縄のあと
多分、僕はおかしくなってしまったのだと思う。
ひとつの考えにずっと囚われたままでいるからだ。
僕の実家は地方のどこにでもある古くて大きめの一軒家だ。一応家がある所は固まっていて住宅街の形を取ってはいるが、僕が小さい頃はすぐ近くの裏山からは狐だの鹿だのが現れる田舎だった。
隣の家も似たような戸建で時々住人が入れ替わった。後に聞いたところ借家だったらしい。今は取り潰されて小綺麗なアパートに変わっている。
その借家に、かつて井成さんという夫婦が住んでいた。
僕が六歳の時だ。僕は井成さんの奥さんが大好きだった。
彼女はいつもとても穏やかで優しくて、そしてこんな田舎ではめったに見ないほどの美しさを持った人だった。
黒目がちでキリリとした目はいつも濡れたように光り、背中まである黒髪は毎日キチンと梳っているのがわかるほど真っ直ぐだ。それをいつもひとつに揃えて後ろに束ねている。
そのうなじは紙のように白く、黒髪との対比が眩しかった。
あれは六月の出来事だった筈だ。
僕はあの時、その目で見たものだけじゃなく音も、匂いも、触れたものも、そして身体に纏わりつく空気も、全てハッキリと覚えている。
梅雨の合間で晴れてはいたが、やたらと蒸し蒸しとした日だった。夜になっても湿度が下がらなかったのかもしれない。とても寝苦しかった。
僕は真夜中に目が覚めてしまった。
すぐ隣には両親が寝息を立てている。その両親の顔がいやによく見えることに気がつく。それはカーテンの向こうから青白い光が差している為だとわかった。
カーテンを開けると空には大きな満月がくっきりと浮かんで輝いている。部屋に入り込んでいたのは月明かりだったのだ。
あまりにも綺麗な満月に、僕は手を伸ばしたら触れることができるんじゃないかと感じ、窓を少し開けた。
窓からゆるやかな風が入り込み、汗の浮いた僕の額や鎖骨を撫ぜた。気持ちがよかった。
試しに窓の隙間から手を伸ばしてみても満月に触れることは叶わなかった。だけど僕は暫く窓を開けたまま、風がもたらしてくれる涼を味わっていた。
と、けーーーん。という獣の細く小さな鳴き声がどこからか聞こえた。
本当の事を言うと「けーーーん」ではない。当時聞こえた音により近いように文字に起こすなら、「きえぇぁぁん」が正しいような、でもやはり、それも若干違うような気がする。
でもその時の僕は裏山に住む狐の鳴き声だと思ったのだ。だから「けーーーん」だと思い込んだ。
狐は結構悪さをする。うっかり窓を開けたままにしていたら家に入り込み、匂いの強い物や食べ物を盗まれる事もある。だから狐の鳴き声が聞こえたら1階の窓や扉を開けたままにしてはいけない……と僕は両親や祖父母に何度か言われていたのを思い出した。
僕はそれ以上涼を取るのを諦め、窓をぴっちりと閉めて鍵をかけた。そしていやいやながら両親の横に戻り、敷布団の上で温みと湿り気のこもる部分を避けて身を横たえた。
なかなか寝付けなかったが、僕は微睡む寸前まで頭のなかであの鳴き声を反芻していた。
次の日。僕は家族が揃った朝食の席で、昨日の夜聞いた獣の声について他の誰かも聞いていなかったかと尋ねた。誰も聞いていなかったが祖父はこう言った。
「ああ、確か近所の山田さんが昨日、悪さをする狐を罠で捕まえたらしい。ソイツが逃げ出そうとして鳴いていたんじゃないか」
「えっ、見たい! おじいちゃん、山田さんとこに連れてって!」
「だめよ。狐の中には怖いバイ菌を持っているのもいるのよ。絶対に近づいちゃいけません!」
