を感じる強い光はされど焦点が合っていない。盲目なのは本当のようだった。
こんな時代に、珍しい。
背中に背負っていた琵琶を抱えると、地面に胡座をかいて弦を爪弾き始める。美しい旋律は、経文を唱えているようだった。不思議と背筋が伸びるような、神聖な気持ちになる。彼女の、何も映していないはずの目は煌々と輝きだし、暗い路地の中で猫の瞳のように光を持った。
小さく、地鳴りのような音がした。
沙羅の目の前の地面に、ぽう、と金色の魔法陣が現れる。微光を放つそれは、やがて砂が溶けるように消えて、魔法陣があったはずのそこには、ちょうど人一人通れるような穴がポッカリと空いていた。先程の琵琶演奏は、目隠し魔術の一種だったらしい。
沙羅は再び琵琶を背負うと、ついてきな、と短く言った。
穴の中は広い空洞になっていた。
壁は土がむき出しになっているが、床には木板がはめられている。簡素なものではあるが、家具やランプも揃っていて、住居としてちゃんと機能しているらしい。それよりも、一番驚いたのは、寝台の数だった。等間隔に並べられた寝台には、老若男女、様々な人が横たわっている。
「ここは……」
「療養所。闇の、って付けたほうがいいかい? 愛染様にもらったお給金は、ここのために使わしてもらっているんだよ」
沙羅は寝台の一つに近づくと、苦しそうに咳き込んでいる少女の頭を撫でた。
「もう何千年も前には、人間は傷を負っただけで死ねたらしいが、そんなこと、おとぎ話だろう? 風邪は寝れば治る、傷は勝手に再生する、寿命が尽きたら眠る。本当に呼吸が止まるのは、来迎屋に心臓を突き刺されたときだけだ」
人間は、死にたくたって死ねない。
ごく常識的な話だった。人間は他の生物と違い、再生能力が異常に高い。傷なんてあってないようなものだし、病気はなおさらだ。腐らない体に終わりを告げるには、来迎屋という特殊な職人の手助けを必要とする。
「しかし稀に、再生能力が弱い者たちがいるんだよ、所謂病人が。そして、再生能力の弱さは死穢の汚れ。死穢は伝染すると言われている。だから、私達のような病人は、見つかり次第すぐにどこかに連れて行かれるんだよ。この世界じゃ、病人はいないことになっている。薬なんてほとんど流通していないし、そもそもアタシらが買える値段じゃない。しかし花街の混沌とした路地裏は、表に出てないだけで、沢山の病人を抱えている」
寝台の少女は、沙羅に撫でられて安心したのか、整った寝息を立て始めた。
「犯行予告を置いたのは、沙羅さん、貴方ですね」
「そうだよ。犯行予告を置くことで、せめて知らしめてやりたかったのさ、病人はここにいるって。社会からあぶれて、苦しんでいる者は、ここにいるって。愛染のような、世界の汚いものを何も知らない、貴族生まれのボンボンにも」
薄暗い穴ぐらのなかで、沙羅の金色の瞳だけがぼんやりと光っている。
しかしその瞳は、なにもない空中を泳いでいる。盲目なんて、長く旅していても、ほぼ聞かない単語だった。
「……それは違うと思います。愛染さんは、盲とわかった上で沙羅さんを側に置いているんですよね。それって、病人に対する差別を持っていないってことじゃないですか。感情をぶつけるためだけに、犯行予告をしても無意味です」
「甘いね。じゃあ、なぜ愛染様は、妾の私にとっておきのアムリタを使わないんだい」
「それは……」
「愛染様は、そもそも一人の妾を長く置いておかないんだよ。アタシだって、目が見えないのに琵琶が弾けて面白いと手元に置かれているだけだ。飽きたらお払い箱だよ。下々のことなんて、手駒としか考えてないのさ。それに、犯行予告が出されたことが広まれば、世界中のアムリタを求める病人たちが団結する可能性だってある。そうなったら、嫌でも福祉に力を注がざるを得なくなるだろ」
