第2話 天候の魔法使い
だいぶ前の話になる。
私は、ある魔法使いと出会ったことがあった。あれは確か私がまだ七歳くらいの時のことだ。夏の夕方、遠くでヒグラシが鳴き始めていた。
「お姉ちゃん、もしかして道に迷ったの?」
五歳になったばかりの弟が不安そうに私を見上げていた。
「そんなわけないじゃない」
私は、小さな弟の手を握って、そう言った。自分に言い聞かせていた。迷っていない。道は合っている。しかし、山の中でさまよい始め、すでに一時間以上経っているというのに、帰り道が見つからなかった。
小学校の裏山を登ったのはついさっきのことだ。帰るためには、山を下ればいいはずだ。なのにさっきから、小学校はおろか、見覚えのある景色さえも見えてこない。木々をサワサワと揺らす爽やかな風でさえ、今は恐怖の対象でしかなかった。
まさか、別の谷へ降りてしまったのかしら。背中を冷たい汗がひとすじ流れていくのを感じた。だとしたら、もう一度山を登ってから、正しい道を探さなくてはならない。
「たっくん、ヒグラシが向こうで鳴いてるよ。行ってみようか?」
弟を安心させるために、なるべく平気な顔をしてそう言った。
私は弟の手を引いて、もう一度、山の斜面を登り始めた。ああ、神様、お願い、道を教えて。
その時だ。
野バラの藪を無理やり通りぬけた瞬間、私達は、明るい平地にピョコンと飛び出していた。テニスコートくらいの平らな空間が唐突に目の前に現れた。
そして、その広場の真ん中に建つ、小さな二階建ての建物を見た時、安堵でちょっと泣きそうになった。
建物の屋上には、銀色の丸いドームがあった。これは天文台に違いない。小学校の裏山に天文台があるなんて話は聞いたことがなかった。でも、おそらくこれで、家への道がわかるはず。
南側の壁に、入り口らしき扉があった。近づいてみると、『星見』と書かれた表札が掛かっていた。建物は質素な造りだが、扉や窓はよく磨かれており、人の住んでいる気配が感じられた。
そっと、ドアノブを回すと、そこに鍵はかけられていなかった。ゆっくりとドアを開けると、一人の青年と目があった。
「びっくりしたなあ」青年が言った。
「す、すみません」思わず謝っていた。
「どうやって入ってきたの?」
「いえ、あの、鍵が掛かってなかったので」
「そうじゃなくて、どうやって、この天文台を見つけたの。ここには、魔法がかけてあって、簡単には、入ってこられないはずなんだけどなあ」
「魔法?」
「僕は魔法使いなんだ。でも、まだまだだなあ、こんな小さな子供たちに見破られちゃうなんて」
「魔法使い・・・」
こうして、七歳の私と、星見さんとの交流が始まった。星見さんの言葉を信じるとするならば、彼は魔法使いで、この天文台は、人が近づかないように、魔法で守られているらしい。でも、本当のことを言うと、私はその話を信じていなかった。野バラなどの棘のある植物で囲まれているその場所は、魔法などなくても、なかなか近づくことの難しい場所だった。おそらく意図的に人目につかないように気を使っているのだろうが、それは魔法ではないと私は考えていた。
つまり、私にとっての星見さんは、魔法使いと言うよりは、ただの優しい、そしてちょっと変わったお兄さんだった。
星見さんは、いつでも天文台にいて、ほとんど外出しなかった。そして、なぜか天気予報のようなことをしていた。
「明日は大雨になるよ」
時々、星見さんがそんなことを言うと、必ずたくさんの雨が降った。私は星見さんの天気予報を近所の農家の知り合いに教えては、それが当たると得意になって自分の手柄にしていた。
「夕子ちゃんは魔法使いみたいだな」
そんな噂が立つほどだったが、星見さんのことは誰にも言わなかったし、星見さんもそれを望んでいた。
「ダメだ。今回の嵐は酷すぎる」
ある日、星見さんがそんなことを言った。いつもの温和な表情はどこかへ消え失せ、苦悩に満ちていた。
「夕子ちゃん、今週末はここへ来ちゃダメだよ。大雨になる。雷も酷いはずだ。」
私は言われた通りに、家にこもっていた。そして週末、今までに見たことがないような大雨が降り、激しい雷が鳴り続けた。
雨雲が去り、綺麗に晴れ上がった月曜日。私は、天文台に向かった。三日もの間、天文台に行かなかったのは、星見さんに出会ってから初めてのことだった。
いつものように野バラの棘と戦いながら、天文台に行ってみると、そこにいつもの平和な風景は無かった。
いったい何があったのだろう。ドームはバラバラに崩れ落ち、周囲に散乱していた。まるで何かが爆発したかのように、窓ガラスも吹き飛び、所々壁に穴が空いてた。
「星見さん!」
私は、夢中で天文台に駆け寄った。扉を開けて中に入った。いつものように鍵はかけられていなかった。しかし、いつもと違って、天井は半分以上吹き飛び、部屋の中から青い空が見えた。
星見さんはどこにもいなかった。
ただ、床にペンダントが落ちていた。それは、星見さんが、いつも肌身離さず、大切にしていたものだった。
それ以来、私はずっと、魔法使いを探してきた。