第三話
ぼくがトイレから戻ると、突然現れた少女……「松本有紀」は、なんだか不機嫌そうな表情で、勉強机とセットになっている椅子に腰掛け、足を組んでいた。
「ここなに、あんたの部屋?」
なんとも無遠慮に、そう訊ねた。
「はい」
ぼくがそう答えると、
「ふーん」
と口の中でちいさく呟き、それからゆっくりと部屋の中を見渡した。そして、
「なんか、地味な部屋だな」
と、言った。なんなんだこの子は。いきなり勝手に入ってきた人間に、そんなことを言われる筋合いなんかないぞ。……とはいえ、そんな口をぼくが他人にきくことなどが出来るはずもなく、ぼくは、
「はぁ」
とだけ、短く答えた。
「あ!」
いきなり声を上げると、松本有紀は椅子から飛び降り、壁一面に設られた本棚に前に飛び出した。何年か前に無理を言って買ってもらった、かなり大きな、前部がスライド式の自慢のやつだ。
「すごい! 漫画、いっぱいあるじゃん」
松本有紀は目を輝かせて、本棚にずらりと並ぶ漫画単行本の背表紙を眺め始めた。そのうち、中の一冊に目を止めると、
「あれ、この漫画知ってるぞ。弟が読んでる」
そう言いながら、ぼくのコレクションの中の一冊を手に取り、松本有紀はパラパラとページをめくった。
「あの……」
ぼくは、彼女に声を掛けた。
「漫画は後で読んでくれて構わないんですけど、あなた、どこから入ってきたんですか」
「……だから」
ぼくのその質問に、
「自分でもわかんないんだって。気付いたら、ここにいたんだよ」
と、またもやたちまち不機嫌そうな貌になって、松本有紀は答えた。
「気付いたらって……」
ぼくは、思わず言い淀む。……だって、そうだろう? 気付いたらここにいたなんて、そんな馬鹿な話があるわけない。
「なぁ」
松本有紀が、ぼくに声を掛けた。
「はい?」
「これって、いつの間にこんなに出たんだ?」
「え?」
松本有紀は、本棚の中から一冊の単行本を抜き取って、ぼくに見せながらそう言った。
「この漫画だよ。弟が、ついこの間、この5巻を買ってきたばっかなんだけど」
「はぁ」
ぼくは、その単行本をチラ見してからこう言った。
「これ、結構古い漫画ですよ。もうとっくに、この18巻で完結してますし」
「はぁ?」
松本有紀は、ただでさえ大きな瞳をまんまるに見開いてそう言った。
「んなわけあるかよ。あいつ、毎回毎回、新刊のたびに買って来てたんだぞ」
そう言いながら、手にした単行本をパラパラと捲り始めた。
「……おい」
松本有紀は、なにやら怪訝そうな貌つきで、そう言った。
「はい?」
「これ、どういう事だ?」
手にした、件の漫画の最終巻。そのいちばん後ろのページを開いて、ぼくの眼前に向けてきた。
「2008年×月×日刊行って、どういう事だよ」
「え」
なにを言ってるんだ、この女。そのくらいの事も知らないのか。
「だから、その年にその本が発売されたって」
「わかるよそんくらいは!」
松本有紀は、ムキになってそう言った。
「いま、2002年だろ?」
「はい?」
なんだか、わけのわからない事を言い出した。
「だから、いまは2002年だろっつってるの! 2002年の、11月!」
ぼくは、少し考えてから、そう答える。
「いま、2024年です。あと、11月じゃなくて、8月」
「……え?」
鳩が豆鉄砲を云々っていうのは、こういう貌を指すのだろう。そのくらいキョトンとした表情を、彼女は見せた。
と、次の瞬間。
松本有紀は、いきなりぼくの勉強机の引き出しを開け、手を突っ込んだ。
「ちょ!? なんですか急に」
慌ててそう言ったぼくの顔を振り返って、彼女はこう言った。
「いや、ひょっとして、タイムマシンでもあるんじゃねぇかと思って」
「……なんですか、それ」
意味不明な言動にぼくが呆れ声を返したその時だった。
「なにを騒いでるの……?」
と、いう声と同時に、部屋のドアがちいさく押し開かれた。
母親だった。
お母さんが、訝しげな貌で、隙間からこちらを覗いていた。
「あ、あの、このひとは……」
「あ、えっと。お邪魔してます……」
ぼくと松本有紀は文字通りのしどろもどろになって、互いにそう言った。
母親は、さらに眉を顰めると、
「……なにを言ってるの? まだ夜中なんだから、ネットもいいけど少し静かにね」
と、だけ言い残して、ドアを閉めた。
閉じられた扉の向こうを、スリッパを履いた足音が遠ざかっていった。
「え……」
ぼくは、一連の出来事を理解しかねて、呆然となった。
こんな深夜に見知らぬ女の子が息子の部屋に居て、なぜ、それについて言及しないのか。
「いまの、お母さん?」
「あ、はい」
松本有紀の呼びかけで、我に帰った。
見ると、彼女の貌は青ざめていた。
「いま、わたしの事、見えてなかったっぽくない?」
青ざめたまま、引き攣ったような笑みを浮かべて、彼女は言った。