沙羅は立ち上がって、部屋の隅にある簡易的な台所に立った。火にかけられた鍋からは少し爽やかな香りがする。薬湯でも作っているのだろう。
「アタシは、昔は目が見えてたんだよ。でも、ある時、かなりショックな事故が起きてね。その時から、ずっと、視界は暗闇のままだ。匂いや音、感覚である程度のことはわかるようになったが、空は本当に青いのか、地の色は黄色いのか、そんなことは全くわからない」
「沙羅さん、なんで、僕をここに連れてきたんですか」
沙羅はこちらを向いて、少し微笑んだ。
「逃げられなかったってのもあるにはあるが、お兄さん、優しい人だろう」
「それだけ?」
「それだけ」
「優しい……ですかね」
「ああ、見えなくたって、そのくらいはわかるよ」
沙羅はゆっくり鍋をかき混ぜている。
僕のこれは、優しいわけじゃない。自分で判断ができないだけ。もっというと、自己がないだけだ。四方八方にいい顔をする。自分でつけたこの名前には、そんな皮肉もこもっていた。実際、罪を犯した沙羅に対して怒りも湧いてこないし、貴族で世間知らずの愛染に対しても、そういうものだろう、という感想しか出てこない。
この状況で、僕がしなければならないことは、なにか。
「沙羅さん」
「なんだい」
「アムリタって本当にあるんでしょうか」
沙羅は心底呆れたように、わざとらしくため息をついた。
「なかったら、流れ者を選抜までして傭兵を雇わないだろう」
「そうでしょうか。実際、僕は護衛として雇われているというのに、現物を見たことがありません。ただ単に信用されていないだけかもしれませんが。あってもなくても、それがどこにあるのか、どんなものなのかは確認したほうがいいと思います。沙羅さんも、リンガに関係している、というところまでしか知らないんですよね」
「ああ、そうだよ」
「病人にしか必要ないはずのものを、愛染さんは必死で守ろうとしている。なにか裏があるはずです」
善悪の判断がつかない場合、必要なのは状況の再確認である。ここで重要なのは、アムリタ、その正体と所在だった。まずこれがわからなければ、事態を収拾することは不可能だ。
アムリタは、病から無縁の一般の民衆には喉から手が出るものでもなんでもないのである。用心棒を雇ってまで守る価値などないはずだ。
「手を組みませんか」
沙羅の手を掴む。痩せた手は骨ばっていて、栄養が感じられない。沙羅は一瞬驚いたような顔をして、眉をひそめた。
「……怪しいねえ、あんた、なんでそんな得にならないようなことをするんだい。見つかったら減給どころか、あんたが欲しがってたラージャグリハの通行権すら手に入らなくなるかもしれないんだよ。馬鹿なのか、お人好しなのか」
「僕は、ただ」
脳裏に浮かぶのは、深い雪国の、寂しい風景。
黒と白の世界には、生々しい赤色が散っていた。
天を突く柱はポッキリ折れて、無惨な姿を地面に晒していた。
「間違えるのが、怖いだけです」
幼い僕はその中で、血に濡れた刀を持って、呆然と立ち尽くしていた。
***
夕方屋敷に帰ると、愛染が出迎えてくれた。荼鬼はまだ帰ってきていないようだ。
「新年祭の神輿の費用で、商工会のお偉方が揉めちゃってさあ、もうやんなっちゃうよな。四方さんの方は収穫あった?」
「特に、無いですね……」
嘘をつくのは昔から苦手なので声が震えてしまったが、愛染は特に気にしていないようだった。宴席に並べられたごちそうを口に含むと、酒で一気に飲み干した。大きなため息をつく。
「まあ、そんな簡単にはいかないか。どうしようかなあこれから……」
