透明な欲望
「ほんとうに、お人形さんみたいにかわいい!」
母はいつも、そう言って私を撫でた。
でも、その手は、私の頭を通り過ぎ、服のシワを整えた。
私は、ただ撫でてほしかった。
もっとちゃんと目を見て、「かわいいね」って言ってほしかった。
誰かに見せるためじゃなく、母が“私ひとり”を見てくれる瞬間が、ほしくてたまらなかった。
だから私は、大人しくしていた。笑った。言われた服を着た。
「いい子にしてたら、ママは私を見てくれる」と信じていた。
母の目は、いつも誰かの評価を見ていた。
「花蓮ちゃんみたいな子供、うらやましい!どうしたらあんないい子に育つの?」とママ友に言われること。
「かわいい子だね」と父の同僚に褒められること。
そのたびに母の口元がわずかに吊り上がって、その時だけはそっと頭を撫でてくれる。
私は、うまく「人形の役割」を果たせた気がした。
あの頃はそれが愛だと信じていた。
---
私は七歳のときに、祖父の家で火傷を負った。
やけど痕は右の太ももに、今も薄っすら残っている。
熱湯がかかったのは偶然だった。
でも、母はそのとき、私よりも祖父に謝った。
「ほんとごめんなさい、お義父さん!ちゃんと言い聞かせておいたのに……」
母は私に絆創膏を貼りながら言った。
「花蓮ちゃんの身体は大切にしてね。傷が残ったら恥ずかしいわ。せっかく綺麗に生んであげたんだからね」
母は心配するふりがうまい。
私はうなずいた。泣かなかった。
泣いたら嫌われると知っていたから。
母に、愛されていたかった。
---
「キャラクターものなんて花蓮ちゃんに似合わないわ。清楚なワンピースのほうが、あなたにはぴったり」
「日焼けしちゃうから半袖なんて着ないでね」
「半ズボンなんてみっともない!…やけどが見えるわよ」
母は毎日楽しそうにクローゼットから服を選ぶ。
私に服をあてては、恋する乙女のように悩むのだ。
---
中学生になっても、私は「飾り物」だった。
好きな服も、好きな髪型もなかった。
母が選んだものの中で、黙って呼吸をしていた。
「この前おうちに連れて来たあの子、花蓮ちゃんに相応しくないわ」
「そんなに豚みたいに食べないで?ほら、花蓮ちゃん用のご飯はこっちよ」
「花蓮ちゃんならお勉強もっと頑張れるの、ママ知ってるわ。あと1点がどうして取れないの?」
違和感は思春期とともに育ったが、
周囲はみな私を羨ましがった。
「かわいいたくさん買ってもらえて羨ましい!」
「花蓮ちゃんはお母さんに愛されてるのねぇ」
私はきっと幸せなのだろう。
文句を言うのは贅沢で、わがままだ。
そんな声に、私は押し潰されそうだった。
---
父は仕事人間で、家に帰ってくることの方が少なかった。
けれど、不思議と大切な「見られる場」では必ず現れた。
会社の家族パーティー、親戚の集まり、発表会――
スーツを着て、笑顔をつくって、母の肩に手を添える。
母はその横で、完璧な笑顔を返した。
私はいつもどおり、にっこりと笑った。
ちゃんと、飾られている“人形”の役目を果たした。
けれど、花瓶の花が一輪ずつ枯れるように、父の気配は少しずつ薄くなっていった。
小学生の頃から、どこか他人行儀な優しさに気づいていた。
時折、知らない香水の匂いが父のスーツに染みついていた。
けれど私は、それを問いただす役には選ばれていなかった。
そして私は、母が父に向ける“愛”が、昔から苦手だった。
「あなたがいるだけで、ママは幸せなの」
「パパがいるだけでいいの、何もいらないの」
母はよく、帰ってこない父のジャケットを抱きしめていた。
玄関を何時間も見つめて、泣きながら「帰ってきて」と言っていた。
その姿が、怖かった。
愛って、こんなふうに自分をすり減らすものなの?
人を好きになるって、こんなに惨めなことなの?
