天皇機関説と皇統問題
かつて昭和初期において天皇機関説なる論文が発表された。著者は憲法学者の美濃部達吉である。
この論文の考え方は憲法学者の宮沢俊義によれば、天皇機関説は、次のようにまとめられる。
「国家学説のうちに、国家法人説というものがある。これは、国家を法律上ひとつの法人だと見る。国家が法人だとすると、君主や、議会や、裁判所は、国家という法人の機関だということになる。この説明を日本にあてはめると、日本国家は法律上はひとつの法人であり、その結果として、天皇は、法人たる日本国家の機関だということになる。これがいわゆる天皇機関説または単に機関説である」
この天皇機関説は軍部台頭によって都合が悪くなり、天皇機関説事件を経て葬られ、国体明徴声明へと繋がることとなった。
しかし、この学説そのものは大正デモクラシーの流れから300年代初期までは立憲君主制、憲政の常道、政党政治において主流な考え方であり、意識無意識問わず、この考え方が根底にあったのだ。そして、現代の象徴天皇制と言われるそれでも同様である。
現代において、象徴天皇制は一般的に国民の統合の象徴として機能している。また、皇室もまたこれに応えている。それは昭和帝がこの学説に賛意を示しており、以下のように天皇機関説事件の際に発言していることから、戦後もそれを踏まえた皇室のあり方に活用したと言えるだろう。
「国家を人体に例え、天皇は脳髄であり、機関という代わりに器官という文字を用いれば少しも差し支えないではないか」
さて、そうなると皇室という存在は国家という人体の一器官であるというものであれば、皇室継承問題はどうであろうか?
今や盛んに女帝論、女性天皇論、女系天皇論が叫ばれているが、非常に滑稽なものだ。
彼ら推進派の言うところの秋篠宮家の系譜は皇統を継ぐに相応しくないという。
では、その論拠は何かと問えば、以下のようにまとめることが出来るだろう。
・帝王教育が為されておらず天皇に相応しくない
・度重なるスキャンダルで相応しくない
・人格的に相応しものではない
こういったものだ。
では、女帝論・女系天皇論の論拠は何か、同様に以下にまとめることが出来る。
・今上帝の直系である
・昭和帝の遺言がある(曰く、秋篠宮を皇嗣にするな……出所不明)
・帝王教育によって相応しく成長している
・人気がある
・国民の8割の賛意がある(世論調査が論拠だろう)
・旧宮家は血筋が遠いから論外
正直に申せば、嘲笑ものの論拠だ。どれをとっても、論拠薄弱であり、万世一系の原理原則を突き崩すことなど出来ないものばかりだ。次期天皇はアイドルの人気投票とでも勘違いしているのではないか?
例えば、帝王教育を論じてみるとする。
確かに帝王教育がされていることが望ましいだろうが、立憲君主制という国体である以上、大日本帝国であろうが日本国であろうが、基本的にはそれほど重要ではない。大日本帝国時代なら日本国時代よりも優先度は上がるだろうが、軍人天皇であることや非常時大権の執行者という役割がない日本国において必要なものであるという理由にはならない。そもそも論として、皇紀2700年になんなんとする我が国の歴史において天皇や皇族が歴史の表舞台で采配を振るった期間など合計したところで500年あれば良い方だろう。それで帝王教育云々など論拠が足りぬから上げておるでっち上げの理屈にしかならん。
次は昭和帝の遺言・遺勅に関してだ。
よく、目にするが、一次資料がどこにあるのか、そんなことを聞いたことが一度もない。要は誰かがこう言っていた、昭和帝が言っていたことだから間違いない。そういう類いのものだろう。仮にそう言うものがあったとすれば、各宮家が何かしらの工作を行っているだろうし、先帝である上皇が言及しているだろう。つまり、そう言った事実は存在しないと言うことだ。
次にスキャンダルだ。
これは非常に滑稽だが、平成の御代にかなりの期間において東宮家の方がスキャンダルまみれであったはずだ。まして、東宮妃はその職務をまったく果たしておらぬし、皇后になった現時点でも同様だ。これ以上のスキャンダルは存在しないと思うがこれ如何に?