愛染は懐から犯行声明を取り出して、じっと睨んだ。
「愛染さん」
「ん?」
「アムリタは、本当にあるんですか」
愛染が、じっとこちらを見据える。値踏みするようなその目線は、荒野の獅子を思わせる。
背筋に、悪寒が走る。
「ある。……俺が、必ず守らなければいけない」
赤い空に、紫色の絵の具が垂らされていく。
サーグラタットの夜は、静かに更けていった。
***
ふかふかの布団で目覚めるなんて、いつぶりだろうか。しかも、二日連続で。
よろよろと寝台を抜け出し、寝ぼけ眼で顔を洗い、寝間着から着物に着替える。二本の刀を腰にさすと、なんだか気が張る気がする。愛染が貸してくれた客用の寝室を出ると、中庭には侍女たちがたむろしていた。
「おはようございます〜」
「四方様、おはようございます」
挨拶をすると、侍女たちが振り向く。愛染は面食いのきらいがあるのか、屋敷に勤める者たちは美女ぞろいだった。荼鬼は「愛染は侍女でも妾でも身分を問わず、毎日違う女と寝ている」と怒っていたな、と思い出す。正室はいないようなので、そういう趣味なのだろう。
「あれ、沙羅さんは?」
「まだ起きていらっしゃいませんね。今日は新年祭の予行演奏があるというのに、大丈夫なのかしら」
嫌な予感がして、広い屋敷を駆け回った。しかしどこにも沙羅はいない。荼鬼や愛染も祭りの準備で外に出てしまっているとのことだった。
なにかがおかしい。今日は早朝に落ち合うはずだったのに。
屋敷にいないとしたら、あそこしかない。屋敷を飛び出した僕は、昨日通った道を反芻しながら、花街の路地を縫った。
「沙羅さん!」
隠された穴がある袋小路だった。沙羅は愛染の私兵たちに後ろ手に縛られ、頭を垂らしていた。沙羅の他にも、沢山の病人たちが、捕らえられている。沙羅は僕に気づくと、その金色の目を大きく見張った。
「四方!」
「来たか」
人混みの中から顔を出したのは荼鬼だった。
「お前のおかげで犯人どころか違法な闇診療所を見つけることができた。感謝する」
「つけてたってことですか」
「そうだが、なにか?」
荼鬼の張り付いた不機嫌な顔は、いつもと全く変わらない。
考える前に、体が動いていた。
大きく跳躍する間に素早く脇差を抜く。荼鬼の脇腹を狙って、刃を薙ぐ。
荼鬼はすんでのところで後ろに宙返りし、腰にぞんざいに差した白刃の太刀を取り出す。
太刀をこちらに向かって振り上げたその一瞬の空きを狙って、沙羅の懐に入り込む。
沙羅を縛り付けていた縄が、解かれる。
素早く沙羅を抱えて、袋小路の入り口まで駆けた。
「ほう。へらへらしているだけかと思ったが、流石愛染のお墨付きだな」
荼鬼は何が面白いのか、いつもより少し口角が上がっている。
まずい。沙羅一人を助け出したとて、まだ何人も病人達がいるのだ。荼鬼一人だったらなんとかなったかもしれないが、後ろには多くの兵も控えている。どうすればいい。
ふと、沙羅が僕の前に躍り出た。止めようとする僕の手を、振り払って。
「四方、後ろに控えてな」
「沙羅さん、何を……?」
沙羅は背負った琵琶を構えた。
撥が弦を細かく弾く。旋律が、周囲に満ちていく。
「オン・ソラソバテイエイ・ソワカ」
沙羅が短く唱えたその時だった。
地面から水柱が勢いよく吹き出した。水柱は何本も地面を突き破り出現し、周囲を水に変えていく。
「撤退! 撤退だ!」
兵たちが戸惑いながら柱の向こうに消えていく。沙羅がうまく操作しているのか、病人には何も危害が及んでいない。
それでも限界があるらしい。水柱が一つ、沙羅のすぐ近くで吹き上がった。
「沙羅さん!」
「ぐ……!」
「沙羅さん、手を掴んで!」