僕は昨晩に聞いた鳴き声が本当に捕まった狐の物かどうしても確かめたくなったのだ。だから狐を見たいと祖父に頼んだが即座に母に反対された。その場で何度か言ってみたが母は首を縦に振らなかった。僕はひどくがっかりした。
朝食が終わると父は仕事へ、兄と姉は学校へ、祖父母は畑を見に行った。僕は庭で遊んでいなさいと母に言われた。
やはり雨は降らず頭上からは白い太陽が照り付け、だけど湿気は存在して余計に暑く感じる日だった。僕は如雨露や手桶に水を汲み、それを庭に振り撒いたり時には自分にわざとかけたりして遊んでいた。水を浴びると一時暑さを忘れられた。
「おはようございます」
隣の家との間には境界線の役目しか担っていない貧弱な柵があった。その柵の向こうから井成さんの奥さんが僕に声をかけてくれた。
挨拶はいつもの事だ。だけど奥さんの姿はいつも通りとは少し違った。
いつもきっちりと束ねていた髪の毛は何本かがほつれ、耳の横で揺れている。笑顔は力を感じられず目の下は青黒い隈が浮いていた。そしてこんなに暑いのに長袖の白いシャツを身に着けていたが、ぴしりとアイロンがかかったそれではなく全体に皺が寄っていた。
それを見て僕は(暑いから辛いのかな)と思った。奥さんの暑さを取ってあげたくて、僕は手桶の水を奥さんにかけた。
「きゃっ」
奥さんはただの水なのに凄く怯えるような顔を見せて身体をさっと引いた。水は彼女の左腕の肘から下だけを濡らした。僕は彼女の顔を見て、今の行為は失敗だったのだとすぐにわかった。
「ごめんなさい。僕……」
僕は謝ろうとして、奥さんの左腕に視線がくぎづけになった。
白いシャツが濡れてぴったりと肌にはりつき、そして透けている。細い腕、白い筈の肌に似つかわしくない赤黒い痕が濡れた布越しでも見て取れた。
それは小さな楕円に似た形が斜めに規則性を持って連なっている。その連なりが蛇のような形を成して、ぐるりと腕を這い回り、おそらく手首へ向かっている痕だった。
「どうしたの? ケガしてるの?」
彼女はさっと腕を隠し、曖昧な笑顔を……僕が見たことの無い笑顔を作った。
「なんでもないわ。ちょっとぶつけてしまって」
その時僕のなかに最初あったのは小さな点だった。疑問の点だ。次にその点と点とが近づく感覚があった。
あの楕円に似た連なりはどこかで見たことがある。それは物置にあったあれだ。黄色と黒の縞模様がつけられた縄。
縄目の形と彼女の腕の痕は同じだったのだ。
それに気づいた途端、点と点は糸となり繋がった。そして導火線となって即座に燃え上がりバチバチと僕のなかを駆け巡る。
幼かった僕は後先など考えることもなかった。思うがままに口から怒りが飛び出した。
「こんなこと誰がしたの!? 僕がやっつけてあげる!!」
僕の言葉を聞いた彼女の貌を……あれを僕は一生忘れられないだろう。
最初に驚き。そして笑顔。今まで見たこともない、それでいて先ほどの曖昧なものとは全く違う。
彼女のなかから明らかに剥き出しの何かの感情が沸き上がり、それを笑顔の蓋で抑えこもうと必死に抗っているように見えた。
その笑顔のまま、ふいに奥さんの目のはしに透明な液体が盛り上がった様に見えた。だけど彼女は両の手で顔を覆ってしまい、それが涙なのかは確かめられなかった。彼女はそのままぽつりぽつりと言う。
「ごめんなさい。……本当になんでもないのよ。お願い……このことは誰にも言わないで」
僕のなかで導火線の先にあった火薬は、まだ半分ほど残っているうちに奥さんの涙で湿気って火が点かなくなってしまった。
