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『俺は、貴方のために王子になった。そうでなければ貴方を望めないと思ったからだ!』
『そもそもそれが間違いだったのです』
彼女はアーデルベルトの必死の訴えにも驚くことなく、ましてや怯えることなどなく、上を向いた。
緩く波打ったブルネットが彼女の肩で揺れる。
それは彼女がアーデルベルトを見上げる時の馴染んだ角度だった。
形よい唇を塞ぎたいと思ったことは一度や二度ではない。が、彼女は一度としてそれを許さず、高貴な令嬢としての矜恃を示し続けた。
が、この日。
一度はアーデルベルトを見上げた双眸は、震える睫毛に覆われ、俯いた。
涙だと思った。
『貴方が身分低き者を母とする王子であるくらいならば、我が家門の養い子でいらした方が、願いはかなったのやもしれません』
再び御名をお呼びすることはかないませんわ、第3王子殿下。
そう言って再び顔を上げた彼女の肩をアーデルベルトはつかんだ。
ゆるゆると首を振った彼女の頬にとうとう涙がこぼれ落ちる。
王家の駒であり家門の名を背負う私には「見捨てられた王子」との婚礼など決して許されるはずがないのです。
どうして願う前に一言おっしゃってくださらなかったのですかと彼女は嗚咽をこらえつつ告げた。
アーデルベルトは他でもない、彼女の言葉により自身の選択が誤りだったと知った。
公爵家の庇護の中平民の母に育てられた彼は、貴族社会というものをあまり理解していなかった。
彼女はアーデルベルトの選択を否定こそしなかったけれど、一度として歓迎する素振りは見せなかった。
そして、彼の願いを複雑な心情とともにかなえた父の本意をこの時ようやく理解した。
自身は確かに、父と母に愛されていたのだと知った日、この日が彼らの最後の逢瀬となった。
カテリーナがゲオルグ王との間に第4王子、ジークヴァルトをもうけた頃、アーデルベルトは南の大国ライドゥルとの国境となる王家直轄地シレジアに赴任した。
王子を名乗って後、王が血迷って踊り子ごときに生ませた子と揶揄され続けるアーデルベルトを、貴族社会の裁定者であるべき王は表立ってかばうことは出来なかった。そして、アーデルベルトの後見を務めていたリッカ公爵家もまた、「君主から預けられたシレジアの拾い子」を自身の家門の一員として迎えることは出来ても、最上位貴族として、「妃を母に持たぬ王子」に肩入れすることは難しかった。
王都に彼の居場所はなかった。
彼がシレジアに到着した日、彼を迎えたシレジアの司令官エリーク=マティアスは、すっかり剣の稽古を放り出していたいた彼を完膚なきまでに叩きのめした後、告げた。
我らは志あるすべての者を受け入れるでしょう。
それは我らがいつ再び牙を剥いてくるやも知れぬ隣国からこの国を守るためにこそ存在しているからです。
志はこの国に対するものでなくとも構わないのです殿下。
この国にたった1つでも守りたいものがあるのなら、貴方は此処にいることを許されるでしょう。
強くおなりください、殿下。
そして、私のような老体からこの軍の権限を奪い取ってください。
貴方が胸の内にどのような思いを含んでおられようと、貴方は我が国の王子殿下です。この辺境の地で外敵の脅威に晒される兵士達は、殿下に統べられることを誉れに思うでしょう。
エリークはアーデルベルトに王子として旗印になることを望んだ。
この辺境の地であればアーデルベルトの王子としての価値があると言った。
アーデルベルトは彼の言葉に従った。
いや、従ったわけではない。今更、選択を変えることが出来ないのならば、可能な選択肢の中からの最善を選ぶしかなかった。
が、国王自らに剣を教えられ、稀代の指揮官であったエリークの元で仕込まれたアーデルベルトは、3年が経つ頃には、辺境を見事に治め、王からシレジアを下げ渡されるまでになった。
彼はシレジア辺境伯を名乗ることを許され、同時に王子の地位を辞した。
彼が貴族令嬢を夫人に迎えたのもこの頃である。
マルグリッドという名の、シレジアと領地を接する子爵家の令嬢だった。
欲した王子の位をあまりにもあっさりと放り出したアーデルベルトは、以後、辺境伯領からほとんど出ることはなかった。
彼は辺境の地を護り、よき領主となった。
辺境伯としての活躍を聞く度、王はあの王子こそが一番自身の後継に相応しいのではないかと、身体の弱い王太子ヨアヒムを側に思案した。
が、王がそう思ったところで、アーデルベルトを王太子として据えることが許されるはずもない。
この時、国は平時にあった。
少しずつ、少しずつ、きしむその音をまだ、誰1人として気づかずにいた。