やっとの思いで手を握る。しかし、もう足場という足場はすでに失われていた。
水流は僕らを押し流し、地面にポッカリと空いた穴に、僕らは吸い込まれていった。
***
大きく咳き込んで身を起こす。
「大丈夫かい」
「なんとか」
沙羅は僕が起きる少し前に起きていたようだった。
とっさのことで何が起きたのかわからなかったが、沙羅が使ったのはそれこそ、高名なバラモンでも使うのが難しいような、自然現象を操る呪術だった。穴を隠すくらいならまだしも、水脈を操作するなんて今まで見たことがない。
「なんで、って顔してるねえ。アタシは視力を失ってからしばらく、巫女の修行をしてたんだよ。ヒムアラヤの巫女、くらい聞いたことあるだろ」
ヒムアラヤの巫女、ここから北遠く、雪国の山深くにある、盲目の女性だけで構成された伝説の祈祷師集団だ。噂によると、死者の魂を口寄せしてくれるらしい。ヒムアラヤといえば、僕の故郷からもそこまで離れていないはずだ。本当に存在したのか。
「ここは……」
「随分流されたみたいだが、街の地下ってところだろう」
長い隧道だった。天井には、ランプにしては真白い光を湛えたなにかが光っている。隧道はまっすぐに伸び、その果ては、暗くてよく見えない。地面は水路になっており、自分たちがいるところは、その縁のようだった。壁の材質ひとつとっても、こんなに灰色で、凹凸なく整えられた石は見たことがなかった。
「不思議なところですね……」
「とにかく、ここにいたってなにも変わらない。歩くよ」
沙羅は立ち上がって、スタスタと歩いていきそうになった。
「待って。足場が悪くて危ないんで、せめて僕の袖を掴んでいてください」
「……アタシがそのくらいで」
「ダメです。いくら死ななくても、転んだら痛いでしょ」
沙羅は悪態をつきながら、僕の袖をそっと掴んだ。
歩いていくにつれ、何もなかった隧道に、変化が現れた。
石でできた紐のような線が、壁を這っている。色とりどりの突起や、やはりランプには到底見えない光も増えてきて、白だけではなく、赤や緑、黄色といった色をしたものもあった。
「気味が悪いねえ、バケモンが出そうな雰囲気なの、アタシでもわかるよ」
そんなことをぼやいているうちに、視界がひらけた。
「ここは……」
大きな広間だった。ランプではない明かりがそこらじゅうを照らしていて、愛染の屋敷の比喩ではないくらい煌々と輝いている。
広間の中心には、太い柱が、堂々と居座っている。
柱には沢山のからくりがついており、それが光ったり消えたりしている。ジー、という低い地響きのような音が、周囲に響いている。
柱の根元は広い人工池になっており、その池には黒く汚れた水が溜まっていた。
「来ると思っていたよ」
見慣れた影がこちらを向く。柱の根元にいたのは、他ならぬ愛染だった。
「びっくりするだろ。ここは、リンガの基盤部分に当たるんだ。古代人が作った遺跡らしいよ。リンガが立つところに街が作られ、リンガによって支えられる。リンガは溢れ出す生命エネルギーであり、それがないと人間が住むことは能わない。実際、リンガが無い場所は全て砂漠になるからね」
愛染はからくりを撫でながら、言葉を紡ぐ。
「万物は流転する、全ての作用には原因がある。じゃあ、リンガから生み出される生命エネルギーとは何からできていると思う?」
旅の来迎屋から聞いたことがあった。
その白髪で、特徴的な紫色の目をした来迎屋は、おとぎ話のようなことをいつも語っていた。この世界は、古代文明の上に作られていると。リンガがそれを支えていると。その動力は他ならぬ。
「死体、ですね」