燃やしきれなかった怒りと、彼女に水をかけてしまった後悔と、彼女が泣いていることに悲しい気持ちと、そしてさっき見た赤黒い痕が目に焼き付いて離れない気持ちが、僕のなかでぐじゃぐじゃに混ざり何色なのかわからない状態でボン、ボンと音を鳴らしている気がした。
「うん、言わないよ。誰にも言わない」
「本当に……?」
「絶対に! やくそく!」
「ありがとう……」
そう言った奥さんはもう泣いていなかった。彼女はゆらりと音もなく後ろへ振り向き、家に帰っていった。
僕はその後ろ姿を見てどうしていいのかわからず如雨露や手桶をそのままに放り出して家に戻った。母は僕に「誰かと話していたの?」と訊いてきた。
僕は一瞬躊躇ったが、彼女に会った事だけなら話してもいいだろうと思い「井成さんだよ」と言った。
「井成さんの奥さん?……あら? 留守にしていたんじゃなかったのね。今朝戻ってきたのかしら」
母は独りごとのように「それならおすそ分けを今から持っていこうかしら」と言っていたと思う。僕はそれをぼんやりと聞きながら自分のなかにあるボン、ボンと鳴る音を持て余していた。
後に、あの時のボンという音は心臓の動悸なのだと知った。
もう一つ、後に知った事がある。
僕が中学生の時だ。
あれからすぐ、井成さん夫婦は突然引っ越してしまった。
僕は奥さんに会いたくて彼女がどこに行ったのか母に訊いたが、母も井成さんの連絡先は知らないのだと言っていた。その当時はただただ悲しくて、僕に挨拶も連絡もせず消えてしまった井成さんの奥さんをうらめしく思いさえした。
それでも奥さんと交わした約束は頑なに守った。縄の痕の秘密を誰にも言わないでいれば、いつか彼女に会えるような気がしていたのかもしれない。
でもそんな信念も年を重ねるごとに記憶ごと薄れていった。僕は中学生の頃には井成さんのことなんて殆ど忘れていた。
その時は部活に励み、友達とふざけあい、同級生の可愛い子に期待し、ごくたまに真剣に勉学に励み、好きなテレビを見て好きなアイドルの姿を眺め、好きなゲームをして過ごすので毎日がいっぱいだった。
「今日、俺のうちにこいよ」
ある日親友が悪い顔をして僕達数人を誘った。その日は彼の両親と兄が遅くまで不在なのだそうだ。そして彼の兄が隠し持っているビデオをコッソリ借りて皆で鑑賞会をやろうと言い出したのだ。
そのビデオは本来は成人しか見てはいけないものだが、僕らは年相応にそういったものにひどく興味があった。勿論全員が参加した。
彼の家に集まり、親友が兄の部屋から拝借したビデオをデッキに入れる。全員が固唾を呑んでテレビを見つめた。映像が始まると画面の中の女性にくぎづけになる。ビデオのパッケージの写真と画面の中の彼女は別人だったがそんなことはどうでもよかった。
暫くして期待していたものが始まり、女性の声が変わった。それを見るうちに僕は衝撃を受けた。
僕のなかで再び点と点とが繋がったのだ。
あの晩聞いた獣の声。狐だと思っていた声。
あれは矯声だったのではないか。
勿論、画面の中の女性の声はあの獣の声と似ても似つかない。
ただ、最初の話し声と今の声が全く違う。だから例えば、普段はゆっくりと落ち着いていた井成さんの奥さんの声が上擦ったそれに変われば……。
それからもずっと、僕は彼女との秘密を守り続けた。
その一方で僕自身も秘密を作った。
あの獣の声が女性のものなのかを確かめたくて色々と試したのだ。ただ、それを何度も試すにはこの田舎は狭すぎた。縄を使うのも難しい。
僕は人が変わったように勉強に打ち込み、東京の難関大学に合格した。両親は大喜びで僕のひとりぐらしを認めた。
都会は僕の研究にはもってこいだった。何人もの女性と出会ったし、中には縄を使うのが好きな女性や彼女によく似た白い肌の女性もいた。だけど僕が満足のいく答えを見つけることはできなかった。