そして、同時期において愛子内親王もバッシングの対象であった。文字通り、内親王に相応しくない振る舞い、不登校、わがままな振る舞いと枚挙にいとまがない。だが、それが今や帝王教育の為された立派な後継者候補なのだから呆れてものが言えない。これが世論操作でないのであればどうなのだというものだ。そもそも、帝王教育の成果のなんたるかなどマスゴミ報道において見た記憶がないのだが。
それと比較して、悠仁親王がどうとか語るまでもないことだろう。要は一次情報を歪めてしまえば二次情報でしかない報道から得た印象などどうとでも操作出来ると言うことに過ぎない。
そして人気。
こんなもの語るまでもない。皇統護持はアイドルの人気投票みたいな俗っぽいものではない。そんなくだらんことをしたいならAKBだのでやっておれ愚民どもという話だ。政治は人気ではない。そんなもの語る必要があることか?
次は世論だ。
これも人気の項目やスキャンダルの項目と同様だ。二次情報の発信元であるマスゴミが自分たちの都合が良いように世論調査の仕方を操作する、世論そのものを偏向させればいくらでもねじ曲げることが出来る。よって、論拠たり得ない。まして、女帝論と女系天皇論の違いすら分からん町人如きに聞くだけ無駄なものだろう。区別もついていて女系天皇論を推進するならば、それは別の話だが、一緒くたにしている時点で検討する余地すら必要ない。
さて、ここまで書いていて、筆者は女帝論と女系天皇論に反対なのかと思うことだろう。まぁ、聞くまでもないが、反対だ。それどころか、女帝論は兎も角、女系天皇論など国賊叛徒の類いだとしか思っていない。
そもそも論であるが、万世一系の原理原則が大日本帝国憲法、皇室典範に言及されているのであるから、基本はこれに沿って議論を行うべきである。また、法の論理は明文化されていないならば、慣習法に従うことになる。日本国憲法にそれがないということは慣習法として前例に従うのが法治主義の論理になる。この日本国家は法治主義を原理原則としている以上、これが前提条件となる。
その理屈から女帝論は過去の事例があり、ピンチヒッターとしての役割で登板することはありだとは思う。実質的な国権執行者はどのみち内閣であるのだから、国家元首(という位置づけに相当する)の臨時代理としては可能であろうし、それへの一部改正や条文追加において反発は大きくないだろう。
だが、女系天皇論は別だ。これは昭和帝の言うところの人体器官の脳髄や血液が変わると言うことだ。それは違う人間になると言うことに他ならない。これでは日本という国体を維持出来なくなる。それは日本ではない何か別のものになることを意味している。であれば、本質的にスペアとして存在し続けてきた世襲親王家などの皇籍離脱させられた旧宮家に再登板させることがより適切となる。これは元をたどれば皇祖に行き着くからだ。
室町時代まで遡って分流した旧宮家に切り替わるなら女系天皇でも一緒じゃないかと思う輩もいるだろう。だが、それは違う。皇室という存在は万世一系という日本的な表現だけでなく、君主の中の君主という唯一無二の存在なのだ。そこに流れるのは悠久なる歴史と高貴なる血だ。
世界の君主の序列を持ち出すまでもないが、英国君主やハプスブルク家は皇室同様に長きにわたった王統を紡いでいるが、一歩劣る。それは男系の血が絶えていることに他ならない。それだけ奇跡に近い存在なのだ。皇室の血は人類史そのものであると言える。
ゆえに女系天皇論など論外なのだ。そんなものを採用するくらいなら、共和制に移行してしまえば良いのである。そして、称徳/孝謙天皇による宇佐八幡神託事件・道鏡事件という歴史のそれを顧みないのであれば日本国家はその正統性を失うことを意味している。そんなこと君主制国家という枠組みでは言わずもがなである。