「正解。人が死ななくなった世界で、それでもなお効率的に街を発展させるために、リンガに死体から生まれたエネルギーを集めることにしたらしいんだよ。仕組みはさっぱりわからないけどね」
夜叉はその秘密の管理も任されているんだよ、と愛染は小さくこぼす。
「来迎屋は処理した死体を川に流す。河口であるこの街には死体が流れ着く。リンガに生命エネルギーを抜き取られた死体は、腐って毒になる、海を汚す」
リンガが、ゴウン、と唸り声のような音を上げた。
「この水は、一滴口に入れただけで、文字通り死ぬことができる。全てを終わらせる万能薬だよ」
愛染の口元は微笑んでいるが、その藍色の瞳は、寂しそうだった。
「そんなもの、アムリタとは言わない! そんな毒を望む人間がどこにいる!」
沙羅が目を怒らせる。僕の袖を掴む力が、一層強くなる。
「沢山いる。金銭的な問題で来迎屋を呼べない者、何百年と生きているのに眠れない者、そして、もう、生きていたくない者。四方さんもその類だろ、あれほどまでに強いのに、覇気がない、野心もない。顔を見ればわかる」
「僕は……」
そう言われたらそうなのかもしれない、と思ってしまう自分が嫌だった。しかし実際、自分がこの世に生きている理由は、自分をこの世に繋げている杭は、ただ呪いを解く、それだけだった。それが終わったら、僕にはなにもない。
「こんな毒薬でも、喉から手が出るほど欲しい人間はたくさんいるんだ。でも、俺はさ、こんな薬、なくなっちゃえばいいと思ってる。やっぱ、寂しいだろ、こんなもんで別れるのは。だから、誰にも渡さないように、ここで守ってる。誰にもアムリタの正体を知られないように」
愛染は、申し訳無さそうに、顔を歪めた。
「ごめんね、沙羅ちゃん。万能薬なんてものは、最初から無いんだ」
「いつから、アタシだって気づいてた」
「最初から知ってたよ、万能薬が目的で俺に近づいたことも」
沙羅は僕の袖をそっと離した。
そのまま床に崩れ落ちる。項垂れて、長い黒髪が、はらはらと地面に積もった。
「そうか……そうだろうね。アムリタなんて、そんな都合のいいもの、あるわけない。愛染様、もうアタシはどうなってもいい。せめて療養所の人間だけは、逃してやってくれないか」
縋るように、愛染を見る。
視力のない瞳で、それでも。
「病人の逮捕は、王の敷いた法だ」
愛染は、その大きな手で、自分の顔を覆った。
アムリタ。
全てを治す、万能の薬。
神々が、悪魔が追い求めて、渦を生み出した、薬。
そういえば、実家の経典に、アムリタのことが載っていなかったか。
「……四方さん、どうした」
「実家の経典に、アムリタの作成方法が書かれていました。毒じゃなくて、本当の薬の方の」
「本当かい?!」
「用意するものは海水と溶けた死体、そこまでは合っているんです。重要なのは、撹拌すること。つまり、仕組みはバターと同じです」
帯刀した、二本の刀。普段は絶対に使わない、その太刀を抜く。
ボロボロの身なりの僕なのに、この太刀だけは一級品だった。実家からずっとついてきた。僕に、そしてあのリンガにかかった、呪いの原因。
「この刀はトリシューラと言います。人も切れますが、どちらかと言うと不向きです。じゃあ何に向いているかというと」
鞘からそっと取り出された黒刃は、光を照り返して鈍く色づく。
「理を切断し、浄化し、再生することに長けた刀です」
来迎屋の仕事道具と似て非なる刀。来たるべきときのために、刀鍛冶集団「梵天衆」によって作られた、隠された宝刀。選民の王に見つからないように、そして、賎民の王が見つけてくれるように。
「四方さん、君、もしかして……」
なにか言いたげな愛染を横目に、黒い人工池にトリシューラを突き刺す。