その答えを見つけるまでは僕は六歳の頃から先に進めないのかもしれない。だから結局大学卒業後そのまま都会で就職し、30歳を過ぎても結婚はしなかった。
田舎を出たことの無い両親はそんな僕をひどく心配して何度も見合いを薦めた。しかし僕はそれをやんわりと流して逃げ続けてきた。
そうして今日、しつこく「後生だから顔だけでも見せに戻ってきて」と連絡してくる母のため、僕は実家へ車を飛ばしていた。
年々身体が弱くなっている母は心配だが本当は帰りたくなかった。僕が胸の中の秘密を明かせない以上、見合いなどするだけ無駄だからだ。僕の胸の中のふたつの秘密は長い年月をかけて完全にひとつに溶け合ってしまった。
田舎の景色は高校生まで住んでいた頃と何も変わらない。その見慣れた道を進み車を家の前に停める。運転席から降りた僕の目に、見慣れないものが飛び込んできた。
黒髪をぬるい風になびかせて、隣のアパートを見上げる一人の女性の姿。その横顔に僕の心臓がボン、と鳴る。
こんな田舎には不釣り合いな美しく艶やかな髪。キリリとした黒目がちな目。そして……
そして縄で縛ればその痕がくっきりと残りそうな白い肌。
「あの」
僕は乾いた声で思わず話しかけていた。彼女は罠に落ちた獣のように怯えてこちらを見たが、すぐに思い直したのか会釈をした。
「あ……すみません、このおうちの方ですか」
その声を聴いた瞬間、僕のなかにぐじゃぐじゃと混ざりあうものが蘇るのがわかった。
「い、いえ、僕は隣の家の者ですが。このアパートに何か御用でも?」
「……ああ、違うんです。ここに昔、私の両親が住んでいたと聞いていて。一度家を見てみたいなと思って来たんです。建物が変わってしまったんですね……」
「ご両親? 失礼ですがお名前は」
「井成です」
「井成さん……僕が小さい頃に確かに住んでいたと思います。確か28年ほど前の話では?」
彼女は少し前のめりになり、興奮したように言った。
「そう! そうです! 私が産まれる五年くらい前って言ってたので間違いないです!」
「ああ、少しだけ覚えていますよ。お母様は素敵な方でした。……宜しければうちでお茶でも如何ですか? 」
「え?」
「ああ、勿論そこの縁側でもよろしければ、ですが。少しですが昔話をお話できると思います」
僕は庭先を指さす。幾ら隣の家でも初対面の人間の家の中には流石に入りにくいだろう。が、縁側に腰かけて茶を一杯なら田舎ではよくある話だ。
「ありがとうございます」
彼女は何も疑うことなく我が家の門の中に入った。僕は先ほどから激しい動悸を起こしている自分の心臓が、いまだかつてないほどの早さで脳に血液を送り込む感覚をおぼえる。
僕の祖父母は既に鬼籍だ。兄や姉は僕と同様に実家を出ている。父はこの時間ならまだ帰宅していない筈だ。母は最近寝込みがちである。母には「見合いもするから安心してゆっくりと休むように」と言って縁側には来させないようにしよう。
そしてお茶に……。
あとは車で……。
多分、僕はおかしくなってしまったのだと思う。
ひとつの考えにずっと囚われたままでいるからだ。
この女を手に入れなければ。何と引き換えにしても。
そして彼女の腕に縄の痕をつけた後に、あの獣の声が絞り出されるのかを確かめないといけない。
いけないのだ。
念のため追記致します。
自分にはその類いの趣味は全くありません。
殺人鬼の小説を書く人が現実世界での人殺しが好きとは限らない、と言うやつです。
お読み頂き、ありがとうございました。