気持ち悪い。
幼い私はそう思っていた。
---
中学生になると、父が家で話す言葉は減り、
夕飯時に母が「今日も遅いって」と早口で言うようになった。
母のリップの色が、濃くなっていったのもその頃だ。
そして高校に入る頃には、父はまったく帰ってこなくなった。
最初のうちは、母は「仕事が忙しいだけよ」と笑っていた。
でも、笑顔の裏にひびが入りはじめるのに、時間はかからなかった。
夕飯の時間になると、母は三人分の食器を並べたまま座り込んで、
「花蓮ちゃんと一緒に食べるから」と言って、無理に笑った。
私がいれば大丈夫。
そんな言葉を、母はよく口にした。
「パパはきっと戻ってくるわ。花蓮ちゃんがいれば、ちゃんとした家族に見えるから」
「花蓮ちゃんがいれば、ママは大丈夫なの」
そしてある日、ふと漏らした。
「ママもね、昔は音楽が好きだったのよ。ピアノ、少しだけだけど。
あの頃は、コンクールに出るのが夢だった。…でも、うちは厳しくて。
夢なんて、叶う前に終わっちゃうのよ」
その視線の先にいたのは、鏡越しの私だった。
私がメイクを施されていく途中で、母がぽつりと呟いた言葉だった。
「でも花蓮ちゃんは違う。あのときの私より、ずっと綺麗で、素直で、努力家。
きっと、もっといいところに行けるわ。ママの代わりに」
私は、ピアノが好きじゃない。
転機は、ゼミの先輩だった。
名前は咲さん。
最初は、その場が一段明るくなるような笑顔に惹かれた。
飾らず、よく笑い、服にコーヒーをこぼしても「まぁいっか」と屈託なく言える人。
特段美人ではないが、笑うとその場が一段明るくなるような、不思議な空気をまとっていた。
「すごいな、あんなふうに笑える人がいるんだ」と、心から思った。
ある日、ゼミの集まりで咲さんの家に招かれた。
テーブルに並んだ食器はバラバラで、コップにはうっすら口紅が残っていた。
彼女はキッチンでポテトサラダをつまみながら、瓶ビールをラッパ飲みしていた。
「花蓮ちゃん、これちょっと食べてみて。味見してほしい〜」
「……うん、美味しいです。でも、これタッパーのまま出すんですか?」
「え? あ、気にする? 彼氏にはたまに言われるけど、私、気にしな〜い。
だってさ、誰かと一緒に食べるのに、器とか関係ある?」
その言葉に、なぜか胸がちくりと痛んだ。
「……でも、食器に口紅がついてたら、ちょっと不快に感じる人もいるかも」
「そっか。たしかに。
じゃあ花蓮ちゃんには、ちゃんと洗ったやつ渡そっか!」
笑ってそう言って、咲さんは自分のコップを渡してきた。
冗談だとわかっていても、なんとなく戸惑ってしまった。
そのあと、私が黙って洗い物をしていたら、咲さんがぽつりと言った。
「……なんかさ、花蓮ちゃんってすごく“しつけられてる”って感じする。苦しくない?」
「え……?」
「いや、悪い意味じゃなくて。なんか、全部完璧にやらなきゃ、って思ってない?」
「……私、ちゃんとしないといけないから……」
咲さんは、すぐに返事をしなかった。
ふと、空を見てから、少し真顔でこう言った。
「でも、完璧ってさ、けっこう他人の理想だったりしない?」
その言葉に、息が詰まった。
帰り道、咲さんがふと言った。
「ねぇ、香水、気づいた? SHIROのホワイトリリー」
「清楚だけど、ちょっとだけ媚びてる感じがいいんだよね〜」
「……いい匂い、です。真似したくなっちゃいました」
「ふふ、嬉しいな。でも真似しても、同じ香りにならないと思うよ?」
「……どうしてですか?」
「その人が何食べたか、どんな生活してるか、誰に抱きしめられてるか――
そういうので、香りって変わるのよ」
私は、笑えなかった。
ある日、咲さんに彼氏ができた。
その報せを聞いた瞬間、胸がざわついた。
祝福より先に、奇妙な冷たさが心に走った。
なんだろう、この感じ。
咲さんは、私が「なりたかった人」だった。
屈託なく笑い、誰の評価にも囚われず、自分で自分を選べる人。
私は、そんな咲さんを好きになっていた。きっと、恋とかじゃなくても。
けれど――
誰かに触れられ、選ばれ、変わっていく咲さんを見て、
「それでも咲さんは咲さんだ」と思いきれなかった。
どこかで「変わらないでほしかった」と願っていた自分に気づいた。
私は、咲さんに“母のような期待”を重ねていた。
期待して、勝手に理想像を押しつけて、
そして失望して、幻滅して――
それは、私が一番嫌いだった母の姿そのものだった。
そんな自分が、たまらなく嫌だった。
ある夜、自室でその香水をつけ、煙草を一本、吸ってみた。
咲さんが吸っていた煙草。
……そう思っていた。
けれど今日のゼミで彼女は言っていた。
「前の彼氏がヘビースモーカーでさ、キスするたび苦くて…ほんと無理だった」
「今の彼は吸わないから、よかった〜」
そのとき、私は気づいた。
咲さんの香水にまじっていた、あの煙草の匂い。
あれは今の彼氏のものではない。
過去に関係を持った、別の男の名残だったのだ。
咲さんは、気づいていたはずだ。
でも、洗い流さなかった。
それがどういう意味か、私にはわかってしまった。
私は泣きながら煙を吐いた。
咲さんの香りに近づきたくて。
あの香水の奥に、微かに混じっていた“なにか”の正体が気になって。
一口吸った煙草が、喉の奥に焼けるようにしみた。
むせそうになりながらも、もう一度香りを確かめる。
香水と煙草の混ざった匂い。
その瞬間、私は咲さんに抱きしめられたような気がした。
咲さんの匂いは、香水だけの香りじゃなかった。
あれは――誰かの煙草の匂いが、うつっていたんだ。
咲さんは、公表前から彼と身体の関係を持っていた。
その匂いは、彼女の肌に、髪に、微かに残っていたのだ。
きれいなだけじゃない。
自由なだけじゃない。
咲さんも、誰かの欲望にさらされて、
誰かと愛し合って、
それでも、自分で生きていた。
私は、泣きながらその匂いを吸い込んだ。
綺麗じゃないものにふれた。
それでも、世界は終わらなかった。
嫌悪と憧れと嫉妬と、許しが一緒に溶けていった。
ある日、手帳の奥から一枚の写真が出てきた。
七歳の私が笑っている。
背景には、祖父の家の台所。
太ももは写っていない。笑顔だけが、ぬいぐるみみたいに整っていた。
私は写真を破って、燃やした。
でも、匂いだけが部屋に残った。
柔軟剤と、香水と、私の知らない大人のにおい。
理想と期待の焼け跡のような、残り香。
それは、咲さんとも違う、私だけの匂いだった。