粘ついた黒い水がたぷんたぷんと飛沫を上げる。構わず、かき回す、かき回す。そのたびに腕に激痛が走る。
何回混ぜただろうか。段々と黒い水が澄んでいく。
気がついた頃には、あんなにどす黒かった池は、乳白色の美しい池に様変わりしていた。
「これが、アムリタ」
感嘆するように、愛染が呟いた。
「効用はわかんないですけどね。まあ、少なくとも害はなくなっているはずです」
池からトリシューラを引き抜いて、布巾で乳白色の薬を拭き取る。
「沙羅さん、ちょっと失礼」
薬がついた布巾を、沙羅の目にあてがった。薬は一度ぽう、と微光を放ったかと思うと、煙となって空中に霧散した。
沙羅のまぶたが開かれる。ゆっくりと、恐れるように、期待するように。
金色の瞳が、キラキラと光る。
沙羅の顔が、満面の喜びに満ちる。
「……見える、見えるよ! ずっと暗かった視界が、こんなにも、こんなにも」
瞳の中に僕を映した瞬間、沙羅の顔が固まった。
「四方、あんた……」
沙羅がずんずんとこちらに迫ってくる。
「え、僕の顔になにかついてます? ちょっと、え?」
変な動悸に襲われる。あ、すいません、女の人苦手なんですけど、どうしよう。
触れそうなほどに、近くなった瞬間、沙羅はふいと顔をそらした。
「いや、昔なじみに似てるなと思ったけど、別人だった」
「嘘お」
無駄に興奮して損した。何を損したのか自分でもよくわからないが。
外野で一連の騒動を見ていた愛染が、申し訳無さそうに長身をかがめてくる。
「盛り上がってるとこごめん。四方さん、通行権の話なんだけど」
「あ、やっぱりなしですかね……」
「いや、君はラージャグリハに行くべき人間だ。行かなくてはならない。その刀を持っていること、そしてそれを正しく扱えるということ、夜叉にも劣らぬ並外れた身体能力。それから推測できることは一つだ」
愛染は一息置いて、覚悟するように言葉を発した。
「王を殺すんだろう。最後の梵天衆」
「その役目は僕じゃないですが、できることはするつもりです」
「ああ、じゃあそうだな、できるだけ手助けはする」
予想外の答えに、一瞬思考が停止する。愛染は王の護衛隊、夜叉じゃないか。
「愛染さん、反対すると思ってました」
「そりゃあ、俺には夜叉っていう役目があるからね。でも、それよりさ、ごく個人的な意見として、俺は、よくわからなくなっちゃったんだよ、守るべき王とは、なんなのだろうかと。だから、頼む」
その長身が、折りたたまれる。
「……わかりました」
「なーにごちゃごちゃ話してるんだい。そんなことより、アムリタがこんなにあるんだ。やるべきことは一つじゃないのかい」
沙羅がぷっくりと頬をふくらませて首を突っ込んでくる。愛染は折りたたんだ長身を伸ばし、明るく破顔した。
「ああ、そうだな。これから忙しくなるぞ!」
柱の広間に、愛染の大きな声が、こだました。
***
サータグラットの新年祭は、水柱事件など予想外なことが多々起きたにも関わらず、無事開催された。
祭りは例年以上の盛り上がりを見せ、人々の熱狂は他のリンガまで伝わった。中でも、領主の愛染が壇上で発表した病人たちのための公的療養所の建設計画は大きな話題を呼び、愛染の屋敷の前には、今まで地下で暮らすしかなかった病人たちが大勢押し寄せた。元々快活な性格で人々の支持も篤かった愛染の人気は、ますますうなぎ登りになったという。
新年祭、宵山。
愛染の屋敷のバルコニー。
サータグラットの宵山では、毎年海上に花火が打ち上げられる。大海原を臨むこの高台からは、炎の花が、この街で一番良く見える。
一つ、大輪の花が咲いた。水面に姿を映した花はすぐ花弁を散らし、夜の空に溶けていく。
「きれいだねえ」
「はい」
愛染と荼鬼は祭りの運営に追われている。屋敷には僕と沙羅と、数人の侍女たちしか残っていない。
「祭りまでに事件が収まって、本当に良かったです」
「それ、犯人のアタシに言うのかい」
沙羅は酒の入った猪口を傾けた。
「……四方さあ」
「なんですか」
「やっぱりあんた、似てるんだよなあ。アタシの、初恋の人に」
「へ?!」
焦って振り向くと、沙羅が熱っぽい視線でこちらを見つめている。
「って言っても、目が見えてた頃だから、まだ子供だったけどね」
沙羅は茶化すようにからから笑った。どうやらそういう気はないらしい。悔しいんだか虚しいんだか、なぜか期待していた自分が恥ずかしくなった。
「……僕は沙羅さんに会ったことはないですよ」
「そりゃそうだろ。でも思い出すんだよ。そいつ、刀鍛冶の息子でねえ、うちにも親と一緒によく出入りしてたんだよ。まあ髪や目の色こそ違うが、雰囲気がさ。気弱で、優しくて」
沙羅は、懐かしむように、海の向こうを見つめている。その目に映っているのは、花火か、それとも。
「今はどうしてるんだろうね」
沙羅の髪が、海風にゆるりと靡いている。
□
唐突に、思い出した事があった。
父上、今日は領主様の所に行くのでしょう。
連れていってください。
名前のない四番目の息子は、数少ない外出の機会を、いつも心待ちにしていた。特に、リンガを中心に広がる城下町に行くのが楽しみで、よくねだっていたものだった。代々うちの一族は、戦時のために、領主に刀を献上するのが役割だった。そもそも、戦時は極端に少ないので、形式的なものではあったのだが。
雪の積もった庭園。領主の館は、大昔の城郭をそのまま利用したものだった。畳敷きの大広間に通され、領主に頭を垂れ、畳に額を擦らせていると、とたとたとあどけない足音が聞こえた。
「姫、仕事をしているときに入ってくるんじゃない」
領主が諌めると、鈴を転がすような声が聞こえた。
「だって、今日は梵天衆がくるんでしょ? すごいひとたちだって言ってたじゃない。アタシだって、会ってみたいわ」
「……わかった、入りなさい」
障子が滑る音がして、視界の端に小さな影が映った。
「梵天衆も、面を上げなさい」
恐る恐る顔を上げると、金色の瞳を持った姫君が、期待に満ちた目でこちらを見つめていた。
あのリンガは、その後、一夜にして滅んだ。
冷たい雪の日に、「間違えた」結果、全てがなくなったのだ。
□
「ちょっと、あんた」
思わず沙羅を抱きしめていた。
「すみません」
謝ることしかできなかった。自分の記憶違いでなければ、彼女は全てを失っている。
「すみません、本当に……」
あの悲劇から、逃れた、生き残った者がいたのは幸運だったのか。
わからない。でも、確かに彼女が生きているというぬくもりを確かめたくて、強く抱きしめていた。血が、吐息が、脈動を繰り返すその周期に、ただ耳を傾けていた。
「変な男だねえ」
沙羅は呆れたように、小さくなった僕を抱きしめ返した。
***
「あれ、荼鬼さんは?」
そう問いかけると、愛染はがっくりと肩を落とした。
「気がついたらいなくなってた……」
「あーあ、振られちゃったねえ。愛染様は荼鬼様のことが大好きなのに」
にやにや笑いながら沙羅が言うと、愛染は顔を真赤にした。
「振られてない! 荼鬼ちゃんは事情があっただけだ、決して俺が嫌になった、わけじゃ……」
「呆れていたとは思いますが」
「言わないでくれ!」
金色の指輪が陽光を受けて光った。
「愛染様! 準備できてるぜ!」
「ああ、ありがとう」
半泣きになりながら、愛染が返事をする。
視界の先には、薄く霞がかった、半島が映っていた。
王都はもう目の前だ。




